魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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扉を壊した拳、橋にならぬ背中

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 朝霧が肌を舐める。湿った土と苔の匂いが、鼻の奥にまとわりついた。

 鉄心の視線の先で、霧の中の気配は動きを止めていた。数秒の沈黙。木々の間を抜ける風だけが、ざわざわと葉を揺らす。

「……行ったか?」

「分かりませんわ。ですが、先ほどの反応は——消えました」

 リリアーナが探知魔法を解除し、額の汗を手の甲で拭った。六つ目の反応は、霧が晴れるように薄れて消えていた。残るのは五つの課題ポイントだけ。

「気のせいだったかもな」

「気のせいではありませんわ。確かに——」

 言いかけて、リリアーナは唇を噛んだ。確かに感じたのだ。学院の魔法陣とは異なる、脈動する生き物じみた波長。だが今は痕跡すら残っていない。証拠がなければ、何を言っても仕方がなかった。

「……とにかく、課題を進めましょう。第一ポイントはこの先ですわ」

 鉄心が「おう!」と応じて、迷いなく歩き始めた。


  ◇


 最初の課題ポイントに着いたとき、リリアーナは思わず足を止めた。

 古い石造りの門が森の中にぽつんと立っている。蔦が絡みつき、苔むした表面に青白い魔法文字が浮かんでいた。門の中央には重厚な扉があり、七重の封印魔法陣が刻まれている。

「魔法で封じられた扉を開錠せよ、ですわね」

 リリアーナは扉に手をかざし、封印の構造を読み取った。七層の魔力結界が複雑に絡み合っている。精密な制御が必要な、上級者向けの課題だった。

「俺にできることあるか?」

「黙っていてください」

 冷たく返しながら、詠唱を始める。第一層の解除。指先から糸のように細い魔力を伸ばし、封印の結び目をほどいていく。第二層、第三層——集中が深まるにつれて、周囲の音が遠くなる。

 第五層に差しかかったとき、違和感が走った。

 魔力の流れが乱れている。いつもなら精密に制御できるはずの魔法が、指先で微かに震えていた。まるで見えない力場に引っ張られるように、魔力が意図しない方向に逸れる。

 ——また、だ。

 この感覚には覚えがあった。鉄心の近くにいると、時折こうなる。魔法の制御が微かに狂う。原因は分からない。だが今は、課題の最中だ。意識を研ぎ澄ませて——

「なんか空気がぴりぴりするな」

 鉄心の声が、集中の糸を弾いた。

 同時に、扉の魔法陣が激しく明滅した。制御を失った魔力が封印の中で暴れ回り、石の表面にひび割れが広がる。

「っ——」

 爆発。

 扉が弾け飛んだ。石の破片が散弾のように飛散し、リリアーナは咄嗟に防御魔法を——展開する暇がなかった。

 視界が暗くなった。

 いや、違う。暗いのではなく、目の前に壁があるのだ。広い背中。厚い筋肉の壁。鉄心がリリアーナの前に立ち、破片を背中で受け止めていた。石が砕ける鈍い音が、何度も響く。

 ゴッ、ガッ、バキッ——

 やがて静寂が戻った。石の粉塵が舞い、木漏れ日がその中を斜めに貫いている。

「怪我は?」

 振り返った鉄心の顔は、いつもの笑顔だった。背中の制服は破れ、赤い筋がいくつも走っている。だがその目は、リリアーナだけを見ていた。

 心臓が跳ねた。

 口を開こうとして、声が出なかった。喉の奥が詰まっている。目の前のこの男は、魔法も使えないのに、当たり前のように自分を庇った。考える前に体が動いたのだろう。そういう人間なのだと、頭では分かっていた。分かっていたのに——

「……怪我はありませんわ」

 やっと絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。


  ◇


 第二の課題ポイントは、急流の川だった。

 幅は十メートルほど。だが流れは速く、水面が白く泡立っている。本来あるべき橋は魔法で消されており、対岸に渡る手段は自力で確保しなければならない。

「氷橋の構築ですわね。少しお待ちなさい」

 リリアーナが両手を翳し、川面に向かって冷気を放った。水が凍り始め、透明な氷の板が対岸へと伸びていく——はずだった。

 氷が溶ける。

 川の魔力が氷を侵食し、作るそばから融解していく。何度やっても同じだった。魔力を注げば注ぐほど、川がそれを飲み込んでいく。

「おかしいですわね……。川の魔力が異常に強い。こんな濃度、普通ではありませんわ」

 自然界の魔力は通常、ここまで干渉力を持たない。まるで川そのものが魔法に抵抗しているかのようだった。

「おう、じゃあ俺が渡してやるよ」

「は?」

 言い終わる前に、体が浮いた。

 鉄心がリリアーナを軽々と肩に担ぎ上げたのだ。まるで荷物でも持つように——いや、荷物以上に丁寧に。片腕で腰を支え、もう片方の手でしっかりと背中を押さえている。

「お、おろしなさい! 野蛮人!」

「動くと危ねえぞ。しっかり掴まってろ」

 鉄心は平然と川に足を踏み入れた。急流が腰まで押し寄せ、水しぶきが跳ねる。だが鉄心の足は岩のように動かなかった。一歩、また一歩。流れに逆らいながら、確実に対岸へ進んでいく。

