魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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決戦前夜、書斎の肖像画

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 蝋燭の炎が揺れるたび、壁にかかった肖像画の表情が変わって見えた。

 ヴァルター・グリムハルトは、書斎の革張りの椅子に深く腰を沈めたまま、その絵を見つめていた。古い油絵だ。画布の端はすでに黄ばみ、罅が走っている。

 描かれているのは——痩せ細った青年。

 頬は削げ、鎖骨が浮き出ている。だが、その目だけが異様に燃えていた。何かに飢え、何かを求め、今にも画布を食い破って飛び出してきそうな——若き日の、自分。

 書斎には古い羊皮紙と蝋の匂いが充満していた。窓の外から吹き込む夜風が、積み上げられた書物のページをかすかに揺らす。

「……似ても似つかぬな」

 ヴァルターは自嘲気味に呟いた。鏡を見るまでもない。今の自分は白髪に皺だらけの老人だ。あの頃の飢えた目など、とうに失われている——はずだった。

 引き出しに手を伸ばす。重い樫の引き出しを開けると、布に包まれた何かが音もなく転がった。

 布の端をめくる。

 金属の欠片が、蝋燭の光を受けて鈍く輝いた。星鉄鋼——あの男の拳甲と同じ、独特の蒼みを帯びた光沢。

 ヴァルターの指先が、布越しにその輪郭をなぞった。直接触れることは——まだ、できなかった。

 布越しでも伝わる冷たさが、何十年前の記憶を呼び起こす。この冷たさだけは、忘れられなかった。

「あの時の私は……」

 言いかけて、口をつぐむ。蝋燭の炎がひときわ大きく揺れ、肖像画の青年の瞳に光が宿ったように見えた。

 手甲の欠片を布で覆い直し、代わりに一通の手紙を取り出す。封蝋はすでに割れているが、紙は丁寧に保管されていた。鉄心の入学を許可した招待状——その控え。

 ヴァルターは蝋燭の炎に手紙を近づけた。

 紙の端が熱で僅かに反る。あと数寸で火が移る距離。

 ——指が、止まった。

 長い沈黙の後、手紙を再び引き出しに戻す。何度目だろう。この繰り返しは。


  ◇


 控えめなノックが、書斎の静寂を破った。

「失礼します、学院長」

 セレナ・ミスティカが入室する。手には分厚い書類の束と、何枚かの魔法記録紙。いつもの端正な表情だが、目の下にうっすらと隈がある。

「遅くまでご苦労だな。報告か」

「……はい。武闘大会の戦闘記録を整理していまして」

 セレナは書類を机に置いた。魔法記録紙に刻まれた波形が、蝋燭の光に照らされて青白く浮かび上がる。

「剛田鉄心の戦闘データに、看過できないパターンを見つけました」

「ほう」

「古代文献——『肉体練成者の技法書』第三巻に記載された筋力波動パターンと、鉄心の打撃時に計測された衝撃波が一致しています。偶然の範囲を超えています」

 セレナの声は平静だった。だが、書類を置く指先がほんの僅かに震えている。

 ヴァルターは長い沈黙を保った。蝋燭の芯が燃え尽き、ぱちりと小さな音を立てる。

「……知っている」

 セレナの息が詰まる音が聞こえた。

「ご存じ、でしたか」

「最初の裁定戦の時点で気づいておった。あの拳に宿る力の質は——魔法とは根本的に異なるものだ」

「では、なぜ——」

「なぜ放置しているか、と聞きたいのだろう」

 ヴァルターは椅子から立ち上がった。窓際まで歩き、夜空を見上げる。二つの月が、学院の尖塔を青白く照らしていた。

「明日の決勝で全てが分かる。あの男が本物かどうか」

「本物、とは」

「……理論的に説明してほしいか、セレナ」

「……いえ」

 セレナは一瞬だけ口元を歪めた。皮肉を返されるとは思わなかったのだろう。

「無理ですよね、知ってます」

 今度はヴァルターが僅かに目を細めた。この教師は時折、実に的確な一言を放つ。

「報告書は預かる。下がれ」

「はい。——学院長」

 扉に手をかけたセレナが、振り返った。

「明日、鉄心が勝った場合……学院はどうなりますか」

「……下がれと言ったぞ」

 セレナは小さく頭を下げ、書斎を出た。扉が閉まる。足音が遠ざかる。

 ヴァルターの手が、再び引き出しの手甲の欠片に伸びた。今度は布越しではなく、直接掴む。金属の冷たさが掌に染み込む。

 ——認めん。

 ——断じて認めんぞ。

 だが、その呟きはいつもより力がなかった。


  ◇


 その同じ夜風が、寮棟の屋上を吹き抜けていた。

 鉄心の短い黒髪が揺れる。石造りの手すりに腰かけ、足をぶらぶらさせている。体育座りなどしようものなら手すりが壊れそうな巨体だが、本人は気にしていない。

