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Memory of the flame
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翌日、翔悟の探偵事務所。
紅香の学校終わりを待ち、紅香、静馬、翔悟の三人は事務所に集まっていた。ちなみに、雪乃は体力の回復のため、今日は学校を欠席した。今も念のため、自室で休んでいる。
「さて……とりあえずは、雪乃の奪還は成功したわけだが……」
翔悟がタバコに火をつけながら、ぼりぼりと頭を掻く。
「さして進展があったとも言いがたいな。奴らの目的はわからんし、情報も結局、聞きだせずだ」
「……そうだね。紅香を狙っているのは間違いないけれど、昨日はなんだか中途半端なところで撤退したような気がするね。水葉さんに聞いたところによると、相手は暗殺専門のチームっていう話なんでしょう? 雪乃をさらってまで紅香を殺しにきたのに、ずいぶんあっさり手を引いたような気がする」
静馬の言葉に、紅香が胸を張って拳を手のひらに叩きつける。
「ふっふっふ、私のあまりの強さにビビッて逃げたんだよ。強すぎるってのも罪なのね」
「それはないでしょ」
「それはねえよ」
完全にハモって、静馬と翔悟がないないと手を振って見せる。
「ムカっ! なによ、二人揃ってチームワーク抜群で!」
機嫌を損ねたらしい紅香がそっぽを向くが、男二人は無視して考察を続ける。
「そう、暗殺専門なんて物騒なチームが、人質とって作戦立ててきたにしては、お粗末すぎる。簡単に奇襲に引っかかったのもおかしいし、そこまでお膳立てした作戦をあっさり放棄して撤退したのも変だ」
「これは僕の勝手なイメージだけれど、暗殺者が失敗したら、かなりのペナルティを負うんじゃないかな? もしそうなら、それこそ命がけで来るだろうし」
翔悟が再び、頭を掻く。
「あーわからん。骨折り損のくたびれもうけって感じだぜ」
「……そうでもないですよ、翔様」
不意に、雪乃の声が響く。そっぽを向いていた紅香が思わず事務所の入り口を見ると、そこにはパジャマ姿の雪乃の姿があった。
「お、おい、もう寝てなくて大丈夫か?」
タバコをもみ消し、翔悟が思わず雪乃に駆け寄る。
「翔様、心配しすぎなのですよ。危害を加えられたこともなかったし、ちょっと疲れてただけだったのです」
「……そうか」
軽く息をついて、翔悟が微笑んだ。やはり、冷静に見えていても、雪乃のことが心配だったのだろう。
「……よかったよかった。……で、それはいいけれど、そうでもないって、どういうこと? 雪乃」
静馬が怪訝な表情で、雪乃に尋ねる。
「紅香と翔様が勝った後、突然現れた女性がいましたよね。あの、ウィノナという」
「あ、あのワイヤー女!」
紅香が、ぐっと拳を作りながら言う。
「実は、あの女性が言っていたのです。『教会の目的は紅香と、紅香を知るものを殺すことだが、私たちはあなたたちに危害を加えるつもりはない』と」
「……どういうことだ?」
雪乃の言葉に、翔悟が眉根をひそめる。
「正確なことはわかりません。ただ、嘘を言っているようには思えなかった」
「教会とは、別の勢力ってこと?」
「いえ……それもないと思います。ただ、少なくとも、あの女性は私たちに危害は加えない、と。ですから……暗殺とは別の目的が、なにかあるのではないかと……例えば……」
そこで、雪乃は思案するように、いったん言葉を切った。
「例えば、教会に利用されている……とか」
「そういえば、俺が相手をしたティモかいうガキ、やたら様子が変だったな。俺のことを見て『悪魔』とかなんとかわめいてたな」
翔悟も雪乃の言葉に、考え込む。
そのとき、不意に外から爆音が響く。どうやらバイクのエンジン音のようだが、翔悟の事務所のすぐ側で止まる。しばらくの沈黙の後に、早足で歩く足音が聞こえてきた。足音は玄関のインターホンも鳴らさず、まっすぐ事務所の入り口へと向かってくる。
やがて、 ばんっという、ドアを壊すことが目的だったかのような勢いで、入り口が開かれた。
「須佐翔悟!」
「げっ、出たよ……」
思わず肩をすくめた翔悟に、現れた少女――――如月水葉は、鬼のような視線を向けた。
「お姉さまは、どこ!」
つかつかと翔悟に詰め寄った水葉が、翔悟の肩をつかんでがくがくと揺さぶる。
「ばっ、お前、ちょっと落ちっつ!」
あまりの勢いに舌を噛んだらしく、翔悟は舌を出して悶絶している。
「あ……あのー、みっちー?」
「ええい、紅香、止めないでください! この男がついていながらお姉さまが……」
「その雪ちゃんだけど……そこに……」
おずおずと入り口付近を指して見せる紅香の視線の先には、派手にたんこぶを作って目を回して倒れている雪乃の姿があった。
「……きゅう……なのです……」
「お、お姉さま!」
「ぶおっ!?」
今度は翔悟を派手に突き飛ばして、水葉が雪乃に駆け寄る。
「お姉さま、お怪我はないのですか!?」
「……たんこぶが、一番の重傷なのです……」
未だに目を回しながら、雪乃がぼうと言う。
「……ってて。こ、このシスコン女……」
頭を押さえながら、翔悟も起き上がる。
二人の様子をかわるがわるに見比べた水葉の顔が、見る見る赤くなっていく。
「……ふ、フン。あなた方にしては、ずいぶん迅速な対応ではありませんか……。す、少しは見直しまちた」
冷静を装ってはいるが、どうやら雪乃になにかあったことを知って急いできたようだ。その動揺を示すかのように、語尾をはっきりと噛んでいる。
「『まちた』って……ミッチ―、かわいい」
「黙りなさい紅香!」
思わず笑う紅香に、水葉の顔が限界まで赤く染まる。
「……ったく。飛んできてくれたのはありがたいが、もうちょい周りを見て行動しろよな。らしくねえ。だいたい、とりあえず緊急事態は収まったとこなんだからよ」
翔悟の言葉に、水葉がふと、まじめな表情に戻る。
「……私が来たのは、お姉さまがさらわれたからだけではありません。あなた方に、重要な情報を持ってきたのです」
「重要な、情報?」
今まであまりの勢いに、完全に観客を決め込んでいた静馬が、怪訝な表情になる。
「そうです。紅香と、私たち、前回の事件に関わったものが教会に狙われているのは、翔悟に話した通りです。ですが……それがなぜなのか、意外なところで判明しました」
「……マジか。ちょうど今、その話をしてたとこだ。こっちでも、ちょっとおかしなところがあってな」
翔悟の言葉に、水葉が神妙な顔を作る。
「……もしかしたら……そちらで生じた疑問も、私の持ってきた情報を聞けば、答えが出るかもしれません」
「……どういうこと?」
紅香の疑問に、水葉は自分の懐を探る。
「……言葉では、説明しづらい。……これを」
やがて、水葉は数枚の写真を取り出した。どうやら、デジカメの画像を印刷したもののようだ。
「……なに、この写真?」
机に置かれたそれを、紅香は手に取る。数枚は、紅香には何語かもわからない文章の写真だ。やたら古い書物だということくらしか理解できない。
「これが、なんだって……」
写真をぱらぱらとめくっていた紅香の手と目が、ある一枚で止まった。
「……なん、で?」
紅香の目に留まった、一枚の写真。そこに写っているのは、紛れもなく、自分の姿だった。――――ただし、それは人間ではなかった。
それは、どこかの古い、神殿のような、苔むした石造りの建物。日本ではないことは間違いない。どこか神秘的な、まるで中世を舞台にしたゲームのダンジョンのような、建物。
そこに立つ、凛とした顔立ちの石像。それが――――まるで鏡を見ているかのように、自分と瓜二つの顔で、そこにあった。
「……わた、し?」
その言葉に、静馬や翔悟も写真を覗き込む。
「……ほんとだ。紅香にそっくり……。いや、まるで本人みたいな……」
「だが、日本じゃないだろ……これ。いったい、どこにこんなもんが?」
翔悟の言うとおり、確かに日本であるようには見えない。
「それは、スペインの山奥……とある聖女の伝説が残る村にあったものです」
「……聖女?」
水葉に言われて改めて写真を見ると、その石像の人物は立派な鎧を身に付けている。そして、その足元には、剣だろうか。かすかに柄のようなものが写っている。
「その剣の写真もあります。見てください」
水葉に促され、紅香は再び写真をめくる。
「……これも……私の……」
その写真に写っていたのは、紅香が邪神の力を解放したときに現れる、あの大剣だった。
「他の写真に写っている文章は、その教会に安置されていたもの。それによると、その石像の人物こそ、村に名を残す聖女――――500年前、『炎の聖女』として悪魔を退治した人物だということです」
「炎の……聖女」
呆然と、紅香がつぶやく。
「その人物は不思議な力で炎を操り、幾多の悪魔と戦い、人々を救ったそうです。そして、人々に聖女として崇められた。しかし、それゆえに、教会に疎まれ、魔女として処刑された……」
水葉が腕を組み、目を閉じて言う。
「だが、魔女狩りの慣例として、その遺体を焼こうとしたところ……いくら炎を焚こうとも、その体が燃え尽きることはなかった。そして教会は、その真実を知った。自分たちが処刑してしまったのは……本物の、聖女だったのだと」
「……てことは、まさか……」
さすがに困惑した様子の翔悟が、落ちつかなげに帽子の位置を正しながらうめく。
「恐らく、そのまさかです。前回の事件の際、教会も邪神の件を追っていた。どういったルートかはわかりませんが、上層部も、紅香のことを知った。時を同じくして、その村の伝説が真実であったということが明らかになった。つまり……」
「教会は……紅香を、聖女の生まれ変わりかなんかだと、思い込んだ……?」
それまで静観していた静馬が、驚愕の表情で言う。
「ご名答。その姿、炎を操ること、そして、その武器。それらの共通点を見つけた彼らは、紅香を聖女の生まれ変わり……またはそれに類するものと、思い込んだ。そして、恐れた。500年前、自分たちが犯した、聖女を処刑したという過ちが、露呈することを」