 リリアーナは抗議の言葉を叫ぼうとして——やめた。

 鉄心の肩は広かった。厚い筋肉の上に座っているようなもので、驚くほど安定している。背中から伝わる体温が、朝の冷気で冷えた体を温めていく。

 ふと、自分の腕が目に入った。鉄心の首にしがみつく、白く細い腕。この男の腕の半分もない。

 ——また、見てしまった。

 この体格差を、最近やたらと意識する。鍛冶場でガルドの拳甲を受け取った時も。訓練場で模擬戦をした時も。自分の腕を見下ろしては、何かを考えかける——考えたくないことを。

「着いたぞ」

 鉄心が対岸の土を踏み、リリアーナを静かに降ろした。制服の裾が濡れている。水の冷たさなど感じていないかのように、鉄心は笑っていた。

「……礼は言いませんわよ」

「おう、別にいいぞ」

 リリアーナは背を向けた。耳が熱い。きっと、川の水しぶきのせいだ。そういうことにした。


  ◇


 昼休憩は、川から少し離れた木陰で取った。

 鉄心が背嚢から取り出したのは、信じがたい量の弁当だった。大きな握り飯が八つ。焼いた肉の塊。茹でた根菜。すべてが一般的な学生の三倍はある。

「食うか?」

「……少しだけ、いただきますわ」

 握り飯を一つ受け取り、小さくかじる。粗い麦飯に塩味が効いていて、思ったより美味しかった。

 鉄心は三つ目の握り飯を頬張りながら、ふと遠い目をした。木漏れ日が顔に斑模様を落としている。

「前の世界じゃ体育教師だったんだ。生徒たちと一緒に走るのが好きでさ」

「……前の世界?」

 リリアーナが眉を寄せた。鉄心の顔が一瞬固まる。

「あー、田舎の話だ。故郷の村では、まあ、子供たちに体の動かし方を教えてたってやつだ」

 ごまかしている。それは分かった。だが「前の世界」という言い回しが妙に引っかかる。故郷の話をするにしては、まるで別の場所——別の生を語るような響きだった。

 追及しようとして、やめた。この男の不思議さに踏み込む覚悟が、まだなかった。

「誰かが頑張ってる姿を見るのが一番好きなんだ」

 鉄心が言った。握り飯の最後の一口を飲み込み、木漏れ日を見上げながら。

「魔法だって同じだろ? リリアーナがさっき集中してる時、すげえかっこよかったぞ」

 ——かっこよかった。

 この男は、何を言っているのだろう。

 魔法が暴走して扉を爆発させた。失敗したのだ。みっともない姿を晒したのだ。なのに——かっこよかった?

「……かっこいい、ですって?」

 声が裏返った。顔が熱い。握り飯を持つ手が震えている。怒りなのか、困惑なのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からなかった。

 鉄心は首を傾げた。なぜ驚かれているのか、本気で分かっていない顔だった。

「ああ。魔法って細かい作業だろ? あの集中力、すげえと思ったぞ」

 ——この人は、本当に。

 リリアーナは握り飯に視線を落とした。麦飯の表面に、木漏れ日が揺れている。何か言い返そうとして、言葉が見つからなかった。


  ◇


 午後の日差しが、木々の隙間から斜めに射し込んでいた。最終課題のポイントに向かう獣道を、二人は並んで歩いている。

 しばらく無言が続いた後、リリアーナが口を開いた。

「……あなたは、怖くないの? 魔法が使えないのに」

 自分でも意外な質問だった。ずっと聞きたかったのかもしれない。この男が平然と笑っていられる理由を。

 鉄心は少し考えた。珍しく真面目な顔をしている。木の根を跨ぎながら、言葉を選ぶように間を置いた。

「怖いことはあるよ。でも、怖いから逃げたら、俺の筋肉が泣くだろ」

「……意味が分かりませんわ」

 呟いた声は、不思議と棘がなかった。口元が勝手に緩んでいることに気づいて、慌てて引き締める。

 ——この人の言葉は、いつも馬鹿みたいに単純で、それなのに。

 最終課題のポイントが見えてきた。木々が開けた広場——のはずだった。

 リリアーナの足が止まった。

 課題用の魔法陣は、なかった。

 代わりにあったのは、森の地面を引き裂くように走る巨大な爪痕だった。幅は一メートル以上。三本の溝が平行に、大地をえぐっている。周囲の木々がなぎ倒され、折れた幹の断面は焦げていた。空気に漂う焦げた魔力の残滓が、舌の奥に金属の味を残す。

 背筋が凍った。

「これは……課題じゃない」

 声が震えた。探知魔法を展開するまでもなかった。この規模の破壊痕、この密度の残留魔力。授業で見た資料映像が、脳裏をよぎる。

「本物の魔獣の痕跡ですわ」

 鉄心の目が、笑みを消した。
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