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第二話
しおりを挟む「もしかして、それは奥方様ですか?」
「そうだ、懐かしいな」
昔を思い出し、鼻の奥がツンと痛くなる。ひとつ大きく息を吐くと、気休め程度には楽になった気がした。もうあのような日々は戻ってこない。知らせでは「僑」も既にこの世にはいないらしい。
そんな張バクの心中を察したのか、黄嘉はうつむき、主人の次の言葉を待つ。
「それじゃあ、次はこの人間について聞いてみたい。お前は『董卓(とうたく)』を如何に思う」
明らかに黄嘉の表情が変わった。
数年前、帝を操り、何もかもを自らの欲のままに動かし、残虐な行いを続けて都を火の海にした悪魔の名前がその董卓である。黄嘉の父や母も、董卓に殺された。商人であった黄嘉の父母の金や家財を奪う為に、脅されもせず突然殺されたのだ。
「皮を剥ぎ、肉を犬に食わせてやりたい。何度殺しても、殺したりなかった存在です」
「たしかに奴はこの世の害悪の象徴だった。しかし、董卓とて最初からそうであったわけではない。こうなる前の董卓は、私が心から尊敬していた『英雄』だったのだ。特にお前には知っていてほしい、董卓が、いかなる人物であったか」
四百年続いた「漢」朝廷も、もはや終わろうとしていた。早くして崩御する皇帝が何代も続き、朝廷の権力は皇帝の世話役でしかなかった宦官に集中。賄賂や汚職が蔓延し、官職も金を払えば買える程だ。当然政治は機能せず、全国では貧困に苦しむ民の反乱が相次いだ結果、賊が増える事態につながった。
そんな中、およそ三十万にも膨れ上がった黄巾賊による「黄巾の乱」が発生。
兵力差も劣勢である中、黄巾賊に対して善戦していた将軍「盧植(ろしょく)」は宦官への賄賂を拒み免職となり、その抜けた穴に入ったのが「董卓」であった。
「わざわざこんな最前線の戦場に足を運んで、苦労をかけたな。張バク殿」
「いえ、これも仕事ですから。董卓将軍の勝利を願い、朝廷から贈り物を届けるようにと。駿馬や食料、美酒などがあります」
「フン、とか何とか言いながら、宦官の腐れ野郎共に渡す賄賂の受け渡し役であろう。賄賂はもう用意してある、持っていくといい。名士と名高い貴殿も、面倒な立場だな」
董卓は、喜怒哀楽のはっきりとした剛直な人物であった。体は逞しく、規格外の大きさ。張バクも身長は高い方だったが、董卓は上背も厚みも比較にならないほどである。
流石、異民族の幾度の侵攻を食い止め、百戦百勝したと言われる噂に違わぬ豪傑だ。第一印象から、張バクはそう思った。
されど不思議と威圧感はない、むしろ親しみ易い人物である。よく笑い、貰った恩賞は全て部下や兵士に与え、決して身分などで人を差別しない人だった。
「張バク殿、儂は辺境の地の、ただの名も無き武人に過ぎなかった。しかし徐々に功績を挙げ、今では最強の呼び声が高い騎馬兵を持つ有力な将軍の一人となった…そこで分かったことがある。儂は、この国を変えたいのだ。身分など関係なく、流民でも有能ならば国の頂点に立つことが出来るような、そんな国にしたい。そうすれば常に有能な人間が国を治め、永久に亡びない」
美酒の入った樽を一つ空にして、董卓は酒宴の席で張バクにそう語る。まるで子供の様に、剛直な豪傑が夢を語っていた。そして張バクは、その夢が到底成しえないものであることを同時に理解した。董卓の語る世界は、中華の歴史の根底にある、皇帝制度そのものを否定している内容であったからだ。
夢は所詮、夢だ。そう頭では分かっていても、その夢に張バクは耳を傾ける。この老将は曹操にどこか似ている。そう思った。
「とはいえ、儂はこの戦いに敗れるだろう」
「え?まだ、小競り合い程度にしか兵を動かしてないのに、どうしたのですか?」
