魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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秘密と手のひらのタコ

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 寝室の窓から差し込む月明かりが、白い絨毯の上に青白い長方形を描いている。

 リリアーナは寝台の脇に立ち、じっと床を見下ろしていた。

 合同課題から三日。あの森での出来事が、まるで喉に刺さった小骨のように消えない。結界が消えた瞬間の、空気が裂けるような感覚。それを物ともせず前に出た、あの男の背中。

 ——筋肉で、魔法の壁を超えた。

 あり得ない。理論的に、絶対にあり得ない。なのに現実として起きてしまった。

 リリアーナは唇を噛み、両手を床についた。

 腕立て伏せ。

 名門アルカディア家の令嬢が、深夜に一人で腕立て伏せをしようとしている。祖父が見たら卒倒するだろう。母が知ったら泣き崩れるだろう。

 構わない。

 腕を曲げる。肘が震えた。たった一回で、視界の端が白く滲む。

「こんなもの……一体何が楽しいのですの……」

 声が裏返る。額に汗が滲み、銀髪が頬に張りつく。歯を食いしばって二回目。腕が悲鳴を上げ、三回目で床に顔から突っ伏した。

 冷たい石の感触が額に広がる。

 ——たった三回。

 あの男は、これを何百回と繰り返すのだ。笑顔で。楽しそうに。

 リリアーナは床に頬をつけたまま、自分の細い腕を見つめた。月光に透けるほど白い肌。魔法使いとしては理想的な、華奢な腕。

 それが今は——ひどくもどかしかった。


  ◇


 翌朝、五時。

 東の空がようやく藍から薄紫に変わり始める時刻。寮の廊下には人の気配がない。

 リリアーナは外套を深く被り、裏庭へ向かった。早朝の空気が肺を刺す。霜の降りた芝生を踏む音だけが、静寂に小さく響く。

 屈伸。腕立て。腹筋。

 フォームなど知らない。貴族の教育課程に「体の鍛え方」などという科目は存在しなかった。見よう見まねで体を動かし、筋肉が悲鳴を上げるまで繰り返す。

 三日目に、右肩が上がらなくなった。

 五日目に、腰に鈍い痛みが走るようになった。

 一週間後には、階段を降りるたびに膝が軋んだ。

「リリアーナさん。最近、どこか体を痛めていますか?」

 保健室の帰り際、廊下でセレナに呼び止められた。担任教師の目は鋭い。観察眼だけは一流だと、リリアーナは内心で舌打ちする。

「なんでもありませんわ! 少し寝違えただけですの!」

 早口で言い捨て、足早に去る。背中にセレナの溜息が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。

 ——バレるわけにはいかない。

 アルカディア家の令嬢が筋肉を鍛えている。そんな噂が立てば、家門の恥どころではない。社交界から永久追放されても文句は言えない。

 なのに、やめられなかった。

 あの男の言葉が耳にこびりついて離れないのだ。

 ——「これがあるから誰かを守れる」

 まだ聞いてもいない台詞が、なぜか胸の奥で響いている。予感のように。


  ◇


 同じ頃、学院の中庭では別の光景が広がっていた。

「ほら、カイル! 腕振りが小さい! もっとこう、ブワッと!」

「ブワッとって何ですか、先輩! 擬音で指導しないでください!」

 鉄心とカイルの朝練は、いつの間にか恒例になっていた。走り込み、腕立て、素振り。魔法学院の中庭が、さながら体育の授業になっている。

「でも正直、驚いてるんです」

 息を切らしながら、カイルが言った。頬が紅潮し、額から汗が滴っている。

「何がだ?」

「魔法の持久力が上がったんですよ。先週の演習で、連続詠唱が二割も長く続いて。体力と魔法って、関係あるんですかね」

 鉄心は腕組みをした。

「さあな。でも前の——」

 言いかけて、口を噤む。

「前の?」

「いや、なんでもねえ。とにかく体は基本だ。体が元気なら、なんでもうまくいく」

 カイルは首を傾げたが、それ以上追及しなかった。鉄心はさりげなく話を逸らしたが、胸の奥で冷や汗が一筋流れていた。

 ——危ねえ。「前の世界」って言いかけた。

 カイルが水を汲みに行った隙に、鉄心は中庭のベンチに腰を下ろした。空を仰ぐ。見慣れない星座が、朝の光に溶けて消えていく。

 前の世界——体育教師だった頃の記憶は、日に日に輪郭を失っていく。校庭の匂いも、チャイムの音も、生徒たちの顔も。けれど一つだけ、錆びた釘のように刺さったまま抜けない記憶がある。

