黒猫の俺は魔女に大嫌いな人間に姿を変えられちまったので元に戻るためにロックバンドコンテストで優勝目指すことにした

柊るい

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Overture

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頬に柔らかな毛を感じた。

懐かしくて安心する感触が、先ほどまでいた眠りの世界へと誘惑してくるが、ぼんやりとした明かりが、俺を現実世界へと連れ戻す。

起き上がろうとしたが、ひどく頭が重い。

長い間眠っていたような気がする。

俺は眠る前、何をしていたんだっけ?

流れる川が紡ぎ出す水の音
青々とした草の新鮮な香り
真っ暗な夜空にぽつりと浮かぶ月

映像の断片が次々と浮かんでは消えるだけで、肝心なことは思い出せなかった。


ぼやけていた視界が徐々にはっきりとしてくる。

柔らかいと感じたものは、毛足の長い絨毯だった。

それは女の子みたいに柔らかいが、人工物特有の鼻をつく匂いがする。

顔を上げて周囲を見渡す。


小さな部屋だった。あちこちにロウソクが置いてある。

手先くらいのものから、木の幹みたいな太いものまで、大きさはさまざまだ。

ひどく眩しい。ろうそくの炎は、こんなにも明るかっただろうか。


顔を伏せて明かりを遮ろうとするが、目に飛び込んできたのは奇妙な色の腕だった。

少し遅れて自分の腕だと気づく。

腕の毛が、ない?

さらに体を撫で回すと、とんでもないことに気づいた。

全身の毛が抜けている!

更には尻尾もない!