「……それで、紅香に暗殺者を差し向けた……ってわけか。そして、その事実にたどり着く可能性のある人間――――俺たちにも」
腕を組みながら言う翔悟に、水葉がうなづく。
「……500年前の過ちを隠すために……? そんな、昔のことを……」
困惑する紅香に、水葉が首を横に振る。
「いや、あり得ます。教会は魔と対するための組織……。聖女を殺害していたとなれば、求心力が落ちることは必至。そうなれば、教会の権威も……」
その言葉に、翔悟と雪乃もうなずく。
「しかし……問題はこれからどうするかだ。教会の上層部が相手となると、面倒なことになる。……が、まずはとにかく、ここを離れたほうが良さそうだな」
「え? なんで?」
聞き返す紅香に、翔悟がタバコに火をつける。
「忘れたのか? 雪はここにいるときに襲われたんだ。てことは、やつらにここの場所はばれている。日が出ている今はまだ、向こうも動かないだろうが、夜となれば話は別だ」
「……なるほど。でも、どうする? まさか、野宿するわけにもいかないし。ま、僕は困らないけどさ」
頬をぽりぽりと掻きながら、静馬が言う。
「んじゃ、うちに来る、とかは?」
あっけらかんと言う紅香に、翔悟が首を横に振る。
「いや、ここがばれてるってことは、こっから帰ってく紅香の家もばれてる可能性が高い。止めといたほうが無難だな」
「んー、じゃあ、静馬んちは?」
さして深く考えている様子もなく言う紅香に、静馬があからさまに渋面を作る。
「君ね。遊びに行く集合場所を決めるんじゃないんだから、ちょっとは頭を使って発言しようよ」
「なによっ! その言い方! 私がまるで何も考えてないみたいじゃないのっ!」
ぷりぷりと怒って静馬を指差す紅香に、しかし静馬は渋面を崩さない。
「……じゃあ、どんな考えがあって言ってるのさ」
「……えーっと、あれがこうでこう……だから、それがそうなって、そう……そういうことだよ!」
一人でなにやら思案をめぐらせているような顔をしてから、紅香がびしっと静馬の顔を指差す。ようするに、やっぱりなにも考えていなかったようだ。
「……かろうじて日本語だってことくらいしかわからない……」
あきれるというよりは嘆くように、静馬が片手で顔を覆う。
「……いや、待て。案外、いい案かも知れんぞ」
こちらは紅香と違い、本当になにやら思案していたらしい翔悟が、不意に顔を上げた。
「ほらほら、翔さんもいい案だって!」
得意げな顔で、紅香が渋い顔の静馬をひじでつつく。その顔には、何も考えてなかったくせに……という思いが書いてあるかのようだ。
「……紅香、いい子だから、ちょっと黙っててくれないかな」
「ムカ! 私は5歳児かっ!」
がーがーとがなる紅香をよそに、静馬は翔悟に向き直る。
「それで、いい案ってどういうことさ? 翔さん」
「ああ、まず第一にだな、静馬の存在が奴らにばれていない可能性もある。無論、なにかしらの守護霊がついてることくらいはお見通しだろうが、それが幼なじみだとまで把握しているかどうかは、正直怪しい。ましてや、その住所まで調べ上げているってことはまずないだろう。第二に……」
言いかけて、翔悟はタバコに火をつける。
「あそこは今、空き家になって久しいはずだ。俺たちが姿を消したとあれば、奴らは当然、その行き先を探すだろうが、近所の空き家に潜んでいるとはさすがに思わないだろ」
「なるほどね。それなら確かに、うちは見つかりにくいだろうね」
静馬も翔悟の言葉にうなずく。
「……よし、そうと決まれば、日のあるうちに出発するぞ。とはいえ、この人数でぞろぞろ移動してりゃ、さすがに目立つ。紅香と静馬は先に出発してくれ。俺、雪、水葉は後から行く」
「へ? 車で行くんじゃないの?」
素っ頓狂な声を上げて、紅香が顔を疑問符に染める。
「それも目立たないためだ。全員が車に乗って動いたところを見られれば、向こうは警戒するだろうし、車を見つけられれば、その近くにいるとあたりをつけられちまう。だから、車は使わない」
紫煙を吐き、いったん翔悟が言葉を切る。
「なるべく自然な形で、静馬の家へ向かうんだ。紅香は……そうだな、家に帰る振りでもするような感じで向かってくれ。なんなら、一度、本当に家に帰って、いかにも中に家人がいますっていうような細工をしてきてもいい。テレビや電気をつける、とかな。その上で、こっそり静馬の家へ向かうんだ」
「翔さん……」
適確に意見を述べる翔悟に、紅香が驚いたような、目を丸くした表情になる。
「ん?」
「翔さんって、ほんとに探偵だったんだね。てっきり、『陰陽師で探偵とか、かっこよくね?』みたいなノリで名乗ってるんだと思ってたよ」
今度は、紅香の言葉に翔悟が渋面を作る。
「……お前な。この期におよんで、中二病みたいに思ってたのかよ、俺のこと」
「だってさ、探偵らしい仕事してるの、全然見たことないんだもん」
「ああ、お前にゃ関わらせたくないからな。尾行とか、素行調査とか、そういう細やかかつ繊細な神経を要する仕事は」
お返しと言わんばかりに、精一杯の皮肉を込めて、翔悟が言う。
「ちょっと、それじゃ私がまるで無神経みたいな言い方じゃない!」
「おお、わかったか。そういうつもりで言ったの!」
子供のようにじっとりとした視線でにらみ合う二人に、周囲の人間はみな呆れ顔だ。
「……はあ。とにかく、敵に悟られないように、静馬の家へ向かうのですね? 翔様」
「む……。ああ、そういうこった。まずはさっきも言ったとおり、紅香と静馬が選考してくれ。俺たちも、後から向かう」
翔悟の事務所から静馬の家へ向かう道すがら、始めは警戒していた紅香だったが、気配を探る限り、自分を尾行しているような感じはない。軽く息をつき、紅香は静馬へと視線を送った。
「……あのさ……どう思う?」
「え? なにが?」
きょとんとした顔の静馬に、紅香は少々、眉根を潜ませる。
「さっきの、私が500年前の人とそっくりだから狙われてる……って」
「ああ、そのこと」
対する静馬は、案外とそっけない。その言葉に、紅香はぷうと頬を膨らませる。
「そのこと、じゃないよ。ほんとにそんなことだけで人の命を狙ったり、大勢の人を巻き込んだりなんて、いくらなんでもひどいんじゃないの? 魔を狩る組織が聞いてあきれるよ。ミッチーがいたから、あの場では言わなかったけどさ……」
「……確かに、ひっかかることはいくつかある。人道的に……ってのも、もちろんだけど……紅香を狙う理由が水葉の言うとおりなら、こないだの雪乃の誘拐はなおさら変だ。僕たちが戦ったあの大男は、人質を取るような真似はしたくなかったみたいだった」
あごに手をやり、考え込んでいる様子の静馬だったが、答えは出ないのか、翔悟のように頭を掻いた。
「なんだかさ、相手の狙いがつかめないよねー。なんて言うか、言ってることとやってることがちぐはぐな感じ。ほんとにやる気あんの? あるんなら、正面からぶつかってきなさいっての!」
紅香は両手で拳を作り、びしっと腕でクロスさせる。
「そんな単純に行かないから、向こうも苦労してるんだと思うけどね」
ふう、と軽く息をつく静馬が、不意に辺りをきょろきょろと見回す。
「なに? どしたの?」
つられて紅香も視線を巡らすが、特におかしなところはない。日没直後ということもあり、目に付きにくい、闇の濃い部分が生まれ始めていること以外は、普段どおりの道だ。
「――――いや」
だが、その紅香の認識を、普段ののんびりした口調より数段鋭い声で、静馬が切り裂いた。同じく鋭さを増している彼の視線は、前方――――日没によってできた影の、真ん中に注がれている。
なにかが、いる。
先ほどまで周囲が明るかったために、闇に慣れていない瞳では、それが蠢く何かであること以外は視認できない。だが、確実に、そこにいる何かの存在は見て取れた。
紅香は、闇に慣れない瞳でそれの姿を確認しようと、目を細める。
「――――ろす……。――――ろせぇ……」
しかし、視覚よりも先に、聴覚が知らせる。あれは、危険だと。
うめくような、うなるような。飢えたような、恨むような。……その声。
「……こ、ろせ……。こ、ろせ……」
やがて、それを発しているものが、闇からのっそりと、姿を現した。それは、どこにでもいそうな、普通の青年だった。片手で、わずかにひしゃげた金属バットを引きずり、虚ろな目で口から泡を吹いている以外は。
「しっ、死人!?」
その様子に、紅香が思わず戦闘体勢をとる。だがその機先を、静馬が手で制した。
「待った! あれは、死人じゃない!」
「じゃあ、なんだって言うの!?」
思わず怒鳴り返す紅香に、静馬が苦虫を噛み潰したような表情になる。
「……普通の、人間だ。ただ……どういう原理かはわからないけど、なんらかの方法で正気を失わされている」
「……操られてる、ってこと?」
「多分、それが一番妥当な言葉」
端的に言う静馬の視線が、さらに右、左とせわしなく動いた。その動きと彼の表情だけで、紅香はほぼ、なにがあったかを理解する。
「……そっちにも、ってわけね」
これまた端的な紅香の言葉に、静馬がうなずく。その仕草が正しいということを示すかのように、左右の路地の先からも、目の前の青年と同じような声が響いてくる。
「操られてるだけの人、だけど向こうはやる気マンマンで、しかもいっぱいいるってことは……手段は、一つだね」
紅香が、徐々に迫りくる青年に向かって、人差し指を立てて見せる。が、すぐにそのまま回れ右をし、走り出した。
「……逃げるっ!」
静馬とともに、来た道をひた走る。だが、行く先行く先、同じような操られた人間が道を塞ぐ。その度に迂回したり回れ右をしたりで、徒歩でもそうそうかかる距離ではないのに、まるで目的地に近づけない。
「どうなってんの!? ここら辺の人、みんながみんな、ああなっちゃってるわけ!?」
さすがに息の切れ始めた紅香が、ぎりぎりと歯噛みする。
「……案外、そうかもよ。さっきから、まともな人をまるで見かけない」
妙に冷静に静馬が言う。確かに、日が沈み始めたとはいえ、一人くらい、普通の人が出歩いていたっておかしくない。
