魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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拳が砕く、魔法の常識

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 鉄心の声が闘技場に響いた直後、空気が変わった。

 石壁に反射する魔力光が、青白い冷気に塗り替えられていく。汗が肌の上で凍りつくような、鋭い寒気。

「——舐めるな」

 マルクスの杖先から放たれた氷壁が、鉄心の眼前に出現した。高さ三メートル、厚さ一メートルはあろうかという、純白の氷塊。表面に刻まれた魔法陣が蒼く脈動している。

「へえ、でっかい氷だな」

 鉄心は笑った。そして、走った。

 拳甲を纏った右拳が、氷壁の中心を貫いた。

 ドゴォンッ!

 氷の破片が闘技場に降り注ぐ。朝陽を受けて七色に輝く氷片の中を、鉄心が駆け抜ける。その姿はまるで、硝子の雨の中を走る獣だった。

「ば——馬鹿な! 氷獄壁は上位魔法ですのに……!」

 リリアーナが席から身を乗り出した。隣の生徒が何か言ったが、耳に入らない。

 マルクスの額に汗が浮いた。杖を振り上げ、雷撃を放つ。紫電の束が鉄心の全身に絡みつき、拳甲の表面を走る。

 だが——拳甲が光った。

 星鉄鋼の銀白色の輝きが一瞬膨れ上がり、雷の魔力を吸い込むように散らした。ビリビリという振動が鉄心の腕を駆け上がり、歯の奥まで響いた。腕の筋肉が一瞬痙攣し、拳が開きかける。

 ——痛え。

 鉄心は唇を引き結んだ。前世で落雷の近くにいた時の記憶が蘇る。あの時は足が竦んで動けなかった。だが今は——体が覚えている。こういう時こそ、歯を食いしばって前に出る。

 拳を握り直した。何も言わず、一歩踏み出した。

 客席の最前列で、セレナが記録用の羊皮紙にペンを走らせた。その手が、震えている。

「……やはり。レクスの時と同じ現象。あの拳甲——いえ、あの肉体自体が魔力を分散・吸収している……?」

 理論では説明がつかない。だが、目の前で起きている。二度目の、同じ現象。偶然では片付けられなかった。

「くっ——ならば、これでどうだ!」

 マルクスが杖を地面に突き立てた。紫黒の魔法陣が展開し、闘技場の石畳が軋む。重力魔法。鉄心の肩に、見えない巨人の手が押しかかった。

 ズゥン、と鉄心の膝が沈む。

 片膝が石畳につき、地面にヒビが入った。両肩に圧し掛かる重圧に、さすがの鉄心も歯を食いしばる。

 マルクスが口角を上げた。

「どうした、筋肉馬鹿。重力の前では腕力など——」

「——おお」

 鉄心の声は、苦しげではなかった。むしろ、目を輝かせていた。

 両手を地面につけた。そのまま——腕立て伏せの姿勢に入る。

「重力トレーニングか! いいな、これ! 普段の三倍くらいか?」

 一回。二回。三回。

 重力魔法の中で、腕立て伏せを始めた。

 闘技場が静まり返った。

 四回。五回。六回。

 額に血管が浮き、腕の筋繊維が膨張していく。だが、鉄心の顔には笑みが浮かんでいた。体育教師時代の筋トレの記憶が、体に染みついている。この程度の負荷は——トレーニングの範疇だ。

 七回目で、鉄心は跳ねた。

 重力魔法を押し返すように立ち上がり、石畳を踏み砕きながら一歩を踏み出す。

「——は?」

 マルクスの声が裏返った。杖を持つ手が震える。魔力の残量を示す杖先の輝きが、明らかに弱まっていた。


  ◇


 空気が、変質した。

 闘技場を包んでいた朝の陽光が遮られ、肌を刺すような冷気とは異質の——粘つくような暗闇が膨れ上がる。鉄心の肌が粟立った。本能が告げている。これまでの魔法とは、質が違う。

「見せてやる……レーゲンスブルク家に伝わる、闇属性の秘術を……!」

 マルクスの目が据わっていた。額に脂汗を浮かべ、唇を噛み締めている。追い詰められた獣の目。プライドが、理性を上回った目。

 闇が、闘技場全体を飲み込んだ。

 視界が消える。観客席から悲鳴が上がった。

 鉄心は目を閉じた。もともと見えないなら、目を開けている意味はない。体育教師時代の記憶が蘇る。生徒たちに人気だった、あの遊び。

「目隠しドッジボールってのを、昔やったんだ」

 空気の流れ。石畳を踏む微かな足音。闇の中で魔力が移動するときに生じる、かすかな空気の揺らぎ。

 ——左、三メートル。後退しながら杖を構えている。

 鉄心が踏み込んだ。

 バキィッ!

