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三章
六、友と呼ぶ男
しおりを挟む孫権との謁見から数日が経った。
その間、諸葛恪は自室から一切姿を現さず、限られた人間しか立ち入ることを許さなかった。
そして楊甜はその限られた人間に入っていなかった。
「時間が出来て勉強の時間は増えたけど、ずっと部屋に居ると息が詰まってくるね」
「そうねぇ」
針仕事をする楊燕の側で、書簡を書き写している楊甜は大きく伸びをする。
だいぶ文字の読み書きも出来るようになってきたが、やはりまだまだ複雑な意味をもつ言葉の理解は難しかった。
墨で汚れた手を眺めながら、数日前のことをぼんやりと思い返す。
思えばあの日から諸葛恪の雰囲気は触れ難いほどに鋭くなり、張り詰めたようなものになっていた。
「なんかご主人様、あの日からずっと怖いんだよなぁ。うかつに話しかけることも出来ないような」
「私は御屋形様のことはよく知らないけど、でも確かに屋敷の全体が重苦しいわよね」
「うん。なんだか急に遠く行っちゃったような」
すると扉がコンコンと叩かれる。誰だろう、来客なんてめったに来ることは無い屋敷の奥の一室に。
はい、そう言って楊甜は立ち上がると、扉の向こうより「顧"子直(顧承のあざな)"です」との声が聞こえて思わず足が止まってしまう。
「…え、子直さん?」
「立ち寄ったついでに、甜ちゃんに挨拶しときたいなって」
恐る恐る戸を開くと、そこにはニコニコの顧承が立っていた。
遠慮なくズイズイと入ってきては、楊燕の姿を見つけて丁寧に頭を下げた。
「こちらの方は?」
「えっと、あの、姉です」
「お義姉さまでしたか。私、楊甜殿とは命を預け合った無二の友であり、騎都尉を務めております顧子直と申します」
「こ、これはご丁寧にどうも」
呉王朝の顧氏といえばこの国きっての名門。朱桓の屋敷で働いていただけに、当然"顧承"の名も楊燕は聞き及んでいた。
そんな高貴な立場の人が、愛弟のことを「無二の友」と呼んだ。緊張のせいか体中がガチガチに硬直して、頭を下げたまま動けそうにない。
「それで子直さん、今日は、どのような御用で…?」
「そう固くならないでよ。今日は君に謝りに来たんだ。君のご主人様に呼びつけられて、そんで酷く説教されてね」
「へ?」
「上大将軍"陸遜"。この人は俺の叔父で、直属の上司で、敬愛する無二の御方だ。だからポロっと君のことを、この人に話してしまった。迂闊だった」
「落頭民のことを、ですか?」
「直接そう言ったわけではないが、あの人はこの国の全てを握っている。少し怪しいと見れば、素性を割ることは容易だろう」
顧承は「すまない」と言って深々と頭を下げた。
立場が違う。容易く人に下げて良い頭ではない。慌てて楊甜はその肩を掴んで、頭を上げさせようとする。
しかし力が入っていた。その力の強さが、顧承の反省の意志の強さでもあった。
「叔父上は少し人と違って、あらゆる物事を冷静かつ正確に見極める。公私の別は一切無く、故にその判断は冷徹でもある」
「そういえばご主人様は先日、その上大将軍と面会なさっていました。僕は同席できませんでしたが」
「恐らくその時に何か言われたのだろう。元遜(諸葛恪のあざな)殿は叔父上を酷く嫌っている。志向する政策も異なる点が多い」
「僕に関することで、何か言われたのかも、と?」
「そうだ。叔父上が何を言おうとしたのかは、あの人を知っていればすぐ分かる。恐らく君を殺せと、もしくは殺すと、そう言われたのやもしれない」
事の重大さがようやく分かった。楊燕も思わず息を漏らし、青冷めた顔色をしている。
陸遜に目をつけられたというのは、この国にはもう安住できる場所は無いという意味に近い。
「俺は叔父上を尊敬している。本当に凄い人なんだ、あの御方は。でも同時に君を友だとも思っている。これは叔父上に何を言われようと変わらない気持ちだ」
「あ、ありがとうございます」
「元遜殿は叔父上とは真逆で、山越族や怪異に対して敵愾心は無く、共存の道を模索している。これは本当に厳しい道だから、どうか支えてあげて欲しい」
「僕が、ご主人様を」
「きっとこれは甜ちゃんにしか出来ないと思う。勿論、俺も協力する。今日はそれを伝えに来たんだ」
張昭といい、顧承といい、どうして自分にそう言ってくれるのだろうか。
嬉しさよりも不思議さが勝った。諸葛恪は人の助けが居るような人なのかと、僅かにそんな気持ちも浮かんでくる。
「それにしても今日の元遜殿の説教は、久しぶりにいつもの元遜殿って感じがして怖かったよ」
「いつもの?僕はなんだか、最近のご主人様はいつもと違うような気がして」
「いや、近頃の元遜殿の方が俺にとってはおかしかったくらいだ。甜ちゃんのおかげで少し柔らかくなってたんだろうな」
殴られたり蹴られたりしてるのに、柔らかくなった?
思わず首をかしげる。
「覚えておくと良いよ、今の元遜殿の方が皆のよく知る元遜殿だ。張り詰めていて、才気を剥き出しにしたような、誰も近寄らせる気のない感じのね」
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