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共感疑義
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市民倫理訓練センターの昼休みは、時計の針が正午を示した瞬間に始まる。
それは“自由時間”とされているが、実際には自由の形をした無為である。会話はしてもよいが、会話の内容は記録され、感情の起伏も逐次測定される。笑いすぎれば過剰、黙り込めば陰性、共感しすぎても操作の疑いがある。すべてが“適正域”に収まっていなければならない。
私はこの時間が嫌いだった。だから、いつもは一人で、隅の席で弁当をつつくことにしていた。
しかしその日は違った。若い男が向かいに座った。年のころは二十代半ば、眉毛は薄く、人工的な笑顔を貼りつけているようだった。胸元には《感性適合者》のバッジが光っていた。最近流行りの“自己申告型資格”のひとつだ。つまり「私は他者の感性に自動的に共感できます」と名乗り出ることが、そのまま免罪符になる。
「すみません、ここ、いいですか?」
質問ではなく、事務的な報告だった。私は頷くしかなかった。
彼は植物由来の肉を主成分とする弁当を広げ、カチャカチャと音を立てながら箸を動かした。こちらに気遣う様子はない。ただ、ルール上「挨拶と共感の交差」は義務づけられているため、間もなく彼は口を開いた。
「昨日の講義、聞いてましたよね? ルチアさんの発言、どう思いました?」
唐突な質問だったが、予想できた展開でもあった。
昨日の講義では“感性の相互承認”というテーマが扱われ、ルチアという女性がひどく感情的な主張を展開した。
足音の音圧が高い人の存在は、静音体質の人間にとって暴力です。あらゆる音が、私の存在の輪郭を、私の心の外殻を削ります。あなたたちはそれを知るべきです。
彼女は泣きながら、言った。そして教官は、それを「深い気づき」と評価した。拍手は強制ではないが、私は周囲の空気に押されて、手を打った。
「どう思いました?」
改めて、目の前の男が言った。
「……まあ、なるほどとは思いました」私は慎重に言葉を選んだ。「ただ……正直なところ、少しだけ理解が難しかったですね」
男は箸を止め、私を見た。眼差しに熱はなかった。ただ、淡々と義務を果たすという意思だけがあった。
「その発言、ログに残してもいいですか?」
言われた瞬間、喉が乾いた。
ログとは、すべての発話と脳波反応を記録・分析する市民モニタリングシステムのことである。原則として日常の会話はスルーされるが、“共感度の低下が見られる発言”は、通報により精査対象となる。
「いや!あの、誤解を招いたかもしれませんが……彼女の感じ方自体は尊重してます。ただ、受け取り方には個人差があると思って──」
「“個人差”という言葉には注意が必要です」男は口調を崩さず言った。「それは、“彼女の感性が特殊である”という含意を持ちます。それは、あなたが彼女を“ノーマルではない”と位置づけているということです。理解できましたか?」
その時点で、私の脇の下に冷たい汗が流れはじめていた。
「あなたが彼女に“完全に共感していない”こと自体が、十分に社会的リスクなんです」
男はそう言い残し、弁当を半分残したまま席を立った。
私はそのまま、昼休みの残り十五分を、ほとんど箸を動かせないまま過ごすこととなった。
それは“自由時間”とされているが、実際には自由の形をした無為である。会話はしてもよいが、会話の内容は記録され、感情の起伏も逐次測定される。笑いすぎれば過剰、黙り込めば陰性、共感しすぎても操作の疑いがある。すべてが“適正域”に収まっていなければならない。
私はこの時間が嫌いだった。だから、いつもは一人で、隅の席で弁当をつつくことにしていた。
しかしその日は違った。若い男が向かいに座った。年のころは二十代半ば、眉毛は薄く、人工的な笑顔を貼りつけているようだった。胸元には《感性適合者》のバッジが光っていた。最近流行りの“自己申告型資格”のひとつだ。つまり「私は他者の感性に自動的に共感できます」と名乗り出ることが、そのまま免罪符になる。
「すみません、ここ、いいですか?」
質問ではなく、事務的な報告だった。私は頷くしかなかった。
彼は植物由来の肉を主成分とする弁当を広げ、カチャカチャと音を立てながら箸を動かした。こちらに気遣う様子はない。ただ、ルール上「挨拶と共感の交差」は義務づけられているため、間もなく彼は口を開いた。
「昨日の講義、聞いてましたよね? ルチアさんの発言、どう思いました?」
唐突な質問だったが、予想できた展開でもあった。
昨日の講義では“感性の相互承認”というテーマが扱われ、ルチアという女性がひどく感情的な主張を展開した。
足音の音圧が高い人の存在は、静音体質の人間にとって暴力です。あらゆる音が、私の存在の輪郭を、私の心の外殻を削ります。あなたたちはそれを知るべきです。
彼女は泣きながら、言った。そして教官は、それを「深い気づき」と評価した。拍手は強制ではないが、私は周囲の空気に押されて、手を打った。
「どう思いました?」
改めて、目の前の男が言った。
「……まあ、なるほどとは思いました」私は慎重に言葉を選んだ。「ただ……正直なところ、少しだけ理解が難しかったですね」
男は箸を止め、私を見た。眼差しに熱はなかった。ただ、淡々と義務を果たすという意思だけがあった。
「その発言、ログに残してもいいですか?」
言われた瞬間、喉が乾いた。
ログとは、すべての発話と脳波反応を記録・分析する市民モニタリングシステムのことである。原則として日常の会話はスルーされるが、“共感度の低下が見られる発言”は、通報により精査対象となる。
「いや!あの、誤解を招いたかもしれませんが……彼女の感じ方自体は尊重してます。ただ、受け取り方には個人差があると思って──」
「“個人差”という言葉には注意が必要です」男は口調を崩さず言った。「それは、“彼女の感性が特殊である”という含意を持ちます。それは、あなたが彼女を“ノーマルではない”と位置づけているということです。理解できましたか?」
その時点で、私の脇の下に冷たい汗が流れはじめていた。
「あなたが彼女に“完全に共感していない”こと自体が、十分に社会的リスクなんです」
男はそう言い残し、弁当を半分残したまま席を立った。
私はそのまま、昼休みの残り十五分を、ほとんど箸を動かせないまま過ごすこととなった。
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