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禁書の仮説
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夜更けの研究室に、羽ペンが羊皮紙を引っ掻く音だけが響く。
セレナ・ミスティカは机に広げた資料の山を前に、三度目の溜息をついた。燭台の炎が揺れるたび、壁に映る自分の影が不安定に歪む。窓の外では春先の風が桜花の花弁を巻き上げ、学院の結界に触れた瞬間、花弁が淡い光を放って消えた。
——あの結界も、最近わずかに揺らいでいるように見えるのは気のせいだろうか。
机の上には、入学試験から今日までの鉄心に関するあらゆる記録が並ぶ。魔力測定値:ゼロ。障壁破壊時の衝撃波データ。体力測定における魔力場への干渉パターン。そして、彼が壁を素手で削り取った際に露出した、あの古い紋様のスケッチ。
「……はぁ」
セレナはペンを置き、眼鏡の位置を直した。どのデータを見ても、同じ結論に辿り着く。剛田鉄心という存在は、この世界の常識では説明がつかない。
記録を整理し直す。入学試験で破壊した障壁は、通常の上級魔法でも貫通できない強度だった。それを拳一つで粉砕した。体力測定では、魔力場そのものが彼の筋肉の動きに反応して揺らいだ。
そして——公式には、魔力なき者が学院で学んだ記録は一つもない。
「公式には」
自分で口にして、セレナの指が止まった。
あの時、鉄心の入学審議で自分が使った言葉。なぜ「一つもありません」ではなく、わざわざ「公式には」と付け加えたのか。無意識だった。しかし今、その無意識が正しかったのかもしれないという予感がある。
セレナは引き出しから申請書を取り出し、必要事項を書き込んだ。
——地下書庫。閲覧制限区画。
ペン先が紙の上で一瞬止まる。申請理由の欄に「教育研究目的」と記した。嘘ではない。嘘では、ないはずだ。
◇
翌朝の戦闘魔法実習。訓練場には朝露の匂いが残り、石畳がまだひんやりと冷たかった。
「では、基本的な回避動作から始めます。私が放つ魔法弾を避けてください」
セレナの声は、いつも通り淡々としている。だが今日は、観察の目が違った。
「おっす! よろしくお願いしまっす!」
鉄心が元気よく構えた。百九十五センチの巨体が、不思議と軽やかに見える。
セレナは無詠唱で光弾を三つ、同時に放った。初級の訓練用で、当たっても痛みはない。ただし、軌道は実戦と同じく不規則に設定してある。
鉄心の体が動いた。
一発目——右に半歩ずれて躱す。
二発目——上体を沈めて潜り抜ける。
三発目——左足を軸に回転し、光弾の軌道を紙一重でやり過ごす。
セレナの眉が動いた。
三発目の回避。あれは「魔法弾追尾理論」における最適回避角度——光弾の追尾性能が最も低下する死角へ、正確に体を滑り込ませている。偶然ではない。一度や二度なら偶然で済む。だが三発連続で最適解を選ぶのは、理論を理解していなければ不可能だ。
「……もう一度」
今度は五発。速度を上げ、追尾性能も強化した。中級魔法使いでも被弾するレベル。
鉄心は全て躱した。しかも笑顔で。
「あなた」
セレナは魔法を止め、鉄心の前に歩み寄った。
「今の回避パターン。魔法戦闘理論の第七章に記述されている最適回避行動と、ほぼ完全に一致しています。……あなた、魔法理論を体で理解しているのですか?」
「え? いや、そんな難しいもんじゃないっすよ」
鉄心は後頭部を掻いた。汗一つかいていない。
「飛んでくるモンの軌道を見て、一番楽に避けられる方向に動いてるだけっす。体育教師の勘っすよ」
——体育教師。
口にした瞬間、鉄心の目がわずかに翳った。体育館の匂い。生徒たちの歓声。バレーボールの試合で怪我をした生徒を背負って保健室に走った、あの廊下の長さ。
全部、もうない世界のことだ。
「……っす」
「? どうかしましたか」
「いや、なんでもないっす!」
鉄心はいつもの笑顔に戻った。だがセレナは、一瞬だけ見せたその表情を見逃さなかった。あの天然で裏表のない男が、何かを飲み込んだ顔。
