処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが

ポポリーナ

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嵐の前——それぞれの決断

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「一つ。ノーヴァル商会が王都のギルド評議会で辺境の直接取引を問題視する決議を通した。上奏文が王宮に提出されている」

 想定の範囲内だ。ギュンターが予言した通り、政治で来た。

「二つ。商務大臣の息子カーティスが、辺境に関する調査を議会に要請した。監査の動きが出るかもしれん」

 これはまずい。監査が入れば、帳簿を開示しなければならない。帳簿自体は完璧だが、複式簿記はこの世界の標準ではない。「認められていない会計手法」と難癖をつけられる可能性がある。

「三つ——」

 ギュンターの声が一段低くなった。

「王太子レオンハルトが、辺境への視察を準備しているという噂がある」

 三つ目。これが一番厄介だ。

 ノーヴァルの政治攻撃と、レオンハルトの視察が同時に来る。偶然ではないだろう。レオンハルトが辺境に来ることで、ノーヴァルは「王太子が勘当された令嬢に肩入れしている」という政治的スキャンダルを作れる。

「セラフィーナ様、これは——罠ですか?」

 ヨハンの声が強張っている。

「罠かもしれないし、偶然かもしれない。レオンハルト殿下が自分の意志で来るのか、ノーヴァルに誘導されているのかで意味が変わりますわ」

「いずれにせよ、備えは必要だ」

 ギュンターが地図を広げた。辺境経済圏の構想図。四つの領地を結ぶ交易路。

「ヴォルフスハイムのクラウスは味方だ。ブレンタールは来月の商談次第。アイゼンベルクはまだ動いていない。三本の柱のうち、確実なのは一本だけだ」

「一本でも——あるのとないのでは違いますわ」

 ギュンターが頷いた。太い腕を組み、目を閉じた。計算している。三十年分の経験と、今手にしている情報を掛け合わせて、最悪のシナリオを描いている。

「あんた、最悪の場合を想定しているか」

「しています。ノーヴァルが政治と商業の両面で攻めてきて、レオンハルト殿下の視察が混乱を招き、辺境経済圏の構想が頓挫する。最悪の場合——領地経営権そのものを問題にされる可能性がありますわ」

「勘当された公爵令嬢に経営権があるのかと」

「法的には曖昧です。父が辺境に送ったのは懲罰であって、正式な領地委譲ではない。その隙を突かれれば——」

 ギュンターが立ち上がった。

「証拠を固めろ。あんたがこの領地にとって不可欠な存在だという証拠を。帳簿を完璧にし、取引記録を文書化し、領民の署名を集めろ。法律で来るなら、法律で返す」

「前世の——書物でも、そう書いてありましたわ。正しい帳簿は最強の武器だと」

「ふん。いい書物だ」


  ◇


 ヘルガがお茶を運んできた。ギュンターとの会議が終わった後の、静かな時間。

「お嬢様、穏やかな日々も終わりですかね」

「穏やかだったことがありましたかしら」

「薬草園の開園式は、穏やかでしたよ。領民が笑って、子供が走り回って。あたしはああいう日がもう少し続くといいと思っていたんですがね」

 ヘルガの声が珍しく柔らかかった。この人は、穏やかな日々を知っている。そして——それが簡単に壊れることも知っている。

「ヘルガさん。以前、この領地に王都から人が来たとおっしゃいましたわね。取引を持ちかけて、搾り取って、最後に全部持っていくと」

「ええ」

「今回は同じにさせません。そのために——少し忙しくなりますけれど」

「知ってますよ。お嬢様が『少し忙しくなる』と言う時は、大抵とんでもないことになりますからね」

 否定できなかった。

 その日から、戦時体制に入った。

 私は帳簿の完全な写しを三部作成した。一部は領主館の金庫。一部はギュンターに預託。一部はヴォルフスハイムのクラウスに送付。万が一、領主館が監査で押さえられても、帳簿の証拠は外部に残る。前世で粉飾決算を摘発した時に学んだ手法だ。証拠は分散して保管する。

 ヨハンには取引記録の文書化を任せた。ヴォルフスハイム領との契約書、鉱山の採掘量記録、薬草園の生産記録、成果報酬制の支払い台帳。全てに日付と署名を入れ、改竄できない形に整える。