 あの日、目の前で生徒が倒れた。心臓発作だった。救急車が来るまでの七分間、胸骨圧迫を続けた。腕が千切れるかと思った。それでも——間に合わなかった。

 筋力では、どうにもならないことがある。

 それを知っていて、なおこの体を鍛え続けている。今度こそ、と。この世界でなら、と。そう思わなければ、あの七分間の重さに押し潰される。

 カイルが水筒を二つ持って戻ってきた。

「先輩、どうしました? ぼーっとして」

「おう。ちょっと考え事だ」

 鉄心は立ち上がり、大きく伸びをした。骨が鳴る。

「よし、あと五セットやるぞ!」

「ええっ、まだやるんですか!?」

 笑い声が中庭に響く。鉄心は笑った。笑って、振り払った。いつもそうしてきた。笑えばいい。体を動かせばいい。止まったら、考えてしまうから。


  ◇


 転機は、十日目の早朝に訪れた。

 裏庭の石壁に手をついて、リリアーナはスクワットを繰り返していた。膝が内側に入り、背中が丸まった、危険極まりないフォームで。

 朝露に濡れた芝生の匂い。遠くで鳥が一羽、甲高く鳴いた。

「おう! リリアーナ、筋トレしてるのか!」

 心臓が止まるかと思った。

 角を曲がってきた鉄心が、満面の笑みでこちらを見ている。その背後で朝日が昇り始め、逆光が巨大な体躯をさらに大きく見せていた。

「ち、違いますわ!」

 リリアーナは跳ね起きた。足がもつれて、よろめく。

「これは……魔法の瞑想の一種で……体の重心を意識することで魔力の流れを……」

「瞑想って目を開けてやるのか? しかも膝ガクガクで?」

「うるさいですわ!」

 顔が燃えるように熱い。耳の先まで赤くなっているのが自分でもわかる。

 だが鉄心は笑いも冷やかしもしなかった。代わりに、真剣な顔で近づいてきた。

「そのフォーム、やばいぞ。膝壊す」

「……は?」

「スクワットは膝をつま先より前に出しちゃ駄目なんだ。こうやって——」

 鉄心が横に立ち、ゆっくりとスクワットの手本を見せる。百キロを超える巨体が、驚くほど滑らかに沈み込む。

「背筋は伸ばしたまま。お尻を後ろに引く感じで。椅子に座るイメージだ」

「わ、わたくしに指図しないでくださいまし! そもそも筋トレなんかしてませんわ!」

「じゃあ瞑想のフォームを直してやるよ」

「……」

 屁理屈にも程がある。だが反論の余地がなかった。

 リリアーナは唇を尖らせたまま、鉄心の動きを真似た。膝の角度を意識し、背筋を伸ばし、ゆっくりと腰を落とす。

「そうそう、いいぞ! 才能あるな!」

 ——体が、軽い。

 あの無理やりな姿勢とは全く違う。関節に負担がかからない。筋肉が正しく使われている感覚が、初めて体を駆け抜ける。

 腕立てのフォームも直された。腹筋の正しいやり方も教わった。鉄心の指導は的確で、無駄がなく——まるで、長年教壇に立っていた人間のような手慣れた口ぶりだった。

「あなた……やけに教え慣れていますわね」

「おう。まあ、なんつーか……体を動かすのは得意だからな」

 鉄心が頭を掻く。その目が一瞬だけ遠くなったのを、リリアーナは見逃さなかった。

「……少しだけ」

 声が小さくなる。視線を落とす。

「少しだけ、教えてくださいませ」

 鉄心の顔が、朝日のように輝いた。

「おう! 任せろ!」


  ◇


 それから、秘密の早朝筋トレが始まった。

 毎朝五時。裏庭の石壁の陰。人目につかない場所で、二人は黙々と体を動かす。

 最初はぎこちなかった。鉄心が手本を見せ、リリアーナが真似る。フォームが崩れれば鉄心が直す。それだけの繰り返し。