「……そうですか」
セレナは眼鏡を押し上げた。追及はしなかった。代わりに、教師としての観察を続ける。
「——あなたの回避行動は、理論の裏付けなしに最適解に到達しています。これは私の十二年の教師経験で初めてのケースです。……正直に言えば、既存の枠組みでは説明がつきません」
「あはは、すんません」
鉄心が屈託なく笑う。その笑顔を見つめながら、セレナの胸中では仮説の輪郭が少しずつ形を結んでいた。
——この男は、魔法の理論を知らない。だが、その肉体が理論の最適解を無意識に導き出している。まるで……筋肉そのものが、魔力に代わる何かを感知しているかのように。
「セレナ先生、次はもっと速いの頼むっす! いいウォーミングアップになるんで!」
「……はぁ。ウォーミングアップ、ですか」
中級魔法使いが避けられない魔法弾が、ウォーミングアップ。セレナは四度目の溜息を飲み込んだ。
◇
その日の夕刻。地下書庫への許可証を手に、セレナは学院本棟の地下へ続く螺旋階段を降りた。
空気が変わった。地上の春の風とは違い、ここには古い紙とインクの匂いが澱のように溜まっている。壁に埋め込まれた魔石灯が青白い光を放ち、石壁に刻まれた防護術式を浮かび上がらせていた。
書庫の扉を開ける。冷たい空気が頬を撫でた。
棚は天井まで届き、革装丁の書物がびっしりと並ぶ。通常の図書室には収蔵されていない古文書や、非主流とされた研究論文の束。学院の三千年の歴史が、この薄暗い地下に眠っている。
セレナは棚のラベルを辿り、「身体能力研究」の区画へ向かった。学院においてこの分野は傍流も傍流。棚に積もった埃の厚さが、どれほど長く誰にも顧みられていないかを物語る。
指先で背表紙を辿っていく。
——あった。
『魔力特性と身体能力の相関関係・異端の仮説集 続編』
著者名を見た瞬間、セレナの指が凍りついた。
E・グリムハルト。
グリムハルト。学院長と、同じ姓。
呼吸を整え、表紙を開く。紙は黄ばみ、端が脆くなっている。少なくとも数十年は誰も手に取っていない。
リリアーナが図書室で読んでいたのと同じ著者——あの時は穏当な内容だった。だがこの続編は、序文の時点で論調が違う。
『本書は前著の仮説をさらに推し進め、魔法文明の根幹に疑問を呈するものである。学術的正当性よりも真実の探求を優先する。反論は歓迎する。ただし、実験データを以て反論されたい』
セレナはページを繰った。
呼吸が速くなっていることに、自分で気づかなかった。
第三章。『筋繊維のマナ代替導管仮説』。
『魔力を持たぬ者——いわゆるノーマジックが、極限まで肉体を鍛錬した場合、興味深い現象が観測される。通常、マナは魔力回路を通じて体内を循環するが、高度に発達した筋繊維は、マナとは異なるエネルギーの導管として機能し得る。これは魔法以前の時代、人類が魔物を狩っていた頃の肉体構造への回帰である可能性がある』
セレナの脳裏に、鉄心のデータが重なった。
魔力場の干渉。最適回避行動。障壁の破壊。
全てが——この仮説で説明がつく。
自分が蓄積してきた測定データの一つ一つが、半世紀以上前に書かれたこの論文の仮説を裏付ける証拠として、パズルのように嵌まっていく。
セレナは震える手でさらにページを繰った。論文の奥に進むほど、記述は大胆になる。
『筋繊維導管は、魔力回路の上位互換である可能性すらある。なぜなら——』
最後のページに辿り着き、セレナの目が見開かれた。
赤い印。学院の公式印章。
『本論文は学院評議会により禁書指定。閲覧者は学院長への報告義務あり』
手が止まった。
報告義務。つまり、この論文を読んだことをヴァルター学院長に報告しなければならない。
ヴァルターに。
あの、魔法至上主義の権化に。筋力を「原始的な力」と断じて否定する男に。
——しかも、この論文の著者はグリムハルト姓。ヴァルター本人か、その血縁者が書いた可能性がある。
セレナは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