そこまで考えて、紅香はもっとおかしなことに気がついた。先ほどから、空が黄昏時のまま、一向に夜へと向かおうとしない。その手前の、日没直後の空のままなのだ。
「……これ、誰かがなんか、ろくでもないことしてるよ! 絶対……なんかおかしいって!」
わめきながら、人気のない路地裏へ飛び込んだ紅香だったが、その目の前に現れたのは、住宅街には似つかわしくない、急勾配でやたら長い石段だった。
「げっ、これ上るわけ?」
思わず後ろを振り返るが、まるで申し合わせたかのように、操られた人間たちのうめき声が来た道から響く。
「……この異様に長い階段上るしかないじゃん。嫌がらせだー」
じっとりとした視線で路地の向こうにいるであろう人間に辟易しつつ、紅香は階段を上り始める。
やがてたどり着いた先は、住宅街の中にぽつんと忘れ去られたように佇む、小さな神社だった。足元から続く石道は新しくこそないものの、きれいに掃除されており、ごみひとつない。その先の本殿も、こじんまりとしてはいるが、美しさすら兼ね備えた様式美をかもし出している。
また、その左手にはご神木なのか、注連縄の張られた大木が堂々とした姿で鎮座している。それらの雰囲気があいまって、そこはどこか静謐とした、神秘的な空気を湛えていた。それは、ここならば、今、街を徘徊している人間たちも近づけさせないのではないかと思わせるほどのオーラを纏っていた。
「……うちの近くに、こんな場所があったなんて」
思わず、その荘厳な空気に飲まれながら、紅香がつぶやいた。こんなに凛とした場所があるならば、パワースポットだなんだと話題にくらいなりそうなものだが。
「そういえば、翔さんが前に『そこらのお寺や神社だって、神様や仏様がちゃんといる所だってある』って言ってたね。こういうところがそういうものなんじゃないかな?」
なんとなく理解した様子で、静馬が辺りを見回す。
「じゃあ、もしかしたらここなら、あいつらは入ってこれない?」
「……確実とは言えないけれど、あり得るね」
その言葉を聞いた瞬間、紅香がへなへなとその場に座り込んだ。
「……はぁ、助かったぁ。さすがに何キロも全力ダッシュして、とどめに階段ダッシュじゃ疲れたよぉ」
「とりあえず、多少は安全そうな場所にたどり着けたことだし、ちょっと休もうか。翔さんたちとも連絡取ったほうがいいだろうし」
そう言いながら、静馬は本殿のほうへと歩いて行く。
それにつられるようにして、紅香も静馬の後を歩き出した。
本殿の階段に腰掛けた静馬の横に、紅香も座る。
――――刹那。
ぞくりと。背後に、気配を感じた。恐ろしいような、懐かしいような。あるいは……悲しいような。
「……紅香!」
静馬の声が響く。きっと、それは背後のそれに対する警戒を促す声。
しかし、不思議なことに、紅香はそれを警戒する心持ちにはなれなかった。たとえて言うなら、鏡に映った自分が、ただ――――後ろにいる。それだけのことのような感じ。
「そっか……あなたが、ここに呼んだんだ。私を」
ゆっくりと、紅香は後ろを振り返った。
そこにいたのは、自分。言葉も、何かしらの素振りもなく。ひどく希薄な存在感を、その優しい微笑みにだけ、込めて。
「なにか……伝えたいことがあるんだね」
こくりと、自分の姿をしたそれは、うなずく。同時にそれは、神社の本殿の中に、幻のように静かに消えていった。
そして、音もなく神社の本殿の扉が開いた。
「……紅香、今のは……」
驚きを隠せない静馬に、紅香はかすかに微笑む。
「大丈夫。あれは、敵じゃない。証拠もなんにもないけれどね。なんとなく、そんな気がするんだ」
怪訝な顔をする静馬に背を向け、紅香は本殿の中へと入って行く。その様子に、さして警戒する様子もない。
本殿の中は、質素な造りだった。小さな小部屋のような場所に、恐らく祭られている対象であろう、鏡が一つ、置いてあるだけだ。恐らく、社務所のような建物は別にあるのだろう。
鏡とは言っても、それは普段の生活で見るようなそれではなかった。まず、大きさが違う。どちらかといえば、それの大きさは姿見のそれに近い。さらに異彩を放っているのは、その装飾。本来ならば豪華に飾るはずのそれは、この鏡にはなく、梵字のような奇妙な文字が刻まれているのみだった。
ただ唯一、漢字で書かれた言葉を除いて。
「……雲外鏡……?」
静馬が、眉をひそめ、不可解げにその言葉を読み上げる。
紅香は、それには答えず、その鏡を覗き込む。その中には、先ほど現れた自分――――。今、自分がしているであろう表情とは違う、微笑む己の姿があった。
その鏡の中の自分が、すっと、こちらに手を伸ばした。その手は不思議なことに、鏡面をすり抜けて、目の前で実体化する。
そっと、紅香はその手を握り返す。
「紅香、ちょっと……!」
あわてる静馬をかえりみて、紅香は微笑む。
「大丈夫だって。多分、すぐ戻ってくるから」
「戻ってくるって……」
困惑する静馬をよそに、紅香は自分の手を優しく握るその手に引かれ、ゆっくりと、鏡の中に消えていった。
気がつくと、視界には広く青空が広がっていた。視覚の次に感覚を刺激するのは、嗅覚。青い、みずみずしい、緑の香り。
自分は、どうやら寝転がっているようだ。空を見上げて、草の香りに包まれて、優しい風の香る、草原で。
ふと、意図しないままに、右手が目の前の視界を覆った。自分の視界でありながら、身体は思うように動かない。まるで、誰かの記憶の中に放り込まれたのようだ。
「……聖女さまー! 聖女さまー!」
不意に、誰かの声が響いた。同時に、どこか懐かしいような、胸が締め付けられるような、奇妙な感覚が心を染めていく。
やはり意図せず、体が勝手に上半身を起こす。どうも、本当に誰かの記憶を追体験しているようだ。
目の前に現れた声の主は、少年だった。丸眼鏡が印象的な、優しげな、人当たりのよさそうな少年。紅香が見たこともないような、まるでファンタジー映画のような服装をしている。
「……えーっと、誰だったっけ?」
やはり勝手に、自分ののどから声が出る。間違いなく自分の声に聞こえるそれは、どこの言語かも分からない言葉。なのになぜか、その意図するところだけはわかる。
「僕、ザムエルですよ! ザムエル=ミューラー! 昨日、お会いしたじゃないですか!」
少年が少し傷ついたように、自分の顔を指差す。
「ザム……、ああ、昨日泊まった宿屋の子だね。思い出した、思い出した」
ぽん、と手を叩いて自分がうなずく。
「……でもさ、その聖女様ってやめてほしいなぁ。どんだけ言われても慣れないし……恥ずかしくってさ」
ふと、後頭部に軽い刺激を感じる。どうも、照れくさくて頭を掻いたようだ。
「でも、本当にそうなのですから……。それに、ほかにどう呼んだらいいのですか?」
少年――――ザムエルと呼ばれた彼が、困ったように眉根を寄せた。
「普通に名前でいいよ。そのほうが、私も肩肘張らずに済むし、楽だし」
「でも僕、聖女様のお名前を知りませんし……」
恐縮したように困り顔を見せる少年に、自分の頬が緩むのを感じる。
「あー、そういえば名前、言ってなかったね」
微笑んだような感触が、顔に伝わる。
「……私は、アネッタ。アネッタっていうの」
「……アネッタ様……」
少年が、どこか憧憬のような表情を浮かべ、こちらを見る。
「もう、様付けもなし! みんなそんな風に言うけど、こっちは恥ずかしいんだってば!」
ぶんぶんと、自分――――アネッタと名乗った人物が、ぶんぶんと手を振る。声からして、自分と同い年くらいの少女であろうか。
「でも、僕より年上ですし……」
「あーもう、だったらせめて、さん付けでいいよ。君、名前からしてゲルマン民族だよね。そっちの人って生真面目だっていうけど、ほんとなんだぁ」
はあ、と自分がため息をつく。それに反応して、ザムエルと名乗った少年がぐっと手を握りしめて詰め寄る。
「い、いえ! だって、アネッタ様は村をお救いくださったのですよ! 村を支配し、暴虐の限りを尽くしたあの悪魔……バル・ヴェリトを倒してくださったのですから、尊敬して当然ですよ!」
「倒してなんかないよ。なんとか追っ払っただけ。向こうも本気じゃなかったみたいだしね」
謙遜して笑う自分に、ザムエルが複雑な表情をする。
「ところで、そのザムエル君が私になんの用? あ、サインなら大歓迎だよ? なんならそのシャツにでも……」
「あ、あの……アネッタ様の巡礼に、僕も連れて行ってもらえませんでしょうか!?」
「……へ?」
おどけた様子で懐から羽根ペンを取り出しかけていたアネッタが、間の抜けた声でザムエルを見る。だが、すぐに真剣な目つきで少年の目を見返す。
しばらく続いた無言の問答の後、アネッタがふう、と息をつく。
「本気らしいのはいいけど、悪魔と戦う旅だよ? 危険だよ? 武器は使える? 自分の身は守れる?」
「け、剣でしたら、村の剣術大会で……その……6位入賞です!」
「……はは、微妙」
ぽりぽりと頬を掻きながら、アネッタが苦笑するのが、なんとなくわかった。目の前の少年は、その反応に緊張しているのか、顔を真っ赤にしてこちらを見つめている。
「まあ、それはおいおい成長するとしても……一番大事なこと、聞かせてもらおうかな」
不意に、アネッタの声に剣呑な色が混ざる。それは、その声から伝染するかのように、ザムエルの表情を不安で染めていく。
「……死ぬよりも苦しい目に合う覚悟は、ある?」
「……え」
突然の鋭い言葉に、ザムエルが呆然とつぶやく。
「さっきも言ったけど、私の旅は、悪魔と戦う旅。そして奴らは、卑怯だし、狡猾だし、抜け目がない。人間を罠にはめて、おもちゃみたいに扱うことなんて、なんとも思わない。それこそ、壊れるまで遊んで、壊れたら捨てる、なんてこともね」
重い言葉の応酬に、ザムエルは思わず言葉を無くす。年端もいかない少年には、想像もできないことだろう。
「明日にも、奴らの罠にはめられて、そんなことになるかもしれない。その覚悟が君にあるのなら――――いいよ。ついておいで」
アネッタのその言葉を最後に、景色に徐々にノイズが走っていく。それはまるで、古い映画を早送りで見ているかのように、二人の時が流れていく。
