魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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裁定の刻

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 石畳を踏む革靴の音が、朝の回廊に硬く響いていた。

 剛田鉄心は欠伸を噛み殺しながら、いつものように教室へ向かっている。窓の外では春風が中庭の木々を揺らし、若葉の青い匂いが廊下にまで漂ってきていた。

「おはようっす、カイル」

「おう、鉄心。……って、なんでそんな汗だくなんだよ、朝から」

「ん? いつもの朝練だけど。今日は中庭の石柱で懸垂五百回やった」

「石柱って……学院の備品だぞそれ」

 カイルが呆れた顔をする。鉄心は首を傾げた。丈夫だから大丈夫だろう、と言おうとした瞬間——。

「——待ちなさい、ノーマジック」

 冷たい声が、廊下の先から飛んできた。

 金髪を後ろに撫でつけた長身の青年が、数人の取り巻きを従えて立ちはだかっている。マルクス・ヴァン・レーゲンスブルク。侯爵家の嫡男にして、学年次席の魔法使い。

「お前に用がある」

「おう、なんだ?」

 鉄心はいつもの笑顔で応じた。マルクスの目が、その無邪気さに苛立つように細まる。

「学院の古き制度——『裁定戦』を知っているか」

「サイテイセン?」

「貴族間の名誉をかけた公式決闘だ。魔法による実力の証明。正式な申請をすれば、学院長すら止められない」

 マルクスが一歩前に出た。取り巻きたちがにやにやと笑っている。

「ノーマジックに学院にいる資格があるかどうか——この俺が、魔法で証明してやる」

 白い手袋が宙を舞い、鉄心の足元に落ちた。

 回廊が、しんと静まる。通りがかった生徒たちが足を止め、息を呑んでいる。

 鉄心は手袋を拾い上げ、まじまじと見つめた。

「……これ、いい革使ってんな。鍛えた手にはちょっと小さいけど」

「そういう意味じゃない!」マルクスの眉間に青筋が浮かぶ。「受けるのか、逃げるのか。どちらだ」

「おう、面白そうだな!」

 鉄心の即答に、廊下がどよめいた。

「お、お前!」カイルが鉄心の腕を掴む。「魔法使えないんだぞ!? 裁定戦って魔法の勝負だぞ!?」

「まあ、なんとかなるだろ!」

「なるかぁ!」

 マルクスは薄く笑みを浮かべ、踵を返した。

「三日後、闘技場で待つ。——逃げたければ、今のうちに学院を去ることだな」

 その背中を見送りながら、カイルが頭を抱える。鉄心は拾った手袋を丁寧に畳んで、ポケットに入れた。


  ◇


 セレナ・ミスティカは、研究室の書棚から分厚い革装の法規集を引きずり出した。

 埃が舞い上がり、鼻腔をくすぐる。古い羊皮紙と、インクの褪せた匂い。ページを繰る指先に、乾いた紙の感触が引っかかる。

「……ありました」

 裁定戦規約、第七条——『双方の合意があれば、武器および能力の制限を設けないことができる』。

 つまり、鉄心が肉体のみで戦うことも、規則上は許される。

「……はぁ」

 ペンを取り上げ、指先でくるくると回した。いつものことだが、今回ばかりはペンの回転が止まらない。

 研究室の扉が開き、当の本人が顔を覗かせた。

「セレナ先生、呼んだっすか?」

「呼びました。座ってください」

 鉄心が椅子に腰を下ろす。椅子が悲鳴のような軋みを上げた。百十キロの筋肉には、学院の華奢な家具は荷が重い。

「裁定戦の規則を調べました。確かに、あなたが筋力だけで戦うことは制度上可能です」

「おお! さすが先生、頼りになるっす!」

「褒めていません。——この戦いは止めるべきです」

 セレナは法規集を閉じ、鉄心を正面から見据えた。

「マルクスは学年次席。攻撃魔法の精度は学年随一です。あなたがいくら頑丈でも、上位魔法の直撃を受ければ——」

「先生」

 鉄心の声が、変わった。

 いつもの底抜けに明るいトーンではない。低く、静かな声。

「俺が負けたら、学院を出ていく」

「……」

「でも勝ったら、俺がここにいていいって認めてくれ」

 セレナの指が、法規集の表紙を掴んだまま止まった。

 鉄心の目には、ふざけた色がない。黒い瞳の奥に、真っ直ぐな光が灯っている。

 ——この男、初めて見る顔だ。

「理論的に説明してください。勝算があると」

「理論とか難しいことはわかんないっす。でも——」

 鉄心は自分の拳を見下ろした。節くれだった、岩のような拳。

「俺の拳は、嘘つかないんで」

 セレナは黙った。反論の言葉が、喉の奥で溶けていく。

「……好きにしなさい。ただし、死なないでください。始末書を書くのは私です」

「おう! ありがとうっす、先生!」

 一瞬で元の笑顔に戻った鉄心に、セレナはペンを机に置き、窓の外に目を向けた。空は、呑気なほど晴れていた。


  ◇


「——このような茶番に、学院の由緒ある制度を使うなど。恥を知りなさい、マルクス」

 リリアーナ・フォン・アルカディアの声が、中庭のテラスに凛と響いた。

