魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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魔法なき身体、それでも前へ

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 乾いた風が、砂と岩の匂いを運んでくる。

 枯死域の深部に足を踏み入れて二日目。荒野を覆う灰色の大地には草一本生えておらず、空気そのものから魔力が抜け落ちていた。呼吸をするたびに喉の奥がざらつく。まるで世界が渇いて死にかけている——そんな感覚が、足の裏から這い上がってくる。

「……っ」

 リリアーナの膝が折れかけた。

 とっさに岩に手をついて、崩れ落ちるのを堪える。銀髪が額に張りつき、碧い瞳には疲労の色が濃い。

「リリアーナ、大丈夫か? おぶってやるぞ」

「結構ですわ」

 鉄心の手を払いのけ、リリアーナは唇を引き結んだ。足が震えている。それでも一歩を踏み出した。

「自分の足で歩きますの。……魔法が使えないくらいで、情けない姿は見せたくありません」

 鉄心は「そうか」と頷いただけで、歩調をリリアーナに合わせた。

 セレナが後方から二人を見守っている。手元の古地図を確認しながら、時折、空気中のマナ濃度を測ろうとして——測定魔法すら発動しないことに眉根を寄せた。

「……計測すらできません。完全な魔力ゼロ域です」

「つまり、全部自分の足でなんとかするってことだな!」

「あなたはそれが普通でしょうけど、私たちにとっては非常事態なんですよ……」

 セレナの声に疲れが滲んでいた。

 少し離れた位置を歩くカイルが、手帳に何かを書きつけている。通過した地形の特徴、岩の配置、視界の利く方角——魔法が使えない以上、自分の目と手で情報を記録するしかない。

「この辺りから地面の色が変わっています。灰色が濃くなった。枯死域の中心に近づいている証拠かもしれません」

「お、カイル、さすがだな。よく見てるじゃねえか」

「情報は武器ですから。魔法がなくても、これだけは錆びません」

 カイルはそう言って、また手帳に視線を落とした。


  ◇


 昼を過ぎた頃、一行は枯れた川床で足を止めた。

 岩陰にわずかな日陰がある。リリアーナは腰を下ろすと同時に、全身から力が抜けた。ふくらはぎが攣りそうになり、思わず顔を歪める。

 ——私は、魔法がなければ本当に何もできないの?

 幼い頃から、全てを魔法でこなしてきた。重い物は浮遊魔法で持ち上げ、長距離は転移魔法で移動し、暗闘は光球魔法で照らした。歩くことすら、足裏の疲労を回復魔法で消していた。

 その全てが、ここでは使えない。

「よし、ちょっと休憩がてら教えるか」

 鉄心が荷物を下ろし、リリアーナの前にしゃがんだ。

「教える……何をですの?」

「歩き方」

「……は?」

「いや、マジで。お前の歩き方、もったいねえんだよ。足の指で地面掴んでないだろ? あと体幹——腹にもっと力入れろ。そんでな、腕を振るのと足を出すのを連動させると、半分の体力で倍歩ける」

 リリアーナは一瞬、馬鹿にされたのかと眉を吊り上げかけた。だが、鉄心の目は真剣だった。ふざけている色は、欠片もない。

「……前の世界じゃ——」

 鉄心が言いかけて、止まった。

「前に住んでた村じゃ、山歩きが日課でさ。子供にもよく教えてたんだ」

 一瞬の間。リリアーナはその言い直しに引っかかりを覚えたが、今は追及する余裕がなかった。

「まず立って。腹に手を当てろ」

 言われるまま、リリアーナは立ち上がった。鉄心が背中側に回り、肩甲骨のあたりを軽く押す。

「背筋伸ばして——そう、顎引いて。腹にぐっと力入れる。お、いいじゃん。体幹がしっかりしてんな」

「……当然ですわ」

 小さく呟いた声に、かすかな誇りが混じった。

 ——あの日から、毎晩欠かさなかった。誰にも見られないように、自室で腕立て伏せと腹筋を繰り返した。何のためかは自分でもわからなかった。ただ、鉄心が当たり前のようにこなす「体を使うこと」が、どういうものなのか知りたかった。