アネッタに剣術を教わるザムエル。
炎を操り、悪魔と戦うアネッタ。必死に自分の身を守りながらも、なんとかアネッタを守ろうと奮闘するザムエル。
暗い夜、野宿をする二人。料理当番を押し付けられ、鍋をかき回すザムエルに、つまみ食いをしておいしいと笑うアネッタ。
徐々に、映像の中の二人の時は早回しで過ぎていく。少女だったアネッタは成人した女性に。それよりも年下だったザムエルは青年に。
それだけ時が経っても、二人は悪魔と戦っていた。見返りなどなく、ただ、人のため。
青年になったザムエルは立派にアネッタを守り、そのアネッタの炎はますます勢いをもって悪魔を狩る。
人々に感謝され、金品を渡されそうになっても、笑って手を振る二人。
相変わらず野宿しながら、相変わらず料理当番のザムエル。そして、相変わらずそれをつまみ食いしようとするアネッタ。ただ、今はザムエルにその手を叩かれ、子供のように舌を出していた。
次に、映像がゆっくりになったのは、どこかの街の入り口だった。そこで、アネッタとザムエルは、向かい合って立っていた。始めの出会いから、5年ほどは経っているのだろうか。
「……そう。ザムは、教会に入ることにしたんだね」
「……はい。もっと多くの人を悪魔から守るためには……やはり、そうするしか」
今は青年となったザムエルが、その穏やかな表情を曇らせて、うつむく。その顔は、どこか悔恨と、意思と。志と、憧憬と。未練と、理想が、せめぎあっているように見えた。
「……そっか。うん……そっか」
対するアネッタは、二人が出会った頃と変わらないように見える、そのさっぱりとした笑みを見せていた。
「……じゃあ、お別れだね。結構、助かったよ。それに……結構、楽しかった」
「アネッタ様……」
曇った表情のまま、なにかを言いたげに顔を上げるザムエルに、アネッタはくすくすと笑う。
「その『様』って、結局、直らなかったね」
「……すみません」
アネッタの笑顔を見、何か言いかけたザムエルが、再びうつむきながら、言葉を飲み込んだ。
「もう、わかったよ、ザムがクソがつくほどまじめだってのは! ま、たしかにその性格なら、きっと教会の体質にもあってるでしょ。うんうん」
ぽんぽんと、ザムエルの肩を叩くアネッタの調子は、あくまで普段どおりの彼女に見える。聖なる乙女と呼ばれながら、まったくもって聖女らしくない、聖女。
「……それじゃ、そろそろ行くよ。馬車の時間だから」
「……あ、あの!」
さらりと踵を返し、街の外へと向かうアネッタを、ザムエルが呼び止めた。それはまるで、時が巻き戻ったかのように。二人が出会った時の、緊張した彼の声と似ていた。
「ん?」
アネッタが、くるりと笑顔で振り返る。
「……いえ、旅のご無事を……お祈りしています」
その言葉に、こくりと。言葉なく、彼女はうなずき、歩き出す。
不意に。
彼女の表情が、変わった。なくなった笑顔に、隠れていたかのような切なさに。
「あの時みたいに……素直になれば、いいのにさ……」
その言葉が彼に届いたか確かめるように、アネッタは後ろを振り向く。
だが、その言葉が届くべきだった相手は、もうそこにはいなかった。
「……料理、これからは自分でしなきゃね。ザムの作るシチュー……大好きだったんだけど、な……」
その言葉とともに、紅香の意識はアネッタの視界から切り離されていく。
だが。
今のは、なんだったのだろうか。ひどく懐かしいような、悲しいような、それでいて……どこか恐ろしいような。そんな、感覚。脳裏に刻まれた、どこか、知らない誰かのもののはずの、記憶。
それがまるで、自分に起きたことだったような。
気がつくと、場面はまた、変わっていた。
そこは、夜の街だった。時折、月の光が差し込む、雲の多い、闇の濃い夜。そこにはやはり、アネッタとザムエルの姿があった。
「――――願わくば、あなたには聖女のままでいてほしかった……」
雲にさえぎられ、光の遮断された中――――塗りつぶされたような闇の中で、ザムエルがささやく。
刹那、ぞくりと。
背筋に冷たい戦慄が走る。
瞬間、ぐらりと。
脳裏に重いものが宿る。
「そうすれば、私は……」
この場面を、自分は知っている。いや、違う。知っているのではない。――――体験、している。
今、そこにいる女性――――アネッタとして。
そして、聞いた。次の、彼の言葉を。
「あなたを殺したりせずに済んだのだ――――アネッタ様!」
ぎりりと、ここにいても聞こえてきそうなほどに歯を軋ませ、ザムエルが吼える。かすかにさし始めた月の灯りにその輪郭を照らされたそこに、あの穏やかな面影はない。ぶるぶると全身を震わすほどに張り詰めたその様子は、どこか獣じみていて。
アネッタとして死にかけていながら、時の流れの残酷さを、妙に冷めた思考で感じていたのを、覚えている。
「――――戯言は、必要ない。殺すのならば、早くやればいい」
だからだろう。こんな、突き放すような言葉が口をついたのは。
「だが、お前の思い通りには、させない……」
目の前のアネッタが、歯噛みする。それと同時に、ザムエルの表情が、再び闇に隠れた。
「……そうですか……」
この先は……たしか。なぜか、知っているはずだという、妙に確信めいた思いが湧き上がる。それと同時に、背筋の戦慄と、脳裏の重さが、いよいよもって、堪えきれないほどになる。
ぞくぞくと。ぐらぐらと。
それは――――思い出したから。
「残念です……魔女、よ……」
恐らく彼女――――自分だけが、見ていた彼の、その時の顔。闇の中、かすかに浮かぶ、彼の顔。それを見て、戦慄と、頭の重さが、それまでのそれをあざ笑うように限界を超える。
にたにたと。げらげらと。
彼は――――笑っていたから。
彼……いや、それが振り上げた刃が、暗闇から眼前に現れた瞬間に、紅香の意識はまるでスイッチが切られたように、失われた。
「……んん……」
「……紅香!」
あわてたような静馬の声で、紅香は目を覚ました。目の前には、不安そうな表情の彼の姿があった。
一瞬、その顔が誰かの面影とだぶって見える。夢と現実の境目がはっきりとしない。頭がくらくらして、思考が定まらない。
大きく息をついて、紅香は身体を起こし、立ち上がる。そしてゆっくりと、雲外鏡と書かれた鏡を見た。刹那、紅香ははっと息を飲む。
そこに映っていたのは、自分とよく似た、しかし自分ではない少女だった。
「……聖女、アネッタ……」
その少女は、その答えに満足したように、にっこりと微笑む。
「……一つだけ、聞かせて。私は、あなたの生まれ変わりなの?」
紅香の言葉に、鏡の中のアネッタは否定も、肯定もしない。
「あなたは、かつて私だったもの。でも、魂は時とともにうつろい、変わる。私は、あなたの一部。あなたは、私の一部だったもの。だけど、今のあなたは……あなたなの。魂は、永き時を経て、様々な魂と時に混ざり、時に分かれ、自分の輪郭を作り上げていく」
アネッタが、目をつむり、静かに言う。謳うように。紡ぐように。
「あなたが、私の生まれ変わりなのかどうかは、問題ではないわ。ただ、あなたという魂の中に、私は未だ色濃く残っているだけ」
ほんの一瞬、アネッタは言葉を止める。
「彼を、止めて。彼の魂は……巡ることもなく、未だ淀んだまま、この世界にある」
「彼って……あの、ザムエルって人のこと?」
紅香の言葉に、こくりとアネッタがうなずく。
「そう。そして彼は、あなたを狙っている。私の魂を色濃く残す、あなたを」
その言葉の終わりとともに、アネッタの姿が徐々に薄くなっていく。それはただ儚く、陽炎のように。
「ちょ、ちょっと待って! まだ、聞きたいことはたくさん……」
紅香が思わず手を伸ばすが、鏡の中の相手にそれが届くはずもない。微笑むアネッタの姿は、ゆっくりと消えていく。やがて、鏡に映ったそれは、いつもの自分の姿へと変わっていた。
「大丈夫。あなたはあなただけれど、私でもある。だから、あなたなら……きっと……」
最後に紡がれた言葉は、どこか悲哀に満ちていて。彼女が消えた瞬間、紅香の胸を、郷愁のような……儚い色で染めた。
「……………」
言葉もなく、紅香は立ち尽くす。
「……うつろう魂……か」
不意に、静馬がつぶやいた。
「なんとなくだけれど、わかるような気もするな。かつての聖女の魂が、長い時間をかけて形を変えたものが……君だったんだ、紅香」
その言葉に、紅香はうなずくことも、振り返ることもできない。それは、胸をかきむしりたくなるような、なんともいえないこの切なさのため。
「……うん。そうみたい……だね」
まるで他人事のように、紅香は言う。だが、その口調は重い。
「だから……邪神の力を使うことができながら、のっとられることもなかったんだ。炎の聖女の魂を、受け継いでいたから」
「ねえ、静馬……」
「ん?」
重い表情で振り返った紅香に、静馬が返す。
「どう思う? さっきの、魂は巡っていくって、話」
「……これも、なんとなく、だけれど」
そう前置きをおいて、静馬が言う。
「人って、変わっていくものだと、思う。色んな人と出会ったり別れたりしながら、だんだんとその形を変えていく。楽しかったり、辛かったり、うれしかったり、悲しんだりしながら、その心を変えていく」
「……なんかさ、寂しいよね……」
うつむく紅香に、静馬は微笑んで見せる。
「そうかな?」
「……え?」
「確かに人は変わっていく。だけど……きっと変わらずに大切だと思えるものがあれば、人って幸せなんじゃないかな。……少なくとも、今の僕は大切なものがなにか、はっきり言える。そしてそれを、幸せに思う」
めずらしく饒舌に、静馬が微笑む。その視線がまっすぐ自分に向いていることに気づき、紅香は真っ赤な顔で、再びうつむいた。
「そ、そう……かも、ね。しゅ、守護霊様が言うんだから……そうなのかも、ね」
「はは、なにさ、その言い方」
視線をそらしてそっぽを向くような仕草で、紅香がなおのこと赤面する。それを見て、静馬が思わず苦笑した。
「でも、それなら……やっぱり、私が決着つけなきゃ、だね」
「……そうだね」
紅香は再び静馬に視線を戻すと、ぐっと両手で握り拳を作る。
