きんのさじ 下巻

かつたけい

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第三章 木村梨乃

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 二〇〇九年
 佐治ケ江優 十五歳


     1
 鬱陶しい。
 実に鬱陶しい。

 かね部長の存在が、である。
 どうでもいいことまであれこれと偉そうに指図するし、役割分担などといって一年生に部活運営上の仕事までやらせようとするし。

 本当に面倒くさい。
 自分はただボールを蹴っていたいだけなのに。

 部活動への参加が義務づけられているからこうして通っているけど、本当ならば放課後はとっとと家に帰って一人だけで練習していたいというのに。

 勉強だってしなければならないのに、でも毎日の過酷なトレーニングでへとへとでそれどころでなく、だというのに部長の押し付けてくる下らないことにまで悩まねばならない始末。

 もう限界だ、文化部にでも移ろう。
 そう考えるようになってきていたゆうであるが、不満を抱えながらも、あと一週間だけ、もう一週間だけ、と退部届けを出す機会を掴めないままに一日一日が過ぎていき、いつしか夏休みに入っていた。

 なお、一学期期末テストの成績であるが、学年四位。中間テストの順位とまったく同様であった。

 同様ではあったが、やはり中間の結果が出た時のように、次こそ成績が下がるのではと気が気ではなかった。

 だから、たっぷりと勉強もしたいというのに、
 家でも、自由にボールを蹴りたいというのに、
 学校から疲れて帰ってくるだけで、なにも出来ないじれったい日々が続いていく。

     2
 さらに月日は流れ、八月の下旬になろうかという頃、三年生が引退して部長が交代した。
 新しい部長は、二年生のむらであった。

 実は、ゆうが部活を辞めずにいたのは、もう一ヶ月もう一週間と過ごしているうちに、もうすぐ三年生が引退であることに気が付いたからであった。

 部長が代わることで境遇も少しはまともになるかも知れない、と思っていたところ木村梨乃の就任が決定し、それならば続けられるかも知れない、と優は期待を持ったのである。

 木村梨乃も、集団云々よりもとにかく自分がボールを蹴って技術を磨いていたいというタイプで、それならば自分の気持ちを理解してもらえるのではないか。そう思ったのである。

 そして、木村梨乃が正式に就任した。

 結論から先にいうと、もっと鬱陶しくなった。
 優の予想は完全に外れた。

 本来ならば、その予想は当たっていたのだ。優の知らないことであるが、木村梨乃の胸中に、部長になるという話を受けるにあたっての大きな変化があったのである。

 木村梨乃新部長は、金子前部長のやり方を基本的に踏襲し、そして前部長を遥かに上回るほどやたらと部員へのコミュニケーションをはかろうとした。
 これが鬱陶しい以外のなんであろう。

 部長としての能力が高いぞということや、頑張っとるってところをただ他人に見せつけたいだけなんじゃろ。

 優にとって、木村梨乃の部長としての行動のことごとくが、そういったものにしか見えなかった。

 親切な態度を取りながらも、他人の心にずけずけ踏み込んでくるし。
 自分が気にしていることを、いちいちこれみよがしに注意してくる。
 緊張しやすくて集団の中で上手くボールを蹴れないことなんか、いわれなくたって分かっているんだ。

 一見気遣っているふりをして、単に人のことをバカにしているだけじゃろ。
 優越感に浸っているだけじゃろ。

 ああ、もうやめたい、こんな部活!
 
     3
 目がかすむ。
 疲労のためなのか、ぜいぜいと吐き出される息がもやのようになっているからなのか、どちらであろうか。
 どっちでもいい。
 苦しい。大きく息を吸っても、酸素がちっとも肺に入ってこない。

 そんな息も絶え絶えのゆうが半ばうつろな視線で見守る中、ゴレイロであるたけあきらの股の間をボールがするりと抜けて、またネットが揺れた。
 男子チームのシュートが決まったのだ。

「いやっっほう!」

 シュートを決めたのりが、喜び飛び跳ねている。

「やったー!」
「ナイシューッ!」

 仲間に押し倒される志田。みな次々と志田の上に重なって、歓喜の雄叫びを上げた。

 男子フットサル部と女子フットサル部との練習試合である。
 学校行事や病欠などで女子部の人数が足りず、ミニゲームすらも行えないというむら部長のぼやきを聞いた男子部部長の提案により、実現したわけであるが……

 男子は、男子であるというのに、一人一人が完全に本気であった。
 相手が女子だから手加減しようなどという者は、この中には誰一人としていないようであった。

 現在のスコアは18―0。
 大虐殺する側とされる側、どちらがどちらであるか、いうまでもないだろう。

「しゃーーーっ!」

 また志田紀男の雄叫びが轟いた。
 とよこうのオーバーヘッド気味のクリアボールを、中央で待ち構えた志田紀男がさらにオーバーヘッドで前線へ、ループ気味のボールが飛び出していたゴレイロの武田晶の頭上を飛び越えて、ゴールに吸い込まれたのだ。

 どうせ練習だし、と木村部長が交代人数制限を設けることを提案しなかったため、男子は常にフレッシュな者がピッチを駆け回り、反対に女子はほとんど交代枠がないに等しいものだからみな疲労困憊。

 ピッチ横で、くすが地面に尻をつき、足を大きく前に投げ出し、ぜいはあと喘いでいる。

 実にみっともない表情であったが、そんなことを気にしている余裕などないのだろう。あと二分ほどもしたら、また出番が来てしまうのだから。

 ばったり、と留美子は後ろに倒れて大の字になった。
 どんなにみっともなくても隣よりは遥かにマシだ、などと開き直っているんだろうな、きっと。と、優は思っていた。

 その隣とは、優自身のことだ。
 優もまた、ちょっと前まで走り回されボールを追い掛けさせられ、もとの体力のなさもあって留美子以上に体力の限界に達していたからだ。
 まるで飲み物に毒物でも混入されたかといった苦痛苦悶の表情で、少しでも酸素を吸い込もうと金魚のように口をパクパクさせている。

 そんなみっともない顔の優の前で、またもや男子が追加点。
 わらたかしがフィクソであるらくもとおりの突進をかわし、ゴレイロ武田晶の飛び出しをもかわし、無人のゴールにボールを流し込んだのだ。

「くっそー、悔しいな。一点くらい取りたいよな。よし、交代、留美子、サジ、入って!」

 死刑宣告。
 木村梨乃のその言葉は、優にとってはまさしくそれであった。

 心臓が限界だ。
 もう破裂する。もしくは鼓動が止まる。

 なによりの問題は、今日の対戦相手だ。
 自分は普段から女子の中にあっても緊張してまともにボールを蹴ることが出来ないのだ。男子とだなんて、やれるはずがない。

 ただ無駄にボールを追い掛けて、ぶつかられて転ばされて、それでも走らされて、相手が強すぎるからと開き直ることも出来ずそれどころかますます自信をなくして、自分が嫌いになって……もう、こんなの嫌だ。
 肉体疲労だけではなく、心ももう限界だ。

 逃げたい。
 もう、逃げよう。いますぐ。ここから立ち去ろう。部活も辞めよう。場合によっては学校も辞めよう。

「ほら、サジ! 早くして! 出るよ!」
「はい……」

 優は、ちょっと恨めしそうな視線を木村梨乃に送りながら、ゆっくりと立ち上がった。
 全然視線には気付いてもらえなかったようだが。

     4
「あつ~」

 むらはグレーのベストのボタンを外して、パタパタと自らの身体をあおいだ。

「明日、絶対筋肉痛やで、ほんまにー」

 夏木フサエが、何故か関西弁でぼやいた。

 部活も終わり、下校中である。
 木村梨乃、はまむしひさくすなつフサエ、たけあきらゆうの六人が、学校の制服姿で大きなスポーツバッグを背負って歩いている。

「普通さあ、ミックスでやるよねえ」
「当然だよ、なんじゃありゃ、男子対女子ってさあ。せめて交代枠の数くらい合わせろっての。なんであっちだけ無限にいるんだよ」
「そんなんでゴール決めて、なんでああまではしゃげるかなあ」

 楠見留美子と夏木フサエが、不満を交互に吐き出し合っている。
 なおミックスとは男女混合ということで、町のフットサルコートなどでよく見られるものである。

 夏木フサエは唇が渇いたのか、手にしていた缶コーヒーを一口ぐびり。

「あんたいつもマックスコーヒーばっかり、一日に何本飲んでんのよ。糖尿病になるよ」
「いいじゃん、今日はあんな動いたんだから。糖分摂取しないと」
「普段はあんな動かないでしょ。ぜーったい糖尿になるわ、あんた」