 その積み重ねが、今ここで、崩れ落ちずに立っていられる理由だった。

「セレナ先生もカイルも来いよ! 火の起こし方、教えるから!」

「……生存術、ですか。これは筋肉ではなく知識の領域ですね……興味はあります」

 セレナが重い腰を上げ、鉄心の即席講座が始まった。カイルは手帳を片手に、鉄心の説明を一つ一つ書き留めている。

「カイル、メモ魔だな」

「後で見返せるようにしておかないと。魔法が戻った後でも、この知識は役に立つはずです」

 枯れ木を集めて摩擦で火を起こす方法。苔の生え方で方角を読む知恵。岩の割れ目から水を探す技術。全て、魔法とは無縁の——人間の身体と知恵だけで生きる術だった。

「すげえだろ、人間の体って。魔法なんかなくても、こんだけのことができるんだぜ」

 鉄心が火種に息を吹きかけると、乾いた草がぱちりと音を立てて燃え始めた。小さな炎が、岩陰を橙色に照らす。

 セレナが目を細めた。

「摩擦熱による着火……原理自体は単純ですが、実践するには相応の技術が要る。これは魔法に依存しない体系的な知識ですね」

 手帳を取り出し、何かを書き留め始める。研究者の本能が勝ったらしい。

 リリアーナは鉄心が起こした火の温かさに手をかざしながら、ふと思い出していた。

 ——マルコの祖父が言っていた。「昔は力持ちだった」と。あれは単なる老人の繰り言ではなかったのだ。魔力に依存する前の時代、誰もが体を使って生きていた。火を起こし、水を汲み、岩を砕き、獣を追った。

 それは恥ずべきことではなく——当たり前のことだった。


  ◇


 午後、一行の前に岩壁が立ちはだかった。

 高さは十メートルほど。迂回路を探せば半日は余計にかかる。鉄心は岩肌を見上げて、にかりと笑った。

「登るか」

「……正気ですの?」

「手がかりはある。見ろ、あそこと、あそこ。足場も十分だ。ロープは俺が先に登って上から垂らす」

 鉄心は言うが早いか、岩壁に取りつき、猿のような速度で登っていった。筋肉の塊がこれほど軽やかに動くのかと、セレナが呆然と見上げる。

 上からロープが降りてきた。

「セレナ先生、先どうぞ」

「いえ……リリアーナさん、お先に」

 リリアーナはロープを握りしめた。以前なら指先が滑っていたはずだ。毎晩続けた腕立て伏せが、いつの間にか掌を強くしていた。

 ——恥じるものですか。

 最初の一歩を岩に掛けた。腕が悲鳴を上げる。爪が欠けそうになる。それでも体幹に力を入れて、次の手がかりを掴んだ。

「いいぞリリアーナ! その調子!」

 上から鉄心の声が降ってくる。うるさいくらい明るい声。

 中腹で一度、足が滑った。心臓が跳ね上がり、指先が白くなるまでロープを握りしめた。下を見るな。上だけを見ろ。

 次の岩を掴む。引き上げる。また次。

 腕が震える。息が荒い。視界がぼやける。

 ——あと、少し。

 最後の縁に手をかけた時、上から大きな手が伸びてきた。鉄心がリリアーナの腕を掴み、軽々と引き上げる。

 岩の上に這い上がったリリアーナは、しばらく荒い呼吸を繰り返した。全身が汗で濡れている。膝が笑っている。手のひらの皮が擦り剥けて、指の付け根に硬い肉刺ができていた。

