JC邪神の超常的な日常

京衛武百十

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夏休みの章

外伝・拾 第一〇七六四八八星辰荘へようこそ 

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人間、死ぬ時は実に呆気ないものだ。市立吉泉きっせん中学校に通う十四歳の少女、石脇佑香いしわきゆうかはある時、その短い生涯に幕を閉じた。

いつもと変わりなく、しかしいつもより資料の読み込みに夢中になってしまって帰るのが遅くなってしまったことで部室の戸締りを任された彼女は、これまで感じたことのない違和感を覚えた。部室のドアに鍵を掛けて帰ろうとしたその時、自分の体がズレるかのような、言葉では言い表せない異様な感覚に包まれたのだ。

そして次の瞬間、彼女は自分が見慣れない場所に立っていることに気付いた。

「な…何ここ…?」

そこは、石脇佑香がこれまで見たこともない光景だった。辛うじて近いものを挙げるとすれば、高度成長期の頃の日本の路地裏とも言えなくはないが、それにしては道路がヨーロッパ風の石畳だったり、立ち並ぶ家々もどこか珍妙な和洋折衷、いや、和でも洋でもない不可思議な印象のある建物ばかりだったのだ。

状況が掴めず呆然とする彼女に、突然、声が掛けられた。

「あらあなた、見慣れない顔ね。もしかして新入りさん?」

完全に不意を突かれて石脇佑香は跳び上がりそうなほど驚いた。驚いて声の方に振り返ると、そこにいたのは小学生低学年くらいの少女だった。

…少女…?

さらりとした髪を胸まで伸ばし、前髪を左右に分けてピンで留めたその姿は確かに人間の少女の姿にも見えたものの、だがその少女は明らかに人間ではなかった。なにしろ、普通の人間と同じ位置にある両目の外に、額にももうひとつ目があって、それが石脇佑香を見詰めていたのだから。

最初は額に何か描いているのかと思ったが、それは紛れもなく本物の目だった、他の二つと同じく瞬きをして、眼球が動き、しっかりとこちらを見ているのだ。

「あ…あなたは…? ここはいったい…?」

石脇佑香の問いに、三つの目を持った少女らしきそれは答えた。

「ここは<書庫>。あなたは死んでここに来たのよ。私はアーシェス。あなたにとっては先輩ってことね」

『死…死んで…? え? 私、死んじゃったの…? っていうことはここが<あの世>ってこと…?』

そんな考えが頭の中をぐるぐるとめぐり返事をすることもできない石脇佑香に向かって、アーシェスと名乗った少女?は言った。

「念のために言っておくけど、ここは<あの世>とかじゃないから。さっきも言った通りここは<書庫>。あなたは死んで、あなたのデータだけがここに転送されたの。いわばコンピューターの中って言えば何となく分かるかしら?」

こうして、人間としての命を終えてデータとして<書庫>に書き込まれた石脇佑香の新たな人生が始まったのであった。



このようにして<書庫>での生活を始めたユウカだったが、周囲の支えもあり、まずまずいい感じで第二の人生を送ることができていた。

ユウカがここでの生活の拠点としているのが、<第一〇七六四八八星辰荘>と呼ばれる、一見すると今にも倒壊しそうなボロアパートだった。見た目はアレなものの、その内部は日常生活には何の支障もない、しっかりしたものだった。外観は単なる<演出>である。

その<第一〇七六四八八星辰荘>の住人の一人が六号室のクォ=ヨ=ムイなのだが、彼女は実は<邪神>と呼ばれる超常の存在だった。

オカルトに興味があり、特に<邪神>や<神話生物>には並々ならぬ関心を持っていたユウカの前に現れた<邪神>は、レディスーツに身を包んだ、眠そうな目をしたアンニュイな感じの妙齢の女性だった。

『え…? この女の人が邪神…?』

邪神が人間の姿を持って現れるのも別に珍しい話ではないと聞くものの、それにしたってイメージが違い過ぎた。

しかし、それでもクォ=ヨ=ムイは<邪神>である。



十四歳でありながらここで暮らしていく為にユウカは仕事をしていたが、その日は休みだった。だから、買い物に行こうと出掛ける用意をしていた。だが、そんな彼女の前を、クォ=ヨ=ムイが相変わらず眠そうな気怠そうな表情で横切る。

