魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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お前、強いな

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 氷片が舞う闘技場に、鉄心の声だけが残響する。

「お前の魔法、すっげえ綺麗だった」

 その言葉が、リリアーナの胸を貫く。

 ——なに、を。

 膝が震える。碧い瞳に映るのは、血にまみれた巨躯。額から頬へ、顎から首筋へ。赤い筋が幾本も走り、それでもなお、あの男は笑っている。

 馬鹿みたいに。真っ直ぐに。

 だが今のリリアーナに、立ち止まっている余裕などない。

 残った魔力は、もう一撃分。

 両手を前に突き出す。指先に集まる冷気が、空気中の水分を瞬時に凝結させる。

「……まだ、ですわ」

 声が掠れる。喉の奥が、ひりつく。

「わたくしは——まだ負けてませんわ!」

 氷の槍。純白の魔力を凝縮した、一条の光。

 それはリリアーナ・フォン・アルカディアの全てだった。名門に生まれ、天才と呼ばれ、誰よりも高みに立つことを義務づけられた少女の——最後の意地。

 鉄心の心臓を、真っ直ぐに狙う。

 ——避けて。

 心の奥で、そう叫ぶ自分がいる。

 ——でも、避けないで。

 矛盾した祈りが交錯した刹那。

 氷の槍が、空気を裂く。

 鉄心は——動かない。

 避けない。

 右肩に、氷の穂先が突き立つ。肉を裂き、筋繊維に食い込む鈍い衝撃。鉄心の口から短い呻きが漏れる。

 だが、足は止まらない。

 一歩。石畳を踏みしめる音が、静まり返った闘技場に響く。

 二歩目で——膝が折れかける。氷竜のブレスで全身に蓄積した凍傷が、限界を訴えている。指先の感覚はとうに消えている。肩から流れる血が、凍った腕の上で赤黒い氷になる。

 視界が白く霞む。

 ——ああ、これ。

 前世の最期と、同じだ。

 体育祭の準備中、落ちてきた鉄骨から生徒を庇った瞬間。視界が白くなって、音が遠くなって、それでも身体だけは動いた。あの時と——同じ感覚。

 違うのは、今は死なないこと。今は、まだ立てること。

 三歩目を——踏み出す。膝が軋む。だが、立つ。

 リリアーナの眼前。

 拳を、握らない。

 構えも、取らない。

 ただ、満面の笑みで。

「お前、強いな!」

 声が弾ける。痛みなど存在しないかのように。

「今まで戦った中で——一番すげえよ!」

 リリアーナの世界が、止まった。


  ◇


 観客席が凍りついている。誰一人、言葉を発せない。

 セレナは両手を組んだまま、息を詰めて見守る。隣のガルドが腕を組み、髭の奥で口元を引き結ぶ。

 闘技場の中央で、二人が対峙している。

 ——認めてくれた。

 リリアーナの唇が白くなるほど、強く噛みしめられる。奥歯が軋む。それでも溢れてくる感情を、歯を食いしばって押し留める。

 誰もが「天才」と呼んだ。「首席」と称えた。でもそれは、リリアーナ個人ではなく、アルカディア家の看板を褒めていただけだ。華奢な身体に宿る魔力の量を測り、数字を賞賛しただけ。

 この男は——違う。

 リリアーナが費やした夜を。歯を食いしばって練り上げた氷竜を。限界まで魔力を絞り出した最後の槍を。

 「すげえ」と。

 体格でも、血統でも、魔力量でもなく。ただ純粋に——「強い」と。

 唇が、震える。

「……負け、ました——」

 声が途切れる。喉の奥が詰まって、言葉が出てこない。

「負けましたわ」

 言い直す。でも、もう取り繕えない。視界の端が滲みかけるのを、天を仰ぐことで堪える。

 リリアーナは右手を上げ、降参の意思を示す。

 一瞬の沈黙。

 そして——闘技場が、爆発した。

 怒号にも似た歓声が石造りの壁を震わせる。観客が立ち上がり、拳を突き上げ、名前を叫ぶ。鉄心の名を。リリアーナの名を。

 審判が勝者を告げる声は、歓声に呑まれてほとんど届かない。

 鉄心は肩に刺さった氷の槍を掴み、一息に引き抜く。血飛沫が散る。顔色一つ変えず、にかっと笑う。

「いい試合だった。ありがとな、リリアーナ」

「……礼を言うのは、こちらの方ですわ」

 目を逸らす。これ以上この男の顔を見ていたら、ここで崩れてしまう。

 背を向けて、歩き出す。足が重い。魔力の枯渇で身体が鉛のように沈む。

 退場口の手前で、人影が待っている。

「素晴らしい試合でした」

 セレナの声は、いつもの疲れた調子ではなかった。穏やかで、確かな敬意がこもっている。

「——リリアーナさん。あなたの氷竜は、私の戦闘魔法の授業の範疇を超えています。いつの間にあそこまで……」

 リリアーナは足を止める。視線を上げられない。上げたら、溢れる。

「……ええ、悔しいですけれど」

 微笑む。口元だけで。

「あの人には、勝てませんでしたわ」

 セレナが何か言いかけたのを遮るように、リリアーナは歩き出す。控室への通路は薄暗く、冷えた石壁の匂いが充満している。松明の炎が、壁に揺れる影を落とす。歓声が、遠ざかっていく。


