きんのさじ 下巻

かつたけい

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第五章 広島へ

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 二〇一〇年
 佐治ケ江優 十六歳


     1
 関東高校生フットサル選手権大会 女子の部 千葉県地区予選 第二戦。
 わらみなみ高校 対 いん西ざいおろし高校。

 部長がむらからやまゆうに代わってからの、初めての大会だ。

 去年もこの相手と対戦したことがあるが、その時と同様に、佐原南は相手の守備の硬さに手を焼いていた。

 硬いだけでなくパスワークも素晴らしく、まだ試合が開始されたばかりであるが印西木下の方が若干押し気味に試合を進めていた。

 なお去年の対戦では、佐原南が0-3で敗れている。もともと怪我や体調不良などで登録メンバーの少なかった佐原南が、一試合前に行なわれた対ばらふじ高校戦でさらに多数の怪我人を出してしまい、一人一人が必死に戦って力を出し尽くしてまともに戦える状態でなかったためである。

 今年は、少なくとも人数員は揃っている。
 揃ってはいるが、それでも去年同様に印西木下のチームカラーである堅守に苦しめられ、なかなか思うようにボールを前へ運ぶことが出来なかった。

 印西木下は既に一人交代しているが、佐原南はまだ開始時のまま。
 ピヴォがゆう
 左アラがともはらりん
 右アラが山野裕子、
 フィクソが真砂まさごしげ
 ゴレイロがたけあきら

 山野裕子は、中央の少し下がった位置で真砂茂美からのパスを受けると、相手が寄せてくる前に優へと転がして、そのまま相手の脇を抜けて駆け上がった。
 練習通りに、ここで優からのリターンを受けるはずであったが、しかしリターンが来ない。

 裕子が振り返ると、優は二人の相手に挟まれて身動き取れずにいた。
 優はボールをちょこんと浮かせて、なんとか包囲を突破。しかしもう、速攻の好機は過ぎ去ってしまっていた。

「サジ、ぼけっとしてんな!」

 後方から、ゴレイロ武田晶の声が飛んだ。

 今日の優の動きは、精彩を欠いていた。集中力がないばかりか、動きのひとつひとつが妙にぎこちない。

 しかしそれは普段の佐治ケ江優と比べた話であり、ボールを持てば彼女はやはり抜群の足捌きを見せる。キープ力が高く、同じ高校生同士とは思えないようなレベルで、二人掛かりであろうとほとんど取られることがない。

 印西木下の選手たちは、前評判の高い佐治ケ江優を相当に警戒しているようであった。
 FPの数がたった四人のフットサルで常に一人を複数人でマークするわけにはいかないが、しかし、いつでも数人がかりで彼女を取り囲むことが出来るように、巧みにポジション取りをしている。佐原南攻略方法を、しっかりと研究してきているということだろう。

 優も無理はしない。
 なるべくボールを持ちすぎないよう、出しどころさえあればパスするようにしている。嫌な奪われ方をしないように、リスクは極力避けている。

 最近どうにも優がやっかいに感じていることがあるのだが、自分がボールをもつと仲間が信頼してしまって、状況を考えずにとにかく上がってしまうところがあるのだ。
 だから変なところでボールを奪われでもしたら、たちまち失点の危機を招くことになる。
 同程度のコート面積の集団球技の中では、一点の価値が非常に重いフットサル、自分のせいで失点などしたくなかった。

 単に責任感云々という問題ではなく、自分自身が壊れてしまうのが怖かったから。

 と、失点のリスクには気を使う優であるが、だが攻めもまた守備である。印西木下のフィクソがボール処理を誤ってもたついている隙を見逃さず、優は素早く詰め寄ってボールを奪取した。そのままドリブルで駆け上がると、角度のない位置からシュートを放った。

 しかしあまりに角度がなさ過ぎた。ボールはサイドネットを揺らしただけだった。

 両校無得点のまま、前半終了の笛が鳴った。

     2
「サジ、なんか顔色悪いように見えるんだけど、大丈夫?」

 武田晶はキーパーグローブを外しながら、いつも通りの仏頂面で尋ねた。

「別になんでもないよ。いつも通りだから」
「いや、晶のいう通り、やっぱりなんかおかしいって。今日に限らず、最近さ。印西木下にだけは、ほとんどフル近く出てもらいたかったんだけど、誰かと交代させようか?」

