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二章
十、また会おう
しおりを挟む「なぁ、あんた。少し聞きたいことがある」
「うん?」
屋根の下。律儀に槍を手にしながら警護に努め、外の雨を眺める男。
諸葛恪は戸を開き、そこに床几を置いて腰を掛けた。
「あんた、あの村の出身だって言ってたよな。水に流されていた、あの」
「あぁ」
「どれだけ生き残った」
「分からん。普通ならあそこまで水が来ることはないが、朝方、急にだ。恐らく上流の堰か何かが崩れたんだろう。ほとんどが逃げる間もなく流されたよ」
「あんたは幸運にも生き残ったと」
「いや、不運さ。あと、俺の名は馬宗だ」
よく見ると、雨を眺める馬宗の顔にはかすかな"恨み"が見えた。
しかし相手は雨であり、川である。どうにもできないことは分かりきっていた。
だからこそ苦しいのだろう。何を恨めばいいのか。それは結局、全て自分ということになる。
「馬宗、実は俺は怪異に興味があってだな。ここに来た理由の一つにも、実はそれがある」
「うげぇ、物好きな奴だなお前。いくら顔が良いとは言っても、首が取れるやつを側に置くなんて気が知れないぜ」
「何とでも言え。それでお前に聞きたいのはこれだ。これを見たことはないか?」
諸葛恪が懐から取り出したのは一枚の布切れ。
それをひらくとそこには、間抜けな蛇が描かれており、背に生えた四枚の小さな翼はヒレのようでもあった。
「なんじゃこりゃ、お前が描いたのか」
「羽の生えた蛇だ」
「鰻だろ。小骨が多くて食いにくいんだよなこれ」
「蛇だって言ってんだろ。どうやらこの蛇が現れると雨が強く降り始めるのだとか。最近の長雨もこいつの仕業だって噂だ」
「そんなことが出来る怪異もいるのか」
「記録にある蛇の怪異は多い。中でも"化蛇(かだ)"という、翼を持った蛇の怪異が居る。そいつが鳴けば洪水が起こるなんて話もある」
これも赤子の泣き声のように鳴く怪異であり、春秋時代に洪水を引き起こしたという逸話もあったりする。
しかし「顔は人面、胴は毛皮に覆われ、鳥の翼を持つ」という外見の特徴が合致しなかった。
他には「四枚の翼を持つ蛇」という特徴を有する「鳴蛇(めいだ)」という種類もいるが、こっちは旱魃を引き起こす怪異であった。
「お前さん、本当に物知りなんだなぁ」
「それが取り柄だからな。だが、こうして俺の知らないヤツも出てくる。全くもって面白いな、この世は」
「面白い、か。考えたことも無かったよ」
「そりゃ損だ」
「…あの洪水が起きた日、俺は病の妻を背負って逃げたが、老いた父母を見捨ててしまった。今でも雨の日は一日中、その光景を思い出す」
「そうか」
「その絵を俺にくれないか?この"間の抜けた蛇"を見てれば、なんだか笑えてくる。少しだけ、この世を面白いと思える気がするんだ」
「いいだろう。代金は今度会ったときに貰おうか」
「へへっ、クソ商人め。あんたみたいな頭の良い人が味方になってくれると勇気が湧いてくるよ。悪かったな、槍を向けちまって」
照れたような笑顔で差し出された手。長く畑仕事に従事してきたのであろう、分厚く黒ずんだ手であった。
喉の奥がグッと痛む。それでも精一杯口角を上げて、諸葛恪は差し出されたその手を握り返した。
どうやら既に楊甜らはどこからか抜け出したらしい。後は自分がどう立ち回るか、それだけである。
こうしてしばらく雑談を交わしていたときである。
去ってまだ間もないはずのあの長老が、十数人は居るであろう武装兵と共にやってくるのが見えた。
明らかに馬宗は慌てており、諸葛恪は一歩前に進み出る。
「如何なされましたか。雨も降る中、傘もささず。お体に障りましょう」
「鮮やかな弁舌を前に、いつしか儂は夢を見せられていたような気分じゃった。もしかしたらお主が居れば呉に本当に勝てるやもしれんと、夢を見た」
「さて、何のことでしょう」
「こやつを捕らえよ!」
「──動くな!!」
長老が捕縛を命じた瞬間、諸葛恪は飛び出す。袖から先の鋭い鉄の棒を露出させ、長老の喉元に突きつける。
武装兵達もそれ以上は動けず、ただ雨の音だけが辺りに響いていた。
「暗器まで仕込むか。どこまでも抜け目のない。流石じゃ、"諸葛恪"殿」
「もう気づくとは恐れ入った。貴方こそ何者なんだ」
「…怪異を恐れず飼いならすような男、天下広しと言えど貴殿くらいなもの。むしろ気づくのが遅かった」
「降伏しろ。従者の二人は既に逃がした。直に呉軍がここに来る」
「その従者が生きて出れると思うか?既に追手は差し向けとるわ。この山は、儂らの庭じゃぞ」
互いに目線は逸らさない。
だが長老は手をひらひらと振り、武装兵達を大きく数歩下がらせた。
それと同時に諸葛恪も突き付けていた鉄棒を再び袖にしまう。
「儂らはここを出る。立地が良すぎる拠点が故に、地理を知る者ならすぐここに拠点があると推測出来るのが難点じゃったしな」
「…嘘をついて悪かった。だが、同時に本心も語ったつもりだ」
「だから許せと?人を騙しておいて、傲慢極まりないぞ」
「傲慢な性格は承知の上。傲慢でなければ、今の呉を変えたいと本気で思わないだろう」
「天才と聞いていたが、存外お前は阿呆なのだな」
ふぇふぇと笑う老人。既に辺りに武装兵の姿はなく、それどころか人の気配すら感じない。
長老はそのまま馬宗の下まで歩き、事情を把握できず途方に暮れていたその手を取る。
諸葛恪はただその様子を見ていることしかできなかった。
「荷馬車の礼じゃ、お前の命は助けてやる。その逃げた従者らが上手く兵を連れてこれたなら、お前も帰れるじゃろうな」
「また会おう」
「お前とはもう会いたくないわい」
二人はそのまま暗き森の中へと消えてゆく。
もう誰も居ない山奥。一人、諸葛恪は大きなため息を吐いた。
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