論文を棚に戻す。背表紙の位置を、元通りに直す。埃の跡が不自然にならないよう、隣の書物も少しだけずらした。
内容は、全て記憶した。一字一句。教師として、記憶力には自信がある。
——今は、報告しない。
確たる証拠もなく禁書の存在を報告すれば、鉄心が政治的に排除される口実を与えるだけだ。測定データを積み上げ、仮説を検証し、反論の余地がないところまで固めてから——その時に、然るべき形で提示する。
そう自分に言い聞かせた。本当はもう一つ、理由があることも分かっていた。あの天然で裏表のない男が、陰謀めいたものに巻き込まれるのを——黙って見ていられるほど、自分は冷血ではなかった。
螺旋階段を上る。一段ごとに、地上の空気が近づいてくる。地下書庫の扉が背後で閉まった。
振り返らなかった。
だから、気づかなかった。
書庫の奥——セレナが通らなかった区画の最奥に、もう一つの扉があることに。その扉には、鉄心の拳甲に刻まれたものと同じ紋様の封印が、静かに光を放っていたことに。
そして——。
◇
セレナが去った地下書庫に、足音が響いた。
杖が石畳を叩く、硬質な音。
長い影が棚の間を縫うように進み、「身体能力研究」の区画で止まる。白い手が伸び、セレナが戻したばかりの論文を、迷いなく引き抜いた。
E・グリムハルトの著作。
その論文を手に取った人物の顔を、魔石灯の青白い光が照らし出す。
白髪。鋭い目。威厳ある長身。
——学院長ヴァルター・グリムハルト。
彼は表紙を開かなかった。開く必要がなかった。中身は、一字一句覚えている。
ヴァルターの指が、著者名の「E」のイニシャルを撫でた。エルヴィン・グリムハルト。兄の名だ。魔力が低いことを恥じ、肉体を鍛え、この論文を書き——そして学院から追放された兄の。
「……エルヴィン」
その名を口にしたのは、何年ぶりだろう。
ヴァルターは論文を棚に戻した。だが今回は、元の位置ではなく——一段だけ、手の届きやすい高さにずらした。
自分でも意味の分からない行為だった。踵を返し、杖の音を響かせながら書庫を出る。
振り返らなかった。振り返れば、何かが決壊する気がした。
セレナ・ミスティカは机に広げた資料の山を前に、三度目の溜息をついた。燭台の炎が揺れるたび、壁に映る自分の影が不安定に歪む。窓の外では春先の風が桜花の花弁を巻き上げ、学院の結界に触れた瞬間、花弁が淡い光を放って消えた。
——あの結界も、最近わずかに揺らいでいるように見えるのは気のせいだろうか。
机の上には、入学試験から今日までの鉄心に関するあらゆる記録が並ぶ。魔力測定値:ゼロ。障壁破壊時の衝撃波データ。体力測定における魔力場への干渉パターン。そして、彼が壁を素手で削り取った際に露出した、あの古い紋様のスケッチ。
「……はぁ」
セレナはペンを置き、眼鏡の位置を直した。どのデータを見ても、同じ結論に辿り着く。剛田鉄心という存在は、この世界の常識では説明がつかない。
記録を整理し直す。入学試験で破壊した障壁は、通常の上級魔法でも貫通できない強度だった。それを拳一つで粉砕した。体力測定では、魔力場そのものが彼の筋肉の動きに反応して揺らいだ。
そして——公式には、魔力なき者が学院で学んだ記録は一つもない。
「公式には」
自分で口にして、セレナの指が止まった。
あの時、鉄心の入学審議で自分が使った言葉。なぜ「一つもありません」ではなく、わざわざ「公式には」と付け加えたのか。無意識だった。しかし今、その無意識が正しかったのかもしれないという予感がある。
セレナは引き出しから申請書を取り出し、必要事項を書き込んだ。
——地下書庫。閲覧制限区画。
ペン先が紙の上で一瞬止まる。申請理由の欄に「教育研究目的」と記した。嘘ではない。嘘では、ないはずだ。
◇
翌朝の戦闘魔法実習。訓練場には朝露の匂いが残り、石畳がまだひんやりと冷たかった。
「では、基本的な回避動作から始めます。私が放つ魔法弾を避けてください」
セレナの声は、いつも通り淡々としている。だが今日は、観察の目が違った。
「おっす! よろしくお願いしまっす!」