 山野裕子は、優のおでこに自分のおでこをくっつけた。

「熱はないようだな」
「大丈夫、なんともないから。このままやらせて」

 熱を見てどうする、と裕子は突っ込んで欲しかったようだが、優はまるで気づかず真剣そうな眼差しで裕子の顔を見つめた。

「分かった。でも、交代させたほうがいいと思ったら、すぐ交代させっからな」

 裕子は、優の両肩にぽんと手を置いた。

「ありがとう」

 優は心から礼を述べた。
 試合に出なければ、出続けなければならない理由が、優にはあったから。

 さて、ハーフタイムに裕子や軍師きぬがさはるの戦略指示があり、そして後半戦が開始された。

     3
 スコアレスのまま終了しても不思議のない硬いゲームになるかも知れない、と誰しもが思っていた中、なんと開始早々に得点が動いた。
 先制したのは、佐原南であった。

 ゴロイロである武田晶が、パワープレーで飛び出して相手のかく乱を誘って、フィクソの真砂茂美が攻め上がりからゴールを決めたのだ。

 本来パワープレーはこういう場面でやるものではない。
 点差はなく均衡しておりまだ時間もあり、一点の重みが重要なフットサルにおいてあえて先制されるリスクを承知で無理して点を取りにいく必要などはないからだ。
 だが、それ故にこそ、その行動はまさに相手の意表を突くものになったのだろう。

「イエエエエエイ!」

 山野裕子はゴールを決めた真砂茂美のもとに走り寄ると、パン、パン、と上に下に両の手のひらを叩き合った。

 続いてくるり踵を返して武田晶のもとへとダダダダダと勢いよく迫り、駆け抜けながらウエスタンラリアットをぶちかました。
 武田晶は思い切り吹っ飛ばされて、豪快に尻餅をついた。

「てめえ、勝手なことやってんじゃねえよ!」

 裕子は振り返ると、ダンと床を踏んだ。
 指示していないのに、ゴレイロの身で勝手に攻め上がったことに対して怒っているのだ。

「点取れたんだから、いいじゃん」
「ま、そうだけどさあ。……でもこの後が怖いよな、去年のこと思うと」

 裕子は手を伸ばし、自分が吹っ飛ばした晶の身体を引っ張り起こした。

「出てなかったくせに」
「しょうがないじゃんか」

 去年の大会で、裕子は食中毒と生理痛により欠場しているのである。

 でも試合はしっかりと見ている。二回も。だから印西木下の怖さはよく分かっているはずである。

 一回目は、流山はとがや高校との試合。
 二回目は、自分たち佐原南高校との試合だ。

 裕子のいった「去年のこと」というのは、その流山はとがや高校との試合のことだ。

 攻撃の流山はとがやと、守備の印西木下という対称的な二校の対戦は、流山はとがやが先制して均衡を破った。しかしその後に、印西木下は豹変し、なりふり構わぬかのような怒涛の攻めに出て、あっという間の四得点で逆転勝利したのだ。

 つまり戦術の設定により堅守という印象を持たれている印西木下であるが、能力としては爆発的な攻撃力も持っているということ。

 果たして、裕子のその予感は的中した。
 ほどなくして、印西木下の第二の顔が出たのである。

 もう後半戦であり、一点ビハインドを重いと考えたのだろう。
 守備をかなぐり捨てたかのように、勢いよく、ゴレイロ以外の全員が攻め上がって来た。

 もしも先制したならば、こうなることは明白であった。だから、佐原南としてはしっかりと対策と練り、充分に打ち合わせ、練習をしたつもりであったのだが、みなの想像を遥かに上回る激しさに、すっかり防戦一方になってしまっていた。

「みんな、耐えろ!」

 裕子は叫んだ。
 それでチームの動きが変わるわけではなかったが。

 武田晶が大きくクリアしたボールを、相手の最後列が拾った。

 直後、印西木下は大津波のように全体で攻め上がり、佐原南を飲み込んでいた。

 印西木下ピヴォの、ドリブルが少し大きくなったところを、交代で入ったばかりのしのは見逃さず、素早く走り寄り、クリアしようとした。
 だが慌てていたのか蹴り損ねてしまい、転がったボールを相手に拾われて、そのまま突破されてしまう。

