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灰の境界線、筋肉の境界線
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匂いが、消えていた。
草の匂いも、土の匂いも、朝露の湿った空気さえも。鉄心が鼻をひくつかせても、何も感じ取れない。まるで世界そのものが呼吸を止めたかのように、一行の前に広がる灰色の大地は沈黙を守っている。
「セレナ先生、あれ——境界線、ってやつか?」
鉄心が指さした先、草原と灰の大地の間に一本の線が引かれていた。緑と灰。生と死。その境目はあまりにも鮮明で、まるで誰かが定規を当てて世界を塗り分けたようだった。
セレナは腰の革袋から魔力計測器を取り出す。水晶を加工した円盤型の装置で、周囲のマナ濃度を数値化する学院の最新機器だ。針が振れ、数値が表示される。
その数値を見た瞬間、セレナの指先が強張った。
「……報告書の記録では、境界線はここから十二キロ先のはずでした」
「十二キロも手前に来てるってことか?」
ガルドが顎髭を撫でながら唸る。セレナは無言で頷き、計測器の数値をもう一度確認した。間違いではない。マナ枯死域は、報告よりも遥かに内陸側まで侵食している。
「拡大速度が異常です。半年前の調査記録と照合すると——」
言葉を切り、セレナは古地図を広げた。学院の古文書から複写したあの地図だ。端に消されかけた「ムスケラ」の文字が、朝日に薄く透ける。地図上の境界線と、今立っている位置。その差を指で測り、セレナは唇を引き結んだ。
「……想定の四倍の速度で拡大しています」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
◇
境界を越えた瞬間、世界が変わった。
足裏の感触が最初に違った。草が枯れて灰になったその地面は、砂でも土でもない。踏むと微かにきしむ、乾ききった何か。鉄心の草鞋がその上を踏むたび、かさりとも音を立てない。音すら死んでいる。
「——っ」
リリアーナが小さく息を呑んだ。二歩、三歩と灰の大地に踏み込んだ途端、膝が折れる。
「リリアーナ!」
セレナが駆け寄ろうとして、自身もよろめいた。計測器を持つ手が震え、もう片方の手で胸を押さえる。体の奥から何かが抜け落ちていく感覚——魔力が、急速に消失している。
「な、なんですの、これ……体が、重い……」
リリアーナの声が掠れる。銀髪が風に揺れるが、いつもその髪を微かに浮かせていた魔力の残滓がない。ただの髪が、重力に従って肩に落ちる。
カイルの顔から血の気が引いていた。唇が紫色に変わり、歯の根が合わない。魔法使いにとって魔力の喪失は、呼吸を奪われるに等しい。
「——落ち着きなさい、カイル」
セレナの声だけが、辛うじて平静を保っていた。計測器に目を落とす。基本感知魔法はまだ維持できる。だが攻撃魔法の発動に必要なマナ濃度には遠く及ばない。
カイルが歯を食いしばり、震える手で腰の革袋から羊皮紙と炭筆を引き抜いた。魔法式の記録術が使えないなら、手で書くしかない。青ざめた顔のまま、境界線からの歩数と地形の変化を走り書きしていく。情報を集めるという行為だけが、恐怖で竦みそうになる足を繋ぎ止めていた。
セレナは自分の掌を見つめた。指先に魔力を集中させようとする。かつては意識するまでもなく灯っていた淡い光が、今は影も形もない。
——これが、魔力なき世界。
古文書で読んだ記述が、皮膚を通じて理解に変わる。3000年前、大魔法革命以前の人類はこの感覚が「普通」だった。魔力という杖なしで立ち、歩き、戦っていた。その事実が、今ほど生々しく迫ったことはない。