鉄心が元気よく構えた。百九十五センチの巨体が、不思議と軽やかに見える。
セレナは無詠唱で光弾を三つ、同時に放った。初級の訓練用で、当たっても痛みはない。ただし、軌道は実戦と同じく不規則に設定してある。
鉄心の体が動いた。
一発目——右に半歩ずれて躱す。
二発目——上体を沈めて潜り抜ける。
三発目——左足を軸に回転し、光弾の軌道を紙一重でやり過ごす。
セレナの眉が動いた。
三発目の回避。あれは「魔法弾追尾理論」における最適回避角度——光弾の追尾性能が最も低下する死角へ、正確に体を滑り込ませている。偶然ではない。一度や二度なら偶然で済む。だが三発連続で最適解を選ぶのは、理論を理解していなければ不可能だ。
「……もう一度」
今度は五発。速度を上げ、追尾性能も強化した。中級魔法使いでも被弾するレベル。
鉄心は全て躱した。しかも笑顔で。
「あなた」
セレナは魔法を止め、鉄心の前に歩み寄った。
「今の回避パターン。魔法戦闘理論の第七章に記述されている最適回避行動と、ほぼ完全に一致しています。……あなた、魔法理論を体で理解しているのですか?」
「え? いや、そんな難しいもんじゃないっすよ」
鉄心は後頭部を掻いた。汗一つかいていない。
「飛んでくるモンの軌道を見て、一番楽に避けられる方向に動いてるだけっす。体育教師の勘っすよ」
——体育教師。
口にした瞬間、鉄心の目がわずかに翳った。体育館の匂い。生徒たちの歓声。バレーボールの試合で怪我をした生徒を背負って保健室に走った、あの廊下の長さ。
全部、もうない世界のことだ。
「……っす」
「? どうかしましたか」
「いや、なんでもないっす!」
鉄心はいつもの笑顔に戻った。だがセレナは、一瞬だけ見せたその表情を見逃さなかった。あの天然で裏表のない男が、何かを飲み込んだ顔。
「……そうですか」
セレナは眼鏡を押し上げた。追及はしなかった。代わりに、教師としての観察を続ける。
「——あなたの回避行動は、理論の裏付けなしに最適解に到達しています。これは私の十二年の教師経験で初めてのケースです。……正直に言えば、既存の枠組みでは説明がつきません」
「あはは、すんません」
鉄心が屈託なく笑う。その笑顔を見つめながら、セレナの胸中では仮説の輪郭が少しずつ形を結んでいた。
——この男は、魔法の理論を知らない。だが、その肉体が理論の最適解を無意識に導き出している。まるで……筋肉そのものが、魔力に代わる何かを感知しているかのように。
「セレナ先生、次はもっと速いの頼むっす! いいウォーミングアップになるんで!」
「……はぁ。ウォーミングアップ、ですか」
中級魔法使いが避けられない魔法弾が、ウォーミングアップ。セレナは四度目の溜息を飲み込んだ。
◇
その日の夕刻。地下書庫への許可証を手に、セレナは学院本棟の地下へ続く螺旋階段を降りた。
空気が変わった。地上の春の風とは違い、ここには古い紙とインクの匂いが澱のように溜まっている。壁に埋め込まれた魔石灯が青白い光を放ち、石壁に刻まれた防護術式を浮かび上がらせていた。
書庫の扉を開ける。冷たい空気が頬を撫でた。
棚は天井まで届き、革装丁の書物がびっしりと並ぶ。通常の図書室には収蔵されていない古文書や、非主流とされた研究論文の束。学院の三千年の歴史が、この薄暗い地下に眠っている。
セレナは棚のラベルを辿り、「身体能力研究」の区画へ向かった。学院においてこの分野は傍流も傍流。棚に積もった埃の厚さが、どれほど長く誰にも顧みられていないかを物語る。
指先で背表紙を辿っていく。
——あった。
『魔力特性と身体能力の相関関係・異端の仮説集 続編』
著者名を見た瞬間、セレナの指が凍りついた。
E・グリムハルト。
グリムハルト。学院長と、同じ姓。
呼吸を整え、表紙を開く。紙は黄ばみ、端が脆くなっている。少なくとも数十年は誰も手に取っていない。
リリアーナが図書室で読んでいたのと同じ著者——あの時は穏当な内容だった。だがこの続編は、序文の時点で論調が違う。