 楠見留美子はいわゆる健康オタクで、なにかにつけて栄養や病気の話をする。ここから二人の会話はフットサルから逸れて、他愛ない雑談になっていった。

 そんな下らない会話ばかりしていて、一体なにが楽しいんだか。佐治ケ江優は、下を向いて元気なさげに歩きながら、そう心の中で毒づいていた。

 会話だけでなく、こうして一緒に帰ったりということも。
 誘われたから仕方なく付き合っているけど、出来れば一人で帰りたかった。今日に限らず、いつも。

 優がうつむきがちに歩くのはいつものことであるが、その隣では普段明るくからっとしている浜虫久樹も、負けず劣らずのどんより暗い表情になっていた。男子相手に無抵抗で惨敗したという結果が、久樹としては相当にショックだったのだろう。

「そんな気を落とさないでよ」

 木村梨乃部長は、久樹を慰めた。

「すごい悔しいなあ。まさか、一点も取れなかったなんて」
「しょうがないって」

 梨乃は、久樹の背中を強く叩いた。

「久樹、バー直撃の惜しいのもあったじゃない。ズガンって凄い勢いで、ゴレイロのてらも全然反応できてなかったよ。そうそう、その前のサジのパスも良い感じだったよ。サジ、やりゃ出来るんだから、この調子で頑張りなよね」

 なんでいちいち、わたしに話しかける?

 木村梨乃の何気ない言葉が、優には鬱陶しかった。

 最初から自分だけに話しかけてくるならまだいいけど、どう考えても浜虫久樹のついでじゃないか。ならたいして重要じゃないんだろ。いちいち話しかけてくるな。面倒くさい。

「はい」

 思ったことをそのままいうのも、ますます面倒くさいことになりそうなので、優はそう短い返事をして会話を終わらせた。

 本当に、すべてか面倒くさい。
 自分はただ、好きにボールを蹴っていたいだけなのに。
 部活なんか入らなくていいのに、強制だから入っているだけ。

 部長があまり干渉してこないのならまだしもだけど、やたら干渉するし、ほんま鬱陶しい。
 まだ前の部長の方がましだった。

 部活だけじゃない、学校だってわたしはただ三年間を平穏に過ごせればそれでいいんだ。
 なのに、やらなければならない下らないことが多すぎる。
 気にしなければならないことが多すぎる。

 などと、優はぐちぐちと心の中で呟いていた。
 それどころでない状況になったのは、次の瞬間であった。

 お金が落ちていれば誰よりも先に気が付くだろうというくらいにうつむき気味に歩いていたというのに、嫌いは目ざといということか、遥か前方から来るものに優は誰よりも先に気が付いていた。
 そして、

「ぎゃっ!」

 っと無数のガラスが一瞬で割れて散るような、凄まじい悲鳴を上げていた。

 マルチーズらしき犬を散歩させている、老婆の姿が目に入ったのだ。
 大きさは遥かに小さいものの犬は犬である。
 優の脳裏に、あの時の記憶がフラッシュバックしていた。

 柱に手足を縛られ、クラスメイトに土佐犬をけしかけられたあの出来事を。

 手から汗が吹き出し、全身がガタガタと震え出していた。
 優は、ひっと息を飲むとくるりと踵を返し、すぐ後ろにいた木村梨乃の頑丈そうな背中に隠れていた。

「ちょっと、どうしたの、サジ?」
「あ、あれっ」

 優は梨乃の肩越しに前方を指差した。
 梨乃は、老婆と犬に気が付いたようである。

 でも、果たして優と思いを共有することが出来るかどうか。
 マルチーズらしい小さな茶色い犬が、頭に赤いリボンを結んで、ちょこちょこと足を動かして歩いているという、この姿に。

「あれがどうかしたの?」
「あ、あたし、犬っ、犬が、苦手なんです!」

 恐怖になりふり構っていられない。優は梨乃の背中の陰に隠れ、制服の肩をぎゅーっと掴んでいた。

「でも小さな犬じゃない」

 だからなんなんだ、といった表情の梨乃の後ろで、優はあたふたとパニック状態をエスカレートさせていった。老婆、犬がだんだんと近づいてきたからである。
 そして、ついに優は爆発した。

「うわあ!」

 なんとも情けない悲鳴を上げると、学校へ戻るように走り出したのである。
 転びそうになりながらも電柱の陰に隠れ、パチンコ店の看板に背を当てると、息を切らせながら、いまにも泣きそうな顔で老婆が折れて曲がって行くのを見送って、そこでようやくほっと安堵のため息をついた。もしも直進して来るようなら、もっと逃げなければならないところだった。

「ほんと可愛いな、あいつは」
「一番の体力なしがさあ、なんだ、ちゃんと走れるんじゃん」
「本当。うちの部の次期マスコットはサジで決定だね、久樹」

 部員たちの笑い声。
 優は、目に涙を溜め、肩を大きく上下させながら、彼女らの声を聞いていた。

「おーいサジ、行っちゃうよ」

 夏木フサエが手を振った。

 優は肩をぐいと動かして、半袖の裾で涙を拭った。
 ふーー、と大きく息を吐いた。
 そして遠くから、彼女らへと睨み付けるような視線を向けた。

 ……ふざけるな……
 楽しげにはしゃいでいる部員たちに、優は心の中でそんな言葉を吐き、ぶつけていた。

 犬を見るだけでどれだけ怖くなるか、人の気持ちも知らないで、好き勝手にからかって。

 じゃあお前たちも、あんな目にあってみろ。
 縛り付けられ、殴られ、蹴られ、服を脱がされ、顔に犬をけしかけられ、ビルから落とされ。

 あってみろ、ああいう目に。
 自分の生きてきた十五年を、お前たちの平和な人生とそのまま交換してやる。
 それでも、笑っていられるなら笑え。

     5
「失礼します」

 ゆうは部室に入り頭を下げ、扉を閉めた。

「そこ、座って」

 部長のむらは、ペンを机に置くと手で椅子をさした。

「はい」

 優は椅子に腰を降ろし、机を挟んで梨乃と向き合った。

「じゃ、始めようか」
「はい……」

 なにが面談だよ。なんでそんな面倒なことをしなきゃならないんだ。下らない。ほんと嫌だ、この部長。毎年の恒例行事ということだけど、知るか。

 優は不平不満を頭の中で、猛烈な速度でまくしたてていた。
 ぱっと見は、下を向いてなんだかモジモジと落ちつかなげな様子であったが。

「人と話す時は、相手の方を見る!」
「は、はいっ、すみませんっ!」

 優は悲鳴のような裏返った声を上げると、深くお辞儀をし、やや顔を上げておずおずと梨乃へと視線を向けた。

「ええと、なんか考えといてっていってあったよね。どう?」

 佐原南高校女子フットサル部は、慣例として部長が新しくなると新入部員を対象とした個人面談を開くのであるが、それにあたって部への意見を考えておくようにといわれていたのだ。

「あの……いろいろ考えてはみましたけど、なにもないです」
「本当に?」
「はい」
「部のことじゃなく、わたし個人への文句でもいいんだよ。あと、自分はこうしたいのにって要望でもいいんだよ。トレーニングきついとか。試合に使えよ、とかそんなことでもいいんだよ。単なる愚痴でもいいんだよ。……なにもない?」

 優はしばらく考え込むような表情を見せたが、やがて、

「あたし、いまのままでいいんです。ボール蹴ってるだけで、楽しいんです。みんないい人ばかりだし」

 少しだけ嘘をついた。
 ボールを蹴っているのが楽しいのは本当であるが、部活の雰囲気は大嫌いだ。
 部活の、というより人と触れ合うのが嫌いなのだが。

 トレーニングがきついのは梨乃のいっていた通り自分にとっては切実な問題ではあるが、でもどうせ訴えたところで個別に免除されるなどとは思えない。どうせ体力作りメニューを余計にやらされたり、食事や私生活にまで踏み込んで来られるだけだろう。だから、その不満は黙っていた。

 みんないい人、というのも大嘘だ。無神経な人間ばかりで、鬱陶しくて仕方ない。
 広島にいた頃に比べれば、遥かにましだけど。
 それはそうだ。
 だって、

「……誰も、殴らないし……いじめてこないし……」

 過去を思い出して、優の肩は震えていた。

「前に、いじめられてたの?」

 梨乃のその問いに、優の身体がピクリと震えた。
 優は後悔した。
 いじめられていたことを、つい口に出してしまったことを。
 でも、もう遅かった。
 優は小さく頷いた。