 午後の陽光が銀髪を透かし、碧い瞳が冷たく光っている。

「おや、アルカディア家の令嬢が——まさか、ノーマジックの味方をするのですか?」

 マルクスが紅茶のカップを掲げ、皮肉な笑みを浮かべた。

「味方などしていません。ただ——」

 言葉が詰まった。

 ただ、何だ。ただ——あの男が、不当に扱われるのが。

「ただ?」

「……公正な戦いを求めているだけですわ」

 リリアーナは踵を返した。背後でマルクスの含み笑いが聞こえたが、振り返らなかった。

 その夜。

 リリアーナは自室の窓辺に立っていた。月明かりが寝間着の肩を白く照らしている。

 中庭から、規則正しい音が聞こえてきた。

 ドスン、ドスン、ドスン——。

 見下ろすと、鉄心がいた。月光の下で、拳甲を嵌めた両腕を振り、型を繰り返している。額から汗が滴り、石畳に黒い染みを作っていた。

 一心不乱だった。誰に見せるためでもなく、ただ己の拳を磨いている。

 リリアーナの視線が、無意識に自分の腕へ落ちた。

 寝間着の袖から覗く、白く細い腕。魔法使いとして完璧に鍛え上げられた魔力回路を持つ、けれど——風が吹けば折れそうな腕。

 拳を握ってみた。小さな、力のない拳。

「……何をしていますの、わたくしは」

 呟いて、カーテンを閉じた。

 けれど、拳を握った感触だけが、掌に残っていた。


  ◇


 三日目の朝。

 グランドール魔法学院の闘技場は、開場前から生徒で溢れていた。

 すり鉢状の石造りの観客席が、中央の円形闘技場を取り囲んでいる。古い石壁からは苔の匂いが立ち昇り、天井のない構造から朝の陽光が斜めに射し込んで、闘技場の砂地に長い影を落としていた。

 教師席にセレナが腰を下ろした。腕を組み、眉間に深い皺を刻んでいる。

 その上階——貴賓席に、白髪の長身が現れた。

 ヴァルター・グリムハルト。

 学院長の姿に、観客席がざわめく。わざわざ裁定戦を見に来るなど、異例中の異例だった。

 ヴァルターは静かに席に着いた。鋭い目が、闘技場の中央を見据えている。

 ——排除すべき異分子。魔法の秩序を乱す、危険な存在。

 そう断じた瞳の奥で、一瞬——ほんの一瞬だけ、別の光が揺れた。

 かつて自分も持っていた、あの感情。魔力が乏しかった少年時代、拳を握りしめて世界に立ち向かおうとした——あの。

 杖を握る手に、無意識に力がこもった。指の関節が白くなるほどに。——下らん。ヴァルターは指を一本ずつ解き、視線を闘技場に戻した。

「……始めるがいい」

 闘技場の中央に、マルクスが進み出た。白い決闘服に身を包み、杖を構えている。自信に満ちた表情。侯爵家の嫡男として、負けるはずがないという確信。——だがその瞳の奥には、確信とは別のものが潜んでいた。魔法こそが全てだと信じなければ、自分が立っていられなくなる——そんな、切迫。

 反対側の入口から——。

「よっしゃ、行くか!」

 剛田鉄心が歩いてきた。

 いつもの笑顔。いつもの巨躯。そして両拳に嵌められた、ガルド・ストーンアームが鍛え上げた星鉄鋼の拳甲。

 足が砂地を踏むたびに、微かな振動が走った。

 鉄心自身は気づいていない。だが闘技場の地下深く——古代、ここが素手で戦う闘士たちの戦場だった時代の残留魔力が、かすかに脈動していた。まるで、長い眠りから呼び覚まされるように。

「ノーマジック」マルクスが杖を向ける。「最後に聞く。降伏するなら今だ」

「いや、せっかくだし——やろうぜ!」

 審判の教師が、右手を振り下ろした。

「裁定戦——開始!」

 マルクスの詠唱が、雷鳴のように闘技場を震わせた。

「『灼熱ノ王ヨ、我ガ敵ヲ焼キ尽クセ——至高炎獄(イグニス・レクス)』!」

 最上級火炎魔法。

 観客席から悲鳴が上がった。闘技場の空気が一瞬で沸騰し、砂地が赤く焼ける。紅蓮の炎が渦を巻いて鉄心を飲み込み、闘技場全体を灼熱の地獄に変えた。

 セレナが立ち上がりかけた。リリアーナの手が、観客席の手すりを白くなるまで握りしめていた。

「——終わりだ」

 マルクスが杖を下ろし、勝ち誇った笑みを浮かべる。

 炎が、渦を巻きながら収束していく。

 その中心に——人影があった。

 立っていた。

 剛田鉄心が、立っていた。

 両腕を顔の前で交差させた防御姿勢。拳甲の表面に、見たことのない光沢が走っている。星鉄鋼特有の、魔力を弾く銀白色の輝き——。

 炎の直撃を、拳甲が弾いていた。

 ただし、無傷ではなかった。拳甲が覆いきれない腕の外側が赤く焼け、制服の袖が焦げて崩れている。額から流れる汗が、熱で蒸発し、白い湯気となって立ち昇っていた。

「——嘘、でしょ」

 リリアーナの唇から、素の声が零れた。

 鉄心がゆっくりと腕を下ろす。赤く腫れた肌の上を、拳甲の銀白色の光が走り、朝の陽光を反射して闘技場を照らした。

 その笑顔だけは、変わっていなかった。

「おう——けっこう熱かったな、今の」

 声にわずかな掠れが混じっていた。だが足は、一歩も退いていない。

 闘技場が、静寂に包まれた。
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