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ゲームにはなかった夕暮れ
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領民の子供たち——五人ほどが、木剣を握ってレオンハルトの前に並んでいる。王太子が辺境の子供に剣を教えるという異常事態に、最初は誰もが目を丸くしていた。しかし今、三日目になると、子供たちは完全に懐いている。
「腰を落とせ! 足は肩幅に。剣は——もっと軽く握れ。力を入れすぎると振りが遅くなる」
レオンハルトの声は普段の王太子のそれとは違っていた。威厳よりも熱量。命令よりも導き。教えることが、この男は好きなのだ。知らなかった。
「殿下、殿下! こうですか!」
一番小さな男の子が木剣を振り回して、自分の足に当てた。痛がって地面に転がる。砂埃が舞い上がった。レオンハルトが片膝をつき、砂だらけの頬を手で払いながら「泣くな。痛みを知った者は強くなれる。余も子供の頃は毎日転んでいた」と低い声で言った。男の子が目を丸くし、泣きやんで、鼻を擦りながら頷いた。
訓練場の隅で、ルキウスが黙々と防壁の修繕を手伝っていた。石を積み、隙間を埋め、モルタルを塗る。近衛騎士団長が石工の仕事をしている。
「ルキウス殿、手伝いはよいのですか」
「防壁の構造を知らずに警備計画は立てられない。自分の手で触った方が早い」
汗が額を伝っていた。琥珀の目は石壁に集中している。一つ一つの石の噛み合わせを指先で確かめる様は、剣を研ぐ時と同じ真剣さだった。
領民の石工がルキウスに話しかけた。最初は身分の差に怯えていたが、ルキウスが「ここの目地が甘い。石の重心がずれている。やり直せ」と技術的な指摘をすると、石工の目が変わった。わかる人間の目だ、と。それからは二人で黙々と石を積んでいた。言葉は少ないが、手仕事を共有する者同士の静かな信頼がそこにあった。
ルキウスの背中に午後の日差しが当たっている。汗で濡れた髪が首筋に張り付き、普段の鎧姿とはまるで別人のようだ。この人も「騎士」の前に「人間」なのだと、当たり前のことを改めて思い知る。
鍛冶場の方角から、マルクスのハンマーの音が規則正しく響いている。その音に合わせるように、子供たちの木剣がぶつかる軽い音が重なる。辺境の昼下がりの音楽だ。
◇
薬草園の温室。ガラス越しの午後の光が、柔らかな影を作っている。
エミルとリリアーヌが、聖光草の前に並んで座っていた。
「この発光現象は魔力共鳴の一種ですが——興味深いのは、人が近づくと光量が変化する点です」
エミルが手を聖光草に近づけた。淡い光が強くなる。遠ざけると、元に戻る。
「リリアーヌ殿、よろしければ試してみてください」
「え、私ですか?」
リリアーヌが恐る恐る手を伸ばした。指先が葉に近づいた瞬間——光が一際強く輝いた。エミルの時の倍以上。
「あ——わぁ……きれい」
「面白いですね」
エミルの目が光った。学者の目。しかしリリアーヌを怖がらせない程度に穏やかな声を保っている。この男なりの優しさなのだろう。
オルガが横から口を添えた。
「リリアーヌちゃんが来てから、聖光草の成長が早くなった気がするんですよ。気のせいかもしれないけれど」
気のせいではない、とエミルは思っているだろう。聖女の力と竜脈と聖光草。三つの線が、この温室で交差している。
私は少し離れた場所で、三人の姿を眺めていた。エミルが専門知識を惜しみなく共有し、リリアーヌが目を輝かせて質問し、オルガが経験からの知恵を添える。穏やかな知的交流。ゲームのイベントにはない、自然な人間関係の風景。
ヨハンが横で「いい雰囲気ですね」と小声で言った。
「ええ、本当に」
「セラフィーナ様も入られたらいかがですか」
「……私は見ている方が好きなんですの」
嘘だ。入りたい。しかし入ってしまったら、もう「観察者」ではいられなくなる。ゲームの外側から眺める安全な位置を手放すことになる。
温室のハーブの香りが、午後の空気に溶けている。この匂いを、いつか懐かしいと思う日が来るのだろうか。