 ゴレイロ武田晶との、一対一になった。
 相手選手の、迷わず右足を振り抜いた思い切りの良いシュートは、枠を完全に捉えていた。

 晶は素晴らしい反応を見せ、パンチングで跳ね返した。
 ボールは床に落ち、小さくバウンドした。

 相手のピヴォがねじ込もうと駆け寄って来るが、紙一重の差で佐治ケ江優が先にボールを拾った。

 だが、次の瞬間には、優は相手ピヴォに激しいプレスをかけられ、さらに次の瞬間にはもう一人が接近し、挟み撃ちにされていた。

 前述した通り、佐治ケ江優へのマークは異常なまでに厳しかった。
 ここは佐原南側の陣地であり、印西木下としてはミスが簡単に失点に繋がるものではなく、そこまでガツガツと当たっていく必要はないはずだというのに。

 それだけ佐治ケ江優を恐れているということなのだろう。
 迂闊にボールを持たせると何をされるか分からない、という不安があるのだろう。

 その印西木下の選手たちが思い描いている不安は、数秒後に現実のものとなった。

 優は二人に激しくぶつかられ押し潰されて、もつれあうように倒れていた。
 印西木下のファールであるが、審判は笛を吹くのを躊躇った。床にもつれ転げている三人の中から、ぽーんとボールが飛び出してきたのを見たからであろう。つまり、佐原南へのアドバンテージになるかもと思い、笛を待ったのだ。
 そのボールは、佐治ケ江優が倒れる瞬間にボールを爪先で浮かせて、素早く逆の足で大きく蹴り出したものであった。

 綺麗な虹の軌道を描くボールに、山野裕子だけが反応していた。まるで予期していたとでもいうように。追い掛け、右足を大きく前に伸ばして爪先でボールを受けると、そのままドリブルに入った。
 無人の野を疾走、そしてシュート。

 ゴレイロは反応し、片手で弾いた。
 いや、山野裕子の破壊力の前に、弾かれたのはゴレイロの腕の方だった。

 ボールはゴールネットに突き刺さった。2―0、佐原南が追加点をあげた。

「うおっしゃあ!」

 裕子は雄叫びあげながら、しゃがんで右拳を床に叩きつけた。
 立ち上がると、佐治ケ江優の元へと近寄った。

「いいボールくれたよ。ありがとう」

 まだ倒れている優を引っ張り起こすと、細い身体に抱きついた。
 優は無表情、無言であった。

「どうした?」

 裕子は尋ねた。
 優の表情が少ないのはいつもの通りであるが、でもこちらの態度に無反応ということはないのに、と、いぶかしんだのだろう。

「あ、ごめん。なんでもない。王子、ナイスシュート」
「ありがと」

 こうして、鉄壁守備が自慢の印西木下が二点をリードされるという、両校にとってまさかの展開で、終盤へと突入したのである。

 なおも猛攻を仕掛ける印西木下であるが、そこをしっかり耐えることにより、佐原南にもさらなる好機が生まれ、次の得点がどちらに入ってもおかしくない状態になっていた。

 相手の前掛かりをついて、山野裕子が前線にいる優を目掛けて浮き球のロングパスを送った。
 これが通れば、また決定的な得点チャンスが生まれる。そう期待させるようなパスであったが、
 しかし、
 優は、立ち尽くしたまま、ぴくりとも動かなかった。

 裕子の送った長いパスは、そのままゴールラインを割った。

「サジ……」

 裕子が、ぼそりかすれたような声を出した。
 優は裕子へと背を向けたまま、立ち尽くしたまま、まったく動く様子がなかった。

「サジ! どうした?」

 裕子は不安な面持ちで、早足で優へと近寄って行った。

「おい、サジ。サジってば、聞いてんのか、こら」

 裕子は優の正面に回り込んだ。
 優はうつろな表情であった。

「サジ、おい、サジ!」

 裕子は必死に呼びかけるが、まったく反応がなかった。
 突然、がくりと力が抜けたように、優は崩れ、両膝をつき、続いて両手をついて四つんばいになった。

「サジ?」

 優の呼吸は荒く、乱れていた。いや、乱れているどころではない。ひゅうひゅうと音がなるばかりで、まともに呼吸が出来ていない状態であった。
 右手で、胸を抑えた。
 苦悶の表情であった。