「おう、なんも変わんねえな」
鉄心が首を回しながら、何でもないように言った。
全員の視線が集まる。灰色の大地に立つ鉄心の姿は、境界の手前と何一つ変わらない。堂々たる体躯、日焼けした肌、そして呑気な笑顔。魔力の消失など、端から存在しないものを失いようがないのだ。
「……あなた、本当に何も感じないんですの?」
リリアーナが地面に手をついたまま見上げる。その碧い瞳には、驚嘆と、微かな羨望が滲んでいた。
「ん? 何がだ?」
「何がだ、じゃありませんわ……!」
怒る気力も半分しか出ない。リリアーナの声は尻すぼみに消えた。
◇
ガルドが片膝をつき、自分の腰のハンマーを地面に置いた。
「おい、全員装備を出せ。今すぐじゃ」
鍛冶師の目が鋭く光る。陽気な酒好きの顔は消え、職人の表情がそこにあった。
「魔法が効かんということは、魔法鍛冶で作った装備も信用ならんということじゃ。魔力付与で強度を保っとる武器防具は、ここじゃただの飾りになりかねん」
セレナが腰の杖を差し出す。ガルドが指で弾くと、普段なら澄んだ共鳴音を返すはずの魔法杖が、鈍い音しか立てなかった。
「案の定じゃ。魔力伝導率がゼロに近い。振り回せば棒切れにはなるがの」
カイルのローブに編み込まれた防御魔法も、リリアーナの魔導書に仕込まれた速記術式も、全て機能を停止していた。ガルドが一つ一つ確認するたび、一行の顔が曇っていく。
「水筒の保冷術式も切れとるな。水は早めに飲み切った方がいい——この乾きじゃ、放っておけば半日で蒸発するぞい」
ガルドが各自の水筒を振って残量を確かめた。五人分で二日がせいぜいだ。食料の保存魔法も解けている以上、干し肉と堅パンを計画的に配分する必要がある。
「……水場の情報、まとめておきます」
カイルが羊皮紙を広げた。そこには境界を越えてからの地形が簡略に記されている。枯れた川床の位置、岩場の方角、地面の色の変化。魔法に頼れない今、手書きの地図だけが一行の目になる。
「古い地質調査の報告書に、枯死域でも地下水脈が残っている記録がありました。地表の色が濃い灰から黒に変わる地点が、地下水の兆候です」
「おう、よく調べとるのう」ガルドが感心したように頷いた。
「——で、こいつはどうじゃ」
ガルドが鉄心の拳甲に手を伸ばした。星鉄鋼の鈍い銀色が、灰の世界でも変わらぬ輝きを放っている。指で弾く。
キィン、と澄んだ金属音が枯死域に響き渡った。
「……やはりな」
ガルドの口元が綻ぶ。
「星鉄鋼は魔力を通さん金属じゃ。つまり最初から魔力に依存しとらん。この環境でも何一つ変わらんのは道理じゃぞい」
鉄心が拳甲を掲げ、軽く握る。枯死域の外と同じ、手に馴染む確かな重み。
「よっしゃ、相棒は元気だな!」
「装備に相棒はやめなさい……」セレナが額を押さえる。
だが、その目は拳甲ではなく、鉄心の腕に向けられていた。計測器の針が——基本感知魔法がかろうじて拾える微弱な反応を示している。鉄心の体表面から、極めて微量のマナが検出されている。
枯死域で、マナが。
セレナは計測器を袖の中に戻した。今はまだ、誰にも言わない。確証が得られるまで。
◇
「さて、と」
鉄心がリリアーナの前にしゃがみ込んだ。背中を向け、両手を後ろに回す。
「乗れよ」
「……は?」
「歩けねえだろ。魔力が抜けて足に力入んねえんだ、無理すんな」
リリアーナは唇を噛んだ。碧い瞳が揺れる——怒りなのか、悔しさなのか、自分でも判別がつかない。
「わ、わたくしを背負うですって!? そんな、は、破廉恥な——」
「破廉恥? おんぶの何が破廉恥なんだ?」
鉄心が本気で首を傾げる。前世で体育教師をしていた男にとって、動けない生徒を背負うのは日常の延長でしかない。