 闇を引き裂くような風圧。鉄心の右拳が、マルクスの顔面——その一寸手前で止まった。

 衝撃波だけが、マルクスの髪を後方に吹き飛ばした。前髪が逆立ち、ローブの裾がはためく。頬を風が切り、マルクスの目が限界まで見開かれた。

 闇が晴れた。

 マルクスの杖が、手から滑り落ちた。石畳に当たって硬い音を立てる。その目は鉄心の拳を——正確には、鼻先一センチに迫った星鉄鋼の拳甲を見つめて、凍りついていた。

「あ——」

 声にならない声が、マルクスの喉から漏れた。

 鉄心が、拳を引いた。

 笑顔は、浮かべなかった。

 拳甲を外した右手を見下ろす。赤く腫れた火傷の跡。雷撃の痺れがまだ残る指先。重力魔法に押し潰された膝が、微かに震えている。

 ——強かったな、こいつ。

 前世で体育教師をしていた時、全力で挑んでくる生徒が好きだった。勝っても負けても、全力のぶつかり合いには、言葉にできない何かが残る。

 この世界に来て——こういう相手と、初めて出会えた気がした。

「……いい勝負だった」

 声は静かだった。笑顔でも、おどけた調子でもない。ただ、相手の全力に応えた者だけが持つ、穏やかな重みがあった。


  ◇


 審判の老魔導士が、震える声で宣告した。

「し——勝者、剛田鉄心!」

 一瞬の静寂。

 それから——闘技場が割れた。

 歓声。怒号。困惑のざわめき。感情の種類はばらばらだったが、誰もが声を上げずにはいられなかった。魔法の天才が、筋肉に負けた。その事実が、この世界の常識を根底から揺さぶっている。

「やったな、鉄心!」

 カイルが客席から身を乗り出して叫んだ。隣の生徒に肘が当たったが、気にもしていない。

 マルクスは膝をついていた。石畳の冷たさも感じない。目の前の男を見上げて——何を言えばいいのか分からなかった。今まで「筋肉馬鹿」と嗤っていた相手。侮蔑していた相手。その相手に、全力で挑んで、禁じ手すれすれの闇属性まで使って——届かなかった。

 侮蔑は、とうに消えていた。代わりに胸の底を占めていたのは、純粋な悔しさだった。認めたくない。認めたくないが——あの最後の拳は、自分を殺すためではなく、止まった。寸止めだった。手加減ではない。あの男なりの——敬意だったのだろうか。

 その考えを、マルクスは頭を振って振り払った。だが振り払いきれないものが、喉の奥に引っかかっていた。

 マルクスの視線が、鉄心の背中を追った。離せなかった。

 セレナは客席の端で羊皮紙を閉じた。記録は取り終えた。だが、ペンを置く手がなかなか定まらない。

「……理論的に、説明できない。無理ですよね。知ってます」

 誰に言うでもなく呟いて、深い溜息を吐いた。

 リリアーナは、立てなかった。

 握りしめた手の爪が掌に食い込んでいる。痛みは感じない。代わりに胸の奥が熱く、苦しかった。認めたくないのか、認めたいのか。自分でも分からない。分かるのは、あの男の背中から目が逸らせないということだけ。


  ◇


 貴賓席。

 ヴァルターが、静かに立ち上がった。

 周囲の来賓が声をかけようとしたが、その目を見て口を閉ざした。白髪の大魔導士の表情は——無だった。怒りでも、失望でも、驚きでもない。ただ、何かを押し殺した、空白の顔。

 背を向けて歩き出す。長衣の裾が石畳を掃いた。

「が、学院長」

 教務主任が小走りについてきた。額に汗を浮かべている。

「あの生徒の処分は——裁定戦で禁じ手に近い闇属性を使用したのはマルクスの方ですが、そもそも魔力なしの生徒が——」

「……裁定戦は学院の正式な制度だ」

 ヴァルターは振り返らなかった。

「結果は覆らん」

 それだけ言って、歩き続けた。教務主任はそれ以上追えなかった。学院長の背中が、追いかけることを許さない何かを纏っていた。

 ヴァルターの拳は、白くなるほど握りしめられていた。


  ◇


 学院長の書斎。夕刻。

 西日が、古い書棚の一角を照らしていた。

 ヴァルターは窓辺に立ち、沈む夕陽を見つめていた。右手を開き、掌を見る。皺だらけの、老いた掌。だがその指の付け根には——何十年経っても消えない胼胝の跡があった。拳を握り続けた者だけに残る、硬い皮膚。

 あの男の拳を見た瞬間、自分の掌が疼いた。忘れたはずの感覚。魔法に頼らず、肉体だけで証明しようとした——愚かな青年の頃の記憶。

「あの時の儂と、同じ目をしておる……」

 声は掠れていた。

 ヴァルターは拳を握った。胼胝の跡が、掌の中に押し潰される。右手に微かな震えが走り——詠唱なしで灯した指先の魔力灯が、一瞬揺らいだ。

 大陸最強の大魔導士が、魔力を乱した。

 些細な乱れ。誰にも気づかれない程度の。だがヴァルター自身は、その意味を知っていた。

 長い沈黙の後、ヴァルターは窓を背に机へ歩み寄り、明日の学院運営の書類に目を落とした。

 だが——その夜、書斎の灯りは深更まで消えなかった。
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