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辺境の悪役令嬢、領民の前に立つ
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温かい茶の湯気が顔にかかる。ヘルガが淹れてくれたハーブティー。いつもより少し濃い。ヘルガなりの気遣いだ。
「スピーチの原稿、書き直しましたの」
手元の羊皮紙を見せると、ヘルガは一瞥して鼻を鳴らした。
「原稿なんぞ、捨てなさい」
「え?」
「あんたの言葉は、原稿から出てこないでしょう。卒業式の時だって、そうだったんじゃないですかい」
——見透かされている。この人は、私が卒業式で何をしたかまで知っている。情報網が異常に広い。
「ヘルガ、あなた何者ですの」
「ただの家政婦長ですよ。お嬢様」
嘘だ。絶対に嘘だ。でも今は追及しない。
深呼吸。冷たい空気が喉の奥まで沁みる。今日は——領民に向けた集会。王都の商人への対応を翌日に控え、領地全体のビジョンを共有する必要がある。これまでの改革は個別に進めてきたが、鍛冶、鉱山、薬草園——点と点を線で繋ぎ、一つの経済圏として動かすには、全員が同じ方向を向かなければならない。
手のひらが汗ばんでいる。原稿を書いた羊皮紙が湿気で少しよれた。
前世で一度だけ、全社集会でプレゼンをしたことがある。百人の社員の前で、業績改善計画を説明した。あの時は——誰も聞いていなかった。スマホをいじるか、居眠りするか。
今日は違う。今日聞いてくれる人たちは、自分の生活がかかっている。
◇
ヘルムガルドの中央広場は、広場と呼ぶには素朴すぎる土の空き地だった。中央に古い井戸があり、その周りに石が無造作に並んでいる。地面は昨夜の霜で白く、踏むたびにパリパリと音がした。
朝日が山の稜線から差し始めた頃、人が集まり始めた。吐く息が白い。辺境の朝は、春が近づいてもまだ冬の名残を引きずっている。
ギュンターが太い腕を組んで最前列に。マルクスが端のほうで黙って立っている。オルガは薬草園の作業着のまま。ヨハンが私の隣で緊張した顔をしている。ヘルガは——少し離れた場所から見ている。
そして領民たち。百人余り。老人、中年、子供。若者は少ないが——鉱山の試掘に参加している数人が顔を見せていた。
数百人の貴族の前で婚約破棄を宣言した時より、この百人のほうが——怖い。あの時は演技だった。今日は——本気を見せなければならない。
「皆様。お忙しい中、集まっていただきありがとうございます」
令嬢口調で始めた。声が広場に響く。朝の空気が言葉を遠くまで運ぶ。
「ヘルムガルド領主代行のセラフィーナ・ヴァルトシュタインです。本日は——この領地の未来について、お話しいたしますわ」
用意した話を始めた。鉱山の再開計画。マルクスの新製法によるヘルムガルド鋼の商品化。オルガの薬草園の拡充。ギュンターの流通網を活かした直接取引による利益の最大化。利益は領民にも還元する仕組み——成果報酬と福利厚生。数字を交えて、できるだけわかりやすく説明した。
しかし——途中で言葉に詰まった。
領民たちの目が見えた。聞いてはいる。しかし表情は硬い。「また王都の人間が、綺麗事を並べている」——そういう目だった。当然だ。歴代の領主代官も、最初は立派なことを言って、結局は逃げた。
原稿が——使えない。ヘルガの言った通りだ。
私は羊皮紙を握りしめ、それから——くしゃりと丸めた。
「……すみません。今のは忘れてください」
ざわめきが起きた。ヨハンが横で目を見開いている。
私は一つ息を吸った。
「——正直に言います」
令嬢の口調が、崩れた。
「わたしは追放されてここに来ました。王都で婚約破棄をやらかして、父に怒られて、辺境に飛ばされた。格好いい理由なんかありません。ただの——厄介払いです」
静寂。広場の空気が凍りついたように動かなくなった。領民たちの目が変わった。驚きが走っている。領主が、自分の恥を公言している。どこかで鶏が鳴いた。その声だけが、静寂を破った。
「でも、ここに来て——驚きました」
マルクスを見た。
「この領地には、王都のどの工房にも負けない腕の鍛冶師がいる」
オルガを見た。
「王都では手に入らない薬草と、それを活かせる薬草師がいる」
ギュンターを見た。
「三十年この土地の商売を守ってきたギルド長がいる」
そして——領民たちを、一人一人見た。
「鋼がある。薬草がある。何より、皆さんがいる」
声が震え始めた。抑えられなかった。
「わたしは——ここを、誰も過労死しない土地にしたいんです」
過労死。この世界にはない言葉。領民たちには意味がわからなかっただろう。何人かが首を傾げた。
でも——伝わったのだと思う。言葉の意味ではなく、声の震えが。目の真剣さが。
沈黙が長く続いた。
最初に動いたのは、マルクスだった。
鍛冶場から持ってきたのだろう、ヘルムガルド鋼のインゴットを黙って頭上に掲げた。朝日が鋼の青い光沢に反射し、広場に光が走った。
