魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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偉大なる腕の遺産

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 地下への階段を降りるたびに、空気が変わった。

 中庭の石畳に刻まれた紋様——あの渦巻く線刻が示していた場所は、噴水の基部に隠された石蓋の下だった。鉄心が片手で持ち上げた蓋の隙間から、湿った冷気が吹き上がる。壁を覆う苔が松明の光に濡れた緑を返し、古い石の表面には無数のひび割れが走っていた。何百年も、あるいは何千年も人が踏み入れなかった場所の息吹だ。

「おう、なんか地下室あるぞ」

 鉄心が階段を覗き込みながら言った。その声が反響し、想像以上に深い空間が広がっていることを教える。

「ちょっと待ちなさい! 罠があるかもしれませんのよ!」

 リリアーナが銀髪を揺らして駆け寄る。右手には既に探知魔法の紋様が淡く輝いていた。

「魔法的な罠は……ない、ですわね。けれど構造が古すぎて、崩落の危険は否定できませんわ」

「なら急いで行こうぜ。崩れる前にさ」

「それは急ぐ理由になっていませんの!」


  ◇


 合流したのは、予想外の人物だった。

 セレナ・ミスティカは腕に書類の束を抱え、中庭に現れた。その後ろにはカイルもいる。セレナの目元には薄い隈が刻まれ、徹夜で文献を読み漁った痕跡が見て取れた。

「……私も行きます」

 開口一番、セレナはそう言った。普段の疲れた口調ではなかった。声の底に、硬い決意が沈んでいる。

「セレナ先生?」リリアーナが目を瞬かせた。

「E・グリムハルトの文献を解析して、学院の設計図と照合しました。この地下空間は、建造時の図面に存在しない。つまり、学院より前からあったということです」

 セレナの指が、抱えた書類の一枚を示した。古い設計図の写し。その上に赤いインクで、彼女が書き加えた注釈がびっしりと並んでいる。

「先生、何日寝てないんすか」

 鉄心が覗き込んで眉を寄せた。セレナは視線を逸らした。

「……寝ていないとは言っていません。質問に答える義務もありません」

「目の下、すげえクマっすよ」

「……見れば分かることを、いちいち指摘しないでください」

 溜息をついたが、その唇の端が僅かに緩んだ。気づかれないほど小さく。

 四人は松明の灯りを頼りに、地下の通路へ足を踏み入れた。


  ◇


 通路の壁が、語り始めた。

 最初は模様だと思った。だが、セレナが松明を近づけた瞬間、それが文字であることがわかった。壁面いっぱいに刻まれた年代記。古代エルドラ語で記された、この場所の記憶。

「読めるんすか、これ」

「……古代語の読解は専門外ですが」セレナは壁に指を這わせた。指先が白くなるほど石の表面に押し当てられている。「この文献解析で、ある程度は」

 彼女は声に出して読み始めた。

 ——偉大なる腕の修練場、ここに建つ。

 ——肉体を極めし者、マナを己が筋繊維に宿し、いかなる魔獣をも屠る。

 ——これを「練筋」と呼ぶ。

「……『グランドール』」リリアーナが壁の一点を指さした。「ここ、この単語。何度も出てきますわ」

 セレナが目を細めた。松明の炎が揺れ、壁面の文字に生きているような陰影を与える。

「グランドール。古代エルドラ語で『偉大なる腕』」

 誰も、言葉を継げなかった。松明の炎が壁面を舐めるように揺れ、年代記の文字が明滅する。

 グランドール魔法学院。この大陸最高峰の魔法教育機関の名は——元来、肉体戦士の修練場を意味していた。

 リリアーナは唇を開いたまま、声にならない息を吐いた。碧眼が大きく見開かれている。

「嘘ではありません」セレナの声は低く、静かだった。「大魔法革命の後、この場所の歴史は書き換えられた。肉体戦士の修練場は魔法学院として再建され、壁画は塗りつぶされ、年代記は地下に封じられた」