「こんにちは」

そう声を掛けたユウカに、クォ=ヨ=ムイも「こんにちは…」と返事をした。

それ自体はいつもの感じだったのだが、しかし今日に限って、ユウカは何故か別なことを思い付いてしまったのだった。

『クォ=ヨ=ムイさんって、普段、何してるんだろう…』

一度そう考え始めるとすごく気になってしまって、ゆっくりと歩くクォ=ヨ=ムイの後をつけてしまっていた。三十分ほど歩いて着いたそこは、ユウカが初めて来る場所だった。どことなく飲み屋街といった感じの街並みだが、今はまだ午前中である。まさかこの時間から酒でも飲むのかと思っていると、小さなビルの地下へと降りる階段を、クォ=ヨ=ムイは降りていった。

ユウカもその階段の近くまで来て覗き込んでみたが、いかにも怪しげで明らかに子供が近寄ってはいけない雰囲気を放つそこに、足がすくむのを感じてしまう。

取り敢えず場所は確認したし、やっぱり大人の社交場ってことなんだろうなと自分を納得させてその場を離れようとした彼女の前に、突然、何者かが立ち塞がっていた。

「ひっ…!」

思わず小さな悲鳴を漏らした彼女を、それは冷たい目で見降ろしていた。そいつは長身で、タキシードを思わせる漆黒の服に身を包んで真っ直ぐに立ち、腰まである黒髪を垂らした、一見すると男性か女性か分からない人物だった。しかし明らかにまともな気配を放っていない。まるで感情が読み取れない蝋細工のように白く無機質な顔と血を思わせる赤い瞳が、ユウカの背筋を凍り付かせる。

『殺される…?』

何の根拠も脈絡もないが、ユウカはほとんど本能的にそう感じ取っていた。そしてその感覚は、実はそれほど的外れでもなかったのである。なにしろそいつは、死と破壊をもたらす邪神の一柱だったのだから。

そいつは怯えた表情で自分を見詰めるユウカの首根っこを掴み、まるで子猫をつまみ上げるようにひょいと持ち上げた。そしてそのまま階段を下り、突き当りのドアを開いてユウカを連れたままその中に入っていった。

『ああ…もうおしまいだ……』

ユウカは死を覚悟した。邪神に対して要らぬ好奇心を示したことで、人間が踏み込んではいけないところに自分は踏み込んでしまったのだと思った。そう、クトゥルー神話で身の程をわきまえず深淵を覗き込もうとした人間がどういう末路を迎えたかということを、思い出す。

それは、薄暗い空間だった。しかもその薄暗い中にギラリと光るなにかがいくつも見えた。目だ。何者かがこちらを見ているのだ。ユウカは、ちびりそうなくらいに怯えきっていた。

だがその時、

「ユウカ…?」

聞き覚えのある声が耳に届いたことで、ユウカはハッとなった。薄暗さに慣れてきた目が、その声の主を捉える。

「クォ=ヨ=ムイさん…!」

思わず声が出てしまう。するとユウカの首筋を掴んでつまみ上げていた手が突然離された。しかし足腰に力が入らずその場に座り込んでしまう。

「知り合いか…?」

ユウカを連れてきた黒づくめの人物がそう言い、クォ=ヨ=ムイが黙って頷いた。

「そうか…」

やや低めではあるが、どちらかと言えば女性のそれのようにも聞こえる声でその黒づくめの人物は応えて、空いたソファーへとスッと腰掛けた。

「ついてきちゃったの…?」

床に座り込んだユウカに向かってクォ=ヨ=ムイは静かに問い掛けた。

「は、はい。ごめんなさい…」

かなり目が慣れて、そう謝りながらユウカは改めて周りを見渡していた。そこは、いわゆるバーと思われた。テーブルとソファーが並び、酒が入っていると思われるグラスが置かれている。ホステスと呼ばれる女性の姿は見えないので、やはりクラブやキャバレーのような接客主体の業態ではなく、客がそれぞれゆっくりと酒を味わうことが目的のバーと言った方がいいのだろう。

午前中からこんなところで酒を飲んでるというのはどうかとも思えるが、しかし思ったりよりも普通な感じで、ユウカは急激に自分が落ち着いてくるのを感じていた。それこそ、邪教集団のアジトのようなところで秘密の儀式でもしているのかと想像していたからだ。

だがその時、ガチャンとグラスの割れる音がして、ユウカはビクッと再び体を竦めた。しかも、

「っだとコラぁ!!」

「やるか!? おお!!?」

と怒声が店内に響き渡り、ますます体が強張り血の気が引いていくのを感じた。

一体、何事が起こったというのか?