◇
夕暮れの広場。
買い出しの帰り道で、偶然レオンハルトと出会った。彼も訓練場から戻るところだったらしく、額に薄っすらと汗が光っている。碧い目が夕日に染まって、深い緑に見えた。
「セラフィーナ」
「殿下。今日もお疲れ様でしたわ」
「余が疲れるような訓練ではない。子供相手だぞ」
そう言いながら、口元が緩んでいる。楽しかったのだ。王太子として公務に追われる日々にはない、素朴な充足感。
二人で広場を歩いた。夕陽が辺境の家々を赤く染めている。煙突から立ち上る夕餉の煙。帰路を急ぐ農民の足音。犬の遠吠え。日常の音だ。
「殿下は——子供に教えるのが得意ですのね」
「意外か」
「正直に申しますと、はい」
レオンハルトが小さく笑った。王太子の笑い方ではなく、一人の青年の笑い方だった。
「王宮では、余に何かを教わりたいという人間はいない。皆、余に何かを教えたがる。礼儀作法、政務、外交術——教わるばかりで、教えることはなかった。教えるというのは、不思議なものだな。相手の成長を見ると、自分も成長した気になる」
その瞳が遠くを見ている。王宮の重圧から離れた場所で初めて、この人は自分の言葉で話している。
そうか。この人は、初めて「教える」喜びを知ったのだ。帳簿の時もそうだった。新しいことを学び、それを誰かに伝える。その循環が、レオンハルトの中で凝り固まっていた何かを解きほぐしている。王太子としてではなく、一人の人間として生きる時間の尊さを。
「ここは——」
レオンハルトが足を止めた。靴底が石畳を擦る音がした。夕陽の中で、広場を見渡した。領民の子供が手を振りながら走っていく。鍛冶場のマルクスが弟子と笑い合いながら道具を片付けている。薬草園の温室のガラスが夕焼けを反射して、金色に光っている。
「——余が知る王国の中で、最も温かい場所だ」
以前も聞いた言葉。しかし今日の声は、以前よりも深かった。確信が増している。この場所への想いが——いや、この場所にいる人々への想いが。
二人の影が、広場の石畳の上で長く伸びていた。夕陽が影を繋げている。しかし二人の間には、見えない距離がある。王太子と元婚約者。攻略対象と悪役令嬢。ゲームが引いた境界線。
「殿下、そろそろ——」
「ああ。……すまない、引き留めた」
引き留めたのは私の方だ。立ち去る勇気がなかった。この夕暮れの温かさの中に、もう少しだけいたかった。
レオンハルトの背中が遠ざかっていく。王太子の背中ではなく、一人の青年の背中だった。肩が少しだけ丸い。疲れているのだろう。それでもこの辺境にいたいと思ってくれている。
夕焼けの空が、紫に変わり始めていた。一番星が東の空に光っている。
◇
夜。一人になった寝室。天蓋に月光が差し込んでいる。
シーツは冷たい。窓の外で虫が鳴いている。体は疲れているはずなのに、眠れない。
今日一日の光景が、瞼の裏で回っている。子供に剣を教えるレオンハルト。石壁を積むルキウス。聖光草と微笑むエミル。目を輝かせるリリアーヌ。
全員が——生きている。呼吸している。笑っている。この辺境で、それぞれの時間を過ごしている。
「……やばい」
天蓋に向かって呟いた。声が暗く静かな寝室に吸い込まれていく。
「あの人たちのこと、ゲームのキャラだと思えなくなってきた」
処刑エンド回避の大前提は、「攻略対象はゲームのキャラクターであり、感情移入してはならない」だった。距離を取る。利用する。そして回避する。それが前世から持ち込んだ唯一の武器——メタ知識を活かすための大前提だった。
しかし——レオンハルトの笑顔を見ると胸が暖かくなる。ルキウスの不器用な優しさに安心する。エミルの知性に感嘆する。リリアーヌの純粋さに心が洗われる。ヨハンの忠実さに救われる。ヘルガの毒舌に笑ってしまう。ギュンターの覚悟に勇気をもらう。
感情移入している。完全に。取り返しがつかないほどに。
前世では、人を大切に思う余裕がなかった。過労の日々の中で、同僚も上司もただの「機能」に見えていた。感情を殺して数字を追い、疲れ果てて倒れた。
今世では——感情が溢れている。止め方がわからない。