言葉は一言もなかった。しかしそれは——「俺はこの女を信じる」という、職人なりの宣言だった。
次に動いたのは、ギュンターだった。
「……面白い。乗ってやろう」
太い声が広場に響いた。その声に引かれるように、領民たちの顔が——少しずつ変わり始めた。諦めが、疑念が、ほんの僅かに——希望に。
一人が頷いた。もう一人が。小さな波が、広場に広がっていく。朝日が広場全体を照らし、領民たちの顔に温かい光が当たった。霜が溶けて、土の匂いが立ち上り始めていた。
オルガが静かに涙を拭いていた。ヘルガは——遠くで腕を組んだまま、しかしその口元は確かに緩んでいた。あの毒舌の老女が見せる、最大限の賛辞だ。
ヨハンが隣で鼻をすすっている。この正直者は泣いているのか。
「……泣いてません」
「聞いてませんけど」
前世で得られなかったもの。自分を信じてくれる人たち。
部下でも上司でもない。仲間。
◇
集会が終わり、領民が散っていく。何人かが私に小さく頭を下げた。昨日まではなかった挨拶だ。薬草園の整地で一緒に鍬を振った老人が、「頑張りなさいよ」と声をかけてくれた。
高揚と安堵が入り混じる中、ヨハンが近づいてきた。その顔が——妙に強張っている。
「セラフィーナ様、あの……」
「どうしましたの?」
「遠くに馬車の列が見えるのですが」
ヨハンが指差した方角を見た。
街道の向こう。砂塵を上げて近づいてくる馬車の列。昨日ヘルガが言っていた王都の商人——だが。
馬車に掲げられた紋章が、朝日の光を受けて金色に輝いた。
商業ギルドの紋章ではなかった。
金の獅子と銀の鷲。
——王家の紋章。
心臓が止まったかと思った。
なぜ。なぜ、今。なぜ——。
「……嘘でしょ」
令嬢の仮面が剥がれた。素の口調が飛び出した。
「ちょっと待って、なんで王太子がここに来るんですか!?」
ヨハンが目を丸くしている。広場に残っていた領民数人が振り返る。ギュンターが眉を上げた。マルクスが腕を組んだ。
回避した。全力で回避したはずだった。
攻略対象との接触を断ち、辺境まで逃げてきた。馬車で十日の距離。この世界で可能な限り遠くまで。
なのに——追いかけてきた。
冷たい風が吹いた。さっきまでの高揚感が、一瞬で吹き飛んだ。背筋に氷の指を押し当てられたような寒気が走る。
金色の紋章が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。馬車の車輪が砂利を踏む音が、広場にまで聞こえてきた。
処刑エンド回避計画。第一アーク「辞表を叩きつける」編——完結。
しかし物語は、ここからが本当の始まりだった。
「スピーチの原稿、書き直しましたの」
手元の羊皮紙を見せると、ヘルガは一瞥して鼻を鳴らした。
「原稿なんぞ、捨てなさい」
「え?」
「あんたの言葉は、原稿から出てこないでしょう。卒業式の時だって、そうだったんじゃないですかい」
——見透かされている。この人は、私が卒業式で何をしたかまで知っている。情報網が異常に広い。
「ヘルガ、あなた何者ですの」
「ただの家政婦長ですよ。お嬢様」
嘘だ。絶対に嘘だ。でも今は追及しない。
深呼吸。冷たい空気が喉の奥まで沁みる。今日は——領民に向けた集会。王都の商人への対応を翌日に控え、領地全体のビジョンを共有する必要がある。これまでの改革は個別に進めてきたが、鍛冶、鉱山、薬草園——点と点を線で繋ぎ、一つの経済圏として動かすには、全員が同じ方向を向かなければならない。
手のひらが汗ばんでいる。原稿を書いた羊皮紙が湿気で少しよれた。
前世で一度だけ、全社集会でプレゼンをしたことがある。百人の社員の前で、業績改善計画を説明した。あの時は——誰も聞いていなかった。スマホをいじるか、居眠りするか。
今日は違う。今日聞いてくれる人たちは、自分の生活がかかっている。
◇
ヘルムガルドの中央広場は、広場と呼ぶには素朴すぎる土の空き地だった。中央に古い井戸があり、その周りに石が無造作に並んでいる。地面は昨夜の霜で白く、踏むたびにパリパリと音がした。
朝日が山の稜線から差し始めた頃、人が集まり始めた。吐く息が白い。辺境の朝は、春が近づいてもまだ冬の名残を引きずっている。
ギュンターが太い腕を組んで最前列に。マルクスが端のほうで黙って立っている。オルガは薬草園の作業着のまま。ヨハンが私の隣で緊張した顔をしている。ヘルガは——少し離れた場所から見ている。
そして領民たち。百人余り。老人、中年、子供。若者は少ないが——鉱山の試掘に参加している数人が顔を見せていた。
数百人の貴族の前で婚約破棄を宣言した時より、この百人のほうが——怖い。あの時は演技だった。今日は——本気を見せなければならない。
「皆様。お忙しい中、集まっていただきありがとうございます」
令嬢口調で始めた。声が広場に響く。朝の空気が言葉を遠くまで運ぶ。
