JC邪神の超常的な日常

京衛武百十

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春休みの章

皮肉

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「……?」

自分のことを『ケンスケ』と呼んだ日下言葉ひかげこのはには構うことなく、貴志騨一成きしだかずしげは完全に戦意を失いうずくまる男を確認し、踵を返した。

ナイフなどの武器を構える様子もなかったことで、制圧が済んだと判断したようだ。となればもう、用はない。元々関わるつもりもなかったのだから、さっさと立ち去るだけだ。

何も言わずに、それどころか自分のことを見もしないで去っていく貴志騨一成に、日下言葉は、

『あ…待って、待ってください…!』

と声を掛けようとした。しかし、男に拉致されたショックからはまだ完全に抜け出せていないのか、言葉にならない。声が出ない。

仕方なくそのまま貴志騨一成を追いかけるものの、脚にも力が入らず上手く歩けなかった。

しばらく追いかけてようやく普通に歩けるようになった時には、貴志騨一成は自転車に乗って走り去ってしまった。

そのカゴには、昨日、玖島楓恋くじまかれんから貰ったビーフシチューが入れてあったタッパーがあった。タッパーを返すために玖島楓恋の家に向かう途中、今回のことに遭遇したというわけだった。

「待って…! ケンスケ…!」

もうすでに小さく辛うじて見えているだけの貴志騨一成の背中に向かってやっと声を掛けられたものの、気にする気配すらなく、角を曲がって見えなくなってしまった。

「ケンスケ……」

そこで日下言葉は立ち止まり、手にした図鑑をぎゅっと抱きしめて呟いたのだった。



仕方なく家に帰った日下言葉は、自身が遭遇した事件を母親に報告。母親はすぐにそれを警察に通報し、拉致監禁未遂、暴行未遂事件として捜査が開始されることとなった。

そして実は、以前からあの路地の危険性を感じていたコインランドリーのオーナーが、店の防犯用と見せかけて路地の方が映るように防犯カメラを増設していたことで、男が日下言葉を拉致した瞬間がしっかりと映っており、有力な手掛かりとなった。

男はそこが死角になっていることを承知していて犯行に及んだのだが、コインランドリーのオーナーが防犯カメラを増設していたことには気付いてなかったのである。

皮肉なことに、コインランドリーの看板が、増設されたカメラを見えにくくする死角を作り出していたのだ。

死角を利用して自らの欲望を果たそうとした男が、逆に死角によって己の犯行の決定的証拠を捉えられるという形になったという訳か。

しかも新しいカメラは解像度が高く、身体的特徴や服装どころか人相まではっきりと映し出していて、画像を拡大するだけで少々ピントが甘い感じのスナップ写真と大差ない写真が用意できてしまった。

なので、警察が男を突き止めるにはさほど時間を要しなかったのだった。

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