「ほら、早くしろって。このまま立ち止まってても仕方ねえだろ」
「…………」
リリアーナは周囲を見回した。セレナは辛うじて自力で立っているが、余裕はない。カイルは炭筆を止め、周囲の地形を目で追っている。目の下に隈が浮いているが、記録を続けることで恐怖を押し殺しているようだった。ガルドはドワーフの頑健な体質で持ちこたえているが、リリアーナを運ぶ余力はない。
選択肢など、最初からなかった。
「……一言でも余計なことを言ったら、氷漬けにしますわよ」
「ここじゃ魔法使えねえだろ」
「——っ、黙りなさい!」
リリアーナが鉄心の背中にしがみつく。広い。とにかく広い。自分の華奢な体が子供のように感じられるほど、その背中は大きかった。
鉄心が立ち上がる。まるで羽毛でも背負ったかのように、表情一つ変えない。
「重くねえから大丈夫だ! 全然余裕!」
「重くないは余計ですわ!!」
ガルドが喉の奥で笑いを噛み殺した。セレナは溜息をつきながらも、その光景をどこか眩しそうに見つめている。
魔力を失い、装備の大半が無力化され、灰色の荒野を進む一行。その中心で、鉄心だけが変わらない。変わりようがない。最初から何も持っていなかった男は、何も失わない。
——この男のために、星鉄鋼があるのではない。
セレナは鉄心の背中を見ながら思考する。
——この世界が魔力を失った時のために、この男がいるのだ。
古文書の記述、練筋術の理論、E・グリムハルトの研究ノート。全てが一つの結論を指し示している。だが、それを口にするにはまだ早い。
歩きながら、セレナは計測器にもう一度目を落とした。そして気づく。先ほどより、数値が変動している。鉄心に近づくほど、微弱なマナ反応が強くなる。まるで鉄心の体そのものが——
「先生、顔色悪いぞ。俺がおぶってやろうか?」
「結構です」
即答した。だが足元がふらつく。
「……すみません。ガルドさん、肩を貸していただけますか」
「おう、任せとけじゃ! 儂の肩は岩より頑丈じゃぞい!」
ガルドが隣に並び、セレナの小さな体を支える。歩幅を合わせながら、一行は枯死域の奥へと進んでいく。
灰の大地に、五人分の足跡が刻まれる。風もない世界で、その足跡はいつまでも消えずに残り続ける。
三十分ほど歩いた頃だった。
鉄心が不意に立ち止まった。
「……なんか、あったけえな」
「あったかい?」リリアーナが背中越しに聞き返す。
「うん。体の芯がぽかぽかするっつうか。筋トレ後のあの感じに似てんだけど、ちょっと違う」
セレナの目が見開かれた。計測器を確認する。鉄心の体表面のマナ反応値が——先ほどの三倍に跳ね上がっている。枯死域の中心に近づくほど、鉄心の体内の何かが反応している。
残留マナ。あるいは、それ以前の——練筋術の源。
セレナは唇を噛み、計測器をしまった。
「……剛田さん」
「ん?」
「何でもありません。進みましょう」
言わないことを選んだ。今はまだ。仮説が確信に変わるまで。
だが別の数値が、セレナの思考を凍りつかせた。
境界線の拡大速度。歩きながら定期的に計測していたその数値が、一定ではない。加速している。一時間前より今の方が速い。明日は今日より速いだろう。来週は——。
セレナの足が止まった。
「どうしたんじゃ、セレナ先生?」
ガルドが覗き込む。セレナの顔から、血の気が引いていた。
「……境界の拡大速度が、加速しています」
声が震えている。計測器を握る手の甲に、血管が浮き出ていた。
「半年前の報告では、王都到達まで三年と見積もられていました。ですがこの加速率が続けば——境界線の拡大だけで、三ヶ月で王都圏に届きます」
全員が息を呑んだ。
「何かが——枯死域の中心で、魔力を吸い続けている」