 通路を進むほどに、壁の記述は詳細になった。修練の方法、鍛錬の段階、師弟の系譜。魔法と筋力が共存し、互いを補い合っていた時代の証。

 鉄心は黙って壁に手を置いた。冷たい石の表面の下に、かすかな振動を感じる。いや、それは振動ではなかった。自分の鼓動だ。拳甲を通して、壁に伝わる心臓の音。

「……なんか、ここ落ち着くな」

「落ち着くのはあなただけですわ!」


  ◇


 セレナの足が止まった。

 通路の途中、壁の記述が途切れた箇所。そこに立ち尽くしたまま、彼女は長い沈黙を守った。

「先生?」カイルが声をかける。

「……入学して間もない頃の授業で、私はこう言いました」

 セレナは振り返らなかった。松明を持つ手だけが、わずかに下がった。

「『公式には、魔力を持たない者がこの学院で学んだ記録は一つもありません』と」

 リリアーナが息を呑んだ。あの日の授業を覚えている。セレナが鉄心について語った、あの含みのある言い方を。

「『公式には』と含みを持たせたのは——」セレナの声が掠れた。「こうした非公式の痕跡に、以前から気づいていたからです」

 どこか遠くで、水滴が石を打つ音がした。規則正しく、冷たい音だけが通路に響く。

「知っていたんすか」

 鉄心の声に責める色はなかった。ただ、まっすぐに問うている。

 セレナの肩が小さく揺れた。松明の光が、彼女の横顔を照らす。唇を引き結び、こめかみの筋が浮き出ていた。

「……確信はありませんでした。断片的な違和感だけ。設計図の不整合、禁書庫の欠番、年代記の空白。けれど——」

 言葉が途切れた。セレナは壁に手をついた。

「教師として、確証のない推測を口にすることは——いえ、違う」

 首を横に振る。自分の言い訳を、自分で否定するように。

「怖かったんです。この壁の向こうにある真実が。知ってしまえば、もう教壇に立てなくなるかもしれないと」

 その告白は、地下通路の冷気の中でひどく生々しく響いた。

 鉄心が、どすどすと近づいた。セレナが顔を上げる間もなく、巨大な手が彼女の頭の上に置かれた。

「セレナ先生」

「……なんですか」

「ここに来たじゃないっすか。今」

 それだけだった。けれどセレナの喉が、小さく鳴った。松明を持つ手に、力が戻る。


  ◇


 最深部は、小さな書斎のような空間だった。

 埃が舞う。何十年も開かれなかった扉の向こうに、机と椅子、そして崩れかけた本棚があった。紙の腐食した匂いが鼻をつく。だが、机の上の一冊だけが、保存魔法の微かな燐光を纏って原形を保っていた。

 セレナが手を伸ばし、革表紙を開いた。

 最初のページに記された名前——E・グリムハルト。

「やはり」

 セレナの指が、ページを繰る。几帳面な筆跡で綴られた研究記録。練筋術の理論体系、実験データ、そして——

「ここ」リリアーナの声がひっくり返った。「読んでください、先生」

 セレナが朗読した。声は安定していたが、ページを押さえる指先の力が、彼女の内面を裏切っていた。

「『練筋術は、魔力枯渇後の世界における人類の唯一の希望である。しかし、この事実を公にすれば、魔法文明の根幹が揺らぐ。秩序の崩壊は、枯渇よりも早く人々を滅ぼすだろう——』」

 ページの余白に、震える筆跡で書き足されていた。他の記述とは明らかに異なる、感情を抑えきれなかった文字。

「『この知識を封じることが、世界の秩序を守る唯一の方法だ。儂は——いや、私は、自らの半生を否定する』」

 鉄心は腕を組んだまま黙っていた。難しい理屈はわからない。だが、この文字を書いた人間が何を捨てたのかは、わかる。

 机の引き出しから、古い手甲の欠片が転がり出た。星鉄鋼ではない。もっと素朴な、鍛冶師が一つ一つ叩いて作った鉄の拳甲。使い込まれて擦り減っている。

 ——鉄心の寮室の壁に刻まれていた落書き。「力は魔法だけではない」。

 あの文字を刻んだのは、若き日のヴァルター・グリムハルトだったのか。

「戻りましょう」

 セレナがノートを閉じた。その動作は丁寧で、しかし決然としていた。

「このノートを学院長に突きつけます。もう、見て見ぬふりはしない」

 四人は来た道を引き返した。出口の光が見え始めた時——

 鉄心の足が止まった。

 通路の出口に、人影があった。

 白髪。長身。杖を持たず、ただ両手を背に組んで立っている。

「見つけたか」

 ヴァルター・グリムハルトの声が、地下通路に低く響いた。

「……やはり、お前たちが見つけてしまったか」

 その目には、怒りがなかった。叱責も、威圧も。代わりにあったのは——深い皺の刻まれた目元から滲む、途方もない疲労。そして、長い長い夜がようやく明けた時のような——。

 セレナの息が止まった。ノートを抱く腕に力が入る。目の前の老人の表情に浮かんだものを、彼女は正確に読み取っていた。

 あれは、安堵だ。

 自分の秘密を暴いてくれる者を——この人は、待っていた。
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