「敵は……やっぱり、教会にいる」
その瞳が、炎のごとく、紅く燃え上がった。
紅香の学校終わりを待ち、紅香、静馬、翔悟の三人は事務所に集まっていた。ちなみに、雪乃は体力の回復のため、今日は学校を欠席した。今も念のため、自室で休んでいる。
「さて……とりあえずは、雪乃の奪還は成功したわけだが……」
翔悟がタバコに火をつけながら、ぼりぼりと頭を掻く。
「さして進展があったとも言いがたいな。奴らの目的はわからんし、情報も結局、聞きだせずだ」
「……そうだね。紅香を狙っているのは間違いないけれど、昨日はなんだか中途半端なところで撤退したような気がするね。水葉さんに聞いたところによると、相手は暗殺専門のチームっていう話なんでしょう? 雪乃をさらってまで紅香を殺しにきたのに、ずいぶんあっさり手を引いたような気がする」
静馬の言葉に、紅香が胸を張って拳を手のひらに叩きつける。
「ふっふっふ、私のあまりの強さにビビッて逃げたんだよ。強すぎるってのも罪なのね」
「それはないでしょ」
「それはねえよ」
完全にハモって、静馬と翔悟がないないと手を振って見せる。
「ムカっ! なによ、二人揃ってチームワーク抜群で!」
機嫌を損ねたらしい紅香がそっぽを向くが、男二人は無視して考察を続ける。
「そう、暗殺専門なんて物騒なチームが、人質とって作戦立ててきたにしては、お粗末すぎる。簡単に奇襲に引っかかったのもおかしいし、そこまでお膳立てした作戦をあっさり放棄して撤退したのも変だ」
「これは僕の勝手なイメージだけれど、暗殺者が失敗したら、かなりのペナルティを負うんじゃないかな? もしそうなら、それこそ命がけで来るだろうし」
翔悟が再び、頭を掻く。
「あーわからん。骨折り損のくたびれもうけって感じだぜ」
「……そうでもないですよ、翔様」
不意に、雪乃の声が響く。そっぽを向いていた紅香が思わず事務所の入り口を見ると、そこにはパジャマ姿の雪乃の姿があった。
「お、おい、もう寝てなくて大丈夫か?」
タバコをもみ消し、翔悟が思わず雪乃に駆け寄る。
「翔様、心配しすぎなのですよ。危害を加えられたこともなかったし、ちょっと疲れてただけだったのです」
「……そうか」
軽く息をついて、翔悟が微笑んだ。やはり、冷静に見えていても、雪乃のことが心配だったのだろう。
「……よかったよかった。……で、それはいいけれど、そうでもないって、どういうこと? 雪乃」
静馬が怪訝な表情で、雪乃に尋ねる。
「紅香と翔様が勝った後、突然現れた女性がいましたよね。あの、ウィノナという」
「あ、あのワイヤー女!」
紅香が、ぐっと拳を作りながら言う。
「実は、あの女性が言っていたのです。『教会の目的は紅香と、紅香を知るものを殺すことだが、私たちはあなたたちに危害を加えるつもりはない』と」
「……どういうことだ?」
雪乃の言葉に、翔悟が眉根をひそめる。
「正確なことはわかりません。ただ、嘘を言っているようには思えなかった」
「教会とは、別の勢力ってこと?」
「いえ……それもないと思います。ただ、少なくとも、あの女性は私たちに危害は加えない、と。ですから……暗殺とは別の目的が、なにかあるのではないかと……例えば……」
そこで、雪乃は思案するように、いったん言葉を切った。
「例えば、教会に利用されている……とか」
「そういえば、俺が相手をしたティモかいうガキ、やたら様子が変だったな。俺のことを見て『悪魔』とかなんとかわめいてたな」
翔悟も雪乃の言葉に、考え込む。
そのとき、不意に外から爆音が響く。どうやらバイクのエンジン音のようだが、翔悟の事務所のすぐ側で止まる。しばらくの沈黙の後に、早足で歩く足音が聞こえてきた。足音は玄関のインターホンも鳴らさず、まっすぐ事務所の入り口へと向かってくる。
やがて、 ばんっという、ドアを壊すことが目的だったかのような勢いで、入り口が開かれた。
「須佐翔悟!」
「げっ、出たよ……」
思わず肩をすくめた翔悟に、現れた少女――――如月水葉は、鬼のような視線を向けた。
「お姉さまは、どこ!」
つかつかと翔悟に詰め寄った水葉が、翔悟の肩をつかんでがくがくと揺さぶる。
「ばっ、お前、ちょっと落ちっつ!」
あまりの勢いに舌を噛んだらしく、翔悟は舌を出して悶絶している。
「あ……あのー、みっちー?」
「ええい、紅香、止めないでください! この男がついていながらお姉さまが……」
「その雪ちゃんだけど……そこに……」
おずおずと入り口付近を指して見せる紅香の視線の先には、派手にたんこぶを作って目を回して倒れている雪乃の姿があった。
「……きゅう……なのです……」
「お、お姉さま!」
「ぶおっ!?」
今度は翔悟を派手に突き飛ばして、水葉が雪乃に駆け寄る。
「お姉さま、お怪我はないのですか!?」
「……たんこぶが、一番の重傷なのです……」
未だに目を回しながら、雪乃がぼうと言う。
「……ってて。こ、このシスコン女……」
頭を押さえながら、翔悟も起き上がる。
二人の様子をかわるがわるに見比べた水葉の顔が、見る見る赤くなっていく。
「……ふ、フン。あなた方にしては、ずいぶん迅速な対応ではありませんか……。す、少しは見直しまちた」
冷静を装ってはいるが、どうやら雪乃になにかあったことを知って急いできたようだ。その動揺を示すかのように、語尾をはっきりと噛んでいる。
「『まちた』って……ミッチ―、かわいい」
「黙りなさい紅香!」
思わず笑う紅香に、水葉の顔が限界まで赤く染まる。
「……ったく。飛んできてくれたのはありがたいが、もうちょい周りを見て行動しろよな。らしくねえ。だいたい、とりあえず緊急事態は収まったとこなんだからよ」
翔悟の言葉に、水葉がふと、まじめな表情に戻る。
「……私が来たのは、お姉さまがさらわれたからだけではありません。あなた方に、重要な情報を持ってきたのです」
「重要な、情報?」
今まであまりの勢いに、完全に観客を決め込んでいた静馬が、怪訝な表情になる。
「そうです。紅香と、私たち、前回の事件に関わったものが教会に狙われているのは、翔悟に話した通りです。ですが……それがなぜなのか、意外なところで判明しました」
「……マジか。ちょうど今、その話をしてたとこだ。こっちでも、ちょっとおかしなところがあってな」
翔悟の言葉に、水葉が神妙な顔を作る。
「……もしかしたら……そちらで生じた疑問も、私の持ってきた情報を聞けば、答えが出るかもしれません」
「……どういうこと?」
紅香の疑問に、水葉は自分の懐を探る。
「……言葉では、説明しづらい。……これを」
やがて、水葉は数枚の写真を取り出した。どうやら、デジカメの画像を印刷したもののようだ。
「……なに、この写真?」
机に置かれたそれを、紅香は手に取る。数枚は、紅香には何語かもわからない文章の写真だ。やたら古い書物だということくらしか理解できない。
「これが、なんだって……」
写真をぱらぱらとめくっていた紅香の手と目が、ある一枚で止まった。
「……なん、で?」
紅香の目に留まった、一枚の写真。そこに写っているのは、紛れもなく、自分の姿だった。――――ただし、それは人間ではなかった。
それは、どこかの古い、神殿のような、苔むした石造りの建物。日本ではないことは間違いない。どこか神秘的な、まるで中世を舞台にしたゲームのダンジョンのような、建物。
そこに立つ、凛とした顔立ちの石像。それが――――まるで鏡を見ているかのように、自分と瓜二つの顔で、そこにあった。
「……わた、し?」
その言葉に、静馬や翔悟も写真を覗き込む。
「……ほんとだ。紅香にそっくり……。いや、まるで本人みたいな……」
「だが、日本じゃないだろ……これ。いったい、どこにこんなもんが?」
翔悟の言うとおり、確かに日本であるようには見えない。
「それは、スペインの山奥……とある聖女の伝説が残る村にあったものです」
「……聖女?」
水葉に言われて改めて写真を見ると、その石像の人物は立派な鎧を身に付けている。そして、その足元には、剣だろうか。かすかに柄のようなものが写っている。
「その剣の写真もあります。見てください」
水葉に促され、紅香は再び写真をめくる。
「……これも……私の……」
その写真に写っていたのは、紅香が邪神の力を解放したときに現れる、あの大剣だった。
「他の写真に写っている文章は、その教会に安置されていたもの。それによると、その石像の人物こそ、村に名を残す聖女――――500年前、『炎の聖女』として悪魔を退治した人物だということです」
「炎の……聖女」
呆然と、紅香がつぶやく。
「その人物は不思議な力で炎を操り、幾多の悪魔と戦い、人々を救ったそうです。そして、人々に聖女として崇められた。しかし、それゆえに、教会に疎まれ、魔女として処刑された……」
水葉が腕を組み、目を閉じて言う。
「だが、魔女狩りの慣例として、その遺体を焼こうとしたところ……いくら炎を焚こうとも、その体が燃え尽きることはなかった。そして教会は、その真実を知った。自分たちが処刑してしまったのは……本物の、聖女だったのだと」
「……てことは、まさか……」
さすがに困惑した様子の翔悟が、落ちつかなげに帽子の位置を正しながらうめく。
「恐らく、そのまさかです。前回の事件の際、教会も邪神の件を追っていた。どういったルートかはわかりませんが、上層部も、紅香のことを知った。時を同じくして、その村の伝説が真実であったということが明らかになった。つまり……」
「教会は……紅香を、聖女の生まれ変わりかなんかだと、思い込んだ……?」
それまで静観していた静馬が、驚愕の表情で言う。
「ご名答。その姿、炎を操ること、そして、その武器。それらの共通点を見つけた彼らは、紅香を聖女の生まれ変わり……またはそれに類するものと、思い込んだ。そして、恐れた。500年前、自分たちが犯した、聖女を処刑したという過ちが、露呈することを」
「……それで、紅香に暗殺者を差し向けた……ってわけか。そして、その事実にたどり着く可能性のある人間――――俺たちにも」
腕を組みながら言う翔悟に、水葉がうなづく。