「ヘルムガルド領主代行のセラフィーナ・ヴァルトシュタインです。本日は——この領地の未来について、お話しいたしますわ」
用意した話を始めた。鉱山の再開計画。マルクスの新製法によるヘルムガルド鋼の商品化。オルガの薬草園の拡充。ギュンターの流通網を活かした直接取引による利益の最大化。利益は領民にも還元する仕組み——成果報酬と福利厚生。数字を交えて、できるだけわかりやすく説明した。
しかし——途中で言葉に詰まった。
領民たちの目が見えた。聞いてはいる。しかし表情は硬い。「また王都の人間が、綺麗事を並べている」——そういう目だった。当然だ。歴代の領主代官も、最初は立派なことを言って、結局は逃げた。
原稿が——使えない。ヘルガの言った通りだ。
私は羊皮紙を握りしめ、それから——くしゃりと丸めた。
「……すみません。今のは忘れてください」
ざわめきが起きた。ヨハンが横で目を見開いている。
私は一つ息を吸った。
「——正直に言います」
令嬢の口調が、崩れた。
「わたしは追放されてここに来ました。王都で婚約破棄をやらかして、父に怒られて、辺境に飛ばされた。格好いい理由なんかありません。ただの——厄介払いです」
静寂。広場の空気が凍りついたように動かなくなった。領民たちの目が変わった。驚きが走っている。領主が、自分の恥を公言している。どこかで鶏が鳴いた。その声だけが、静寂を破った。
「でも、ここに来て——驚きました」
マルクスを見た。
「この領地には、王都のどの工房にも負けない腕の鍛冶師がいる」
オルガを見た。
「王都では手に入らない薬草と、それを活かせる薬草師がいる」
ギュンターを見た。
「三十年この土地の商売を守ってきたギルド長がいる」
そして——領民たちを、一人一人見た。
「鋼がある。薬草がある。何より、皆さんがいる」
声が震え始めた。抑えられなかった。
「わたしは——ここを、誰も過労死しない土地にしたいんです」
過労死。この世界にはない言葉。領民たちには意味がわからなかっただろう。何人かが首を傾げた。
でも——伝わったのだと思う。言葉の意味ではなく、声の震えが。目の真剣さが。
沈黙が長く続いた。
最初に動いたのは、マルクスだった。
鍛冶場から持ってきたのだろう、ヘルムガルド鋼のインゴットを黙って頭上に掲げた。朝日が鋼の青い光沢に反射し、広場に光が走った。
言葉は一言もなかった。しかしそれは——「俺はこの女を信じる」という、職人なりの宣言だった。
次に動いたのは、ギュンターだった。
「……面白い。乗ってやろう」
太い声が広場に響いた。その声に引かれるように、領民たちの顔が——少しずつ変わり始めた。諦めが、疑念が、ほんの僅かに——希望に。
一人が頷いた。もう一人が。小さな波が、広場に広がっていく。朝日が広場全体を照らし、領民たちの顔に温かい光が当たった。霜が溶けて、土の匂いが立ち上り始めていた。
オルガが静かに涙を拭いていた。ヘルガは——遠くで腕を組んだまま、しかしその口元は確かに緩んでいた。あの毒舌の老女が見せる、最大限の賛辞だ。
ヨハンが隣で鼻をすすっている。この正直者は泣いているのか。
「……泣いてません」
「聞いてませんけど」
前世で得られなかったもの。自分を信じてくれる人たち。
部下でも上司でもない。仲間。
◇
集会が終わり、領民が散っていく。何人かが私に小さく頭を下げた。昨日まではなかった挨拶だ。薬草園の整地で一緒に鍬を振った老人が、「頑張りなさいよ」と声をかけてくれた。
高揚と安堵が入り混じる中、ヨハンが近づいてきた。その顔が——妙に強張っている。
「セラフィーナ様、あの……」
「どうしましたの?」
「遠くに馬車の列が見えるのですが」
ヨハンが指差した方角を見た。
街道の向こう。砂塵を上げて近づいてくる馬車の列。昨日ヘルガが言っていた王都の商人——だが。
馬車に掲げられた紋章が、朝日の光を受けて金色に輝いた。
商業ギルドの紋章ではなかった。
金の獅子と銀の鷲。
——王家の紋章。
心臓が止まったかと思った。
なぜ。なぜ、今。なぜ——。
「……嘘でしょ」
令嬢の仮面が剥がれた。素の口調が飛び出した。
「ちょっと待って、なんで王太子がここに来るんですか!?」
ヨハンが目を丸くしている。広場に残っていた領民数人が振り返る。ギュンターが眉を上げた。マルクスが腕を組んだ。
回避した。全力で回避したはずだった。
攻略対象との接触を断ち、辺境まで逃げてきた。馬車で十日の距離。この世界で可能な限り遠くまで。
なのに——追いかけてきた。
冷たい風が吹いた。さっきまでの高揚感が、一瞬で吹き飛んだ。背筋に氷の指を押し当てられたような寒気が走る。
金色の紋章が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。馬車の車輪が砂利を踏む音が、広場にまで聞こえてきた。
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