見れば奥の方のテーブルを挟んで、男が二人、睨み合っていた。一人は、ヘルメットを被っているかのような頭からドレッドヘアを思わせる髪らしきものを垂らし、横に広がった口から大きな牙が覗くがっちりした巨漢で、もう一人は背は高くないが相手の男と引けを取らないくらいに頑健そうな肉体を持った色黒で短髪の男だった。二人とも、もう見るからに頭に血が上っている状態なのが分かる。

だが、それに対して他の客たちはまるで緊張感がない。

バーの店内で、いかにもごつい男二人が明らかに頭に血を上らせた状態で睨み合っているのに、他の客たちは緊張感を抱くどころか、

「お~、やれやれ~」

「このカードは久しぶりだな。こいつは楽しみだ」

といった感じで、まるでスポーツ観戦でもしてるかのような盛り上がりを見せていたのである。それとは正反対に怯えて呆然としてるユウカに向かい、クォ=ヨ=ムイがちょいちょいと手招きをした。縋り付くように傍に来た彼女に艶っぽく笑みを浮かべながらクォ=ヨ=ムイは言う。

「せっかくだから見ていきなよ…」

『せっかくだから』? 『見ていきなよ』? 意味が分からずおろおろとするユウカの視線の先で、睨み合っていた男二人の姿が突然消えたのだった。そう、突然だ。どこかに走り去ったとか飛び退いたとかではなく、スイッチを切ってテレビの画面が消えるかのように突然消えたのだ。

何が起こってるのか分からずにユウカが思考停止していると、一段高くなって舞台のようになった一角の壁が何の前触れもなく窓になった。いや、外の景色が映っているように見えたので窓だと思ったのだが、ここは地下でしかもその景色は明らかにこの辺りの光景ではなかった。だからテレビモニターだということを、結構な時間がかかってようやくユウカは気付いたのだった。

他の客は皆、そのテレビモニターを注視している。クォ=ヨ=ムイも同じようにそちらを見ていた。これから何かの放送が始まるのかとユウカは思った。すると、そこに映っていたどこかの湖の湖畔らしい景色の中で小さなものがものすごい速さで動き回っているのに気付いたのだった。だが早すぎて全く目で追い切れない。なのに、

「そこだ、いけ!」

「やれーっ!!」

と、他の客たちは声を上げていた。彼らにはそれが見えているらしい。

しかし、ある客が、

「チマチマやってないでもっと本気出せよ!」

と怒鳴った。思わずビクッと体をすくませたユウカだったが、視線だけはモニターを見ていた。その瞬間、まるで客の怒声が聞こえたかのように、突然、巨大な影がモニターに現れたのだった。

それは、画面で見る限りでも恐らく数十メートルはありそうな巨人だった。その姿をみて、ユウカは「あっ」と声を上げた。その巨人の頭はまるでヘルメットのような形をしていて、その下からドレッドヘアのような髪、いや、触手が無数に垂れ下がっていたのである。しかもその巨人の前には、アルマジロのような質感の鎧っぽい体の、黒っぽい獣のようなものもいた。

それを見て、モニターに映っている巨大な影がさっきの二人の男であることに直感的に気付く。アニメでもこういうのを見たことがある。あれは、さっきの二人が変身?した姿なのだと。

しかし厳密にはそれは変身ではなかった。むしろ逆だ。変身を解き、本来の姿に戻ったのである。そこまで見て、ユウカはようやくクォ=ヨ=ムイに声を掛けることができた。

「あの…何が起こってるんですか…?」

その問い掛けに、クォ=ヨ=ムイは艶っぽく微笑みながら、

「ケンカよ。超越者同士の、あなたたちに分かりやすく言ったら邪神同士のケンカ。二人はケンカする為にそれ用のステージに行ったの…」

『ケ、ケンカ…? 邪神同士の…!?』

その言葉にユウカの体は緊張し、心臓が激しく鼓動を刻み始めた。邪神同士のケンカなど、およそとんでもないことになるはずなのだから。が、それと同時に、かつてアーシェスが言っていたことが頭をよぎった。