灰色の地平線の彼方。何もないはずのその場所から、世界の命が吸い取られている。
鉄心の体が、また少し温かくなった。
草の匂いも、土の匂いも、朝露の湿った空気さえも。鉄心が鼻をひくつかせても、何も感じ取れない。まるで世界そのものが呼吸を止めたかのように、一行の前に広がる灰色の大地は沈黙を守っている。
「セレナ先生、あれ——境界線、ってやつか?」
鉄心が指さした先、草原と灰の大地の間に一本の線が引かれていた。緑と灰。生と死。その境目はあまりにも鮮明で、まるで誰かが定規を当てて世界を塗り分けたようだった。
セレナは腰の革袋から魔力計測器を取り出す。水晶を加工した円盤型の装置で、周囲のマナ濃度を数値化する学院の最新機器だ。針が振れ、数値が表示される。
その数値を見た瞬間、セレナの指先が強張った。
「……報告書の記録では、境界線はここから十二キロ先のはずでした」
「十二キロも手前に来てるってことか?」
ガルドが顎髭を撫でながら唸る。セレナは無言で頷き、計測器の数値をもう一度確認した。間違いではない。マナ枯死域は、報告よりも遥かに内陸側まで侵食している。
「拡大速度が異常です。半年前の調査記録と照合すると——」
言葉を切り、セレナは古地図を広げた。学院の古文書から複写したあの地図だ。端に消されかけた「ムスケラ」の文字が、朝日に薄く透ける。地図上の境界線と、今立っている位置。その差を指で測り、セレナは唇を引き結んだ。
「……想定の四倍の速度で拡大しています」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
◇
境界を越えた瞬間、世界が変わった。
足裏の感触が最初に違った。草が枯れて灰になったその地面は、砂でも土でもない。踏むと微かにきしむ、乾ききった何か。鉄心の草鞋がその上を踏むたび、かさりとも音を立てない。音すら死んでいる。
「——っ」
リリアーナが小さく息を呑んだ。二歩、三歩と灰の大地に踏み込んだ途端、膝が折れる。
「リリアーナ!」
セレナが駆け寄ろうとして、自身もよろめいた。計測器を持つ手が震え、もう片方の手で胸を押さえる。体の奥から何かが抜け落ちていく感覚——魔力が、急速に消失している。
「な、なんですの、これ……体が、重い……」
リリアーナの声が掠れる。銀髪が風に揺れるが、いつもその髪を微かに浮かせていた魔力の残滓がない。ただの髪が、重力に従って肩に落ちる。
カイルの顔から血の気が引いていた。唇が紫色に変わり、歯の根が合わない。魔法使いにとって魔力の喪失は、呼吸を奪われるに等しい。
「——落ち着きなさい、カイル」
セレナの声だけが、辛うじて平静を保っていた。計測器に目を落とす。基本感知魔法はまだ維持できる。だが攻撃魔法の発動に必要なマナ濃度には遠く及ばない。
カイルが歯を食いしばり、震える手で腰の革袋から羊皮紙と炭筆を引き抜いた。魔法式の記録術が使えないなら、手で書くしかない。青ざめた顔のまま、境界線からの歩数と地形の変化を走り書きしていく。情報を集めるという行為だけが、恐怖で竦みそうになる足を繋ぎ止めていた。
セレナは自分の掌を見つめた。指先に魔力を集中させようとする。かつては意識するまでもなく灯っていた淡い光が、今は影も形もない。
——これが、魔力なき世界。
古文書で読んだ記述が、皮膚を通じて理解に変わる。3000年前、大魔法革命以前の人類はこの感覚が「普通」だった。魔力という杖なしで立ち、歩き、戦っていた。その事実が、今ほど生々しく迫ったことはない。
「おう、なんも変わんねえな」
鉄心が首を回しながら、何でもないように言った。