『本書は前著の仮説をさらに推し進め、魔法文明の根幹に疑問を呈するものである。学術的正当性よりも真実の探求を優先する。反論は歓迎する。ただし、実験データを以て反論されたい』
セレナはページを繰った。
呼吸が速くなっていることに、自分で気づかなかった。
第三章。『筋繊維のマナ代替導管仮説』。
『魔力を持たぬ者——いわゆるノーマジックが、極限まで肉体を鍛錬した場合、興味深い現象が観測される。通常、マナは魔力回路を通じて体内を循環するが、高度に発達した筋繊維は、マナとは異なるエネルギーの導管として機能し得る。これは魔法以前の時代、人類が魔物を狩っていた頃の肉体構造への回帰である可能性がある』
セレナの脳裏に、鉄心のデータが重なった。
魔力場の干渉。最適回避行動。障壁の破壊。
全てが——この仮説で説明がつく。
自分が蓄積してきた測定データの一つ一つが、半世紀以上前に書かれたこの論文の仮説を裏付ける証拠として、パズルのように嵌まっていく。
セレナは震える手でさらにページを繰った。論文の奥に進むほど、記述は大胆になる。
『筋繊維導管は、魔力回路の上位互換である可能性すらある。なぜなら——』
最後のページに辿り着き、セレナの目が見開かれた。
赤い印。学院の公式印章。
『本論文は学院評議会により禁書指定。閲覧者は学院長への報告義務あり』
手が止まった。
報告義務。つまり、この論文を読んだことをヴァルター学院長に報告しなければならない。
ヴァルターに。
あの、魔法至上主義の権化に。筋力を「原始的な力」と断じて否定する男に。
——しかも、この論文の著者はグリムハルト姓。ヴァルター本人か、その血縁者が書いた可能性がある。
セレナは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
論文を棚に戻す。背表紙の位置を、元通りに直す。埃の跡が不自然にならないよう、隣の書物も少しだけずらした。
内容は、全て記憶した。一字一句。教師として、記憶力には自信がある。
——今は、報告しない。
確たる証拠もなく禁書の存在を報告すれば、鉄心が政治的に排除される口実を与えるだけだ。測定データを積み上げ、仮説を検証し、反論の余地がないところまで固めてから——その時に、然るべき形で提示する。
そう自分に言い聞かせた。本当はもう一つ、理由があることも分かっていた。あの天然で裏表のない男が、陰謀めいたものに巻き込まれるのを——黙って見ていられるほど、自分は冷血ではなかった。
螺旋階段を上る。一段ごとに、地上の空気が近づいてくる。地下書庫の扉が背後で閉まった。
振り返らなかった。
だから、気づかなかった。
書庫の奥——セレナが通らなかった区画の最奥に、もう一つの扉があることに。その扉には、鉄心の拳甲に刻まれたものと同じ紋様の封印が、静かに光を放っていたことに。
そして——。
◇
セレナが去った地下書庫に、足音が響いた。
杖が石畳を叩く、硬質な音。
長い影が棚の間を縫うように進み、「身体能力研究」の区画で止まる。白い手が伸び、セレナが戻したばかりの論文を、迷いなく引き抜いた。
E・グリムハルトの著作。
その論文を手に取った人物の顔を、魔石灯の青白い光が照らし出す。
白髪。鋭い目。威厳ある長身。
——学院長ヴァルター・グリムハルト。
彼は表紙を開かなかった。開く必要がなかった。中身は、一字一句覚えている。
ヴァルターの指が、著者名の「E」のイニシャルを撫でた。エルヴィン・グリムハルト。兄の名だ。魔力が低いことを恥じ、肉体を鍛え、この論文を書き——そして学院から追放された兄の。
「……エルヴィン」
その名を口にしたのは、何年ぶりだろう。
ヴァルターは論文を棚に戻した。だが今回は、元の位置ではなく——一段だけ、手の届きやすい高さにずらした。
自分でも意味の分からない行為だった。踵を返し、杖の音を響かせながら書庫を出る。
振り返らなかった。振り返れば、何かが決壊する気がした。
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