 自ら、広島でのことを梨乃に話し始めていた。
 過去を他人に話すなど、初めてのことであった。
 肉親は語らずとも知っていたし、それ以外は気を許していない赤の他人であり木村部長も同様であるというのに。

 まあいい。こうなったからには、隠すことなく話してやる。
 それで今後ぐだぐだといってこなくなるのなら、安いものだ。

 生ゴミ容器の、腐った生ゴミの中に顔を押し込められたり、
 椅子に画鋲を置かれたり、
 教科書に落書きをされたり、破かれたり、
 トイレにいかれないよう押さえつけられたり、
 生きたゴキブリを呑まされそうになったり、
 髪の毛や制服をハサミで切られたり、
 柱に縛りつけられて大型犬をけしかけられたり。

 クラスメイトに下着を脱がされて強姦されかけたということ以外は、あらかた喋ったであろうか。

 梨乃は、うーんと唸りながら眉間にしわを寄せて難しい顔を作った。
 優には白々しい態度にしか映らなかったが。良識があるがため反応に困っている、というところを見せたいだけだろう、と。

「悪いのは絶対にそのいじめっ子たちだと思うけど、でも、お父さんお母さんはなにしてたのよ? サジがいじめられているってのに」
「二人とも、わたしのために一生懸命色々としてくれたんです。とても感謝してます」

 自分も両親への不満を持ってしまったことはあるが、なにも知らない他人にいわれるのは気に入らない。優は、ちょっと厳しい顔になって反撃した。

「そうか……」

 梨乃は、それきり口を閉ざした。
 しばらく部室には静寂が落ちた。
 やがて梨乃から、その沈黙を破った。

「でも、それは過ぎたことでしょ。ここには、いじめっ子もいないんだし、もっとさ、みんなの中に入ってきなよ。一年同士、バカ騒ぎしたりしなよ。サジが飛び込んできたら、みんな大歓迎だよ」
「友達、いたことないんで、どうしたらいいのか分からない」

 言葉が思いつかず、とりあえずそう答えてしまっていたが、これでは友達を作りたいみたいだと勘違いされてしまう。そう後悔したが、さりとてどうしようもなかった。
 感情をそのまま言葉にする機械があるならば、「余計なお世話だ」「踏み込んでくるな」「さっきの話を聞いていて、まだそういうことをいうか」などの台詞が矢継ぎ早に繰り出されていたことであろうが。

「小さな頃って、なにやって遊んでたの?」

 梨乃は尋ねた。

「サッカーボールがあったので、リフティングとか、ドリブルとか、壁打ちとか」
「ずっと?」
「はい。……家にいても誰もいなかったので」

 本当は母がいたけど、家族を無視して、誰もいないものとして、一人でボールを蹴っていたのは事実だ。いつまでもいつまでも続く学校でのいじめに、小学生の頃は家族すら信じられなかったのだから。

「毎日?」
「はい」
「うわあ、そりゃ上手になるわけだよ」
「別に、上手じゃありません。ただ好きだからやっているだけで」
「いやあ、久樹も舌巻いてるよ。技術だけならサジには勝てないって」
「そんなことないです。浜虫先輩のほうがずっと凄いです」
「まあ、いざ勝負になったら絶対負けない、なんていっているけどね」
「当然です。あたしなんかが浜虫先輩に勝てるはずありません」
「サジ、なんであんな個人技は凄いものを持っているのに、人と向き合うとダメなの? いくらずっと一人でやってたからって、中二で千葉に越してきて、フットサル部だかサッカー部だか、入ってたんでしょ? 試合したりしなかったの?」

 ほじゃから、踏み込んでくるなっていっとるじゃろ!
 思っただけで面と向かっては一言も発してなどいなかったが、とにかく優の指先はこのバカ部長のためどうしようもない苛立ちに震えていた。
 ふう、とため息をつくと、おもむろに口を開いた。

「……プレーが消極的だって、叱られてばかりで、一度も試合に出してもらったことはありません。練習でも、蹴るだけならなんとかなるんですが、奪い合いとか勝負っぽくなると、なんだか、緊張してしまって……。呼吸が乱れて、胸が苦しくなって……」

 これでいいか?
 嫌な過去を思い出しながら、指先を、全身を、ぶるぶる震わせながら正直に話してあげたけど、これでいいのか?

「残念ながら、いまもそこは変わっていないよね。消極的で、すぐに畏縮しちゃって」

 ほじゃから……
 優は、怒りをぐっと飲み込んだ。
 ゆっくりと、口を開いた。

「……エレベーターに乗ってて扉閉まりかけてる時、乗ろうと走ってくる人に気づいて、開くボタン押してあげようと慌てて間違って閉じてしまったこと、ありませんか?」

 自分はなにをいっているんだ。
 優は、自分の精神状態がまったく分からなかった。

 どうしてこんなお節介なバカ部長なんかに、くだらないことをペラペラと喋っているんだ。
 あと一年半で卒業して、もう二度と会うこともないような、そんな人間に自分を分かってもらったところで、それがなんになる?

「なによ、いきなり。何回か、やったことある。まあ、あたしこの辺が地元で遠くにも出かけないから、エレベーター自体にあまり乗ったことないけど」
「あたし、必ずそれやっちゃうんです。開けようとしているのに閉じてくる扉に、わけが分からなくなって、階数指定のボタンをガチャガチャ全部押してしまったこともあります。だから最近は、十階でも二十階でもエレベーターは絶対に使わないようにしているんです」

 だがら、自分はなにをいっているんだ。

 こんなどうでもいい下らない言葉に、木村梨乃はじーっと考えている。

 もう、やめてくれ。
 親切アピールなら、やめてくれ。
 早く、帰らせて欲しい。
 もう嫌だ、こんなところ。

「フットサルと、根本原因、同じだろうね。あのねサジ、全部、精神的な問題なんだよ。でもさ、さっきもいったけど、誰もいじめてくるようなのいないでしょ。のびのびとさ、楽しんでやろうよ」

 その梨乃の言葉に、優はだんと足を踏み鳴らした。

「いまでも十分楽しいです。ボール蹴ってられれば、面白いんです」

 生徒への部活動参加の義務がなくて、自宅で一人で蹴っていられれば、もっと楽しいのだが。
 こんな部屋に呼び出されて、あれこれ過去のことをほじくり返されたり、欠陥人間だと小バカにされることもないだろうし。

 こんなところで、いつまでもこんな話をしていて、なにがどうなる。
 なにが面談だ。
 進路のことならともかく、なんで部活ごときで、こんなことをしなければならないんだ。
 ほんま、いまの部長、鬱陶しい。

 自分が気持ちいいから頑張っているだけのくせに。
 他人の気持ちが分かるようなふりして。
 同情しているような表情作って。
 白々しい。

 いじめられていたことなんか、話すんじゃなかった。
 陰で喜んでいいふらすかも知れない。さも同情しているかのようにして、自分の株を上げようと。

 大嫌いだ、この部長。
 ほんま、大嫌い。

 死ねばいいとかそこまで酷いことは思わないけど、でも軽い事故にでもあって怪我でもして、部活に来なくなればいいのに。

「もういいですか? 失礼します」

 優は立ち上がると、梨乃へ深くお辞儀をした。

「あ、ああ……じゃあさ、宿題にしといてよ。どうすれば溶け込めるか」

 だから、溶け込む気なんかない!
 何度いったら分かるんだ。
 バカなのか、この部長は。
 それとも、からかっているのか。優越感に浸りながら。

「失礼します!」

 優は外へ出ると、扉を乱暴に閉じた。

「ああ、もう!」

 たまらない不快感をごまかすように、優は頭をガリガリと掻いた。
 なにに不快であるのか、自分でも分からない。
 単なる部長の鬱陶しさがか。
 つい、ぺらぺらと話をしてしまったことの後悔か。
 過去のことを知られて、内面を覗き見られる気色悪さか。

     6
「どうしたの?」

 その声に、優はびくりと肩を震わせた。
 フットサル部員の、たけふじことが立っていたのだ。

 優と共にいつも先輩から怒られてばかりの一年生。
 次は、彼女が面談する番なのだ。

「あ、あの……なんでも、ないです」

 優はうつむきながら、答えた。

「なに話したの? 木村部長と喧嘩でもしたの?」
「いわないと、いけませんか?」

 優は軽く顔を上げた。

「別にいいけど。もう関係なくなるからね」
「それ、どういう……」
「あたしはね、ここ退部するつもり」

 そういうと竹藤琴美は、退部願と書かれた茶封筒を優に見せた。

「竹藤さん、フットサル部、辞めるんですか」
「反対にこっちが聞くけど、佐治ケ江さんはどうしてフットサル部にいるの?」
「どうしてって……」
「だってなんか、いつもつまらなさそうにしているから。本当は好きだから、だからやってるの? 自分に向いているから、だからやってるの? それとも、嫌いなのにやっているの?」