 だが日を重ねるごとに、リリアーナの体は確実に変わっていった。

 腕立てが三回から八回になった。スクワットは二十回連続でこなせるようになった。階段で息が切れなくなり、魔法演習で集中力が途切れにくくなった。

 そして何より——朝の空気を肺に満たし、汗を流した後の、あの爽快感。

 認めたくないが、悪くなかった。

「あなたは……なぜそんなに筋肉に執着しますの?」

 ある朝、腕立ての休憩中にリリアーナは聞いた。芝生に座り、肩で息をしながら。隣に座る鉄心の横顔を、横目で窺う。

 鉄心は空を見上げた。朝焼けが薄雲を橙色に染めている。遠くの森から、鳥の囀りが風に乗って届く。

「俺にはこれしかないからな」

 いつもの豪快さが消えた、静かな声だった。

「魔法は使えねえ。頭も良くねえ。でも——これがあるから誰かを守れる」

 鉄心は自分の拳を見下ろした。ごつごつとした、傷だらけの大きな手。

「……前に一度、守れなかったことがある」

 言葉が、ぽつりと落ちた。鉄心自身、なぜ口にしたのかわからなかった。この世界の誰にも話したことのない、あの七分間のこと。

「どんなに頑張っても、間に合わなかった。だから——」

 拳を、握った。

「次は絶対に間に合う。そのために鍛えてる。それだけだ」

 リリアーナは何も言えなかった。

 この男は、馬鹿だ。救いようのない筋肉馬鹿だ。

 なのにその言葉が、胸の奥深くに落ちて沈んでいく。石が水底に沈むように、静かに、確かに。

 ——笑っているだけの人ではなかった。

 あの笑顔の奥に、こんな翳りがあったのだ。

 リリアーナは黙って自分の手のひらを見下ろした。

 指の付け根に、小さなタコができていた。

 名門アルカディア家の令嬢の手には、あってはならないもの。母が見たら目を剥くだろう。侍女が見たら泣き出すだろう。

 けれど——不思議と、嫌悪感はなかった。

 指先でそっとタコの硬さを確かめる。それは紛れもなく、自分が積み重ねた証だった。

「よし、休憩終わり! あと十回やるぞ!」

「……仕方ありませんわね」

 リリアーナは立ち上がった。口元に浮かんだ微かな笑みを、長い銀髪で隠しながら。


  ◇


 その日の夕方。

 魔法演習の教室に、セレナの鋭い声が響いた。

「——もう一度」

「はい?」

 リリアーナは怪訝な顔をした。今の攻撃魔法の演習、特に失敗した覚えはない。

 セレナの視線は、しかしリリアーナではなく手元の測定器に釘付けになっていた。水晶球の中で、数値を示す光の粒子が激しく明滅している。

「リリアーナさん。今朝、何か普段と違うことをしましたか」

「……いいえ? 何も?」

 声が上ずった。両手を背中の後ろに隠す。

 セレナは眉間に深い皺を刻んだまま、測定器の数値を読み上げた。

「魔力出力、通常比——一・三倍」

 教室がざわめいた。リリアーナ自身も目を見開く。

「そんな……何も特別なことは……」

 嘘だ。今朝も鉄心と裏庭で汗を流してきた。心拍数が上がったまま、教室に駆け込んだ。

 セレナの目が細くなる。何かを考え込むように、測定器と生徒を交互に見比べている。

「身体の活性化が、魔力の出力経路に……?」

 独り言のように呟いたセレナの声は、リリアーナの耳にはっきりと届いた。

 ——かつて禁書庫で目にした、あの仮説。「魔力と肉体は対立するものではなく、本来は相互に補完し合う」という、異端の理論。

 それが今、逆方向から証明されようとしていた。
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