「どうしたんですか?」

 二人の審判員が、佐治ケ江の元へと早足で寄って来た。

「露骨な時間稼ぎですよ! 遅延行為です!」

 印西木下の主将が猛烈に抗議した。

「時計は止めているから」

 第二審判の男性は、ピッチの外にいるタイムキーパーを指さした。
 印西木下の主将としては、そういう問題ではなく、相手のペースにまんまと乗せられているようでそれが我慢ならないのかも知れないが。

 だが、主将の顔からすーっと怒りの色が消えていった。佐治ケ江優の浮かべている苦しそうな表情が、とても演技には思えなくなってきたからだろう。

 優は、はあはあと荒く呼吸をしながら、ごろりと仰向けになった。
 うつろな視線を天井へ向けたまま、苦しそうに喘いでいる。

「サジ! 大丈夫? 医者! 病院! サジ、診てもらわないと!」

 山野裕子は、すっかりうろたえてしまっていた。
 審判の指示で、数人の係員が担架を運んで来た。優の身体を担架へと乗せた。
 こうして佐治ケ江優は、担架で運ばれ、要請された救急車に乗せられ、病院へと運ばれることになったのである。

     2
「大丈夫?」

 ふみは、ベッドに横になって天井を見つめている娘に尋ねた。

「それ聞くの何回目? もうなんともないよ」

 ゆうは、ちょっと力無くはあったが、はっきりと答えた。

 ここは千葉県成田市にある総合病院の、入院棟四階にある二人部屋だ。片方のベッドは空いており、ここで寝ているのは優だけである。

 フットサル大会の試合中に倒れた優は、救急車でこの病院まで運ばれた。
 搬送途中で正気に戻り、なんともない旨を訴えたが、倒れて運ばれた以上は医師の診察を受けないわけにはいかず、病院へ。

 診断の結果によると、一種のパニック障害であろうとのことであった。試合という重圧が引き起こしたのではないか、と。

 診察後、とりあえずということで入院部屋の空きベッドで寝かされており、夕方にもう一度医師の診察を受ける予定だ。その際に心電図も取って、結果次第では入院もあるが、おそらくそこまでのものではなく、すぐ家に帰れるだろう、とのこと。

「でもほんとびっくりしたよ。救急車に乗せられたって聞いて。でもまあ、あの時ほど驚きはしなかったけど」

 あの時、とは優がビルの六階から転落した時のことだろう。
 あれが優にとって初めての救急車で、今回で二度目だ。多いのか少ないのか優には分からないが、特に重たい持病を持たない身としては、おそらく多い方なのだろう。

「ちょっと飲み物でも買ってくるわ。ここの病院、ろくなのがなさそうなんだけど」

 文江は、小銭入れ片手に部屋を出て行った。
 九割九分聞き役だった優だけが残ったことで、部屋はしんと静かになった。

 一人になった優は、試合会場で倒れた時のことを思い出していた。
 突然呼吸が苦しくなり、胸が痛くなり、視界がぐるぐると回り始め、気が付いたら救急車の中に寝かせられていた。

 おそらく先ほど先生が説明していた、パニック障害というものなのだろう。

 これまでも、あのような感覚に近い状態に陥ることは何度もあった。犬を見たりなど、ささいなきっかけで過去のことを思い出してしまった時などに。
 やはり視界が回り、心臓が痛いくらいに激しく鼓動して、場合により吐き気がしてくるのだ。
 でも、最近はすっかりおさまっていたはずなのに。

 やっぱり、あの話を聞いてしまったからだろうか。
 先日のこと、母が、一人広島に残っている父と電話で話をしており、それを優は風呂上りに廊下を歩いていて偶然にも聞いてしまったのである。

 電話の内容をおおまかに説明すると、父の会社が経営不振で大変であるということと、母としても出来ることなら広島に戻って父を支えて上げたいということ。

 それを聞いてからというもの、優は毎日自責の念に苦しむようになっていた。
 家族をバラバラにしてしまったという罪悪感に、悩むようになった。
 もっと自分に力があれば、せめてもう少し勇気があれば、自信があれば、と、嘆くようになった。

 自信を付けて、広島に帰りたい。
 お母さんと一緒に、お父さんのいる広島へ帰りたい。
 そう思うようになっていた。

 ただその思いが強くなればなるほど、それは薄れかけていた過去を思い出すことにほかならなかった。

 山野裕子たちと仲良くなることで、事実の記憶は忘れられなくとも感覚の記憶は薄れてきていたというのに、その辛かった頃の記憶を毎日のように、鮮明に思い出すようになっていった。