思わず叫んでしまう。奇妙な音が口から飛び出す。

あわてて部屋を見渡した。何とかして、自分に起きている状況を確かめなければならない。


部屋の隅に大きな鏡が置いてあるのが目に入った。

そちらに向かおうとするが、ひどく動きにくい。

いつもは避けられるはずのろうそくを倒してしまう。

あまりの熱さに飛び上がった。

倒れたろうそくから、炎が絨毯に燃え移る。

有機物の燃える不快な匂いがしたが、知ったこっちゃない。

ようやく鏡の前までたどり着く。

顔を上げて鏡を見た。


鏡には、人間が映っていた。

そいつは間抜け面で、俺の顔を覗き込んでいた。

後ろに飛び退いて威嚇してみるが、そいつは俺の真似をしてみせた。

人間がやると、ひどく滑稽だ。

一旦後ろに退いて、また鏡を覗き込んでみたが、怯えた顔の人間がこちらを見つめていた。


不思議なことに、鏡には愚かな人間しか映っておらず、肝心の俺がどこにも映っていない。


「なあ知ってるか?人間って俺たちが鏡で俺たち自身を認識できてないって思ってるらしいぜ」

唐突に、昔聞いた話を思い出す。

ふだんはめったに行かない夜の集会とやらに参加してときのことだ。

何匹かの猫たちが、座って談笑していた。

話しは自然と、いかに人間が俺たちを馬鹿にしているかの話になった。

そんな流れの中、一匹が言い出したのだ。人間は、猫が鏡に映る自分自身を認識していないと思い込んでいるのだと。

その場の猫たちの反応はさまざまだった。

あまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出す者、怒りをあらわにする者、呆れ返る者。

俺は後者だった。もう少し若い頃は、人間に怒っていたときもあったが、今ではもはや諦めていた。

人間はこんなもんだと。


人間は愚かな生き物だ。

自分たちが頭が良く、偉く、すべて自分のものだと思い込んでいる。

だから、他の生き物は皆バカだと思っている。

鏡のことだってそうだろう。

人間が行う実験とやらで猫が鏡に対して反応を示さなかったかららしいが、そんなものにまともに付き合う猫がいなかっただけのことだ。


はっと我に返る。

今は昔のことを思い出している場合じゃない。

嫌な予感がする。


試しに右手を上げてみる。鏡のなかの人間も右手を上げた。

左手を上げる。鏡のなかの人間も左手を上げた。

震える手で、顔を触る。鏡のなかの人間も顔を触った。

まさか、そんな。

目の前に突きつけられた現実に、泣きそうになる。鏡のなかの人間が顔を歪める。


背中に焼けるような熱さを感じた。

振り返ると、絨毯に燃え移った小さな炎が、巨大な炎へと変容していた。

かつて白い絨毯だったものは、今や炎に飲まれて黒い炭のようになっている。

煙が部屋に充満してきていた。

息が苦しい。ここにいたら、丸焼きになってしまう。

慌てて近くの窓へと向かった。

しかし窓はぴったりと閉まっていた。

手で叩いたり体当りしてみたりしたが、びくともしない。


黒い煙がじわじわとこちらに侵食してきた。

背中に感じる熱が、炎の魔の手が迫っていることを示していた。

半ばやけくそになり、窓を無茶苦茶に引っ掻く。

すると偶然指が窓の隙間に引っかかり、わずかに窓が開いた。

そのまま力を入れると、少しずつ窓が横にスライドしていく。

隙間に腕と頭をねじ入れると、ようやく通り抜けられるほどの広さになった。


窓から冬の冷たい外気が流れ込んでくる。

寒さに身体がぶるりと震えた。

吐き出す息が白い。

もうすぐ夜が来るのだろう。

太陽の名残惜しい気配と、夜が起き出す気配が混ざり合っている。

空を見上げると、月の輪郭がうっすらと空に浮かんでいた。


下を見ると、芝生が広がっている。

高さからして、ここは二階だろう。

飛び降りるには少し不安に感じる高さだ。

顔を上げると、目の前に木が一本立っている。

小さな赤い実をつけたその木は、冬だというのに葉が生い茂っていた。

年中、葉をつける種類の木なのだろう。

木をつたって下に降りることができそうだが、飛び移るには少し距離があった。

それでも、勢いとタイミングを合わせれば、何とか届くだろう。

背中が熱い。振り返ると、天井まで届きそうな炎がこちらに迫っていた。

同時に、炎の奥に見えるドアが開くのが見えた。


白い服を来た人間の女が立っていた。

青い目に、絹みたいな髪色、目の前に立ち上る炎とその奥にいる俺を、驚いた顔で見ている。

その瞬間、俺は悟った。


そうだ、俺はこいつに……。


女がこちらに近づこうとするが、炎が女を阻む。

しかし彼女が手を振ると天井から水が降り出し、炎はたちまち小さくなっていった。

女がこちらに向かってくる。

どんどん距離が短くなる。

こいつに捕まってはいけない。

心が、身体が、アラームを発していた。

眼前の木を見る。

赤い実と緑の葉がさわさわと風に揺れている。

俺は大きく息を吸い、覚悟を決めた。


「ダメよ!」

女がこちらに駆け寄り、手を伸ばす。

その手から逃れるように、窓から飛び出した。

その瞬間、すべてがスローモーションになったように感じた。


風に揺れる木の葉
足先をわずかに触れた女の手
落下していく自分の身体

そして悟った。


全然届かない。


いつもなら、しっかりとジャンプをすれば身体の数倍は飛べる。

それなのに、今は身体の数倍どころか、自分の身長分も飛べていなかった。

浮遊していた身体が、一気に地面に吸い寄せられる。

落ちる。

そう思った瞬間、胸を恐怖が支配した。

俺は死ぬのか? これも走馬灯ってやつの一種か?

嫌だ。死にたくない。俺は生きるって決めたんだ。


必死に手を伸ばす。

すると思った以上に手が伸びた。

そうしていつもより手が長いことに気づく。

跳躍力はないものの、身体は大きいのか。

そう思うのと同時に、手が枝を掴んだ。

勢い余って、身体が幹に衝突する。

助かった、と思ったのも一瞬のことだった。

バキリと嫌な音を立て、枝が折れた。


身体が地面に引っ張られる。

必死に幹にしがみつこうとしたが、平べったい爪では身体を支えきれない。

ずるずると身体が落ちていく。

必死に木にしがみついた。

四肢を幹に回し、木を抱きしめるような体勢を取ると、ようやく、その場にとどまることができた。

息が苦しい。

必死に吸っては吐いてを繰り返す。

全身が心臓になったのではないかと思うくらい、心臓がバクバク鳴っていた。


下を見ると、右足の先に、足を乗せられそうな枝がある。

足を伸ばして、ゆっくりと枝に体重をかけた。

ミシミシという音が辺りに響く。

枝がもう耐えられないと主張している。

足に体重をかけながら、さらに遠くにある太い枝に手を伸ばした。

この枝ならば丈夫そうだ。

木の葉をかき分け、手を伸ばす。

足先にメリメリと枝の繊維が断ち切れていく振動が伝わってくる。


右手が枝に届いた瞬間、足元の枝が折れた。

なんとか枝を掴む。

右手だけで身体を支えるのは至難の技だった。

左手を伸ばして枝をつかむ。

身体が安定すると、足元に身体を支えられそうな太い枝があった。

そこに足を乗せれば、地面はすぐそこだ。

足先を伸ばす。

これで降りられる。


そう思った瞬間、近くから声が聞こえた。

下を見ると、木のそばで電話をかけている人間がいた。

「そうです、木に登って降りられないみたいです。あ……」

顔を上げた人間と目があった。

眼鏡をかけた神経質そうな男だ。

ぽかんと口を開け、俺を見上げている。


その瞬間、俺は足を踏み外した。

身体のバランスが崩れる。

枝をつかもうとしたが失敗し、したたかに腹をぶつける。

四肢で着地するため、身体をひねろうするが、体が思うように曲がらない。

思い切り地面に尻もちをついた。


「お、おい……大丈夫か?」

痛みでうんうん唸る俺に、男が近づいてくる。

逃げようとしたが、痛みで体が動かない。

早く逃げないと、人間に捕まってしまう。

何とか起き上がり走ろうとするが、身体が思うように動かない。

身体の痛みはもちろんだが、それ以前にいつもの体勢が辛かった。


「あんた誰だ? なんで裸でうちにいるんだ?」

男の声がしたので顔を上げると、すぐそばに男がいた。

驚いて飛び上がってしまう。

その拍子に足だけで立ってしまった。

すると、先ほどまで動きにくかった身体が、嘘のように軽くなった。

「おぉ!」
「えっ?」

ゆっくりと歩いてみたが、こちらのほうが明らかに動きやすい。

最初はゆっくりと歩き、そして走り出す。

「おい!待て!」

背後から男の声が聞こえてくる。

「逃げました! 早く警察をお願いします! え? 違いますよ! 人間です! 人間の男がうちの庭に入り込んで逃げたんですよ!」


違う、俺は人間じゃない。人間なんかじゃない。



俺は、猫だ。
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