「……500年前の過ちを隠すために……? そんな、昔のことを……」
困惑する紅香に、水葉が首を横に振る。
「いや、あり得ます。教会は魔と対するための組織……。聖女を殺害していたとなれば、求心力が落ちることは必至。そうなれば、教会の権威も……」
その言葉に、翔悟と雪乃もうなずく。
「しかし……問題はこれからどうするかだ。教会の上層部が相手となると、面倒なことになる。……が、まずはとにかく、ここを離れたほうが良さそうだな」
「え? なんで?」
聞き返す紅香に、翔悟がタバコに火をつける。
「忘れたのか? 雪はここにいるときに襲われたんだ。てことは、やつらにここの場所はばれている。日が出ている今はまだ、向こうも動かないだろうが、夜となれば話は別だ」
「……なるほど。でも、どうする? まさか、野宿するわけにもいかないし。ま、僕は困らないけどさ」
頬をぽりぽりと掻きながら、静馬が言う。
「んじゃ、うちに来る、とかは?」
あっけらかんと言う紅香に、翔悟が首を横に振る。
「いや、ここがばれてるってことは、こっから帰ってく紅香の家もばれてる可能性が高い。止めといたほうが無難だな」
「んー、じゃあ、静馬んちは?」
さして深く考えている様子もなく言う紅香に、静馬があからさまに渋面を作る。
「君ね。遊びに行く集合場所を決めるんじゃないんだから、ちょっとは頭を使って発言しようよ」
「なによっ! その言い方! 私がまるで何も考えてないみたいじゃないのっ!」
ぷりぷりと怒って静馬を指差す紅香に、しかし静馬は渋面を崩さない。
「……じゃあ、どんな考えがあって言ってるのさ」
「……えーっと、あれがこうでこう……だから、それがそうなって、そう……そういうことだよ!」
一人でなにやら思案をめぐらせているような顔をしてから、紅香がびしっと静馬の顔を指差す。ようするに、やっぱりなにも考えていなかったようだ。
「……かろうじて日本語だってことくらいしかわからない……」
あきれるというよりは嘆くように、静馬が片手で顔を覆う。
「……いや、待て。案外、いい案かも知れんぞ」
こちらは紅香と違い、本当になにやら思案していたらしい翔悟が、不意に顔を上げた。
「ほらほら、翔さんもいい案だって!」
得意げな顔で、紅香が渋い顔の静馬をひじでつつく。その顔には、何も考えてなかったくせに……という思いが書いてあるかのようだ。
「……紅香、いい子だから、ちょっと黙っててくれないかな」
「ムカ! 私は5歳児かっ!」
がーがーとがなる紅香をよそに、静馬は翔悟に向き直る。
「それで、いい案ってどういうことさ? 翔さん」
「ああ、まず第一にだな、静馬の存在が奴らにばれていない可能性もある。無論、なにかしらの守護霊がついてることくらいはお見通しだろうが、それが幼なじみだとまで把握しているかどうかは、正直怪しい。ましてや、その住所まで調べ上げているってことはまずないだろう。第二に……」
言いかけて、翔悟はタバコに火をつける。
「あそこは今、空き家になって久しいはずだ。俺たちが姿を消したとあれば、奴らは当然、その行き先を探すだろうが、近所の空き家に潜んでいるとはさすがに思わないだろ」
「なるほどね。それなら確かに、うちは見つかりにくいだろうね」
静馬も翔悟の言葉にうなずく。
「……よし、そうと決まれば、日のあるうちに出発するぞ。とはいえ、この人数でぞろぞろ移動してりゃ、さすがに目立つ。紅香と静馬は先に出発してくれ。俺、雪、水葉は後から行く」
「へ? 車で行くんじゃないの?」
素っ頓狂な声を上げて、紅香が顔を疑問符に染める。
「それも目立たないためだ。全員が車に乗って動いたところを見られれば、向こうは警戒するだろうし、車を見つけられれば、その近くにいるとあたりをつけられちまう。だから、車は使わない」
紫煙を吐き、いったん翔悟が言葉を切る。
「なるべく自然な形で、静馬の家へ向かうんだ。紅香は……そうだな、家に帰る振りでもするような感じで向かってくれ。なんなら、一度、本当に家に帰って、いかにも中に家人がいますっていうような細工をしてきてもいい。テレビや電気をつける、とかな。その上で、こっそり静馬の家へ向かうんだ」
「翔さん……」
適確に意見を述べる翔悟に、紅香が驚いたような、目を丸くした表情になる。
「ん?」
「翔さんって、ほんとに探偵だったんだね。てっきり、『陰陽師で探偵とか、かっこよくね?』みたいなノリで名乗ってるんだと思ってたよ」
今度は、紅香の言葉に翔悟が渋面を作る。
「……お前な。この期におよんで、中二病みたいに思ってたのかよ、俺のこと」
「だってさ、探偵らしい仕事してるの、全然見たことないんだもん」
「ああ、お前にゃ関わらせたくないからな。尾行とか、素行調査とか、そういう細やかかつ繊細な神経を要する仕事は」
お返しと言わんばかりに、精一杯の皮肉を込めて、翔悟が言う。
「ちょっと、それじゃ私がまるで無神経みたいな言い方じゃない!」
「おお、わかったか。そういうつもりで言ったの!」
子供のようにじっとりとした視線でにらみ合う二人に、周囲の人間はみな呆れ顔だ。
「……はあ。とにかく、敵に悟られないように、静馬の家へ向かうのですね? 翔様」
「む……。ああ、そういうこった。まずはさっきも言ったとおり、紅香と静馬が選考してくれ。俺たちも、後から向かう」
翔悟の事務所から静馬の家へ向かう道すがら、始めは警戒していた紅香だったが、気配を探る限り、自分を尾行しているような感じはない。軽く息をつき、紅香は静馬へと視線を送った。
「……あのさ……どう思う?」
「え? なにが?」
きょとんとした顔の静馬に、紅香は少々、眉根を潜ませる。
「さっきの、私が500年前の人とそっくりだから狙われてる……って」
「ああ、そのこと」
対する静馬は、案外とそっけない。その言葉に、紅香はぷうと頬を膨らませる。
「そのこと、じゃないよ。ほんとにそんなことだけで人の命を狙ったり、大勢の人を巻き込んだりなんて、いくらなんでもひどいんじゃないの? 魔を狩る組織が聞いてあきれるよ。ミッチーがいたから、あの場では言わなかったけどさ……」
「……確かに、ひっかかることはいくつかある。人道的に……ってのも、もちろんだけど……紅香を狙う理由が水葉の言うとおりなら、こないだの雪乃の誘拐はなおさら変だ。僕たちが戦ったあの大男は、人質を取るような真似はしたくなかったみたいだった」
あごに手をやり、考え込んでいる様子の静馬だったが、答えは出ないのか、翔悟のように頭を掻いた。
「なんだかさ、相手の狙いがつかめないよねー。なんて言うか、言ってることとやってることがちぐはぐな感じ。ほんとにやる気あんの? あるんなら、正面からぶつかってきなさいっての!」
紅香は両手で拳を作り、びしっと腕でクロスさせる。
「そんな単純に行かないから、向こうも苦労してるんだと思うけどね」
ふう、と軽く息をつく静馬が、不意に辺りをきょろきょろと見回す。
「なに? どしたの?」
つられて紅香も視線を巡らすが、特におかしなところはない。日没直後ということもあり、目に付きにくい、闇の濃い部分が生まれ始めていること以外は、普段どおりの道だ。
「――――いや」
だが、その紅香の認識を、普段ののんびりした口調より数段鋭い声で、静馬が切り裂いた。同じく鋭さを増している彼の視線は、前方――――日没によってできた影の、真ん中に注がれている。
なにかが、いる。
先ほどまで周囲が明るかったために、闇に慣れていない瞳では、それが蠢く何かであること以外は視認できない。だが、確実に、そこにいる何かの存在は見て取れた。
紅香は、闇に慣れない瞳でそれの姿を確認しようと、目を細める。
「――――ろす……。――――ろせぇ……」
しかし、視覚よりも先に、聴覚が知らせる。あれは、危険だと。
うめくような、うなるような。飢えたような、恨むような。……その声。
「……こ、ろせ……。こ、ろせ……」
やがて、それを発しているものが、闇からのっそりと、姿を現した。それは、どこにでもいそうな、普通の青年だった。片手で、わずかにひしゃげた金属バットを引きずり、虚ろな目で口から泡を吹いている以外は。
「しっ、死人!?」
その様子に、紅香が思わず戦闘体勢をとる。だがその機先を、静馬が手で制した。
「待った! あれは、死人じゃない!」
「じゃあ、なんだって言うの!?」
思わず怒鳴り返す紅香に、静馬が苦虫を噛み潰したような表情になる。
「……普通の、人間だ。ただ……どういう原理かはわからないけど、なんらかの方法で正気を失わされている」
「……操られてる、ってこと?」
「多分、それが一番妥当な言葉」
端的に言う静馬の視線が、さらに右、左とせわしなく動いた。その動きと彼の表情だけで、紅香はほぼ、なにがあったかを理解する。
「……そっちにも、ってわけね」
これまた端的な紅香の言葉に、静馬がうなずく。その仕草が正しいということを示すかのように、左右の路地の先からも、目の前の青年と同じような声が響いてくる。
「操られてるだけの人、だけど向こうはやる気マンマンで、しかもいっぱいいるってことは……手段は、一つだね」
紅香が、徐々に迫りくる青年に向かって、人差し指を立てて見せる。が、すぐにそのまま回れ右をし、走り出した。
「……逃げるっ!」
静馬とともに、来た道をひた走る。だが、行く先行く先、同じような操られた人間が道を塞ぐ。その度に迂回したり回れ右をしたりで、徒歩でもそうそうかかる距離ではないのに、まるで目的地に近づけない。
「どうなってんの!? ここら辺の人、みんながみんな、ああなっちゃってるわけ!?」
さすがに息の切れ始めた紅香が、ぎりぎりと歯噛みする。
「……案外、そうかもよ。さっきから、まともな人をまるで見かけない」
妙に冷静に静馬が言う。確かに、日が沈み始めたとはいえ、一人くらい、普通の人が出歩いていたっておかしくない。
そこまで考えて、紅香はもっとおかしなことに気がついた。先ほどから、空が黄昏時のまま、一向に夜へと向かおうとしない。その手前の、日没直後の空のままなのだ。
「……これ、誰かがなんか、ろくでもないことしてるよ! 絶対……なんかおかしいって!」
