魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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第三王女の密約

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 石壁を叩く雨音が、鉄心の耳に纏わりついて離れない。

 学院長室の窓から見える空は鉛色に沈み、修復されたばかりの結界が雨粒を弾くたびに、淡い青の燐光を散らす。あの夜から三日。結界魔力供給装置の破壊は「原因不明の事故」として処理され、ヴァルターが独自に調査を進めているはずだった。

 だが——。

「情報が出てこねえ」

 鉄心は廊下の壁に背を預け、腕を組んだ。隣でリリアーナが苛立たしげに髪を払う。

「出てこないどころの話ではありませんわ。学院の公報は『魔力供給の一時的な変動』としか発表していません。枯渇の件も、結界破壊の件も——全て、なかったことにされていますの」

 リリアーナの声が廊下に反響する。通りがかった下級生が怯えた顔で足早に去っていく。

「セレナ先生も上から口止めされたって言ってたしな。ヴァルターのじいさんが味方についたのに、何も変わらねえのかよ」

「変わらないのではなく、変えさせないのですわ」

 リリアーナの碧い瞳が鋭く細まる。

「至純派の力は、わたくしたちが思っていた以上に根深い。学院どころか、王宮にまで——ただ、王族全てが至純派に与しているわけではないと聞きますわ。第三王女が独自に辺境の調査を進めているという噂が、貴族議会の裏で囁かれていますの」

 その言葉を遮るように、廊下の奥から足音が近づく。

 フードを深く被った小柄な人影。灰色のマントは旅人のものだが、足元の靴だけが不釣り合いに上質な革で仕立てられている。鉄心は本能的に身構えた。筋肉が微かに張り詰める。

「剛田鉄心殿、リリアーナ・フォン・アルカディア殿——でお間違いないですね」

 低く抑えた声。女の声だ。

「お二方に、お目通りを願う方がおられます」

 フードの隙間から覗く瞳は、怯えと決意が入り混じっている。鉄心の鼻腔を、微かに白檀の香りがくすぐった。

 宮廷の匂いだ。


  ◇


 密使に導かれたのは、王宮の東翼——公式の間取り図には存在しない一角だった。

 壁の裏に隠された狭い通路を抜けると、蝋燭の灯りだけが揺れる小部屋に出る。黴と古い羊皮紙の匂いが鼻を刺す。かつて王族の密議に使われた部屋だと、密使は小声で教えてくれた。

 部屋の奥、簡素な椅子に腰かけた女性が立ち上がる。

 銀糸の髪が蝋燭の灯りを受けて琥珀色に揺らめき、藍色の瞳が真っ直ぐに鉄心を射抜く。年の頃は二十歳前後。華奢な体躯を質素な装いで包んでいるが、背筋の伸ばし方ひとつに生まれながらの気品がにじむ。

「お初にお目にかかります。アイリス・ヴァン・アルカディア。この国の第三王女です」

 鉄心は目を瞬いた。リリアーナが小さく息を呑む。

「ヴァン・アルカディア——王家本流の姓ですわね。わたくしたちフォン・アルカディアは分家筋ですけれど、直接お目にかかるのは初めてですわ」

「ええ。宗家と分家、血は同じでも今は別の道を歩んでいます。——殿下は不要です。ここは公式の場ではありません」

 アイリスは穏やかに微笑んだ。だが、その微笑みの下に疲労の翳が見える。目の下に薄い隈。爪を噛んだ痕。この人は、眠れない夜を幾つも越えてきたのだ——鉄心はそう直感した。

「単刀直入に申し上げます。お二人には、マナ枯死域——民が『虚無の大地』と呼ぶ領域への調査をお願いしたい」

「枯死域?」鉄心が首を傾げる。

「魔力が完全に失われた土地のことですわ」リリアーナが補足する。声に緊張が混じっている。「以前、学院の地下文書で読みました。ですが——公式には、そのような場所は存在しないことになっていますの」

「ええ。存在しないことに——されています」

 アイリスの声が、ほんの僅か震えた。

「わたくしは王族として、この国の真実にアクセスできる立場にあります。少なくとも、そう思っていました」

 彼女は椅子の肘掛けを握りしめた。その拍子に袖が僅かにずれ、手首に古い火傷の痕が覗く。治癒魔法で消せるはずの傷が、なぜ残っているのか。鉄心の視線がそこに留まったが、アイリスは気づかぬふりで話を続ける。

「三ヶ月前、地方からの報告書に異常な記述がありました。辺境の村で魔法灯が消え、結界が維持できなくなっている、と。わたくしは詳細な調査を命じようとしましたが——報告書そのものが、翌日には消えていました」

「消えた?」

「枢密院の書庫から、跡形もなく。担当官に問い合わせたところ、『そのような報告は受理していない』の一点張り。わたくしの侍女が独自に調べたところ、過去五年間で同様の報告が二十件以上——全て、握り潰されていました」