 なんていじわるな質問だろう。優は、そう思いつつも正直に答えていた。

「一人でボールを蹴るのは好きだけど、部活自体は好きじゃないです。自分に向いているとも、思ったことなんかない」
「そうなんだ。でも、いるんだね、この部に、こうして。……佐治ケ江さん、あのね、自分の人生は自分のものだよ。自分の学校生活は、自分のものだよ。あたしは体験入部から辞め時を見つけられずに、ずるずる来ちゃったけど、その分だけ充分に考えて結論を出したよ。佐治ケ江さんはどうするつもり?」

 竹藤琴美の言葉が、優の胸に深く突き刺さっていた。

 充分に考えて結論を出した、とはつまり覚悟を固める時間が充分にあったということだろうか。
 練習の時にはいつも優と同じくらいにおどおどとしていた竹藤であるが、なんだかかつて見たことないほどすっきりとした顔になっていた。

「竹藤です」

 部室のドアをノックした竹藤は、中へと入っていった。


 この日をもって、竹藤琴美はフットサル部を退部した。

     7
 すぐには信じられない衝撃的な知らせを聞いたのは、ゆうが部室で練習着へと着替えをしている最中であった。

けいがっ、こここ交通事故にあたったったって!」

 二年生のなつフサエが慌ただしい様子で部室に入って来るなり、地上で呼吸に喘ぐ金魚のようになんともつっかえつっかえな言葉を発した。

「えっ! けけ、景子先輩がですか。そそそそれでれで大丈夫なんですかっ?」

 一年生のしのが続く。
 つっかえつっかえなのは、別にフサエに影響されたわけではないだろう。事の重大さを思えば慌てて当然だ。

「あ、ああ、ええとね、生命に別状はないらしいけど、腰の骨を折ったかなにかで、しばらく入院が必要なんだって」

 景子先輩が?
 交通事故……

 フサエの言葉に、優は金づちで頭をガンと殴られたような衝撃を受けていた。
 そう、部室の中で一番動揺しているのは、間違いなく優であった。
 ほとんど接点のない先輩のことだというのに。

 畔木景子先輩が、腰の骨を折った。
 命に別状はなかろうとも、とてつもない大怪我に変わりはないではないか。
 だって、腰の骨だ。下手をしたら、一生歩けなくなる。

「そそ、それ、あ、あ、あのっ、なつ、夏木先輩……その、景子、畔木先輩、治るんじゃろか。歩けなく……一生、歩けなくなったりいうことは、ないんじゃろか?」

 佐治ケ江優は輪の中に入り込んで、この場の誰よりもつっかえつっかえの大慌てでフサエへと尋ねていた。

「ごめん、それ以上のことはよく分からないんだ。フットサルやるのは、もう今年は絶望的だと思うけど。でも珍しいね、サジが話に加わってくるなんて」

 優はなにも返さず、黙ったまま小さく頭を下げた。
 それきりずっとうつむいて無言でいたが、心の中ではぐるぐると、思う気持ちが激しく渦巻いていた。

 うちのせいじゃ。
 畔木先輩が怪我しちゃったの、きっとうちのせいじゃ。

 ほじゃろ。畔木先輩は、木村部長の親友なんじゃから。
 きっとうちが部長を鬱陶しく思うあまり、怪我することなど願ってしまったからだ。その怨念みたいな気持ちが、梨乃先輩ではなく、畔木先輩へと行ってしまったんだ。絶対にそうだ。

 優は、そんな不吉なことを願ってしまった自分を悔いていた。
 人の怪我を願うなど、怒りにまかせてあんな最低な発想の出来る、自分自身を恥じていた。

 でも、仕方ないじゃないか。
 別に自分は、好きでこんな人間になったわけじゃないんだ。

 誰も知らないことであり、だから誰からも責められてなどいないというのに、心の中で自分自身にいつまでも弁解をしていた。


 その後の部活練習で優は、心ここにあらずといった状態のまま終了時間を向かえた。
 集団の中でまともに蹴れないのはいつもの通りであるが、今日は個人練習でも空振りばかりで見るも無残という有様であった。

     8
 帰り道、一人足取り重く制服姿で佐原駅へと向かって歩いていると、住宅建設現場でラジオの音声が流れていた。
 いじめ相談で、司会者がリスナーからのハガキを読んでいるようである。
 ゆうはふと足を止めていた。

「…マイナスなことばかりではありません。いじめを受け続けていたことで成長出来たこともあります。たまに受ける、人の優しさを素晴らしいと思えるようになったことなんかも。
「いまわたしは理解ある夫と、三人の可愛い子供たちに囲まれて幸せです。もしも自分がああいった人生を送っていなかったら、この生活はなかったかも知れない。
「だからいじめを肯定するわけでは決してありません。いじめは絶対にダメです。当たり前です。でも、わたしもわたしの人生を否定したくない。過去は変えられないけれど、でも自分は変えられる、それならば、過去を肯定して生きることが出来た方がより幸せだと思うのです。現在をより楽しむことが出来るための、神様から与えられた試練だったのだ、と。乱筆乱文失礼致しました。……埼玉県じゅるじゅるママちゃんさん三十四歳からのハガキを紹介しました。う~ん、なるほどねえ。過去の事実は変えられないけど、現在の自分が過去を思う気持ち、それは変えられるわけですからねえ」

 嘘ばっかりだ!
 すっかりラジオの音声に聴き入っていた優は、心の中で怒鳴り声を上げていた。

 少ししたら忘れてしまうような、軽く許せる程度の軽いいじめばかり受けていたから、そんなのんびりしたことをいってられるだけだ。

 いじめというのは、そんなのばかりじゃない。
 一生消えないような、深い傷を負うことだってある。

 なにが成長出来たから受けたいじめは無駄じゃなかっただ。
 無駄じゃ。
 全部、無駄じゃ!

 優は、足元に転がっているマックスコーヒーの空き缶を蹴飛ばしていた。

 いじめだけじゃない、人生そのものが、無駄だ。
 みんなへらへら意味もなく笑っているけど、そんなの嘘だ。自分を騙しているだけだ。楽しいことなんて、この世になに一つない。

 なんで、こんな世界なんかに生まれてきてしまったんだろう。
 辛いだけの、それ以外になんにもない、こんなからっぽな世界に。

「生まれてこなければ、よかったのに」

 ぼそりと小さく口を開いた直後、はっと我に返っていた。
 つい禁句を口にしてしまったことに、気が付いたからである。

 いじめの枠を遥かに越えたいじめにあい、追い詰められてビルから転落し、気付けばベッドの上、そこでの母との会話に家族の愛情を再確認した優は、生まれてこなければよかったなどという両親の自分への思いや自分の両親への思いを否定するに等しい言葉は絶対に漏らすまいと己の心に誓ったはずなのだ。
 例え自分の心の中だけのことであうとも、むしろだからこそ。

 だというのに、無意識にその言葉をつい口に出してしまった。
 ショックに優はすっかり動揺してしまい、ラジオの音声から離れるべく、逃げるように立ち去った。

 充分な余裕を持って学校を出たはずなのに、駅への到着が遅れてタッチの差で電車に逃げられてしまい、ホームで三十分待った。


 帰宅後、自室に入るなり制服姿のまま布団を頭からかぶって泣いた。

     9
 田畑に点在する民家、遠くには小さな山々が見えている。
 市営バスの後部座席で、ゆうは窓枠に頬杖をついて流れ行く風景を見つめている。
 佐原南高校フットサル部で着用している、黒いジャージ姿だ。

 他にもむらはまむしひさらくやまおりなつフサエ、等などフットサル部の部員ばかりで、まるで貸し切りバスである。

 目的地は、成田市立山陽台中央公園第一体育館。
 フットサル大会の、地区予選に参加するのである。

 優は、憂鬱でたまらない気分だった。
 なんでこんな下らない行事に参加しなければならないんだ、と本気で思う。

 緊張からまともにボールを蹴ることが出来ない自分が、試合に使われるはずがないのに。
 いる意味など、まったくないのに。

 声が小さい、もっと応援しろ、と先輩からお尻を引っ叩かれるだけだ。
 試合に出ろといわれるよりは、よっぽどましだけど。

 出ても、生き恥をさらすだけだろうから。あまりの酷いプレーに、笑われて。

 窓から景色を見ながらずっと沈黙している優であるが、他の一年生たちも似たようなものであった。
 優ほど後ろ向きな思考からではなく、単純に緊張してしまっているのだろう。

