処刑エンドの悪役令嬢に転生したので攻略対象を全員回避して辺境で起業したら、なぜか王太子が追いかけてくるんですが

ポポリーナ

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嵐の前の帳簿——王都からの不穏な書簡

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 あの夜から三日が経っていた。転生の秘密を明かし、処刑エンドを告白し、涙を流した夜。あの夜を境に、何かが変わった。何かが——壊れたのではなく、組み替わった。

 レオンハルトもエミルも、翌朝から態度を変えなかった。レオンハルトは相変わらず生真面目に領地を歩き、エミルは穏やかに聖光草の研究を続けている。しかし目が違う。二人とも、私を見る目に「知っている者」の重みが加わっている。

 ルキウスとリリアーヌには、まだ話していない。話すべきかどうか、結論が出ない。エミルは「タイミングを見て」と言い、レオンハルトは「余から話す」と申し出たが、私は首を振った。これは私の秘密で、私の言葉で伝えるべきだ。

 今朝、廊下でレオンハルトとすれ違った時、彼は一瞬だけ立ち止まった。何か言いかけて、言わなかった。代わりに小さく頷いただけだった。あの夜に流した涙のことを、この男は決して口にしない。その無言の配慮が、かえって胸に刺さる。

 だから今は——帳簿に向かう。

 四半期決算。ヘルムガルド領の着任から約九ヶ月分の集計。鍛冶場の売上、薬草園の収益、直接取引による利益率の改善、インフラ投資の減価償却。数字は正直だ。感情が混乱している時ほど、数字の冷静さに救われる。

「セラフィーナ様、少しよろしいですか」

 ヨハンが執務室の扉を叩いた。いつもより声が硬い。

「どうぞ」

「ギュンター殿がお見えです。至急のご報告があると」

 ペンを置いた。インクの染みが指先に残っている。

 ギュンターが入ってきた。外套に街道の砂埃がついたまま。早朝に商業ギルドの詰所から駆けつけたのだろう。この老商人が「至急」という言葉を使うのは珍しい。三十年の商売で鍛えた肝の太さは、大抵のことでは揺らがない。

 しかし今日のギュンターの表情には、怒りの色があった。

「嬢ちゃん。悪い知らせだ」

 ギュンターの声に普段の軽みがない。この人は悪い知らせほど軽く言う癖がある。それが今日は直球だった。覚悟を決めろ、という合図だ。

 椅子に座ったギュンターが、革の鞄から三通の書簡を取り出した。封蝋が割られている。全て王都の商印が押された公式の書簡だ。三通が扇のように机の上に並べられた。

「ヴォルフスハイム経由の仲買——ベッカー商会、ライナー商会、シュヴァルツ商会。三社が同時にヘルムガルド産品の取引停止を通告してきた」

 三社同時。偶然ではありえない。

「理由は?」

「表向きは『取引条件の見直し』だとよ。だがな、三社とも文面がほぼ同じだ。誰かが雛形を配って書かせている」

 書簡を受け取った。一通ずつ開いて並べる。確かに、言い回しが酷似している。「今般の経済状況に鑑み」「辺境産品の品質管理体制に懸念があり」「当面の間」——官僚的な定型文。商人が自分の言葉で書いた手紙ではない。誰かに書かされた文面だ。

 ベッカー商会は薬草の主要な買い手だった。ライナー商会はヘルムガルド鋼の仲介で王都の武器商とつないでくれていた。シュヴァルツ商会は薬草の二次卸で、オルガの調合した軟膏を王都の薬師に流していた。どれも、この半年で丁寧に築いた関係だ。

「ノーヴァルか」

「間違いねえ。三社とも王都商業ギルドの正会員だ。ギルドの上席理事はカーティス・ノーヴァルの叔父。圧力をかけるのは造作もない」

 帳簿に目を落とした。三社の取引額を暗算する。ヘルムガルド産品の王都向け流通の約四割。薬草が二社、ヘルムガルド鋼が一社。これが止まれば、月の収入が三割以上減る。

 前世の経理時代、取引先の突然の契約解除を何度も処理した。あの時は伝票を切って数字を修正するだけの作業だった。感情が入る余地はなかった。だがここでは、この数字の向こうに、マルクスの汗と、オルガの知恵と、領民たちの暮らしがある。

 指先が冷たい。拳を握り、開いた。

「ギュンター殿。王都のお知り合いから、他に情報は?」

「それがな——」

 ギュンターが鞄からもう一通、別の書簡を取り出した。こちらは封蝋ではなく、蝋で封をした簡素な包み。私信だ。

「旧友のフェルディナントから密書が届いた。王都商業ギルドの元書記官で、三十年来の付き合いだ。俺が王都から追い出された時、唯一見送りに来た男でもある。引退した今も情報だけは入ってくる」