月光がシーツの上に白い模様を描いている。冷たい光だ。しかしその冷たさが、今は——一人でいることの代償のように感じられた。
戦略の根幹が、揺らいでいる。そして揺らいでいることが——怖いのに、少しだけ、嬉しい。
「腰を落とせ! 足は肩幅に。剣は——もっと軽く握れ。力を入れすぎると振りが遅くなる」
レオンハルトの声は普段の王太子のそれとは違っていた。威厳よりも熱量。命令よりも導き。教えることが、この男は好きなのだ。知らなかった。
「殿下、殿下! こうですか!」
一番小さな男の子が木剣を振り回して、自分の足に当てた。痛がって地面に転がる。砂埃が舞い上がった。レオンハルトが片膝をつき、砂だらけの頬を手で払いながら「泣くな。痛みを知った者は強くなれる。余も子供の頃は毎日転んでいた」と低い声で言った。男の子が目を丸くし、泣きやんで、鼻を擦りながら頷いた。
訓練場の隅で、ルキウスが黙々と防壁の修繕を手伝っていた。石を積み、隙間を埋め、モルタルを塗る。近衛騎士団長が石工の仕事をしている。
「ルキウス殿、手伝いはよいのですか」
「防壁の構造を知らずに警備計画は立てられない。自分の手で触った方が早い」
汗が額を伝っていた。琥珀の目は石壁に集中している。一つ一つの石の噛み合わせを指先で確かめる様は、剣を研ぐ時と同じ真剣さだった。
領民の石工がルキウスに話しかけた。最初は身分の差に怯えていたが、ルキウスが「ここの目地が甘い。石の重心がずれている。やり直せ」と技術的な指摘をすると、石工の目が変わった。わかる人間の目だ、と。それからは二人で黙々と石を積んでいた。言葉は少ないが、手仕事を共有する者同士の静かな信頼がそこにあった。
ルキウスの背中に午後の日差しが当たっている。汗で濡れた髪が首筋に張り付き、普段の鎧姿とはまるで別人のようだ。この人も「騎士」の前に「人間」なのだと、当たり前のことを改めて思い知る。
鍛冶場の方角から、マルクスのハンマーの音が規則正しく響いている。その音に合わせるように、子供たちの木剣がぶつかる軽い音が重なる。辺境の昼下がりの音楽だ。
◇
薬草園の温室。ガラス越しの午後の光が、柔らかな影を作っている。
エミルとリリアーヌが、聖光草の前に並んで座っていた。
「この発光現象は魔力共鳴の一種ですが——興味深いのは、人が近づくと光量が変化する点です」
エミルが手を聖光草に近づけた。淡い光が強くなる。遠ざけると、元に戻る。
「リリアーヌ殿、よろしければ試してみてください」
「え、私ですか?」
リリアーヌが恐る恐る手を伸ばした。指先が葉に近づいた瞬間——光が一際強く輝いた。エミルの時の倍以上。
「あ——わぁ……きれい」
「面白いですね」
エミルの目が光った。学者の目。しかしリリアーヌを怖がらせない程度に穏やかな声を保っている。この男なりの優しさなのだろう。
オルガが横から口を添えた。
「リリアーヌちゃんが来てから、聖光草の成長が早くなった気がするんですよ。気のせいかもしれないけれど」
気のせいではない、とエミルは思っているだろう。聖女の力と竜脈と聖光草。三つの線が、この温室で交差している。
私は少し離れた場所で、三人の姿を眺めていた。エミルが専門知識を惜しみなく共有し、リリアーヌが目を輝かせて質問し、オルガが経験からの知恵を添える。穏やかな知的交流。ゲームのイベントにはない、自然な人間関係の風景。
ヨハンが横で「いい雰囲気ですね」と小声で言った。
「ええ、本当に」
「セラフィーナ様も入られたらいかがですか」
「……私は見ている方が好きなんですの」
嘘だ。入りたい。しかし入ってしまったら、もう「観察者」ではいられなくなる。ゲームの外側から眺める安全な位置を手放すことになる。
温室のハーブの香りが、午後の空気に溶けている。この匂いを、いつか懐かしいと思う日が来るのだろうか。
◇
夕暮れの広場。
買い出しの帰り道で、偶然レオンハルトと出会った。彼も訓練場から戻るところだったらしく、額に薄っすらと汗が光っている。碧い目が夕日に染まって、深い緑に見えた。
「セラフィーナ」
「殿下。今日もお疲れ様でしたわ」