わめきながら、人気のない路地裏へ飛び込んだ紅香だったが、その目の前に現れたのは、住宅街には似つかわしくない、急勾配でやたら長い石段だった。
「げっ、これ上るわけ?」
思わず後ろを振り返るが、まるで申し合わせたかのように、操られた人間たちのうめき声が来た道から響く。
「……この異様に長い階段上るしかないじゃん。嫌がらせだー」
じっとりとした視線で路地の向こうにいるであろう人間に辟易しつつ、紅香は階段を上り始める。
やがてたどり着いた先は、住宅街の中にぽつんと忘れ去られたように佇む、小さな神社だった。足元から続く石道は新しくこそないものの、きれいに掃除されており、ごみひとつない。その先の本殿も、こじんまりとしてはいるが、美しさすら兼ね備えた様式美をかもし出している。
また、その左手にはご神木なのか、注連縄の張られた大木が堂々とした姿で鎮座している。それらの雰囲気があいまって、そこはどこか静謐とした、神秘的な空気を湛えていた。それは、ここならば、今、街を徘徊している人間たちも近づけさせないのではないかと思わせるほどのオーラを纏っていた。
「……うちの近くに、こんな場所があったなんて」
思わず、その荘厳な空気に飲まれながら、紅香がつぶやいた。こんなに凛とした場所があるならば、パワースポットだなんだと話題にくらいなりそうなものだが。
「そういえば、翔さんが前に『そこらのお寺や神社だって、神様や仏様がちゃんといる所だってある』って言ってたね。こういうところがそういうものなんじゃないかな?」
なんとなく理解した様子で、静馬が辺りを見回す。
「じゃあ、もしかしたらここなら、あいつらは入ってこれない?」
「……確実とは言えないけれど、あり得るね」
その言葉を聞いた瞬間、紅香がへなへなとその場に座り込んだ。
「……はぁ、助かったぁ。さすがに何キロも全力ダッシュして、とどめに階段ダッシュじゃ疲れたよぉ」
「とりあえず、多少は安全そうな場所にたどり着けたことだし、ちょっと休もうか。翔さんたちとも連絡取ったほうがいいだろうし」
そう言いながら、静馬は本殿のほうへと歩いて行く。
それにつられるようにして、紅香も静馬の後を歩き出した。
本殿の階段に腰掛けた静馬の横に、紅香も座る。
――――刹那。
ぞくりと。背後に、気配を感じた。恐ろしいような、懐かしいような。あるいは……悲しいような。
「……紅香!」
静馬の声が響く。きっと、それは背後のそれに対する警戒を促す声。
しかし、不思議なことに、紅香はそれを警戒する心持ちにはなれなかった。たとえて言うなら、鏡に映った自分が、ただ――――後ろにいる。それだけのことのような感じ。
「そっか……あなたが、ここに呼んだんだ。私を」
ゆっくりと、紅香は後ろを振り返った。
そこにいたのは、自分。言葉も、何かしらの素振りもなく。ひどく希薄な存在感を、その優しい微笑みにだけ、込めて。
「なにか……伝えたいことがあるんだね」
こくりと、自分の姿をしたそれは、うなずく。同時にそれは、神社の本殿の中に、幻のように静かに消えていった。
そして、音もなく神社の本殿の扉が開いた。
「……紅香、今のは……」
驚きを隠せない静馬に、紅香はかすかに微笑む。
「大丈夫。あれは、敵じゃない。証拠もなんにもないけれどね。なんとなく、そんな気がするんだ」
怪訝な顔をする静馬に背を向け、紅香は本殿の中へと入って行く。その様子に、さして警戒する様子もない。
本殿の中は、質素な造りだった。小さな小部屋のような場所に、恐らく祭られている対象であろう、鏡が一つ、置いてあるだけだ。恐らく、社務所のような建物は別にあるのだろう。
鏡とは言っても、それは普段の生活で見るようなそれではなかった。まず、大きさが違う。どちらかといえば、それの大きさは姿見のそれに近い。さらに異彩を放っているのは、その装飾。本来ならば豪華に飾るはずのそれは、この鏡にはなく、梵字のような奇妙な文字が刻まれているのみだった。
ただ唯一、漢字で書かれた言葉を除いて。
「……雲外鏡……?」
静馬が、眉をひそめ、不可解げにその言葉を読み上げる。
紅香は、それには答えず、その鏡を覗き込む。その中には、先ほど現れた自分――――。今、自分がしているであろう表情とは違う、微笑む己の姿があった。
その鏡の中の自分が、すっと、こちらに手を伸ばした。その手は不思議なことに、鏡面をすり抜けて、目の前で実体化する。
そっと、紅香はその手を握り返す。
「紅香、ちょっと……!」
あわてる静馬をかえりみて、紅香は微笑む。
「大丈夫だって。多分、すぐ戻ってくるから」
「戻ってくるって……」
困惑する静馬をよそに、紅香は自分の手を優しく握るその手に引かれ、ゆっくりと、鏡の中に消えていった。
気がつくと、視界には広く青空が広がっていた。視覚の次に感覚を刺激するのは、嗅覚。青い、みずみずしい、緑の香り。
自分は、どうやら寝転がっているようだ。空を見上げて、草の香りに包まれて、優しい風の香る、草原で。
ふと、意図しないままに、右手が目の前の視界を覆った。自分の視界でありながら、身体は思うように動かない。まるで、誰かの記憶の中に放り込まれたのようだ。
「……聖女さまー! 聖女さまー!」
不意に、誰かの声が響いた。同時に、どこか懐かしいような、胸が締め付けられるような、奇妙な感覚が心を染めていく。
やはり意図せず、体が勝手に上半身を起こす。どうも、本当に誰かの記憶を追体験しているようだ。
目の前に現れた声の主は、少年だった。丸眼鏡が印象的な、優しげな、人当たりのよさそうな少年。紅香が見たこともないような、まるでファンタジー映画のような服装をしている。
「……えーっと、誰だったっけ?」
やはり勝手に、自分ののどから声が出る。間違いなく自分の声に聞こえるそれは、どこの言語かも分からない言葉。なのになぜか、その意図するところだけはわかる。
「僕、ザムエルですよ! ザムエル=ミューラー! 昨日、お会いしたじゃないですか!」
少年が少し傷ついたように、自分の顔を指差す。
「ザム……、ああ、昨日泊まった宿屋の子だね。思い出した、思い出した」
ぽん、と手を叩いて自分がうなずく。
「……でもさ、その聖女様ってやめてほしいなぁ。どんだけ言われても慣れないし……恥ずかしくってさ」
ふと、後頭部に軽い刺激を感じる。どうも、照れくさくて頭を掻いたようだ。
「でも、本当にそうなのですから……。それに、ほかにどう呼んだらいいのですか?」
少年――――ザムエルと呼ばれた彼が、困ったように眉根を寄せた。
「普通に名前でいいよ。そのほうが、私も肩肘張らずに済むし、楽だし」
「でも僕、聖女様のお名前を知りませんし……」
恐縮したように困り顔を見せる少年に、自分の頬が緩むのを感じる。
「あー、そういえば名前、言ってなかったね」
微笑んだような感触が、顔に伝わる。
「……私は、アネッタ。アネッタっていうの」
「……アネッタ様……」
少年が、どこか憧憬のような表情を浮かべ、こちらを見る。
「もう、様付けもなし! みんなそんな風に言うけど、こっちは恥ずかしいんだってば!」
ぶんぶんと、自分――――アネッタと名乗った人物が、ぶんぶんと手を振る。声からして、自分と同い年くらいの少女であろうか。
「でも、僕より年上ですし……」
「あーもう、だったらせめて、さん付けでいいよ。君、名前からしてゲルマン民族だよね。そっちの人って生真面目だっていうけど、ほんとなんだぁ」
はあ、と自分がため息をつく。それに反応して、ザムエルと名乗った少年がぐっと手を握りしめて詰め寄る。
「い、いえ! だって、アネッタ様は村をお救いくださったのですよ! 村を支配し、暴虐の限りを尽くしたあの悪魔……バル・ヴェリトを倒してくださったのですから、尊敬して当然ですよ!」
「倒してなんかないよ。なんとか追っ払っただけ。向こうも本気じゃなかったみたいだしね」
謙遜して笑う自分に、ザムエルが複雑な表情をする。
「ところで、そのザムエル君が私になんの用? あ、サインなら大歓迎だよ? なんならそのシャツにでも……」
「あ、あの……アネッタ様の巡礼に、僕も連れて行ってもらえませんでしょうか!?」
「……へ?」
おどけた様子で懐から羽根ペンを取り出しかけていたアネッタが、間の抜けた声でザムエルを見る。だが、すぐに真剣な目つきで少年の目を見返す。
しばらく続いた無言の問答の後、アネッタがふう、と息をつく。
「本気らしいのはいいけど、悪魔と戦う旅だよ? 危険だよ? 武器は使える? 自分の身は守れる?」
「け、剣でしたら、村の剣術大会で……その……6位入賞です!」
「……はは、微妙」
ぽりぽりと頬を掻きながら、アネッタが苦笑するのが、なんとなくわかった。目の前の少年は、その反応に緊張しているのか、顔を真っ赤にしてこちらを見つめている。
「まあ、それはおいおい成長するとしても……一番大事なこと、聞かせてもらおうかな」
不意に、アネッタの声に剣呑な色が混ざる。それは、その声から伝染するかのように、ザムエルの表情を不安で染めていく。
「……死ぬよりも苦しい目に合う覚悟は、ある?」
「……え」
突然の鋭い言葉に、ザムエルが呆然とつぶやく。
「さっきも言ったけど、私の旅は、悪魔と戦う旅。そして奴らは、卑怯だし、狡猾だし、抜け目がない。人間を罠にはめて、おもちゃみたいに扱うことなんて、なんとも思わない。それこそ、壊れるまで遊んで、壊れたら捨てる、なんてこともね」
重い言葉の応酬に、ザムエルは思わず言葉を無くす。年端もいかない少年には、想像もできないことだろう。
「明日にも、奴らの罠にはめられて、そんなことになるかもしれない。その覚悟が君にあるのなら――――いいよ。ついておいで」
アネッタのその言葉を最後に、景色に徐々にノイズが走っていく。それはまるで、古い映画を早送りで見ているかのように、二人の時が流れていく。
アネッタに剣術を教わるザムエル。
炎を操り、悪魔と戦うアネッタ。必死に自分の身を守りながらも、なんとかアネッタを守ろうと奮闘するザムエル。
