織姫と凶獣

京衛武百十

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事実と齟齬

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山下沙奈子は、生まれた時から両親にその存在を望まれなかった。彼女を生んだ実の母親は、自宅で彼女を産んですぐに行方をくらまし、現在も消息が分かっていない。

彼女の実父である山下萃やましたあつむは、その時、山下沙奈子を生んだ女性とは別の女性とも同居していて、その女性を母親として、しかも大学時代の後輩だった人物の実家が産婦人科だったことを思い出し、強引に頼み込んでそこで分娩したことにして出生届を作成させたのだった。

実はその際に手違いがあり、彼女の名前を『沙奈』とするべきところを『沙奈子』と記入してしまった為に、彼女の戸籍上の名前は『山下沙奈子』となったのだった。だが、彼女の実父・山下萃は最後まで彼女のことを『沙奈子』とは呼ばなかった。

その後、まだ一歳にも満たない彼女を弟の山下達やましたいたるに預けて遊びに行ったりとロクでもないことを繰り返していた山下萃だったが、取り敢えず分かっている限りでは彼女が九歳の時までは一緒にはいたようである。ただし、学校には二年生の時までしか通わせず、何人もの人間に借金を繰り返してはそれから逃れる為に娘を連れて住居を転々とするということをしていたようだった。

その間に、沙奈子の戸籍上の母親である女性も行方をくらまし、何人かの女性の下を渡り歩いたりしている時に、彼女は様々な暴力を受けてきたのだった。火の点いた煙草を押し付けられたのも、この頃である。

食生活も酷いもので、栄養失調まではいかなかったものの体の発育は遅れ気味となり、虫歯になっても歯医者にすら連れて行ってもらえず、痛みを訴えれば折檻され、いつしか彼女は心を閉ざし、ただ苦痛に耐えるだけの人形と化していった。

しかし、十歳の誕生日を迎える直前に再び山下達のところに置き去りにされ、それ以降、父親である山下萃の消息も確認が取れていない。ちなみにそれは、借金から逃れる為にホームレスから戸籍を買い、他人に成り済ましていたからなのだが、娘の沙奈子がその事実を知ることは生涯なく、実父と再開することもなかった。まあ、それは余談ではある。

いずれにせよ、山下沙奈子も、結人ゆうとに比べれば幾分かはマシとは言え、どこかで命を落としていても不思議ではなかった児童虐待のサバイバーであることには間違いない。そのことを、結人は知ったのだった。

だからと言って慣れ合うつもりは毛頭ない。傷を舐め合うつもりもない。ただ山下沙奈子が自分を恐れない理由が分かった気がしただけだ。

と、その時、結人は廊下が折れて死角になっている辺りに人の気配があることに気付いた。一瞬見えた姿に見覚えがあった。石生蔵千早いそくらちはや山仁大希やまひとひろきだ。だがそれ自体は想定の内だったし、邪魔されずに目的は果たせたからもうどうでもよかった。靴下を履き靴を履き、

「でも、俺はお前らと友達ごっことかするつもりねーからな」

と彼女に釘を刺して、その場を去っていった。

一人、音楽室の前に残された沙奈子は彼の去った方を見詰めていた。その表情はいつもと変わらないもののように見えた為に何を考え感じていたのかは分からなかったが、そんな彼女を迎えに来た千早と大希には何かが分かっているのか、温かい笑顔を向けていただけだった。

この後、結人は、石生蔵千早が母親と姉二人に虐待を受けていたこと、山仁大希が幼い頃に母親を亡くしていることも知ることとなった。それでも彼は大きく態度は変えなかった。ただ、無闇に邪険にはしなくなっただけである。しかし沙奈子にはそれで十分だったのだろう。彼を見る彼女の表情が、ほんの少しだが柔らかくなったようにも見えたのだった。



だが、七月に入り、プール授業が始まったばかりの頃にそれは起こった。

結人のことを『カッコいい』と言ってファンクラブのようなものを勝手に立ち上げていた女子達の間で、ちょっとした諍いが起こったのである。

「ちょっと、サヤカ。あなたこの前の日曜日、結人君のアパートに手紙を入れに行ったんだって? それって抜けがけだよね」

放課後、そう言ってある女子に詰め寄っていたのは、鯨井結人くじらいゆうとファンクラブ会員番号001にして代表を自認している、六年一組の吉上穂邑きちじょうほむらであった。そして詰め寄られているのは、同じく会員番号004で六年二組の丸志木清香まるしきさやかだった。

こういういわゆるファンクラブなどではよくそういう取り決めをしているのだろうが、この集団でも、それぞれ勝手な行動をしたり抜け駆けをしたりしないようにと暗黙のルールがあったのだった。それを丸志木清香が破ったと、吉上穂邑は言っているのである。

するといきなり頭ごなしに詰め寄られたのが癇に障ったのか、丸志木清香の方も、

「は? 手紙を送るのもダメとかそんなこと言われた覚えありませんけど?」

と、少々ケンカ腰の態度で応じた。

こうなるともう、売り言葉に買い言葉で感情的になってしまうのは人の業というものだろうか。この日を境に、<鯨井結人ファンクラブ>は、吉上穂邑派と丸志木清香派に分かれ、表立ってぶつかり合うことはないものの、静かに反目しあうという状態に突入したのである。

当の鯨井結人本人の全く与り知らないところで。

この学校は、イジメなどについては非常に気を配って対応してはいるが、しかし生徒同士が理性的に話し合う分にはいきなり介入したりはせず様子を窺うということをしているので、彼女らもそれは承知しており、露骨なぶつかり合いは避けているようだった。が、お互いに相手側のことを無視するようになり、それでいてどちらも結人の姿が見える場所にいようとするので、何とも言えない微妙な空気が漂ったりしていた。

だが、山下沙奈子はそういうことには一切関知しない。女子の間でも彼女はやや特殊な立場にいて、他の生徒達からは石生蔵千早と山仁大希とのセットと見られていたので、それ以外に対しては完全に中立という存在だった。彼女の、誰に対しても態度を変えないそのキャラクターが、ある意味では一目置かれる感じになっていたとでも言うべきだろうか。

だから彼女が結人に対して世話を焼くような振る舞いをしても、ただ隣の席でしかも同じアパートに住んでるからというだけのことであって、特別な感情もなくそうしているのだと思われていたのだ。実際、この時には沙奈子の方には結人に対する特別な感情は確かになかった。皆が思うように、ただ近くにいるからというだけだった。

が、変な形で対立して少々感情を拗らせていた鯨井結人ファンクラブの女子達にとっては、全くそういうことにはお構いなしでいつも通りに結人に接する沙奈子の振る舞いが、特別な意味を持ってしまったようだった。いや、特別な意味があるように勝手に解釈を加えてしまったとでも言うべきか。牽制しあってお互いにアプローチが出来ずにいた自分達のことなど眼中になくこれまで通りに振る舞える彼女に対して、ヤキモチを妬いてしまっていたのだ。

『私達はこんなに我慢してるのに、どうして山下さんだけ…!』

まあ、それは完全にお門違いの八つ当たりである。山下沙奈子にしてみれば本当にとんだとばっちりなのだが、人間の感情というものは時にそういう理不尽な方向に偏ってしまうのもまた残念ながら事実なのだろう。そしてとうとう、ある日の昼休みに、吉上穂邑と丸志木清香の両方から呼び出しを受けてしまったのだった。

「山下さん。ちょっと付き合って」

そのただならぬ雰囲気を、結人もさすがに感じ取っていたのだった。

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