 沈黙が、蝋燭の炎を揺らす。

「王宮レベルでの隠蔽……」リリアーナの唇から、掠れた声が漏れる。

「至純派です」アイリスは断言した。「彼らにとって、魔力の衰退は存在してはならない事実。魔法こそ絶対という教義が揺らげば、彼らの権力基盤が崩壊する。だから——」

「見て見ぬふりをしてるってことか」

 鉄心の声は平坦だった。だが、組んだ腕の筋肉が盛り上がり、袖の縫い目が軋む。

「困ってる村があるのに、偉い連中が情報を潰して知らんぷりしてるってことだろ」

「……はい。その通りです」

 アイリスが鉄心の目を見つめる。

「この国には、魔法以外の力を認める勇気が必要です」

 静かな、だが芯の通った声。

「わたくしは王族として公式に動くことができません。至純派の目が光っている以上、表立った調査は潰される。ですが——非公式であれば」

 彼女がテーブルの上に革袋と古びた地図を広げた。

「資金と、枯死域への最短経路図です。公式には存在しない遠征として、真実を確かめてきていただきたい」

 扉が開き、セレナが滑り込んできた。密使から事情を聞いたらしく、顔色が悪い。

「……失礼します。お話は伺いました」

 セレナは眼鏡を押し上げ、地図に視線を落とす。

「殿下、僭越ながら申し上げます。枯死域は魔法が一切機能しない領域です。魔法使いにとっては文字通りの死地。わたくしの生徒たちを、そのような場所へ送るわけには——」

「おう」

 鉄心が口を開いた。

 たった一音。だが、部屋の空気が変わる。

「俺が行く」

「鉄心さん——」

「困ってる人がいるなら行くっきゃないだろ!」

 満面の笑顔。何の迷いもない、晴天のような顔。セレナが額を押さえ、深い溜息を吐く。

「……はぁ。知ってました。そう言うと思っていましたよ」

「よっしゃ! 魔法が効かねえ場所なら、むしろ俺の独壇場じゃねえか」

 だが——鉄心はそこで地図に視線を落とした。指先が経路をなぞる。

「ただ、力任せに突っ込むだけじゃダメだってのは、ここまでで嫌ってほど分かった。道中にどんな危険があるか、枯死域の地形がどうなってるか——全部教えてくれ。準備はちゃんとする」

 セレナが一瞬、目を見開いた。眼鏡の奥の瞳に、驚きとは違う——どこか感慨に似た光が宿る。

「……あなたがそういうことを言うとは思いませんでした。少しは成長しましたか」

「当たり前だろ。仲間連れてくんだからよ」

 リリアーナが一歩前に出た。

「わたくしも参りますわ」

「リリアーナ、あなたは魔法使いでしょう。枯死域では——」

「ええ。魔法は使えませんわね」

 リリアーナは顎を上げた。

「ですが——わたくし、最近少しだけ腕立て伏せができるようになりましたの」

 鉄心が目を丸くした。リリアーナの頬が紅潮する。

「な、なんですの、その顔は! 別にあなたの真似をしているわけでは——」

「すげえじゃん、リリアーナ! 何回できるんだ?」

「……に、二回ですわ」

「二回! 最初はそんなもんだ! 毎日続ければすぐ十回いけるぞ!」

「話を戻してください」

 セレナの冷たい声が会話を断ち切る。だが、その口元が僅かに緩んでいるのを鉄心は見逃さなかった。

 アイリスが小さく笑った。初めて見せる、年相応の少女のような笑み。

「頼もしい方々ですね。——では、この地図に記した経路で向かってください。三日後の夜明け前、東門に馬車を手配します」

「感謝するっす、アイリス……さん? なんて呼べばいいんだ?」

「アイリスで結構です」

 王女は立ち上がり、鉄心に手を差し出した。握手を交わす瞬間、鉄心の掌がアイリスの手首の火傷痕に触れる。ほんの一瞬、アイリスの瞳が揺れた。だが彼女は何も言わず、ただ力強く握り返した。

 華奢な手の、予想外に強い握力。この人も、何かと戦っているのだ。


  ◇


 王宮を出ると、雨は止んでいた。

 濡れた石畳が街灯の魔法光を映し、水溜まりの中で星が瞬いているように見える。夜風が火照った頬を冷やす。鉄心は大きく伸びをして、湿った夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「……なあ」

 三歩先を歩くリリアーナの背中に声をかける。

「二回って、ほんとにすげえんだぞ。前世で体育教師やってた時、腕立て一回もできない生徒なんていくらでもいた。ゼロから始めるってのが一番大変なんだ」

 リリアーナの足が止まる。振り返らない。

「……そんなこと、言われなくても分かっていますわ」

 声が掠れている。

 鉄心は笑って、歩き出した。セレナが小さく首を振りながら後に続く。

 三人の足音が遠ざかる。

 その背後——王宮の尖塔の影に、一つの人影が溶け込んでいた。

 黒衣の男は懐から通信の魔道具を取り出し、短く囁く。

「——対象、東の枯死域へ向かう模様。三日後、東門を出発」

 魔道具の向こうから、低い笑い声が返ってきた。


  ◇


 王宮の最奥、枢密院の地下執務室。

 壁一面の書架に古い魔導書が詰まり、蝋燭の代わりに浮遊する青白い光球が室内を照らしている。空気は冷たく乾き、インクと古紙の匂いが澱んでいる。

 執務机の前に座る男は、銀縁の眼鏡越しに通信魔道具の報告を聞き終えると、細い指で机を叩いた。

 ドラクロワ枢機卿。至純派の実力者にして、枢密院の影の支配者。

「泳がせろ」

 薄い唇が、三日月のように弧を描く。

「枯死域で消えてくれれば好都合だ。あの筋肉馬鹿の名が広まりすぎている——英雄は、悲劇的な死を遂げてこそ物語になる」

 彼は引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。粛清騎士団の紋章が押された命令書。すでに署名欄には、流麗な筆跡で名が記されている。

「だが——万が一、生きて戻るようなら」

 羽根ペンを取り、命令書の余白に一行だけ書き加える。

「奴らが枯死域を出たところを狙え」

 ペン先が羊皮紙を引っ掻く音が、地下室に細く響いた。

 ドラクロワは命令書を封筒に収め、蝋で封をする。蝋に押された紋章は、至純派の剣と杖の意匠。

 青白い光球の下で、枢機卿の影だけが不自然に揺れていた。
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