 二つの月が空に浮かんでいた。

 大きい方の月——「マグナス」は今夜も煌々と輝いている。だが、小さい方の「ミノル」——銀月とも呼ばれる淡い光の月——が妙だった。

 明滅している。

 蛍のように、一定の間隔で光が弱まり、また戻る。以前にも見た現象だが、今夜はその間隔が短くなっている気がする。

「……なんだろうな、あれ」

 鉄心は首を傾げた。前世——体育教師だった頃の記憶では、月が瞬くなんて聞いたことがない。大気の揺らぎとも違う。もっと根本的な、何かが不安定になっているような。

「よう、鉄心」

 屋上への扉が開き、カイルが顔を出した。片手に布袋を提げている。

「差し入れ。食堂のおばちゃんが、明日の決勝頑張れってさ」

「おう! マジか、あのおばちゃん最高だな」

 布袋の中身は焼き菓子と干し肉。鉄心は干し肉を一本取り出し、豪快に齧った。噛むほどに塩気と燻製の香りが広がる。

「緊張してないのか? 明日、決勝だぞ」

「ん? まあ、なんとかなるだろ!」

「いや、相手エリオットだぞ。あの蒼雷の——」

「うん。強えよな、あいつ。楽しみだ」

 カイルは呆れたように肩をすくめた。だが、その表情にはどこか安堵の色がある。隣に座り、二人で夜空を眺めた。

 沈黙が心地よい。遠くで夜鳥の声がする。風が運ぶ草の匂いに、微かに鉄の匂いが混じっていた。鍛冶場からだろうか。ガルドはまだ働いているのかもしれない。

「なあ、鉄心」

「ん?」

「お前って、前からそうだったのか? その……怖いもの知らずっていうか」

 鉄心は干し肉を咀嚼しながら、少し考えた。

「前の世——っていうか、前にいた街でさ。体育教……体を動かす仕事してたんだよ。まあ、色々あったけど、体動かしてりゃ大体なんとかなったんだよな」

 言い直しは自然だった。カイルも気に留めた様子はない。

「体を動かす仕事って、傭兵とか?」

「いや、もうちょっと……人に教える系っていうか。まあ、似たようなもんだ」

 鉄心は笑った。いつもの、屈託のない笑顔。視線が一瞬だけ二つの月に向かい、すぐに戻ってきた。

 前世のこと——体育館の匂い、生徒たちの声、チョークの粉——は、時折鮮明に蘇る。あの頃は、隣に誰かがいるのが当たり前だった。同僚がいて、生徒がいて、同じ言葉で笑い合えた。ここでは——カイルやガルドがいてくれる。全部をうまく説明する言葉はまだ見つからないが、別に必死に隠すほどのことでもない気がしていた。

 いつか、もう少しちゃんと話せる時が来るだろう。カイルも、ガルドも、セレナも——自分のことを信じてくれている奴らだ。急ぐ必要はない。

 ふと、思い出す。体育教師だった頃、自分はなんのために走っていたのか。自分が速くなるためじゃなかった。隣で走る生徒が、少しでも前に進めるように。そのために、自分がまず走って見せていた。

 カイルが隣で干し肉を齧っている。ガルドは鍛冶場で火を焚いている。リリアーナは——たぶん、明日の決勝に備えて眠れずにいる。

 気づけば、ここにも自分の隣で走ろうとしている奴らがいる。

「まあ、つまり——」

 鉄心は拳を軽く握り、月に向かって突き出した。

「——明日も全力でぶつかるだけだ」

「……お前、たまにまともなこと言うよな」

「たまにって何だよ」

 二人の笑い声が、夜の屋上に響いた。


  ◇


 寮棟の笑い声は、夜風に乗って学院長の書斎までは届かない。

 ヴァルターは一人、書斎の最奥——壁に埋め込まれた隠し棚の前に立っていた。

 魔法錠を三重に解除する。埃が舞い、古い紙とインクの匂いが鼻腔を刺した。何十年も開けていなかった棚だ。

 一冊の書物を取り出す。

 革装丁。背表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。だが、表紙に刻まれた名前だけは——はっきりと読めた。

 「E・グリムハルト」

 ヴァルターの指が、その名を撫でた。自分と同じ姓。血縁者の——いや。

 表紙を開く。

 最初のページに記された日付は、数百年前のものだった。だが、欄外に薄れかけた注記がある——「原典より書写す。原典の年代、大魔法革命以前」。写本だ。三千年以上前の原典から、誰かが書き写したもの。しかし、その筆跡は——。

 ヴァルターの目が見開かれた。

 蝋燭の炎が大きく揺れる。書斎の影が踊り狂う。

「まさか……あの男は……」

 震える手で、次のページをめくろうとした瞬間——書物の綴じ目から、一枚の薄い金属片が滑り落ちた。

 星鉄鋼の、欠片。

 引き出しにしまったものと——まったく同じ光沢。

 ヴァルターの喉から、掠れた息が漏れた。
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