『破壊のための力は再現されないの。ただの手品とかショーみたいになるのよ』

アーシェスは確かにそう言っていた。それに加えて、

『どんなに派手にやり合ったって、精々殴ったり蹴ったり程度の威力しか再現されないから、ただのレクリエーションみたいなものだけどね』

とも言っていたはず。それを思い出すと、少し動悸が収まってきた。あとはその言葉が事実であることを祈るしかない。が、モニターの中で繰り広げられる光景は、そんな彼女の祈るような気持ちをまるで無視するかのようなものだった。なにしろ、ヘルメットを被ったような頭をした巨人が大きく口を開くとそこから凄まじい光が迸り、その先にあった森も山も一瞬にして消し飛ばしてしまったのだから。

『ひ、ひいぃいいぃぃぃっっ!』

これのどこが、『精々殴ったり蹴ったり程度の威力』だというのか。この調子で暴れられては、世界などあっという間に滅んでしまうのではないのか。

しかし、その様子を見ている客たちはただ楽し気に、まるで格闘技の試合でも観戦しているかのように興奮しているだけだった。モニターの中では間違いなく恐ろしい破壊が行われているのに、誰も緊張感など持っていないし、しかも実際、ただ映画が上映されているかのように何か異変を感じるようなこともない。

しばらくその様子を見ているうちに、ようやくユウカにも分かってきた気がした。その光景は単なる<演出>なのではないのかと。ショーとして盛り上げるために派手にしてはいるが、これは現実に起こってることではないのかも知れないと。

そして、ユウカの推測は正しかったのだ。

それは、邪神や破壊神と呼ばれる者達の為に用意された<ステージ>だった。

<書庫>はあくまでデータベースであり、かつ非常に高度なシミュレーターでもあるので、そういう場所を設定することができる。そこでは、本来の能力に近い威力が再現され、しかしどれほど暴れようとも他のデータには何の影響も及ぼさないように隔離された空間とも言えた。

だから邪神たちや破壊神たちは時折そこで力を振るうことで日頃の鬱憤を晴らしているのだろう。ケンカをするのは、そのためのきっかけに過ぎない。そしてそれは、娯楽として配信されている。そう、人間たちも邪神たちや破壊神たちの戦いを観戦することができるのである。

その一方で、人間たちもいるここではどれほど暴れようともアーシェスの言った通り手品のようになってしまうだけなので、かえってストレスが溜まってしまうのだ。

たまたま今回は、運がいいのか悪いのか、その現場にユウカは遭遇してしまったということだ。が、モニターの向こうでの戦いは、まるで終わる様子が見えなかった。既に一時間ほど経つというのに、どちらもまったく疲れた様子もダメージを受けた様子もなく、いや、ダメージは受けているように見えるのだがそれを意にも介さず、しかも手加減してる様子もなく戦い続けていたのであった。

「あの…これっていつ終わるんですか…?」

ついユウカがクォ=ヨ=ムイにそう問い掛けると、クォ=ヨ=ムイはいつものように気怠い感じで、

「さあ…? 一日か十日か、とりあえず彼らが満足するまでかな…」

「…は…?」

いくらクトゥルー神話などを読んでいたといっても、ユウカはやはりただの人間だった。<神>とまで称される者たちとは根本的に感覚が違っているのである。

「ちなみに私は、一二五三日間戦い続けたことあるよ。これでも百位以下だけどね…」

そう言われてもやはりピンとこなかった。無理もない。クォ=ヨ=ムイたちにとっては一日も千日も大して違わないのだ。それが理解できなくて呆然とするユウカに対して、彼女は言った。

「その時の相手が、彼女、カハ=レルゼルブゥアよ」

そして視線を向けた先をユウカが思わず追った時、そこにいたのは、自分の首根っこを捕まえてここに連れてきた黒ずくめの人だった。邪神なので正確には<人>ではないが、少なくとも今は人の姿をしているのでそう認識するしかユウカにできない。

クォ=ヨ=ムイが<彼女>と称したので、どうやら少なくとも今は女性として存在してるのであろうカハ=レルゼルブゥアは、やはり全く感情が読み取れない無表情な蝋人形の如き顔を、ユウカに向けていた。元より死ぬことがないここでは殺される心配もないのだが、それでもユウカにとっては恐怖を感じさせる異様さだった。

とは言え、これは邪神としての力を発揮できないことをカハ=レルゼルブゥアなりに受け入れた結果なので、その見た目の異様さに反して実はものすごく落ち着いているのである。クォ=ヨ=ムイが眠そうな気怠そうな雰囲気を発しているのと同じことなのだ。カハ=レルゼルブゥアは炎を司るその性質故か、本来はものすごく気性が激しい邪神であった。それを抑えつけたらこうなってしまったという感じだろうか。