 二年生たちは反対に、うるさいくらいに騒ぎ続けていた。一年生の気持ちが分かるから、緊張をほぐしてあげているのかも知れない。

「え、なに? カレシ? ハツカレ? あのバカって……もしかして相手、高木ミット? やったじゃん!」

 楽山織絵の、人目を憚らない大きな声が車内に響いた。
 二年生たちは別に恋愛の話で盛り上がっていたというわけではないのだが、木村梨乃のぼそりとした独り言を、織絵が聞き逃さず食いついたのだ。

「え、え、あたしいま喋ってた? ど、どこまで……どこまで喋ったぁ?」

 木村梨乃は、跳ね起きるように背筋を伸ばすと、おろおろと慌てはじめた。
 彼女は、ちょっとぼーっとして一人の世界に入り込んでしまうところがあり、気づけば思考をそのまま口に出してしまっていることが往々にしてある。現在がまさにそうであった。

「うわ、やっぱりそうなんだあ!」

 二年生たちはどどんと大爆発! 一年生のきぬがさはるなども他人の恋愛話は蜜の味とばかりに身を乗り出して飛びついていた。

「梨乃おめでとう!」
「やったね梨乃ぉ!」
「やめて~~~!」

 髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回され、むしられ、頭を殴られ、梨乃は悲鳴を上げた。
 なんでも木村梨乃は、幼馴染で現在クラスメートである男子から告白されたとのことだ。
 もともと部内でも噂はあって、それを本人がぼそり呟いたものだから、こうして一気に騒ぎになったというわけである。

 車内には何人か一般の乗客もいるというのに、彼女らは大盛り上がりで、歌い出す者までいたが、そんな中、佐治ケ江優は相変わらずつまらなそうな表情で窓からの風景を見つめ続けていた。

 下らない。
 幼馴染だろうが、赤の他人に変わりない。そんなのとの接触など下らないし、周りもよくそんな他人の話に夢中になんかなれるものだ。
 付き合うとか、付き合わないとか、ほんま下らない。
 友達などという存在すらも、疑わしいものだというのに、そんな下らないことでおおはしゃぎなんかして。

 嘘だらけだ。
 みんな、嘘だらけだ。
 世の中全部。学校の、部活のみんなも。

 特にやまゆうとかいう無駄にうるさいの、あれはもう嘘のかたまりじゃないか。
 元気の押し売りで自己満足に浸るのは、本当に勘弁願いたい。
 今日は、帯同はしているものの食中毒だかなんだか、それと生理痛の酷さとかでメンバー入りせず、バスの中でも口を押さえておとなしいが、いつもこのくらい静かにしていて欲しいものだ。
 なにも考えていないくせに、聞こえのいい上っ面だけのことをぺらぺらぺらぺらと、鬱陶しいったらない。いつもいつも。

 お祭り騒ぎのようなバスの中で、そんなことを思いながら優は外を見ている。

 バスは進む。

 山野裕子に限らず、今大会は怪我や病気、身内の不幸などで登録メンバーを外れた者が実に多い。
 ばらふじ高校と当たる相手には欠場者が相次ぐという噂があるのだが、まさに佐原南の今回の対戦相手がそこなのだ。
 部員たちは、茂原藤ケ谷の呪いだと冗談交じりに話している。

 本当に、そうならいいのに。と、優は真剣に願っている。
 先日、二年生のあぜけいが交通事故に遭った。腰の骨に小さなヒビが入るだけで済んだとはいえ、箇所が箇所だけに軽症とはいえない。下手をすれば、歩行に差し支えが出るなどの後遺症があるかもしれないのだから。

 自分が梨乃先輩に対して事故にでも遭ってしまえなどと、不吉なことを念じたから、その親友である畔木先輩に災難が降りかかってしまったかも知れないのだ。神ならぬ身なので分からないが、もし本当にそうであるのならば申し訳なくて死んでもお詫びのしようがない。

 だから、もしもその事故や怪我が茂原藤ケ谷の呪いのせいだというのならば、どんなに気が楽か。

     10
 車内アナウンスが流れ、ようやくバスは目的地に到着した。
 成田市立山陽台中央公園第一体育館。
 周囲を広大な田畑に囲まれている、広い運動公園施設の一角にある建物だ。

「ぐうえええい」

 山野裕子がふらふら千鳥足で、とと、と木村梨乃にぶつかった。

「王子、大丈夫?」

 梨乃は、裕子をあだ名で呼びながら背中を軽くさすってやった。

「男でも生理になるんだな」

 浜虫久樹が、怪訝そうな表情でぼそりと呟いた。

「男が生理になるわけないでしょ! ……あの~、あたし、部に迷惑かけちゃってますけど、だからムードだけでも盛り上げようとこうしてきてるんだし、あたしだって落ち込んでいるんだし……つうか、だいたい久樹先輩の方がガサツでガニマタでよっぽど男じゃねーか!」
「なんだとこら! だいたい拾い食いなんてしてっから、O157なんかにやられるんだよ!」

 ああそうじゃ、O157だ。
 流行しているらしく、最近よくテレビで名前を耳にする。しかしあの山野裕子が病原菌なんぞに侵されるとは。世の中なにがあるか分からないものだ。
 まあ、うちにはどうでもいいことじゃけど。

「してませんよそんなこと! 先輩のうちの食事じゃないんだから!」
「うちのごはん知ってんのかよ!」
「どーせ道に落ちてるキャベツの葉っぱとか、そんなとこでしょ! まあ迷惑かけちゃっているのは事実ですから、これ以上はなにもいいません。先輩んちの食事の話ももうしませんよ。だからさ、先輩、今日、絶対に勝ってくださいよね! 二試合とも。そしたら、あたし決勝大会ではゴール量産してやりますよ」
「お、よくいった。えらいぞ男の子」

 浜虫久樹は、山野裕子の男子のような短い頭をなでた。

 くだらない。
 優は心の中で、ぼそりと呟いた。

 ただそれは、自分の全身を包む緊張や、胸の中にぐいぐい入り込んでくる罪悪感をごまかすためであった。
 何故緊張するのか?
 メンバー登録されているからである。
 先ほど述べたように、病気や不幸で急遽メンバーから外れた者が多いため、優も繰り上げでメンバー入りしているのだ。

 つまり、試合に出る可能性がゼロではない。
 これが緊張せずにいられようか。

 だからこそ先ほどから、自分などが出場するはずがない、無駄だ、帰りたい、と、しきりに唱えて自分の精神をごまかしているのだから。

 でも、木村部長からはいわれている。
 本来選ばれないような者を総動員しても、それでも登録制限人数よりも少ないのだから、出る覚悟はしておいて、と。

 覚悟しろといわれたって、出来るわけがない。
 試合になんか、出るのは嫌だ。恥をさらすだけと分かっている試合になど。

 でも、自分がこうしてメンバー入りすることになったのは、もとはといえば自分が原因なのだ。
 人の怪我などを、願ってしまったから……
 だから、畔木先輩が出られなくなってしまったわけで。

 ならば、試合に出ろといわれて拒否するわけにはいかない。
 罪悪感に、自分の心が壊れてしまう。

 でも、出たくなどない。
 悲惨な姿をさらして笑われたくなんかない。

 ……もう、帰りたい。
 やっぱりこんな部活、入るんじゃなかった。
 たけふじさんのように、とっとと見切りをつけて退部しておけばよかった。

     11
 青のユニフォームと、赤のユニフォームとが、ピッチ上で火花を散らしている。

 青い色がわらみなみ高校、赤がばらふじ高校だ。

 茂原藤ケ谷高校は大柄な選手ばかりであるため、相対的に佐原南は小粒で頼りないという印象を見る者に与えていた。

 フットサルは床上を転がすパスが基本なので、体格差の優位がそのまま勝敗を決するわけではないが、ここまで違いがあると体格に劣る者としてはやはり畏縮してしまうものなのであろうか。
 それほどに、佐原南は劣勢であった。

 大会日の間際になって急遽欠場者が続出という、プランの大きく崩れる中で、序盤は互角以上の戦いを見せていたというのに、やはりサブメンバー主体で挑んでいることによる能力の低さや、連係の甘さが、隠せなくなっていた。
 また、相手が審判に気づかれないようにラフプレーをしてくること実に巧みで、佐原南は精神的に追い込まれてしまっていた。