全員の視線が集まる。灰色の大地に立つ鉄心の姿は、境界の手前と何一つ変わらない。堂々たる体躯、日焼けした肌、そして呑気な笑顔。魔力の消失など、端から存在しないものを失いようがないのだ。
「……あなた、本当に何も感じないんですの?」
リリアーナが地面に手をついたまま見上げる。その碧い瞳には、驚嘆と、微かな羨望が滲んでいた。
「ん? 何がだ?」
「何がだ、じゃありませんわ……!」
怒る気力も半分しか出ない。リリアーナの声は尻すぼみに消えた。
◇
ガルドが片膝をつき、自分の腰のハンマーを地面に置いた。
「おい、全員装備を出せ。今すぐじゃ」
鍛冶師の目が鋭く光る。陽気な酒好きの顔は消え、職人の表情がそこにあった。
「魔法が効かんということは、魔法鍛冶で作った装備も信用ならんということじゃ。魔力付与で強度を保っとる武器防具は、ここじゃただの飾りになりかねん」
セレナが腰の杖を差し出す。ガルドが指で弾くと、普段なら澄んだ共鳴音を返すはずの魔法杖が、鈍い音しか立てなかった。
「案の定じゃ。魔力伝導率がゼロに近い。振り回せば棒切れにはなるがの」
カイルのローブに編み込まれた防御魔法も、リリアーナの魔導書に仕込まれた速記術式も、全て機能を停止していた。ガルドが一つ一つ確認するたび、一行の顔が曇っていく。
「水筒の保冷術式も切れとるな。水は早めに飲み切った方がいい——この乾きじゃ、放っておけば半日で蒸発するぞい」
ガルドが各自の水筒を振って残量を確かめた。五人分で二日がせいぜいだ。食料の保存魔法も解けている以上、干し肉と堅パンを計画的に配分する必要がある。
「……水場の情報、まとめておきます」
カイルが羊皮紙を広げた。そこには境界を越えてからの地形が簡略に記されている。枯れた川床の位置、岩場の方角、地面の色の変化。魔法に頼れない今、手書きの地図だけが一行の目になる。
「古い地質調査の報告書に、枯死域でも地下水脈が残っている記録がありました。地表の色が濃い灰から黒に変わる地点が、地下水の兆候です」
「おう、よく調べとるのう」ガルドが感心したように頷いた。
「——で、こいつはどうじゃ」
ガルドが鉄心の拳甲に手を伸ばした。星鉄鋼の鈍い銀色が、灰の世界でも変わらぬ輝きを放っている。指で弾く。
キィン、と澄んだ金属音が枯死域に響き渡った。
「……やはりな」
ガルドの口元が綻ぶ。
「星鉄鋼は魔力を通さん金属じゃ。つまり最初から魔力に依存しとらん。この環境でも何一つ変わらんのは道理じゃぞい」
鉄心が拳甲を掲げ、軽く握る。枯死域の外と同じ、手に馴染む確かな重み。
「よっしゃ、相棒は元気だな!」
「装備に相棒はやめなさい……」セレナが額を押さえる。
だが、その目は拳甲ではなく、鉄心の腕に向けられていた。計測器の針が——基本感知魔法がかろうじて拾える微弱な反応を示している。鉄心の体表面から、極めて微量のマナが検出されている。
枯死域で、マナが。
セレナは計測器を袖の中に戻した。今はまだ、誰にも言わない。確証が得られるまで。
◇
「さて、と」
鉄心がリリアーナの前にしゃがみ込んだ。背中を向け、両手を後ろに回す。
「乗れよ」
「……は?」
「歩けねえだろ。魔力が抜けて足に力入んねえんだ、無理すんな」
リリアーナは唇を噛んだ。碧い瞳が揺れる——怒りなのか、悔しさなのか、自分でも判別がつかない。
「わ、わたくしを背負うですって!? そんな、は、破廉恥な——」
「破廉恥? おんぶの何が破廉恥なんだ?」
鉄心が本気で首を傾げる。前世で体育教師をしていた男にとって、動けない生徒を背負うのは日常の延長でしかない。
「ほら、早くしろって。このまま立ち止まってても仕方ねえだろ」
「…………」