「余が疲れるような訓練ではない。子供相手だぞ」
そう言いながら、口元が緩んでいる。楽しかったのだ。王太子として公務に追われる日々にはない、素朴な充足感。
二人で広場を歩いた。夕陽が辺境の家々を赤く染めている。煙突から立ち上る夕餉の煙。帰路を急ぐ農民の足音。犬の遠吠え。日常の音だ。
「殿下は——子供に教えるのが得意ですのね」
「意外か」
「正直に申しますと、はい」
レオンハルトが小さく笑った。王太子の笑い方ではなく、一人の青年の笑い方だった。
「王宮では、余に何かを教わりたいという人間はいない。皆、余に何かを教えたがる。礼儀作法、政務、外交術——教わるばかりで、教えることはなかった。教えるというのは、不思議なものだな。相手の成長を見ると、自分も成長した気になる」
その瞳が遠くを見ている。王宮の重圧から離れた場所で初めて、この人は自分の言葉で話している。
そうか。この人は、初めて「教える」喜びを知ったのだ。帳簿の時もそうだった。新しいことを学び、それを誰かに伝える。その循環が、レオンハルトの中で凝り固まっていた何かを解きほぐしている。王太子としてではなく、一人の人間として生きる時間の尊さを。
「ここは——」
レオンハルトが足を止めた。靴底が石畳を擦る音がした。夕陽の中で、広場を見渡した。領民の子供が手を振りながら走っていく。鍛冶場のマルクスが弟子と笑い合いながら道具を片付けている。薬草園の温室のガラスが夕焼けを反射して、金色に光っている。
「——余が知る王国の中で、最も温かい場所だ」
以前も聞いた言葉。しかし今日の声は、以前よりも深かった。確信が増している。この場所への想いが——いや、この場所にいる人々への想いが。
二人の影が、広場の石畳の上で長く伸びていた。夕陽が影を繋げている。しかし二人の間には、見えない距離がある。王太子と元婚約者。攻略対象と悪役令嬢。ゲームが引いた境界線。
「殿下、そろそろ——」
「ああ。……すまない、引き留めた」
引き留めたのは私の方だ。立ち去る勇気がなかった。この夕暮れの温かさの中に、もう少しだけいたかった。
レオンハルトの背中が遠ざかっていく。王太子の背中ではなく、一人の青年の背中だった。肩が少しだけ丸い。疲れているのだろう。それでもこの辺境にいたいと思ってくれている。
夕焼けの空が、紫に変わり始めていた。一番星が東の空に光っている。
◇
夜。一人になった寝室。天蓋に月光が差し込んでいる。
シーツは冷たい。窓の外で虫が鳴いている。体は疲れているはずなのに、眠れない。
今日一日の光景が、瞼の裏で回っている。子供に剣を教えるレオンハルト。石壁を積むルキウス。聖光草と微笑むエミル。目を輝かせるリリアーヌ。
全員が——生きている。呼吸している。笑っている。この辺境で、それぞれの時間を過ごしている。
「……やばい」
天蓋に向かって呟いた。声が暗く静かな寝室に吸い込まれていく。
「あの人たちのこと、ゲームのキャラだと思えなくなってきた」
処刑エンド回避の大前提は、「攻略対象はゲームのキャラクターであり、感情移入してはならない」だった。距離を取る。利用する。そして回避する。それが前世から持ち込んだ唯一の武器——メタ知識を活かすための大前提だった。
しかし——レオンハルトの笑顔を見ると胸が暖かくなる。ルキウスの不器用な優しさに安心する。エミルの知性に感嘆する。リリアーヌの純粋さに心が洗われる。ヨハンの忠実さに救われる。ヘルガの毒舌に笑ってしまう。ギュンターの覚悟に勇気をもらう。
感情移入している。完全に。取り返しがつかないほどに。
前世では、人を大切に思う余裕がなかった。過労の日々の中で、同僚も上司もただの「機能」に見えていた。感情を殺して数字を追い、疲れ果てて倒れた。
今世では——感情が溢れている。止め方がわからない。
月光がシーツの上に白い模様を描いている。冷たい光だ。しかしその冷たさが、今は——一人でいることの代償のように感じられた。
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