 自信のないプレーを続ける佐原南の選手たちの中で、はまむしひさだけは別格ともいえる素晴らしい動きを見せていた。
 幼少の頃よりフットサル一筋、意地と自尊心をかけて、人一倍小柄な身体をむしろ武器として巨人の群れを掻い潜り、相手ゴールを脅かしていった。

 木村部長としては不本意かも知れないが、完全に久樹頼みのゲームであった。
 久樹がいるからこそ、チャンスを作ることが出来、また、深くまで攻め込まれずに済んでいた。

 しかし、久樹は前半のうちのこの舞台から退場することになってしまう。
 相手の前掛かりをついてゴールへと独走し、ゴレイロをかわしてあとはボールを流し込むだけ、というところで、突如転倒した。それが、その退場劇のきっかけであった。

 佐治ケ江優は、そのシーンをベンチからはっきりと見ていた。ゴレイロが、久樹先輩の足首を掴んで引っ張ったのを。
 選手生命に関わるような危険なプレーであり、レッドカードによる退場処分でもおかしくないだろう。

 だけど、笛は吹かれなかった。
 おそらく、審判からはよく見えていなかったのだ。
 ゴレイロが、角度を計算してそのような、プレーともいえないプレーをしたのかも知れない。

 なにごともなく試合を流そうとする審判であったが、久樹のあまりの痛がりように、少ししてようやく笛を吹き、試合を止めた。

「久樹、大丈夫?」

 部長の木村梨乃がピッチに入り、久樹のそばで腰を屈め、心配そうに覗き込む。
 久樹はゆっくりと立ち上がると、とんとん、と足首の状態を確かめ、茂原藤ケ谷のゴレイロを睨み付けた。

「こいつ、一瞬、あたしの足首凄い力で掴んで引っ張りやがった。レフェリー、見てたでしょ! 得点機会阻止!」

 久樹先輩のいうことに、間違いはない。
 ベンチにいるゆうからも、はっきりと見えていた。

 見えていたというだけ。俯いて上目遣いをしているばかりであり、それを主張することなど出来なかったが。

「いや、なにもなかった。試合再開。さ、控えの選手は外へ出て」

 第二審判が、木村梨乃の肩を叩いた。

「はあ? なにもないじゃないだろ! てめえら、その目は節穴かよ! それか、ひょっとしてルール知らねえのかよ!」

 第二審判へ、掴みかからんばかりの勢いで迫る久樹。
「久樹、落ち着いて!」

 木村梨乃は、久樹の両肩に手を置いた。
 懸命になだめようとする梨乃であったが、それが警告を受けぬためということであれば、もう遅かった。

 審判は、カードを取り出すと久樹へと高く掲げた。
 レッドカード。
 浜虫久樹に、退場が命じられたのだ。

「ちょっと、冗談じゃないよ!」

 久樹は怒鳴った。

「あの、わたしも見てました! 確かにゴレイロ、足掴んでたと思います」

 木村梨乃も抗議する。
 周囲がざわついていた。
 そのざわつきの中、二人が血相を変えて抗議するほどに、優の胸には罪悪感が膨らんでいった。

 相手の悪質なファールを、自分もはっきりと見ていたのに、なにもいえずただ黙っていることに対して。
 でも自分の無意識は、それに耐えられず、なにか言葉を発しようとしていた、のだろうか。

「あ……あ」

 小さく口を開き、そんな、乾きかすれた声を、自分にしか聞こえないかも知れないものの、とにかく発した、その時であった、

「ごめん」

 久樹はぼそりと呟くようにいうと仲間たちに頭を下げ、優たちのいるベンチへと歩き出した。
 涙目で歩いて来た久樹は、優の隣に座った。

 優はもちろんのこと、周囲もなんと声をかけたものか分からず、凍り付いたような雰囲気になっていた。

     12
 試合が再開されたが、当然ながら佐原南の劣勢はより大きなものになった。
 ただでさえ自信のないプレーをしていた佐原南が、一人少なくなってしまったのだから。
 一人だけ別格の、自信あるプレーを見せていた、前線で確実にボールキープの出来る浜虫久樹がいなくなってしまったのだから。

 フットサルは、退場から二分が経過することにより失われた人数の補填が出来るのであるが、そうなる前に得点してしまおうと、茂原藤ケ谷の選手たちは攻勢を強めた。
 波状攻撃であった。

 佐原南としては、自信がないなどといっていられなかった。
 守るしかなかった。

 佐原南は集中し、声をかけ、必死の形相で守り続けた。
 ピッチに立つ選手たちには、一秒一秒が信じられないくらいに長く思えていることだろう。

 食らい付き、跳ね返し続け、ついに二分経過まで、あと十秒。
 というところで、佐原南は失点した。

 相手の二番をフリーな状態にしてしまい、豪快なシュートを打たれたのである。
 佐原南の守護神であるたけあきらは、身動き一つ取ることが出来ず、ゴールネットが揺れた。

 喜びを爆発させる茂原藤ケ谷に、肩を落とし落胆する佐原南。
 ピッチ上に、初めて明確な明暗が発生した瞬間であった。

あや、入って!」

 木村梨乃の命令で、しまあやがピッチに入った。
 二分を待たずとも、退場した側に失点があった場合には人数補填が認められるのだ。

「ボックスでいくよ! フサエ、綾、前! 織絵、バランスとって! まだ一点差だ! くよくよすんな!」

 フォーメーションの指示を出し、叫び、周囲を鼓舞する木村部梨乃。
 だが、この後も流れは変わらず、佐原南はただひたすら防戦一方のまま、前半線終了の笛が鳴った。

     13
 ハーフタイム。
 佐原南の選手たちは、会場の片隅に集まっていた。

「みんな、本当にごめん!」

 はまむしひさが、深く頭を下げた。
 部員たちには、誰よりも小柄なその身体が、より小さく見えていたことだろう。

「ついカッときて、なにがなんだか分からなくなっちゃって。試合ぶっ壊しちゃって、なんて謝ればいいのか……」

 その目には涙が浮かんでいた。

 むら部長は、髪の毛を軽く掻き上げると久樹を一瞥した。

「あのさあ、自分いなくなった程度で、そこまで戦力ダウンすると思ってんの? ……一番経験があるんだかなんだか知らないけどさ、あんまり自惚れないでくれる?」
「梨乃……」

 きょとんとした顔の久樹。

「あたしたちと一緒に頑張ってきた他の二年生、信じられない? 久樹が手取り足取り教えて鍛えてきた一年生の成長、信じられない?」
「そうそう、あたしらだって日々成長してんすから」

 やまゆうが、輪からぬっと顔を出した。

「あんたは試合出てないでしょ!」

 しのが、裕子の頭を押さえ付けた。
 裕子は体調不良によりメンバーから外れており、応援に帯同しているのだ。
 これまでどんより沈んでいた部員たちの間に、楽しげな笑いが起こった。

「よし、じゃ、後半の作戦会議だ。景子と病院で考えた作戦なんだけど、驚かないでね。……まず、メンバーだけど、ボックスで前がサジとフサエで、後列がおりあきらで」

 部長の言葉に、佐治ケ江優はびくりと肩を震わせた。

 ついに、呼ばれた。
 自分の名前が。
 呼ばれてしまった。

 どんなに選手層が薄かろうとも自分など絶対に使われるはずがない、などというはかない思い込みが、音を立ててガラガラと崩れていた。

 手のひらから、どっと汗が出ていた。
 心臓の鼓動が、速く、大きくなっていた。

 逃げたい。
 この会場から、逃げてしまいたい。

 でも、足がぶるぶる震えてしまって、逃げることも出来なかった。
 ぎゅっと拳を握り、弱々しそうな目で床を睨みつけた。
 恐怖から逃れるための無意識の行動だったのかも知れないが、そんなことでごまかせれば苦労はない。
 優の心は、闇の渦へと飲み込まれていく。

「晶?」

 周囲からは、一斉にそんな声が上がっていた。
 優がピッチに立つことも部員たちには驚きのはずであるが、ゴレイロであるたけあきらがFPとしてプレーするということの方が驚きとして勝るのだろう。それも当然だろう。ゴレイロは武田晶一人だけであるというのに、その晶をFPで使おうというのだから。

 これには優も少し驚いた。
 自分に注目の槍が刺さらなかったということで、胸の痛みがほんの少しだけ軽減された気もするが、だからなんだという程度のものであった。

「で、ゴレイロは……はる
「えーーーっ!」

 驚く部員たち。
 優も、叫びこそしないもののみんなと同様にびっくりしていた。

 木村梨乃の説明によると、奇策ではなく全体の疲労を考えた上での正攻法ということであったが。

 確かに、武田晶は足元の技術も上手でFPもそつなくこなすし、きぬがさはるは晶からゴレイロとしての技術指導を受けている。

 でもそんな……大丈夫じゃろか……

 優は、試合の行方どうこうよりも、衣笠春奈が受けるであろう精神的な重圧が心配であった。心配というよりは、勝手に感情移入して春奈の苦しみを想像してしまい、自分の方こそ辛い気持ちになってしまっていた。