  ◇


 控室の扉を閉める。

 鍵をかけた瞬間、膝から崩れ落ちる。

 冷たい石の床に両手をつく。指先が凍傷で赤く腫れている。自分の氷魔法で——皮肉な話だ。

 声を殺して泣く。

 悔しさじゃない。

 負けたことが悔しくないわけがない。首席の誇りは、確かに傷ついている。でもそれを遥かに超える何かが、胸の奥を満たしている。あたたかくて、苦しくて、名前のつけられない感情。

 ——初めてだった。

 体格の差を笑わない人。魔力量の数字で人を測らない人。ただ全力でぶつかって、全力で認めてくれる人。

 華奢な身体がコンプレックスだった。貴族の令嬢として当然の体型なのに、どこかで自分の魔法が「身体の弱さを補うための手段」でしかないと感じてきた。強くありたい——でも、この細い腕で何ができる。

 あの男は、そんなことは一切見ていなかった。

 涙が止まる頃、リリアーナは自分の右拳を見つめる。小さな、白い拳。爪の先が微かに欠けている。昨夜の——秘密の腕立て伏せの名残。以前なら十回で潰れた腕が、昨夜は三十回を超えた。

「もっと……」

 声が零れる。

「もっと、強くなりたい」

 魔法だけじゃなく。この身体でも。あの男の隣に立てるくらいに。

 拳を、握りしめる。今度は——痛みすら心地よかった。


  ◇


 闘技場の反対側。控室の壁にもたれた鉄心は、肩の傷に包帯を巻いている。医療班の治癒魔法を「大したことないっす」と断った結果、自分で処置する羽目になった。包帯の巻き方だけは、体育教師時代に嫌というほど練習した。

 汗が引いて、肌寒さが戻ってくる。石壁から伝わる冷気が、傷口にじんわり沁みる。

 包帯を結びながら、リリアーナの最後の氷の槍を思い出す。

 ——あれは、本物だった。

 前世で教え子たちの試合を何百と見てきた。投げやりな一撃と、全てを懸けた一撃の違いくらいは、教師を十年やっていれば嫌でもわかるようになる。リリアーナのあの槍は——技術でも魔力でもなく、意地そのものだった。

 ふと、手が止まる。

 教師時代、インターハイの決勝で負けた教え子がいた。試合後、体育館の裏で泣いていた。あの時、自分はなんと声をかけたか——思い出せない。気の利いたことを言えた記憶がない。ただ隣に座って、一緒に黙っていただけだ。

 あの子は今、どうしているだろう。

 もう自分がいない世界で。

 ——考えても仕方ないか。

 鉄心は軽く頭を振る。だが、胸の奥に沈んだ重さは、すぐには消えなかった。

 扉が、軽く叩かれる。

「開いてるぞー」

 気楽に応じると、扉が音もなく開く。

 入ってきたのは——見覚えのない男。

 すらりとした長身。整った顔立ちに、感情の読めない蒼い瞳。金の髪が肩にかかり、纏う空気が根本から異質だった。闘技場の喧騒を完全に遮断したかのような静寂が、男の周囲だけに漂っている。

 鉄心の鼻先を、オゾンに似た刺激臭が掠める。

 ——雷の、匂い。

 肌が粟立つ。背筋に走る感覚は恐怖ではない。もっと原始的な——獣が天敵を前にした時の、本能的な警戒。

「剛田鉄心」

 男が名を呼ぶ。声は低く、抑揚がない。

「次の相手だ。エリオット・ヴァン・クレスト」

 鉄心は包帯を巻く手を止め、相手を見上げる。蒼い瞳の奥で、微かな光が明滅している。静電気ではない。もっと根源的な——神経の芯を直接揺さぶるような圧。

「俺の雷は、氷とは違う」

 エリオットの声に、感情はない。ただ事実を述べるように、淡々と。

「避けられないし、耐えられない」

 沈黙が落ちる。控室の空気が、ぴりぴりと帯電していく。

 鉄心の肩の傷口が——痺れた。包帯の上から、ぴりっと。

 神経に、直接。

 鉄心の目が、細くなる。

 この男は、触れてもいないのに——身体の内側に干渉してくる。今までの魔法使いとは、根本的に何かが違う。

 さっきまでの感傷が、嘘のように引いていく。代わりに背筋を這い上がるのは、身体の芯が熱くなるような——闘争本能。

「じゃあ耐えてみせるよ」

 鉄心は、笑った。

「楽しみだな」

 エリオットの蒼い瞳が、一瞬だけ揺れる。何かを測るような——あるいは、理解できないものを見つめるような。

 何も言わず、男は背を向けた。扉が閉まる。

 残された控室の空気に、オゾンの残り香だけが漂う。

「……おお」

 鉄心は痺れの残る肩を押さえ、天井を仰ぐ。

 口元の笑みは消えない。だが瞳の奥に、これまでにない鋭い光が宿る。

 拳甲に手を置く。星鉄鋼の表面は冷たく沈黙している。リリアーナとの戦いで纏った蒼い光は、もう消えていた。

 次の相手は、笑っていられないかもしれない。

 ——いや。

 鉄心は拳を握り直す。

 笑って戦う。それが、剛田鉄心だ。
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