「この兵士達は儂の配下の者達ではなく、朝廷の兵。ろくに馬に乗れないやつが多く、さらに儂はこのあたりの地形を全く知らず、策にも疎い。敵は失うものは何もない、死ぬことさえ恐れない『死兵』。地理感、士気、これらが欠けて勝てる見込みは少ない。正直、いかに被害少なく負けるかを考えている」
百戦百勝の董卓将軍には似合わない弱気な発言だった。張バクはそれに微笑んで返す。
「大丈夫です。かの高祖である劉邦の最大の敵であった、天下無双の豪傑項羽。その項羽の再来とまで言われている董卓将軍ならば、必ずや勝利するでしょう」
「はっはっは!褒め達者だな。儂の配下に貴殿の様な人間がおればどれほど心強いか」
「吉報を心よりお待ちしております」
酒宴も終わり、張バクは深く礼をして幕舎を後にした。現実的にはとても成しえないだろうが、彼の言う世界が実現すれば、と心を躍らせながら帰路に就く。まさに董卓こそ、英雄だとも思った。
それが大きな間違いであることなど、露ほども考えなかった。
都に戻って間もなく、董卓将軍の敗走の知らせが都である洛陽に届いた。やはり、董卓自身が懸念していた通りに事が運んでしまい、敗走したのだという。
そしてまたすぐに後任が決まる。それは各地の黄巾族の討伐で最も功績を挙げていた「皇甫嵩(こうほすう)」将軍だ。曹操は、皇甫嵩将軍の下で功績を挙げていたとか。
そして結果は、皇甫嵩の大勝利。黄巾の乱を鎮圧するに至った。
実直で決して驕らず、民を労り、頑なに堅実であった皇甫嵩には当然の様に人心が集まった。しかしそれを恐れ、折り合いの悪かった宦官らは難癖をつけて彼を追放してしまった。腐るところまで腐ったな。誰しもが抱く感想がそれであった。
その後、功績を挙げた曹操は皇帝を護衛する近衛兵の隊長の一人に、袁紹は名門の力もありその隊長らをまとめる将へと昇格した。
そんな中であった。正史に残るだろう一大事件が起きたのは。
『十常侍の乱』当時の大将軍「何進(かしん)」と袁紹が起こした事件だ。
大将軍に取り入った袁紹が最初に目指したのは宦官の根絶やしだった。名門の生まれとして、宦官に実権を握られていたことが、長い間彼の心に深く傷をつけていたのだろう。
袁紹に唆された何進は、各地の群雄に招集をかけ、その兵力を背景に宦官を脅して掃討するという計画を立てた。
「兄貴は、復讐のことしか考えてない。宦官の排除は近衛兵だけで十分なのに、これじゃあ新たな脅威を都に招き入れるだけだ」
二人で会うと、曹操はいつもそうやって愚痴をこぼした。
そして、時は急に訪れる。
身の危険を感じた宦官の長達の「十常侍」は、大将軍の何進を暗殺。それに激怒した袁紹は、近衛兵全軍を率いて皇帝の屋敷である宮殿に入り、宦官の虐殺を開始した。しかし十常侍はそんな混乱の中、まだ幼い皇帝を連れ都の外へと逃げだしたのだ。
その皇帝を救い出したのが、号令に際して逸早く駆け付けていた董卓将軍であった。
「儂が、最高官位の『丞相』になろうとは。全く人生とは分からんな、張バク殿」
「混乱の中から陛下をお救い致したのです。恥ずかしながら、近衛兵達は結果として陛下の御身を危険に晒してしまいました。したがって最もの功績者は董卓将軍の他にいません。胸を張って下さい」
「覚えておるか?儂の語った夢を。所詮夢だと思っていたが、今はそれが手に届きそうなところまで来ている。お主がおれば心強い、世を正す為に協力してくれ」
正装がむず痒いのか、董卓は大きな体をすくめて張バクに照れた笑みで頭を下げる。
「そんなっ、頭を上げて下さい。宦官に流浪にされてしまった役人にも優秀な人材は多々おり、中でも『王允(おういん)殿』『蔡邑(さいゆう)殿』の才は抜き出ています。そういった優秀な人材を用いて政治を行って下さい。微力ながら、私も尽力しましょう」
頭を上げた董卓は、大きく笑った。
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