「セラフィーナ様、この量を——」

「二日でやってくださいませ。ヨハン、あなたの正確さを信じています」

「……はい」

 ヨハンの返事に迷いはなかった。この従者は、追い込まれた時に一番頼りになる。

 マルクスには増産ではなく品質の維持を指示した。

「今は量より質ですわ。一本の不良品が、全ての信用を壊しかねません」

「言われんでもわかっている」

 マルクスの返事。いつも通りだが、ラウルが横で「はい、親方」と復唱したのは新しい光景だった。

 オルガには薬草園の記録を整備してもらった。どの薬草がどの患者に処方され、効果はどうだったか。医療記録だ。前世の病院のカルテと同じ発想。

「セラフィーナ様、こんなに詳しい記録が必要ですか?」

「必要です。薬草園が領民の健康に貢献している証拠になります。誰かがこの薬草園を閉じようとした時、この記録が武器になるんですわ」

 オルガの目が鋭くなった。この人は「武器」という言葉に反応した。亡き夫の夢の場所を守るためなら、この穏やかな薬草師も戦える。

「それと、聖光草の件ですが」

「何か変化が?」

「三株のうち一株が——花をつけました。移植から一ヶ月で開花するのは、自然界では考えられない速度です。何か、この土地の環境が聖光草の成長を促進しているようです」

 地下の魔力脈。封鎖された坑道。甘い匂い。全てが繋がっている気がする。しかし今は、聖光草の秘密に踏み込む余裕がない。ノーヴァルとの戦いが先だ。

「聖光草の件は引き続き秘密に。そして——記録だけは続けてください」

「わかっています」

 ヘルガが領民の署名集めを買って出た。

「この領地で、あたしの顔を知らない人間はいませんからね。『領主様を支持する』と書いてもらうくらい、朝飯前ですよ」

「強制は——」

「しませんよ。ただ事実を伝えるだけです。あのお嬢様が来てから、井戸ができた。学校ができた。鍛冶場が活気づいた。薬草園で薬が手に入るようになった。——それを知っている領民に、署名を頼むだけです」

 ヘルガの目に、戦う光があった。この人は侍女長であると同時に、この領地の生き字引だ。何十年もの衰退を見守ってきた人間が、ようやく希望を見つけた。その希望を奪われてたまるかという目だ。

 三日で百五十人の署名が集まった。二千三百人の領地で百五十人。約七パーセント。前世の選挙で言えば高い投票率ではないが、自発的な署名としては驚異的な数字だ。


  ◇


 夜。一人で父アルベルトへの報告書を書いていた。

 数字は完璧に整えた。鉱山の採掘量。鍛冶場の生産高。薬草園の収穫量。取引の売上と利益。人口の推移。税収の予測。全ての数字に根拠を付記し、検証可能な形にした。

 しかし——何を書くかよりも、何を書かないかの方が重要だった。

 聖光草のことは書かない。封鎖された坑道のことも。ギュンターの帳簿のことも。辺境経済圏の構想も。これらは全て、外に漏れれば武器にされる情報だ。

 父に見せるのは成果だけ。手の内は見せない。

 ペンを走らせながら、ナターリアのことを考えた。あの手紙の追伸。「レオンハルト殿下が視察を検討している」。ナターリアはそれを警告として伝えてくれた。異母妹は、姉の味方だ。

 問題は父だ。アルベルト・ヴァルトシュタイン。宰相。この男が辺境の報告書を読んでいるのは、娘を心配しているからではない。辺境の成功を政治的にどう利用するか、計算しているのだ。

 ヘルガの言葉が蘇る。「旦那様は不器用な方ですからね。心配している時ほど、命令口調になる」。もしそれが本当なら——父は心配と政治的計算を、同時にやっている。器用なのか不器用なのかわからない人だ。

 報告書の最後に一行だけ、私信を添えた。

 『父上。ヘルムガルドは、ヴァルトシュタインの名に恥じない領地になりつつあります。』

 挑発だ。しかし同時に、事実でもある。この一行を読んだ父がどう反応するか。怒るか。笑うか。それとも——何も言わずに握り潰すか。

 どれでもいい。大事なのは、辺境が結果を出しているという事実が王都に届くことだ。

 封蝋を押した。鉄の薔薇の印。マルクスが作った、私だけの印章。

 窓の外を見た。北の空に雲が集まっている。明日は雨かもしれない。

 嵐が来る。比喩ではなく、本当に。ノーヴァルの政治攻撃。レオンハルトの視察。父の思惑。三つの風が同時に吹き込めば、辺境は揺れる。

 でも——揺れたところで、根は抜けない。

 この半年で、ヘルムガルドの根は深くなった。マルクスの鋼。オルガの薬草。ギュンターの流通網。ヨハンの忠誠。ヘルガの知恵。そして——二千三百人の領民の暮らし。

 前世では、一人で嵐に耐えようとして死んだ。今世は違う。一人じゃない。

 蝋燭を消す前に、ヘルガが持ってきたホットミルクを飲み干した。甘い。温かい。この味を守るために、明日も帳簿を開く。

 嵐の準備は——整った。

 あとは来るものを、正面から受け止めるだけだ。前世のように逃げない。前世のように一人で抱え込まない。

 ヨハンが最後の取引記録を持って来た。

「セラフィーナ様、全て整いました」

「ありがとう、ヨハン。……よく二日で仕上げましたわね」

「セラフィーナ様を信じているからです。——この帳簿が、誰にも文句を言わせない証拠になると」

 ヨハンの耳が赤い。しかし声は真剣だった。

 帳簿を受け取った。ずしりと重い。数字の重み。信頼の重み。半年分の努力が、この紙束の中に詰まっている。

 大事に金庫に収めた。鍵をかけた。この鍵は——自分の命と同じくらい大切だ。
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