 どんなに春奈が楽天的な性格であろうと、彼女のフットサル経験は数ヶ月前に転校してきてからがスタートなわけであり、相当な重圧がかかることは間違いないだろう。

 辞退してしまえばいいのに……
 それで、誰が文句などいうものか。
 もしもなにかいおうものなら、自分が戦ってやる。乾いた口が開くか分からないけど、せめて一言くらいいってやる。睨み付けてやる。

 などと優が一人ハラハラドキドキしていると、当の春奈は実にあっけらかんとした表情で、

「分かりました。頑張ります」

 にっこりと笑った。

 え?
 優は、春奈の言葉を疑った。

 晶からキーパーグローブを借りて、手にはめ始めたところを見ると、空耳ではなかったようだ。

 そんなに、無理しなくてもいいのに。
 要求が無茶なんだから、辞退すればいいのに。

 優は本心から、そう思っていた。
 衣笠春奈の気持ちを思って、というのが半分。
 もう半分は、春奈が頑張るほどに優自身の逃げ場所がなくなり、自分こそが精神的に追い詰められていくような気がして。

 優の足は、微かではあるがぶるぶると震えていた。

 試合に出たくなんかない。
 ここから逃げたい。
 もう辞めたい。
 フットサルなんか。
 辞めてしまいたい。

 だが、優は断ることも出来ず、逃げ出すことも出来ず、自分の決断力実行力のなさを呪っているうちに、後半戦が始まった。

     14
はる、キャッチよりブロック!」

 たけあきらがピッチ中央から、急造ゴレイロであるきぬがさはるへと叫んだ。
「はい!」

 春奈は大声で応えると、キーパーグローブを開きバスバスと右拳を叩きつけた。
 キャッチしようとして、あわや失点というシーンを作ってしまい、晶の注意を受けたのだ。

 衣笠春奈のプレーは、見るからに初心者といった酷いものであったが、それでも気力を振り絞り、味方と運とにも助けられて、身体を張って相手の攻撃を食い止め続けていた。

 たかだか一試合で、急速に技術向上するはずはない。
 それでも自信や、喜びのようなものが、どんどん体内で大きく育っているような……優には、春奈の姿がそんな感じに見えていた。

 フットサル素人に近い彼女が、いきなり抜擢された大役に立ち向かっているというのに、それに引き換え自分はなんなんだ……
 春奈さんの、引き立て役でしかない。
 最悪だ。

 なんのために入部したんだ。
 恥をかくためだけじゃないか。
 より落ち込んだだけじゃないか。

 後半からピッチに立たされたことによって、もともと不安で壊れそうだった気持ちがさらに酷く乱れていた。

 こぼれ球が山なりに、優へと飛んで来た。
 経験の浅い小学生でも楽々トラップ出来そうな、なんということのないボールだ。
 たた、と優は駆け寄り、胸で受けた。しかし、そのボールは大きくそれて、タッチラインを割ってしまった。

「ラッキー」

 茂原藤ケ谷の選手が、バカにするような笑みを浮かべた。

「なにやってんだ、サジ!」

 仲間たちからの、叱咤の声。

 なにやってんだ、って、分かっていたことだろう。
 自分がこうであることなんか、最初から分かっていたことだろう。
 それを選手が欠場で少ないからって、無理矢理に出させておいて、なんだその台詞は。

 優の頭は半分は真っ白、残る理性で先ほどからこのように必死に弁解の言葉を吐き続けていた。

 木村先輩は、疲労対策での采配だといっていた。
 なら、もう少し頑張れば、誰かと交代させて貰えるということ?
 でも、あとどれだけ頑張ればいい?
 どれだけみんなの前で、この不様な姿をさらせばいい?

 誰でも構わないから、早く代わって欲しい。
 一秒だって、こんなところにいたくない。

 畔木先輩の怪我の罪があるからあまりえらそうなことはいえないけど、それにしてもなんだってこんなに選手がいないんだ。茂原藤ケ谷の呪いとかふざけたこといっていないで、みんな体調管理をもっとしっかりしてくれ。
 本来ならば、まともにボールを蹴ることすら出来ないわたしなんかが試合に出られるはずないんだから。それがどうして、こんな生き恥をさらさなければならないんだ。
 「この世に神などいない」と思っている優であるが、「悪魔ならばいる」という認識に変わったのは、その直後のことであった。

 夏木フサエが相手選手に足を踏まれて、関節を捻って負傷退場してしまったのである。
 つまりは、また一つ駒が減って、自分が出続けなければならなくなったのである。

 退場した夏木フサエに代わって、木村梨乃部長が入った。
 右膝にはサポーター、右足首はぐるぐる巻かれたテーピングでソックスが盛り上がっている。
 足の怪我が完治していないとのことで大事をとってずっとベンチであったのだが、この惨状にさすがに出るしかなくなったのだろう。

 本当に、怪我しとるのじゃろか。
 優が疑問に思うほど、梨乃の技術は素晴らしかった。

 視野が広く、パスも的確、ボールキープ能力も高い。
 臨時FPの武田晶も、梨乃ほどではないが技術に優れており、また、FPを楽しんでやってやろうという気持ちからかチャレンジ精神に溢れたプレーを見せていた。

 そんな中、奇跡といっても過言でないような、一つの出来事が起きた。
 セットプレーからの混戦の中、自陣から駆け上がってきたゴレイロの衣笠春奈が身体でボールを押し込んで、佐原南が追い付いたのである。

「やった! やったよ春奈! 同点! 春奈! 春奈、凄い!」

 木村梨乃が興奮を隠さず、衣笠春奈に抱きついた。

「春奈、やるじゃん!」
「おいしいとこ、もってくんじゃねーよ!」

 武田晶と根本このみが取り囲んで、春奈の髪の毛をグチャグチャにかき回している。

 凄い……
 優は呆然と突っ立ったまま、破顔させ喜ぶ衣笠春奈をただ見つめていた。

 フットサル経験がほとんどなく、ほとんど初心者も同然の衣笠春奈が、なんとゴレイロでありながら自陣を飛び出し駆け上がってゴールを決めてしまった。

 優は、自らの胸に、なにか熱いものが込み上げてきているのを感じていた。
 ゴールという結果に対してではない。
 衣笠春奈の勇気や、重圧と戦う気持ちに対して、負けられないと思ったのだ。
 自分も、このままでは終われない。でなければ、何故この世に生まれてきたのか分からないじゃないか。
 そう思ったのだ。

 だけど、その思いはほんの一瞬で汗と喧騒と照明とに溶けて消えた。

 やっぱり、無理だ。
 自分には、あんなこと出来ない。
 器が違う。
 春奈さんは、逆境を乗り越えられるタイプ。
 自分はそうじゃない。
 無理だ。

 一度そう思い始めると、もう優の気持ちは落ちていくばかりだった。
 衣笠春奈を初心者だとバカにするつもりなどは毛頭なかったが、ある種の仲間意識のようなものを感じて安心しているところがあり、それが根本から崩れ去ってしまったのだから。

 なんの役にも立たない存在は、ここに自分だけなのだ。
 早く帰りたい。
 負けたっていいから、早く試合なんか終わってしまえばいいのに。
 あの部長、なんで自分なんか使うんだ。
 人がいないのなら、FP三人でやったっていいだろう。
 どうせここまでボロボロの戦力では、試合に勝てっこないんだから。
 自分なんか、いてもいなくても変わらないのだから。

「レフェリー、早くスタートしてよ!」

 茂原藤ケ谷の主将が怒鳴ったからというわけではないだろうが、審判の笛で、試合が再開された。
 優にとって、無情の笛であった。

 佐原南は、暴風雨のような凄まじい攻撃に身をさらすことになった。
 元々、茂原藤ケ谷としては優位にゲームを進めているつもりだったのが不運から追いつかれてしまったわけであり、突き放すべく攻撃へと意識をシフトさせるのは当然だろう。

 優は、泣きそうな顔で、ボールを追い、走った。
 ピッチには四人の味方がいるはずなのに、完全に孤立している気分だった。すべてが敵のような、そんな気分だった。ベンチ、観客席までもが。

 後ろにぴたり密着されて、ぐいぐいと押された優は、せめてみっともないプレーにはならぬようにと頑張り、よろけながらもなんとか反転して大きくクリアーした。

 こんなことを、あとどれだけやらなければならないのだろう。
 ボクシングの試合において、負けを覚悟した側には残り時間が無限に感じられるという。現在負けているわけではなく同点であるというのに、優にとってはまさにそのような心境であった。

 自分は、誰よりも劣っている。
 こんなところで、試合などに出ていてはいけない身分だ。

 試合など、早く終わればいいのに。
 勝とうが負けようが、どうでもいい。
 早く帰りたい。
 帰りたい!