 でもそれは、もともと自分がまいた種だ。
 克服しなければ。
 自分に自信があるのはフットサルだけ。仲間を作ることが出来たのもフットサルだ。ならばフットサルを通じて、過去の自分を克服してやる。

 そう思い、ここ最近はよりハードな練習を自らにかしていた。一人、内緒で居残りをしたり、家の庭や児童公園で遅くまで。

 しかし広島へ帰りたいという思いが強くなるほど、自分がそこでどんな壮絶な体験をしたのか、思い出したくなくとも思い出してしまう悪循環。
 中学生の頃に時折襲われていた、吐き気や眩暈といった症状にもまた悩まされることになっていた。

 だからこそ、もっと練習をするんだ。
 自分に自信を持つために。

 と、優はひたすら練習をしたが、胸の奥にある不安はより大きくなっていくばかりだった。

 当然といえば当然であろう。
 広島での小中学生時代、良い思い出がなかったというだけではない。
 無視されたりからかわれたり、嫌な雑用を押し付けられるなどは序の口であり、広島を去る直前などはクラスメートに陥れられて顔面の骨が陥没するほどの暴力を受け、下着を剥ぎ取られ強姦されかけた。

 二度と帰るものか。そう思えれば楽なのかも知れない。
 でも優には、家族への罪悪感からとてもそう考えることは出来なかった。
 それが優の精神を、どん底にまで突き落としていた。

 絶不調のままフットサルの大会予選に臨むことになった優は、ならば試合に出ることで過去の記憶を追い払ってやろうと開き直るものの、先ほどのような思考がぐるぐる回るばかりでまるで試合に集中出来ず、
 だんだんと胸が痛く、呼吸が荒くなってきて、やがて視界がぐるぐる回り出し、床がすっと迫ってきたかと思うと、次の瞬間には救急車の中、寝かされ搬送されていたのである。

     3
「優、裕子ちゃんが来てくれたよ」

 買い物から戻ってきたらしい母が、半開きのドアを足の先で開けて姿を見せた。りんごジュースの瓶を、手と胸とで何本か抱え持っている。

「え、本当?」

 優は慌てるように首をぐるりと動かしてドアとは反対側、窓から外を見た。
 しかし、どこにも裕子の姿などなかった。

「なんで外見るんだよ!」

 文江の後ろから、ジャージ姿のやまゆうがぬっとあらわれた。

「サジ流のお笑いかよ、それ。個性的なボケだな」
「あ、いや、王子が普通にあらわれるはずないと思って」

 この間だって、声はすれども姿は見えずと思っていたら部室の上にある小さな小さな窓から身をくねらせながら入り込んできたじゃないか。「甘いよサジ君」とかいいながら。

「ここ四階! そんなことに命なんてかけるかよ。ああ、すみませんねおばさん、いただきます。喉かわいてました。ありがとうございっす」

 裕子は、文江からりんごジュースの瓶を二本受け取った。

「どういたしまして。一本は優に、起き上がれなさそうならストローで飲ませてもらえる? 優、お母さんちょっとおじちゃんの家とお父さんとに優が無事だって連絡してくるから。二人でゆっくり話してて。わざわざ来てくれて、ほんとありがとうね裕子ちゃん」

 文江は再び出て行って、部屋には優と裕子だけになった。
 裕子はパイプ椅子に腰を下ろし、足を持ち上げあぐらをかいた。

「で、大丈夫なん?」
「大丈夫。緊張から、動悸が酷くなって眩暈がしただけだから」

 嘘をついたわけではない。
 ただ、何故緊張したのか、核心に触れる部分についてはなんにも語らなかった。

「ならいいけど」

 裕子はちょっと腑に落ちない表情を浮かべていたが、すぐににっこり微笑んでその表情を裏に隠した。

「それで、どうだった? 予選は」

 今度は優が質問する番であった。

「敗退した」

 裕子は即答した。

「そう……」

 優は、落胆の色を隠すことが出来なかった。
 罪悪感で心が一杯だった。
 自分がいないことで戦力が落ちたなどとは思っていない。自分は決してそこまでの存在ではない。でも、試合中に倒れたりなどして迷惑をかけたことは事実。そのせいで負けたといわれれば、返す言葉はない。