リリアーナは周囲を見回した。セレナは辛うじて自力で立っているが、余裕はない。カイルは炭筆を止め、周囲の地形を目で追っている。目の下に隈が浮いているが、記録を続けることで恐怖を押し殺しているようだった。ガルドはドワーフの頑健な体質で持ちこたえているが、リリアーナを運ぶ余力はない。
選択肢など、最初からなかった。
「……一言でも余計なことを言ったら、氷漬けにしますわよ」
「ここじゃ魔法使えねえだろ」
「——っ、黙りなさい!」
リリアーナが鉄心の背中にしがみつく。広い。とにかく広い。自分の華奢な体が子供のように感じられるほど、その背中は大きかった。
鉄心が立ち上がる。まるで羽毛でも背負ったかのように、表情一つ変えない。
「重くねえから大丈夫だ! 全然余裕!」
「重くないは余計ですわ!!」
ガルドが喉の奥で笑いを噛み殺した。セレナは溜息をつきながらも、その光景をどこか眩しそうに見つめている。
魔力を失い、装備の大半が無力化され、灰色の荒野を進む一行。その中心で、鉄心だけが変わらない。変わりようがない。最初から何も持っていなかった男は、何も失わない。
——この男のために、星鉄鋼があるのではない。
セレナは鉄心の背中を見ながら思考する。
——この世界が魔力を失った時のために、この男がいるのだ。
古文書の記述、練筋術の理論、E・グリムハルトの研究ノート。全てが一つの結論を指し示している。だが、それを口にするにはまだ早い。
歩きながら、セレナは計測器にもう一度目を落とした。そして気づく。先ほどより、数値が変動している。鉄心に近づくほど、微弱なマナ反応が強くなる。まるで鉄心の体そのものが——
「先生、顔色悪いぞ。俺がおぶってやろうか?」
「結構です」
即答した。だが足元がふらつく。
「……すみません。ガルドさん、肩を貸していただけますか」
「おう、任せとけじゃ! 儂の肩は岩より頑丈じゃぞい!」
ガルドが隣に並び、セレナの小さな体を支える。歩幅を合わせながら、一行は枯死域の奥へと進んでいく。
灰の大地に、五人分の足跡が刻まれる。風もない世界で、その足跡はいつまでも消えずに残り続ける。
三十分ほど歩いた頃だった。
鉄心が不意に立ち止まった。
「……なんか、あったけえな」
「あったかい?」リリアーナが背中越しに聞き返す。
「うん。体の芯がぽかぽかするっつうか。筋トレ後のあの感じに似てんだけど、ちょっと違う」
セレナの目が見開かれた。計測器を確認する。鉄心の体表面のマナ反応値が——先ほどの三倍に跳ね上がっている。枯死域の中心に近づくほど、鉄心の体内の何かが反応している。
残留マナ。あるいは、それ以前の——練筋術の源。
セレナは唇を噛み、計測器をしまった。
「……剛田さん」
「ん?」
「何でもありません。進みましょう」
言わないことを選んだ。今はまだ。仮説が確信に変わるまで。
だが別の数値が、セレナの思考を凍りつかせた。
境界線の拡大速度。歩きながら定期的に計測していたその数値が、一定ではない。加速している。一時間前より今の方が速い。明日は今日より速いだろう。来週は——。
セレナの足が止まった。
「どうしたんじゃ、セレナ先生?」
ガルドが覗き込む。セレナの顔から、血の気が引いていた。
「……境界の拡大速度が、加速しています」
声が震えている。計測器を握る手の甲に、血管が浮き出ていた。
「半年前の報告では、王都到達まで三年と見積もられていました。ですがこの加速率が続けば——境界線の拡大だけで、三ヶ月で王都圏に届きます」
全員が息を呑んだ。
「何かが——枯死域の中心で、魔力を吸い続けている」
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