暗い夜、野宿をする二人。料理当番を押し付けられ、鍋をかき回すザムエルに、つまみ食いをしておいしいと笑うアネッタ。
徐々に、映像の中の二人の時は早回しで過ぎていく。少女だったアネッタは成人した女性に。それよりも年下だったザムエルは青年に。
それだけ時が経っても、二人は悪魔と戦っていた。見返りなどなく、ただ、人のため。
青年になったザムエルは立派にアネッタを守り、そのアネッタの炎はますます勢いをもって悪魔を狩る。
人々に感謝され、金品を渡されそうになっても、笑って手を振る二人。
相変わらず野宿しながら、相変わらず料理当番のザムエル。そして、相変わらずそれをつまみ食いしようとするアネッタ。ただ、今はザムエルにその手を叩かれ、子供のように舌を出していた。
次に、映像がゆっくりになったのは、どこかの街の入り口だった。そこで、アネッタとザムエルは、向かい合って立っていた。始めの出会いから、5年ほどは経っているのだろうか。
「……そう。ザムは、教会に入ることにしたんだね」
「……はい。もっと多くの人を悪魔から守るためには……やはり、そうするしか」
今は青年となったザムエルが、その穏やかな表情を曇らせて、うつむく。その顔は、どこか悔恨と、意思と。志と、憧憬と。未練と、理想が、せめぎあっているように見えた。
「……そっか。うん……そっか」
対するアネッタは、二人が出会った頃と変わらないように見える、そのさっぱりとした笑みを見せていた。
「……じゃあ、お別れだね。結構、助かったよ。それに……結構、楽しかった」
「アネッタ様……」
曇った表情のまま、なにかを言いたげに顔を上げるザムエルに、アネッタはくすくすと笑う。
「その『様』って、結局、直らなかったね」
「……すみません」
アネッタの笑顔を見、何か言いかけたザムエルが、再びうつむきながら、言葉を飲み込んだ。
「もう、わかったよ、ザムがクソがつくほどまじめだってのは! ま、たしかにその性格なら、きっと教会の体質にもあってるでしょ。うんうん」
ぽんぽんと、ザムエルの肩を叩くアネッタの調子は、あくまで普段どおりの彼女に見える。聖なる乙女と呼ばれながら、まったくもって聖女らしくない、聖女。
「……それじゃ、そろそろ行くよ。馬車の時間だから」
「……あ、あの!」
さらりと踵を返し、街の外へと向かうアネッタを、ザムエルが呼び止めた。それはまるで、時が巻き戻ったかのように。二人が出会った時の、緊張した彼の声と似ていた。
「ん?」
アネッタが、くるりと笑顔で振り返る。
「……いえ、旅のご無事を……お祈りしています」
その言葉に、こくりと。言葉なく、彼女はうなずき、歩き出す。
不意に。
彼女の表情が、変わった。なくなった笑顔に、隠れていたかのような切なさに。
「あの時みたいに……素直になれば、いいのにさ……」
その言葉が彼に届いたか確かめるように、アネッタは後ろを振り向く。
だが、その言葉が届くべきだった相手は、もうそこにはいなかった。
「……料理、これからは自分でしなきゃね。ザムの作るシチュー……大好きだったんだけど、な……」
その言葉とともに、紅香の意識はアネッタの視界から切り離されていく。
だが。
今のは、なんだったのだろうか。ひどく懐かしいような、悲しいような、それでいて……どこか恐ろしいような。そんな、感覚。脳裏に刻まれた、どこか、知らない誰かのもののはずの、記憶。
それがまるで、自分に起きたことだったような。
気がつくと、場面はまた、変わっていた。
そこは、夜の街だった。時折、月の光が差し込む、雲の多い、闇の濃い夜。そこにはやはり、アネッタとザムエルの姿があった。
「――――願わくば、あなたには聖女のままでいてほしかった……」
雲にさえぎられ、光の遮断された中――――塗りつぶされたような闇の中で、ザムエルがささやく。
刹那、ぞくりと。
背筋に冷たい戦慄が走る。
瞬間、ぐらりと。
脳裏に重いものが宿る。
「そうすれば、私は……」
この場面を、自分は知っている。いや、違う。知っているのではない。――――体験、している。
今、そこにいる女性――――アネッタとして。
そして、聞いた。次の、彼の言葉を。
「あなたを殺したりせずに済んだのだ――――アネッタ様!」
ぎりりと、ここにいても聞こえてきそうなほどに歯を軋ませ、ザムエルが吼える。かすかにさし始めた月の灯りにその輪郭を照らされたそこに、あの穏やかな面影はない。ぶるぶると全身を震わすほどに張り詰めたその様子は、どこか獣じみていて。
アネッタとして死にかけていながら、時の流れの残酷さを、妙に冷めた思考で感じていたのを、覚えている。
「――――戯言は、必要ない。殺すのならば、早くやればいい」
だからだろう。こんな、突き放すような言葉が口をついたのは。
「だが、お前の思い通りには、させない……」
目の前のアネッタが、歯噛みする。それと同時に、ザムエルの表情が、再び闇に隠れた。
「……そうですか……」
この先は……たしか。なぜか、知っているはずだという、妙に確信めいた思いが湧き上がる。それと同時に、背筋の戦慄と、脳裏の重さが、いよいよもって、堪えきれないほどになる。
ぞくぞくと。ぐらぐらと。
それは――――思い出したから。
「残念です……魔女、よ……」
恐らく彼女――――自分だけが、見ていた彼の、その時の顔。闇の中、かすかに浮かぶ、彼の顔。それを見て、戦慄と、頭の重さが、それまでのそれをあざ笑うように限界を超える。
にたにたと。げらげらと。
彼は――――笑っていたから。
彼……いや、それが振り上げた刃が、暗闇から眼前に現れた瞬間に、紅香の意識はまるでスイッチが切られたように、失われた。
「……んん……」
「……紅香!」
あわてたような静馬の声で、紅香は目を覚ました。目の前には、不安そうな表情の彼の姿があった。
一瞬、その顔が誰かの面影とだぶって見える。夢と現実の境目がはっきりとしない。頭がくらくらして、思考が定まらない。
大きく息をついて、紅香は身体を起こし、立ち上がる。そしてゆっくりと、雲外鏡と書かれた鏡を見た。刹那、紅香ははっと息を飲む。
そこに映っていたのは、自分とよく似た、しかし自分ではない少女だった。
「……聖女、アネッタ……」
その少女は、その答えに満足したように、にっこりと微笑む。
「……一つだけ、聞かせて。私は、あなたの生まれ変わりなの?」
紅香の言葉に、鏡の中のアネッタは否定も、肯定もしない。
「あなたは、かつて私だったもの。でも、魂は時とともにうつろい、変わる。私は、あなたの一部。あなたは、私の一部だったもの。だけど、今のあなたは……あなたなの。魂は、永き時を経て、様々な魂と時に混ざり、時に分かれ、自分の輪郭を作り上げていく」
アネッタが、目をつむり、静かに言う。謳うように。紡ぐように。
「あなたが、私の生まれ変わりなのかどうかは、問題ではないわ。ただ、あなたという魂の中に、私は未だ色濃く残っているだけ」
ほんの一瞬、アネッタは言葉を止める。
「彼を、止めて。彼の魂は……巡ることもなく、未だ淀んだまま、この世界にある」
「彼って……あの、ザムエルって人のこと?」
紅香の言葉に、こくりとアネッタがうなずく。
「そう。そして彼は、あなたを狙っている。私の魂を色濃く残す、あなたを」
その言葉の終わりとともに、アネッタの姿が徐々に薄くなっていく。それはただ儚く、陽炎のように。
「ちょ、ちょっと待って! まだ、聞きたいことはたくさん……」
紅香が思わず手を伸ばすが、鏡の中の相手にそれが届くはずもない。微笑むアネッタの姿は、ゆっくりと消えていく。やがて、鏡に映ったそれは、いつもの自分の姿へと変わっていた。
「大丈夫。あなたはあなただけれど、私でもある。だから、あなたなら……きっと……」
最後に紡がれた言葉は、どこか悲哀に満ちていて。彼女が消えた瞬間、紅香の胸を、郷愁のような……儚い色で染めた。
「……………」
言葉もなく、紅香は立ち尽くす。
「……うつろう魂……か」
不意に、静馬がつぶやいた。
「なんとなくだけれど、わかるような気もするな。かつての聖女の魂が、長い時間をかけて形を変えたものが……君だったんだ、紅香」
その言葉に、紅香はうなずくことも、振り返ることもできない。それは、胸をかきむしりたくなるような、なんともいえないこの切なさのため。
「……うん。そうみたい……だね」
まるで他人事のように、紅香は言う。だが、その口調は重い。
「だから……邪神の力を使うことができながら、のっとられることもなかったんだ。炎の聖女の魂を、受け継いでいたから」
「ねえ、静馬……」
「ん?」
重い表情で振り返った紅香に、静馬が返す。
「どう思う? さっきの、魂は巡っていくって、話」
「……これも、なんとなく、だけれど」
そう前置きをおいて、静馬が言う。
「人って、変わっていくものだと、思う。色んな人と出会ったり別れたりしながら、だんだんとその形を変えていく。楽しかったり、辛かったり、うれしかったり、悲しんだりしながら、その心を変えていく」
「……なんかさ、寂しいよね……」
うつむく紅香に、静馬は微笑んで見せる。
「そうかな?」
「……え?」
「確かに人は変わっていく。だけど……きっと変わらずに大切だと思えるものがあれば、人って幸せなんじゃないかな。……少なくとも、今の僕は大切なものがなにか、はっきり言える。そしてそれを、幸せに思う」
めずらしく饒舌に、静馬が微笑む。その視線がまっすぐ自分に向いていることに気づき、紅香は真っ赤な顔で、再びうつむいた。
「そ、そう……かも、ね。しゅ、守護霊様が言うんだから……そうなのかも、ね」
「はは、なにさ、その言い方」
視線をそらしてそっぽを向くような仕草で、紅香がなおのこと赤面する。それを見て、静馬が思わず苦笑した。
「でも、それなら……やっぱり、私が決着つけなきゃ、だね」
「……そうだね」
紅香は再び静馬に視線を戻すと、ぐっと両手で握り拳を作る。
「敵は……やっぱり、教会にいる」
その瞳が、炎のごとく、紅く燃え上がった。
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