それでも、自分の力を発揮できるステージの中でなら本来の姿に戻り、岩石すら一瞬で蒸気になるほどの熱量を放ち惑星を丸ごと焼き尽くす程度の戦いはしてみせるのだが。

ちなみに、現在、ステージで戦っている二柱は、邪神の中でも特に破壊を司る存在なので、どちらかと言えば<破壊神>と称した方がいいかも知れない。それに対してクォ=ヨ=ムイやカハ=レルゼルブゥアは再生や創造も担っているので、若干、性質が違うのだった。なお、ヘルメットを思わせる頭をしている方がンプ=レデォタ=ゲルナヌゥグェレ。アルマジロを思わせる姿をしている方がクヌゥデショルゥテヘェコァと呼ばれている。どちらも邪神としてはかなり若く、若輩クラスと言えばいいのだろうか。

一方、ユウカはと言えば、邪神には興味はあったが自分が思ってたものとあまりに違い過ぎて、正直なところ戸惑うしかできないでいたのだった。もちろん殺されたりしないのは良かったのだが、同時に気が抜けたと言うか。

ここでは年齢はさほど重視されないのでユウカがバーにいても追い出されたりはしないものの、ユウカ自身が酒には興味が無かったこともありこの場にいる意味がなく、「お邪魔しました」と頭を下げて店を出た。

階段を上がり地上に出たところで「ふう…」と胸を撫で下ろしながら大きく深呼吸すると、ようやく人心地つけた気がした。自分が想像していたものとは違ってもやはり邪神が集う場所というのは人間には精神的な負担が大きかったようだ。ある意味ではSAN値が下がったかも知れない。だが正気は保っている。

気を取り直し、改めて当初の目的であるストレージを買うために歩き出そうとした時、彼女は思わず振り向いていた。何かの気配を感じてしまったからだ。その視線の先には、黒づくめで長身長髪の、無機質な白い顔に赤い目をした姿が映っていたのであった。



自分を見詰めるカハ=レルゼルブゥアに気付き、ユウカは思わず改めて頭を下げた。とてもそうは見えなかったが、見送ってくれたのかも知れないと考えたからだ。しかし、カハ=レルゼルブゥアの方には全く変化が見られなかった。ただこちらを見詰めてくるだけである。念の為にもう一度頭を下げてから、ユウカは背を向けて歩き出した。

しばらく行ったところでそっと振り返ってみると姿が見えなくなっていたことで、やっぱり見送ってくれただけなんだと胸を撫で下ろした。だが、改めて前を向いて歩き出そうとして、足が止まってしまう。

「…え?」

思わず声を漏らした彼女の視線の先に、黒い人影が見えていたのだ。蝋細工のような白い無機質な顔と真っ赤な瞳がそこにはあった。紛れもなくそれは、カハ=レルゼルブゥアだ。

『なに…? どういうこと…? 私、何かしちゃったのかな…?』

混乱する頭でそういうことを考えていたユウカだったが、答えが出る筈もなく、どうしていいかも分からないまま恐る恐る歩き出して、軽く会釈をしながらその前を通り過ぎた。だがカハ=レルゼルブゥアは特に何かしてくるでもなく声を掛けるでもなく、ただユウカのことを見ているだけだった。それがまた意味不明で、ユウカの頭はますます混乱していた。

ここでは、体の傷が治るのと同じで、たとえ時間はかかっても心の傷も必ず治る。そもそも無限と言っていいほど時間があるのだから当然だろう。また、脳そのものが損傷したとしてもむしろその方が体の傷と同じくきちんと回復するので、発狂するということもない。とは言え恐怖は感じるし不安も感じる。相手がただの人間であってもこんなことをされたら普通は怖い。しかもそれが邪神だというんだからその恐怖は尋常ではなかった。いくら『死なない』と言われても、それを完全に実感するには彼女はまだ経験が浅すぎた。だから怖い。

『なんなの、なんなの、なんなの……!?』

なるべく平静を装おうとしても、無意識に足が速くなる。とにかくこの場から逃げたいという気持ちが無意識のうちに体を動かしていた。なのに……

「―――ひっっ…!!」

もう後ろは振り向くまいと心に決めて歩いた先に、またそれはいたのだった。カハ=レルゼルブゥアだ。まるで感情を感じさせない、冷たいのに燃えるように赤い瞳が、真っ直ぐにユウカを捉えていた。

『ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…!』

何が悪かったのか何に謝っているのか彼女自身にも分からなかったがとにかくそう心の中で何度も謝りながら、彼女は早足で歩き続けた。

「あ、ユウカも来たの?」

折れそうになる自身の心にムチ打って夢中で足を動かし、買い物に行く筈だったショップに着いた時、不意にそう声を掛けられた。思わずその声の方に目を向けると、そこには見慣れた少女の姿があった。

見た目には十歳には届かないくらいの幼さの少女の名はガゼ。<書庫>に来てできた友人の一人だった。

そのガゼが嬉しそうにこちらを見て手を振っている。だが、その顔はみるみる険しいものになっていく。

「どうしたの…!?」

声は決して大きくないが、固く力の込められた言葉がユウカに投げ掛けられた。ユウカの表情が尋常ではないことに気付いたからだ。怯えきって青白くなり、涙ぐんでさえいる。明らかに不穏なそれだった。

「あ、ガゼちゃん。大丈夫、何でもないから…」

何でもないとは言うものの、その姿はとてもそうは見えなかった。なにしろ不安そうに後ろを振り返り、何かを確かめようとしていたのだから。

「なに? チカンでも出たの…?」

ここでは滅多にそんなものも出ないが、ごくたまに、酔っぱらったりして不埒な真似をしでかす奴はいる。ウブなユウカにとってはそういうものも大きな恐怖になるだろう。ユウカに無礼を働く輩がいるとするなら、それはガゼにとって許せることではなかった。

ユウカを庇うように立ち、ガゼは周囲を見回した。だがその時、ゾクリとしたものがガゼの背筋を奔り抜けた。すると、さっきまで間違いなく何もいなかったはずの、ガゼとユウカのすぐ脇に、真っ黒な人影があったのだった。

ガゼは反射的にそいつの腹目掛けて容赦ない正拳を突き出していた。

実は彼女は、そのあどけない少女のような外見に反し、人間離れした体術の使い手であった。

そんなガゼがまったく手加減なく放った、いくら何でも出会い頭にそれはマズいという一撃だったが、距離もタイミングも申し分なかったはずのそれは、まるで手応えなくそいつの腹に僅かに触れた程度だった。間合いは確実だったはずだ。なのに、腕が伸び切って威力が全くなくなったところでようやく触れたのである。

『バカな…っ!?』

自分が間合いを図り損ねるなど有り得ないと、ガゼの顔が驚愕のそれになった。それと同時に、全身から汗が噴き出した。冷たい汗だ。恐怖を感じた時に出るそれだった。

ガゼの頭上、はるかに高いところから、蝋細工のように白く無機質な顔と、血のように赤く、それでいて全く感情というものが読み取れない冷たい瞳が彼女を見下ろしていた。

『ダメだ…私はこいつに勝てない…!』

一目見て分かった。ガゼは非常に優れた格闘者である。だからこそ、相手の力もある程度は読み取れてしまうのだ。それが本能のレベルで危険を伝えてきた。こいつは強い。しかもその強さの底が全く測れない。それが分かってしまった。

それでも彼女は諦めなかったのだった。ユウカを守る為に。

しかしこの時、ガゼの前にいたそいつは、粗暴とか喧嘩っ早いとかそんな次元ではなかった。テロリストか、それ以上の存在である。少なくとも、ガゼはそう認識した。

ガゼが元いた惑星せかいは、組織同士、地域同士、国家同士の諍いが絶えないところだった。その為、その星の人間たちは幼い頃から戦う術を叩きこまれ、その結果としてガゼのような特異な才能を発揮する者を生み出すこともあった。そう、ガゼの能力の高さは、彼女の世界でも異能と呼べるほどのものだった。だがそのガゼをもってしてもまるで敵わないと思わせる存在が、危険でないはずがない。

それでも、彼女はユウカを守りたかった。幼い姿にはあまりに不釣り合いな力を持ってしまったのは、まさにこういう時のためのものだとも思った。結果として敵わないかも知れないが、それでも最後まで足掻いて見せてやる。彼女はそう自らに言い聞かせ、挫けそうになる自分を奮い立たせた。

だが、ガゼの決意は立派ではあっても、いかんせん相手が悪すぎる。ガゼは知らなかったが、相手は邪神の一柱なのだ。人間がどれほど足掻こうとも歯牙にもかけない、まるで次元の違う存在なのだ。