 ギュンターが密書を開いた。羊皮紙の上に、細い字がびっしりと並んでいる。

「『商務大臣が動いている。辺境の直接取引モデルを商業ギルド規約違反として問題提起する上奏文は既に提出済み。議会への根回しも始まっている。背後にいるのは息子のカーティス。父の政治力を使って辺境を潰す算段だ』——ここまでは想定の範囲内だ」

「続きがあるのですね」

「ある」

 ギュンターの目が細くなった。怒りではない。獲物を見定める猟師の目だ。

「密書の後半に、北方警備費についての記述がある。フェルディナントが退職前に見た古い台帳の記録だ。ヘルムガルドの北方警備費は、十五年前から毎年計上されているが——実際の支出先が記載されていない項目が複数ある。代官時代の横領は既に判明しているが、フェルディナントは『それだけでは説明がつかない金額の乖離がある』と書いている」

 立ち上がった。書棚から、以前ヘルガと精査した旧帳簿を引き出す。北方警備費の項目を開いた。

 数字を追う。代官の横領分を差し引いても、確かに使途不明金が残る。年間で約三百ギルダー。十五年分なら四千五百ギルダー。小さな額ではない。

「誰が、何に使っていたのかしら」

「さあな。だが——封鎖された坑道と、この警備費の時期が一致するのは気になる。十五年前に坑道が封鎖されている。北方警備費の不明金も十五年前から。偶然か?」

 偶然ではないだろう。前の領主か、あるいはさらに上の誰かが、北方の何かを隠すために金を動かしていた。魔力脈、魔鉱石、そして魔獣。エミルが発見した地下の秘密と、この使途不明金が繋がっている可能性がある。

 頭の中で二つの脅威が交差する。南からはノーヴァルの商業攻撃。北からは未知の脅威。挟撃の形だ。前世の戦略ゲームなら詰みに近い配置だが——これはゲームではない。ゲームならリセットできる。この世界では、一度失えば二度と戻らない。

「この件は引き続き調査します。しかし今の最優先は——」

「ああ。三社の取引停止への対処だ」

 ヨハンが茶を持ってきた。いつもの薬草茶だが、オルガが特別に調合した安眠効果のある配合。あの夜以来、ヨハンは何も聞かずにこの茶を出してくれる。転生の告白には同席していないが、何かがあったことは察しているのだろう。この従者の勘の鋭さと、問わない優しさに、また助けられている。

 茶を一口飲んで、帳簿を閉じた。四半期決算の数字が美しく並んでいた帳簿に、赤字の影が差し始めている。

「ギュンター殿。近隣三領地のネットワークは使えますか」

「使える。だが時間がかかる。王都の仲買を通さず直接売る道を作るには——最低でも二週間。その間、現金が回らなくなる」

「手元の運転資金で持ちますか」

「ぎりぎりだ。新住民向けの住居建設費を後倒しにすれば、三週間は保つ。だが——」

「それは最後の手段にしましょう。住居の約束を反故にすれば、領民の信頼を損ないます。信頼は——一度失えば、取り戻すのに十倍の時間がかかる」

 ギュンターが深く頷いた。この老商人は、信頼の値段を誰よりも知っている。三十年前にノーヴァルに敗れた時、味方が一人もいなかった苦さを骨の髄まで覚えている男だ。

 窓の外を見た。午後の日差しが鍛冶場の煙を金色に染めている。マルクスの槌音が聞こえる。薬草園ではオルガが温室の手入れをしているだろう。子供たちの声が風に乗って届いてくる。

 この景色を守らなければならない。

「ギュンター殿。もう一つ。密書に他には何か」

 ギュンターが密書の最後の行に目を落とした。一瞬、表情が険しくなった。

「……フェルディナントの最後の一文だ。『気をつけろ。ノーヴァル家の嫡男が、辺境の「勘当された公爵令嬢」を潰すと公言している』」

 執務室の空気が変わった。窓から差す光が、一段冷たくなったように感じた。

 商業的な圧力ではない。これは——個人への宣戦布告だ。

 カーティス・ノーヴァル。顔も知らない男が、私の名前を口にして、潰すと言っている。

 前世なら怯えただろう。上司の叱責に首をすくめ、理不尽な業務命令に黙って従い、終電の車両の窓に映る自分の顔から目を逸らしていた、あの頃の私なら。

 しかし今は違う。窓の向こうに、この領地がある。この帳簿の数字の一つ一つに、誰かの汗と笑顔が刻まれている。

「……潰す、ですか」

 声は平静だった。帳簿を開き直した。

「面白い。では——こちらも帳簿で応えましょう」

 ギュンターが笑った。牙を剥くような、商人の笑みだった。

「嬢ちゃん。三十年待ったかいがあったってもんだ」

 執務室の窓から、北の空が見えた。あの夜に見た魔獣の燐光は、今は見えない。しかし消えたわけではない。南の脅威も、北の脅威も、嵐の前の静けさの中で力を蓄えている。

 私は帳簿を引き寄せた。赤字に怯えている暇はない。数字を武器に変える。それが、この世界で私に与えられた剣だ。
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