 頭が真っ白な中、残る理性ではそんなことばかり考えているのだから、負けボクサー気分なのは当然だろう。
 そんな優の気持ちを現実に引き戻したのは、ばちいんという鈍い音であった。
 武田晶が跪いて、うつむいて頬を押さえている。

「あ、晶さん、大丈夫……」

 すぐそばにいた優は、思わず晶へと手を伸ばしていた。
 同時に、罪悪感に身が引きちぎられそうな思いだった。

 現在FPで手の使えない晶が、相手の弾丸シュートを顔面で防いだのであるが、そもそも優がマークにつくべきところを怠って、フリーでするすると攻め上がらせてしまったことが原因なのである。

「あ、あの、ごめ……」

 優は謝ろうとしたが、晶も同時に口を開いていた。

「失点しないでよかった。サジ、もっとリラックスして楽しんで」

 そういうと、優の肩をぽんと叩いた。

 楽しんでって……
 そんなこといわれても。

 優は俯いていた。

 こんなの、楽しいわけないじゃないか!
 ガチガチに緊張しちゃって、
 蹴っても空振りばかりで、
 周りが全然見えなくて、すぐにボールを奪われちゃって。
 ただ恥ずかしいだけで、
 楽しいわけが、ないだろう……

 緊張に、潰れてしまいそうだった。
 涙が出そうだった。

 その時である。
 木村部長の叫び声が聞こえたのは。

「速攻!」

 優は肩をびくりと振るわせると、その声に背を突かれたかのように、わけも分からぬまま走り出していた。
 あとから思えばその梨乃の叫び声、それこそが優の運命を大きく変えるものだったのである。

「サジ!」

 フィクソの楽本織絵が、優を目掛けて低く鋭いロングパスを出した。

 懸命に足を伸ばす茂原藤ケ谷の選手の間を、ボールが抜けた。

 優は反射的に腿を軽く上げて、ボールをトラップした。
 前にはゴレイロが一人だけだ。

「打てえ!」

 ベンチから、やまゆうが大声で叫んだ。

 だが優は打たなかった。
 打てなかったのである。

 呼吸が、荒くなっていた。
 胸が苦しい。
 張り裂けそうだ。

 ひっ、と優は息を飲んだ。
 目の前に立ってゴールを阻止せんとしているゴレイロが、桜庭さくらばかえでの顔だったのである。
 中学時代に優をいじめた、主犯格の一人だ。

 優は大きく目を見開くと、すぐさま彼女に背中を向けた。
 きょろきょろと、パスを受けてくれる味方を探し始めた。

 首を振り、桜庭かえでの幻影を追い払い、戦わねばと再びゴールへと向き直った優であるが、既に遅かった。

 茂原藤ケ谷の主将である内藤幸子が、地響き立てながら優へと迫っていたのである。

「あ……ああ……」

 優は上ずった声で、一歩たじろいでいた。
 どすどすと向かってくる相手の主将が、優にはとうどうのぶに見えていたのである。
 これもまたいじめの主犯格の一人で、しかもすべての黒幕だった女子生徒だ。
 優の心をズタズタに切り裂いて、生涯において残るようなトラウマを与えた張本人だ。

 ダメだ……
 戦えないよ。
 無理に決まっている。
 出来るはずがない。
 わたしは、みんなとは違うんだ。
 逃げたい。
 走って、逃げてしまいたい。
 それで恥をかこうとも、ここにいるよりよっぽどましだ。
 戦える人だけ戦えばいいじゃないか。
 同じ役割を、誰にでも押し付けてくるのはやめて。

 でも、
 でも……
 それで、いいの?
 一生、こんな自分で。
 誰からも隠れて、一人でボール蹴っているだけ。
 それで、いいの?
 問題ないだろう。それのなにが悪い?
 いや、悪くはないよ。でも……

 日陰に隠れて閉じこもりたい優と、日の当たる場所へと出たい優、二人の優が胸の中で戦っていた。
 内藤幸子が、津波のように優へ襲い掛かり、いままさに飲み込もうとしていた。

 次の瞬間である。
 優をよく知る佐原南の部員たち全員があっと驚くような、そんな奇跡が起きたのは。

 右足でちょこんとボールを転がした優は、ドリブルで自ら内藤幸子へと、その華奢で小柄な身体を突っ込ませたのだ。

 優の動きが止まり、二人はボールを挟んで向かい合った。
 それは、ほんの一瞬のことだった。

 内藤幸子の背後から、ボールが飛び出していた。
 優が、股を抜いたのだ。
 そのまま内藤幸子をよけて、右側から回り込もうとする。足を引っ掛けられてバランスを崩して倒れそうになりながらも、優は自らの蹴り出したボールを追って走った。

 ゴレイロが、ボールを蹴り出そうと飛び出した。
 クリア。いや、空気を蹴った感触にゴレイロは驚愕し目を見開いていた。どこにもボールがないばかりか、目の前にいた選手(佐治ケ江優)の姿が消えていたからだ。

 優は、相手の主将だけでなくゴレイロをも抜き去っていたのだ。
 茂原藤ケ谷のゴール前は、無人であった。
 優は、右足でちょこんと蹴った。

 するする、と静かに床を転がりながら、ボールはネットを揺らした。
 佐原南の部員たちは、なにが起きたのか理解出来ずに、ただ呆然と突っ立っている。

 きょとんとした表情で、顔を見合わせている。
 そのうちに誰かが、にんまりと笑みを浮かべた。
 その笑みが、あっという間にみんなに伝播していった。

「やった、逆転だ!」

 楽本織絵が叫び、両手を天に突き上げた。
 残った者たちも、それに続いて喜びを爆発させた。

 逆転ゴールを決めた佐治ケ江優は、仲間に取り囲まれていた。でも当の本人は、なにが起きたのかいまだに理解出来ていないようで、うつろな表情で突っ立ったままだった。

「サジ、ナイスゴール!」

 武田晶が、優の背中を叩いた。

「サジ……凄い、よかったよ。勇気もって、仕掛けたところ。……ほら、やれば出来るんだから」

 木村梨乃が正面に立っていた。
 ゆっくりと手を伸ばし、肩を軽く叩いた。

 優は怯えたように、びくりと肩を震わせた。
 はっとした表情で、きょろきょろと周囲を見回した。

 仲間たちの笑顔。
 スコアボードの点数。
 悔しがっている茂原藤ケ谷の選手たち。

 佐原南の、得点?
 逆転……した?
 わたしの、ゴールで……

 指が、
 身体が、震えていた。
 ぶるぶると、優の全身が震えていた。

 それは先ほどまでの、緊張によるものとはまったく異質のものであった。
 なんなのかは自分でも分からない。ただ、けっして不快なものではなかった。

 すぐ前にいる木村梨乃の顔を、あらためて見つめていた。
 気まずさに、なにかいおうとするが、なにも言葉が浮かばない。
 内から込み上げる得体の知れないものに全身を支配され、すっかり頭が真っ白になっていたのである。

「先輩。……あたし……あたし……」

 やがて乾いた口から、なんとかそれだけを発するが、言葉続かず。
 じわりと、目に涙が浮かんでいた。
 ず、と小さく鼻をすすった。
 その直後である。

「うわあん」

 逆転に感極まったのか、誰かが大声で泣き出した。
 みっともないな。でも、泣いているのが自分だけじゃなくてよかった。と、ほっとする優であったが、はっと気が付けば、なんと人目憚らない大きな泣き声を上げているのは他でもない、自分だったのである。

 恥ずかしいけど、自分を止めることが出来なかった。
 涙を、嗚咽の声を、止めることが出来なかった。

 視界が曇って、なにも見えなくなっていた。
 いやだというのに、ボロボロと涙がこぼれてくる。
 こらえようとして上を向くものの、それでも涙はとめどなくこぼれ続けた。

 ごまかそうとしたのかは自分でも分からない。
 無意識のうちに、優は木村梨乃に抱きついていた。
 むせび泣きながら、母親にしがみつく幼子のように強く、強く、木村梨乃の身体を求め、抱きしめた。
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