にも拘らず、ガゼは自身の小さな体の中で力を練り上げ、己の全てを叩き付ける機会を窺った。じりじりと間合いを詰めていく。

が、彼女が練り上げた力を解放しようとしたその瞬間、その声は掛けられた。

「待て! やめろ! 無駄死にしたいか!!」

それは、体だけでなく魂にまで叩き付けるかのような喝だった。ガゼの体がビクンっと跳ね、動きが止まる。ユウカに至っては、腰まで抜かしそうになっていた。二人が思わずその声の方に振り向くと、そこにいたのは、荒んだ目つきをしてこちらを睨み付ける、棘だらけの鋲付きジャケットを羽織った女だった。

「…ヘルミ…さん…?」

ユウカがほとんど無意識にその名を口にした。

そう。そこにいたのは紛れもなく、ユウカと同じアパートの三号室に住む、ヘルミッショ・ネルズビーイングァであった。

「そいつは邪神だ。人間が勝てるとか思ってんのかバカが!」

カハ=レルゼルブゥアを相手に決死の一撃を浴びせようとしていたガゼを、ヘルミが一喝した。それにより体の中で練り上げていた力がまとまりを失い、ガゼは攻撃に移るきっかけを失ってしまったのだった。しかも、自分が正対していた相手が『邪神』と聞いて、全身にいっそう冷たい汗が噴き出してくるのを感じていた。彼女の惑星せかいでも、邪神の脅威は魂にまで刻み込まれるほどに知られていたのである。

言葉も出せずにカハ=レルゼルブゥアを見上げるガゼにはもう構わず、ヘルミが声を発した。

「久しぶりだな…」

それに、ここまで一言も発してこなかったカハ=レルゼルブゥアが呟くように「お前か…」と応える。

『え? なに? お知り合い…?』

状況が理解出来ず混乱するユウカの前で、今度はヘルミとカハ=レルゼルブゥアとの間で緊張感が高まっていくのを感じた。それを見てユウカもアーシェスが言っていたことを思い出す。『ヘルミの惑星ほしでは、邪神に対抗するために強い魔法使いを育てようとしてたの』という話を。だとしたら、邪神のことをよく知ってても当然かもしれないし、邪神に対する強い感情も当然かもしれない。

しかし―――――。

あのバーで見た光景を思い出すと、いくらヘルミが魔法使いだとしてもとても勝てる相手だとは思えなかった。魔法を使える程度の人間が敵うような存在だとは思えなかったのだ。そしてそれは事実だった。魔法だろうと科学だろうと、邪神そのものを滅ぼそうとして成功した事例は一つとしてなかったのだ。せいぜい、封印して一時的に退けるくらいである。

もう、ガラスのように手で触れられそうなくらいに硬く張り詰めた空気に亀裂が入りそうな気がした瞬間、ユウカの体が勝手に動いていた。

「だめえっ! ヘルミさん死んじゃうっっ!!」

自分でも気付かぬうちにそう叫んで、彼女はヘルミに抱きつくようにして止めようとしたのだった。実はガゼの時にもそうなりかけたが、その寸前にヘルミが割り込んできたのである。

「ムリだよぉ…ヘルミさん死んじゃうよぉ……もうやめてよぉ……」

ユウカは、ヘルミの体に抱きついたまま泣いていた。幼い子供が駄々をこねるように何度も何度も懇願しながら。その様子を例の無機質な顔で見ていたカハ=レルゼルブゥアが、静かに声を発した。

「心配要らない…彼女は、私のバンドの元メンバーだから……」

「……はい…?」

カハ=レルゼルブゥアが発したあまりに思いがけない言葉に、ユウカもガゼも、呆然とするしかできなかったのだった。



とまあ、ここから先も話は続くのだが、取り敢えず以上が、ンブルニュミハによってデータ化され<書庫>へと送信された<もう一方の石脇佑香>の様子である。

鏡の表面に焼き付けられた方と違い、非常に高度に肉体の反応さえ再現される<書庫>では殆ど本来の人間性は失われずに残っているようだ。

同じ人間であっても、状況によってここまで差が出るという話だろうな。

ああ、それから、<書庫>の中のクォ=ヨ=ムイと私とでは随分と印象が違うように感じるだろうが、私という存在は常に変化しており、その時々によってまったく表向きの性格も違ったりするのである。

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