 それなのに——唇が勝手に弧を描いた。

「できた……魔法なしでも……」

 声が、かすれた。視界が滲む。こんなことで涙が出るなんて、と自分でも驚いた。十メートルの岩壁。魔法なら浮遊の術で一瞬。それを、自分の腕と足だけで登りきった。

 たったそれだけのことが、これほど胸を満たすとは。

「当たり前だろ」

 鉄心が笑っている。夕日を背負って、その巨体がやけに頼もしく見えた。

「人間の体ってのは、魔法なんかなくても凄えんだ」

 その言葉に、嘘がなかった。理屈ではなく、この男は心の底からそう信じている。

 リリアーナは擦り剥けた手のひらをそっと握った。痛い。でも、その痛みが——ひどく誇らしかった。


  ◇


 日が沈み、枯死域に冷たい夜が降りた。

 焚き火を囲んで一行が腰を下ろしている。鉄心が作った簡素な岩組みの竈に、乾いた枝がぱちぱちと爆ぜていた。炎の揺らめきが、それぞれの顔を橙と影で交互に染める。

 水は昼間に岩の割れ目から見つけた湧水を、革袋に二つ分。五人で分けるには心許ない量だった。セレナが一口ずつの配分を決め、リリアーナは喉の渇きを堪えながら自分の分を少しずつ舐めるように飲んでいた。

 カイルが焚き火の傍で手帳を広げ、一日の記録を整理している。通過した地形、岩の種類、風向きの変化——魔法の計測機器が使えない中、全てを自分の五感で拾い集めた情報だった。

「枯死域に入ってから、地面の色が三段階で変化しています。灰、暗灰、そして今日の午後からは黒に近い。中心部に向かうほど、マナの枯渇が深刻なんでしょう」

 セレナが頷いた。

「……よく見ていますね。私は計測器に頼りすぎていたかもしれません」

 鉄心が携帯食料の干し肉を人数分に切り分けながら、ふと体を揺すった。

「なんか、さっきからずっと体がぽかぽかすんだよな。枯死域って寒いはずなのに」

 セレナの目が鋭くなった。手帳にさらさらと書き込む。

「……体内の残留マナが反応している可能性がありますね。枯死域の中心部に近づくほど強まるなら、何かの共鳴現象かもしれません」

「なるほどな。筋トレした翌日に筋肉痛になんのと同じか? 体の中の何かが反応して、ぽかぽかしてんだろ」

「……なぜ全てを筋トレに結びつけるんですか」

 リリアーナが小さく笑った。いつもの「意味が分かりませんわ」とは違う、穏やかな笑みだった。

 擦り剥けた手のひらを膝の上で開き、赤く腫れた傷を眺めている。碧い瞳に、焚き火の光が映り込んでいた。

「……鉄心」

「ん?」

「今日は、その……ありがとうございましたわ」

 鉄心が目を丸くした。リリアーナが素直に礼を言うのは珍しい。

「教えていただいた、というのは癪ですけれど」と付け足す声は、いつものツンとした調子を取り繕おうとして——少しだけ、失敗していた。

「おう! リリアーナの登り方、かなり筋がよかったぞ。体幹がしっかりしてたからだな」

「——っ、そ、それは」

 リリアーナの目が泳いだ。秘密の筋トレの成果を指摘された形になり、咄嗟に言葉が出てこない。

「ま、まあ、アルカディア家の者として、基礎的な身体能力くらいは嗜みですわ」

 無理のある言い訳を並べるリリアーナに、セレナが生温い視線を向けたが、何も言わなかった。

 鉄心が空を見上げた。二つの月のうち、片方が不規則に明滅している。もう片方の月だけが煌々と輝き、荒野を青白く照らしていた。

「なあ、あれ——」

 鉄心が指差した方角に、全員の視線が集まった。

 地平線の彼方。月光が照らし出す大地の果てに——巨大な影が並んでいた。

 塔。壁。そして、崩れかけた円蓋。

 それは紛れもなく、都市のシルエットだった。

 セレナが古地図を広げた。焚き火の光で紙面を照らす指先が、小さく震えている。

「この座標……消されかけた地名があります」

 インクで塗り潰された跡を、爪の先で擦る。かすかに浮かぶ文字。

「ムスケラ……ここです」

 魔法文明が全てを塗り替える前の世界が——月光の下に、その輪郭を晒していた。
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