神河内沙奈の人生

京衛武百十

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多実徳家のタイムリミット

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「もたもたしてないでもっと機敏に動きなさい。男でしょ!?」

朝、冷たい言葉で我が子をそう叱責していたのは、多実徳英功たみのりえいこうの母親の宏香ひろかだった。ややきつい感じのするきっちりとしたメイクと、ブランド物のビジネススーツをがっちりと着込んだその姿は、まるで戦場に立つ女兵士のようですらあった。

宏香は、息子である英功に対し、彼が赤ん坊の頃から厳しく接し、一分の隙も見せようとしない母親だった。彼の言うことには一切耳を傾けず、決して口答えを許さず、あらゆる場面で自分の指示に従うことを彼に要求した。それはもはや、新兵を訓練する鬼教官を思わせた。

だが人間は、常に緊張し続けることは出来ない。どこかで緩ませてバランスを取らなければ歪んでしまうものなのだ。実際、宏香も人間として歪んでいると言えるだろう。他者を支配し自分の思い通りに操ることこそが正しいのだと思い込んでいるのだから。もちろんそれは、自分の子供に対してでもだ。

宏香の夫であり英功の父親でもある功臣こうしんは、そんな宏香に英功に任せきりにして家庭のことには一切関知しようとしない人間だった。下手をすると息子の誕生日すら覚えていないかも知れない程に。

ある意味では、この母子は父親に家の中に捨てられたようなものとも言えるだろう。その捨てられた者同士の中でさらに序列を作り、自分より弱いものを支配することで宏香は辛うじて自尊心を守っているとも言えた。故にこの家の中での序列最下位の英功に全てのしわ寄せが向かっているという状態だった。そしてその中で英功は、自分に向けられる不条理をおぞましい形で練り上げているのである。

お高く留まった女を徹底的に貶めて凌辱し屈服させたいという彼の性癖は、実の母親に対する反抗心の表れなのかも知れない。母親に報復したいという欲求が、性衝動と結びついてそのような形になっている可能性が高かった。だが今はまだ、母親に抵抗出来るだけの力が自分にはないことも彼は承知していた。だから表面上は大人しく従っているのだ。しかし、自分の力が母親を超えたと彼が確信出来た時、そのタガはたやすく外れてしまうかも知れない。

力で他人を支配しようとするのは、力の差が歴然としている場合にしか効果はない。自分より弱い相手しか支配出来ない。そして力が逆転した時、その関係は崩壊する。相手が女性なら、中学生くらいになればもう十分に抗える力も付くだろう。この家庭が崩壊するまでのタイムリミットは、もう近くまで来ているのだと言えたのだった。

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