宿角玲那の生涯

京衛武百十

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伊藤玲那編

諦観

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体を洗い、ワンピースと下着を身に付けた玲那は、再び母親に引きずられるようにして男の部屋を後にして、母親の運転する自動車の後部座席で呆然と座っていた。その間も、あれほど何度も洗ったのに体の中からドロッとしたものが溢れてくるのを感じて、また涙が零れてくるのも感じたのだった。

しかし京子けいこはそんな娘に労いの言葉一つ掛けることなく、家の前に自動車を止めると、

「じゃあな。さっさと寝ろよ」

とだけ言って走り去ってしまった。大した神経をしているものだ。

時間はまだ十時を過ぎたところだったが、玲那にとってはまるで何日も過ぎたかのような悪夢の数時間だった。明日が土曜日だったことがせめてもの救いかもしれない。土曜日も日曜日も、彼女はまるで心をどこかに置き忘れてきたかのように呆然と過ごした。寝るとあの時のことを夢に見て、何度も目が覚めた。その度に勝手に涙がこぼれた。

月曜日には仕方なく学校に行った。普段から陰鬱な彼女が陰鬱に振る舞っても殆どの人間はその違いに気付いてはくれなかった。担任の女性教師だけは何となくいつも以上に落ち込んでいるかなと思って職員会議でそう報告したが、『注意深く見守りましょう』という結論止まりでそれ以上の踏み込んだ対応は取られなかった。

いや、注意深く見守ろうと思ってもらえるだけでも恐らく当時としてはかなり丁寧な対応だったのだろうが、少なくとも学校内では大きな問題が見られる訳でもなかったので家庭内のことだと見做されて、あくまで見守るだけに留められてしまったのだった。

確かに、学校内でのことは学校に責任があるだろう。さりとて学校は保護施設でもなければ司法組織でもない。家庭の問題までは首を突っ込むことができなかったのである。精々、『虐待の疑いあり』と児童相談所に通告する程度が関の山だった。児童相談所の方としても、実は小学校に上がる頃には彼女は両親からの暴力を避けるコツを身に付けてしまっていたこともあって痣を作るようなこともほぼなく、また、両親の方もそれなりに世間体を繕うという悪知恵を身に付けていたこともあり、虐待を疑わせる際立った所見も見られない為に表立って動くことができないという事情もあった。この頃はまだ、警察との連携も十分ではなかったというのもある。

世間としても、子供を厳しく躾けることはよいことだという認識が一般的であり、『躾だ』と言い張られてはそれを敢えて『虐待だ!』と強く指摘するのが憚られるという空気がまだまだ支配的だった。

そんな中で取り残されてしまった子供は、玲那だけではなかっただろう。他にもそういう子供はたくさんいたのだと思われる。『熱心な親による厳しい躾』という美辞麗句の陰で、人間として扱われなかった子供達は。

もちろん、子供に人としてどうあるべきかということを伝えるのも親としては大切な役目であるのは確かだ。しかしだからと言ってそれを伝える手段に人としてどうかというやり方を用いていい訳ではない筈だ。暴力で相手を支配するという行為が人として正しいのかどうか悟るのは、冷静的かつ客観的に考えればそれほど難しくない筈なのだが……

いずれにせよ、躾と虐待の狭間のエアポケットのような部分に、玲那ははまり込んでしまっていたのだと言えた。そのエアポケットのような部分が、この頃はまだとても大きかったのだ。

身近な誰かがそれをおかしいと気付くことができたなら、あるいは彼女は救われていたのかもしれない。

だが残念ながら、この時はまだ誰もそう声を上げてくれなかったのである。

そんな中で、彼女は十歳の誕生日を迎えていた。誰一人祝ってくれる人のない誕生日を……



あれから一週間。玲那はまた家から連れ出されていた。

「へえ! この子がそうですか! 可愛いですやん! まさかこのレベルの子が来るとは思いませんでしたわ!!」

興奮を隠しきれない感じでテンション高くそう言った、どことなく痩せたネズミをイメージさせるその男は、前回の男の知人だった。あの男の紹介で今回、玲那を<買う>ことになったのだ。

この時点でもう、彼女の顔は蒼白で、またあの時と同じことをされるのだと悟っていた。なのに逆らう術を持たない玲那は、言いなりになる以外にできることがなかった。

『子供は親に従うべき』

その理屈で言うのなら、玲那は実に<良い子>だった。親に歯向かうことをせず、自分のことは自分でできて、それどころか、掃除も洗濯も自分で行い、ご飯も自分で炊き、最近では焼き魚くらいなら自分で用意するようにさえなっていた。ようやく十歳になったばかりの子供がである。それだけを聞けば『なんて良い子!』と誰もが絶賛するだろう。

だがそれは、彼女にとっては生きる為に仕方なく身に付けていったことだ。しかも親に教わったのではなく、テレビなどを見て自力で身に付けていったのだ。これを認めるのなら、親など存在しなくてもいいだろう。子供は親から離れて暮らし、政府が親から金を徴収し、それを子供に生活費として支給して勝手に大きくなってもらえば済む筈だ。しかし、それを正しいと思う人間はそうはいないのではないだろうか。

それなのに、玲那の両親はそれを実行していたのである。子供を一人で住まわせて、金だけ渡して何もかも自分でやらせるということを。

これでまともな人間に育つと考えるなら、それは人間という生き物をまるで理解してないと言わざるを得ないかもしれない。子供は親を見て生き方を学ぶのだ。子供がおかしなことをしてるなら、それは親のやり方におかしな部分があるからだ。他人を蔑ろにする親の子は他人を蔑ろにすることを学び、他人を力で支配する親の子は他人を力で支配することを学ぶ。

玲那が今、大人しくしているのは、それは彼女が非力だからでしかない。逆らっても勝てないということを理解してるから、今のところは従っているだけだ。だが彼女が成長し、力をつけ、そして自分の力が親を上回ったと自覚したらどうなるだろうか? 素直に親に従うだろうか? 力で他人を従えるということを学んだ彼女が、本当に今と同じく大人しくしているのだろうか? 今度は自分が親を力で従えようとするとは考えられないだろうか?

子供を支配してきた親は、力関係が逆転した時に子供に支配されるようになったりはしないだろうか?

力とは、単純に体力のことを言うのではない。知恵もそうだし、それよりももっと手っ取り早く武器を手にすればそれは大きな力になるだろう。ナイフを買い集め、その使い方を習熟すれば、小学生でも十分に大人に勝てるようになる。力に頼る者は、より大きな力の前には屈するしかない。たとえそれが、武器などという道具の力であっても。

もっとも、今はまだ、玲那にはそこまでの発想はなかった。体も小さく、力も弱い自分が逆らっても無駄だということを思い知っているだけにすぎない。だから彼女は一方的な被害者の立場に甘んじているのだ。

そして今も、男の欲望に弄ばれ、体を性の玩具にされ、力尽くで組み敷かれていた。まだ三度目の膣への挿入は痛みしかなく、その種のフィクションのように甘い感覚など彼女には全くもたらさなかった。彼女の膣はまだ未熟で、その種の感覚が発達していないからだ。ましてや嫌悪感しかない相手にそんなことをされても気持ち良くなどなれる筈がない。フィクションと現実は違うのだから。彼女が痛みに耐えられているのは、ただ諦めているからでしかない。

『自分は何をされても大人しくしていなきゃいけないんだ……』

その諦めの気持ちが、この時の玲那のすべてであった。そんなことを、十歳になったばかりの少女が思っていたのであった。

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