「ごめんなさい」

 優は謝った。

「気にすんなって。来年の関サルは、もうあたしたち引退してていないけど、他にも大会はあるんだし。これからも練習を頑張っていこうよ」

 慰めるようにしみじみとした表情で語る裕子であったが、段々とその表情に変化が。
 必死になにかを耐えるような顔で、口をぎゅっと閉じながらも、プッとかクッとかいう声が漏れて、そしてついにはプーーーーーッと吹き出してしまった。

「うっそぴょーん」


 裕子は、腹を抱えて大笑い。

「え? え?」

 優は、なにがなんだか分からずうろたえてしまっていた。

「突破出来たよ。初戦の印西木下とは引き分けたけど、残り二試合きっちり勝って」
「……突破、出来た?」
「そう。余裕だよ、よゆウブッ!」

 語尾がウブッとなってしまったのは、裕子の顔面に、ゴミ箱が思い切り投げ付けられたからであった。

     4
「ああくそ、また抜かれた!」

 いくやまさとが悔しそうに腕を振り下ろした。

 ゆうは、さらにしのをかわすと、シュートを放った。
 ボールはゴレイロである|梨|本|咲の手を弾いて、ゴールネットに突き刺さった。

「なんか、一段と気迫が凄いよね、サジ先輩」

 かじはなは練習の手を休めて、すっかり優のプレーに見入っていた。

「最後はあたしが勝つけどね」

 里子もピッチから抜けて、花香のもとへと歩いてきた。
 花香は里子へタオルを手渡した。

「じゃ、頑張ってね。サジ先輩みたく居残りでもする?」
「え、え、サジ先輩そんなことしてたの?」
「里子、知らなかったの?」
「うん。なんだよそれ、ズルいぞサジ先輩。あたしもやーろおっと」
「そういうのが鬱陶しいから、サジ先輩、里子にだけ内緒にしてたんじゃない?」

 精神的に強くなって広島へ帰る。
 そのような理由があることなど誰にも打ち明けず、ただひたすら練習を頑張る佐治ケ江優であったが、それはこのようにフットサル部全体を刺激して良い方向へと導いていた。

 こうして、部員全員がモチベーション高く練習を続け、そして千葉県代表を決める決勝大会の日を迎えることになったのである。

     5
 いちはらほうおうのフィクソは、味方が攻め上がっていたため守備が薄く分が悪いことを瞬時に悟ると、素早くボールをタッチラインの外へと蹴り出していた。

 わらみなみボールのキックイン。キッカーはやまゆうだ。

 ボールはゆうへと渡り、ワンツーで再び裕子へ。
 しかし読まれており、カットされてしまった。

 こうして要所要所でボールを奪われて、まともなパス回しをさせて貰えずに時間ばかりが過ぎていく。

 私立市原豊桜学園高等学校。
 千葉県市原市の臨海にある高校である。
 君津会場での地区予選を二勝一分で勝ち上がり、この決勝大会へと進出した。

 突出した選手はいないものの、全体的に個人技のレベルが高い。
 戦術的にもよく統率されており、攻撃には迫力があり、守備も硬い。
 フットサルを幼少よりやっている、経験の長い者が多いのため、パス回しや状況判断も早くて的確。なによりも、相手の長所を消すのが実に巧みであった。

 そういう情報を仕入れていたからこそ、佐原南は山野裕子部長を中心に対策を練り、徹底的に戦術練習を行なったのであるが、市原豊桜の強さは予想を遥かに上回っていた。

「気持ちで負けんな。気合だ気合!」

 そう叫ぶ山野裕子部長の気持ちとは裏腹に、試合は相変わらず市原豊桜のペースで進んでいく。

 現在、前半六分、まだ得点は動いていない。
 佐原南のピッチ上のメンバーは現在、
 いくやまさと
 山野裕子、
 佐治ケ江優、
 真砂まさごしげ
 たけあきらの五人だ。

 せっかく茂美がクリアしたというのに、市原豊桜のパス回しにみな翻弄されて、ボールはあっという間に佐原南の自陣へと戻ってきた。

 市原豊桜のピヴォが、茂美をフェイントで揺さぶりかわすと一瞬でトップスピードに乗り、武田晶が守っているゴールへドリブルで迫る。
 次の瞬間、迷わず勢いよく右足を振り抜いていた。

 武田晶は、至近距離からの弾丸シュートに持ち前の優れた反応速度を発揮し、パンチングで弾いた。

 高く舞い上がったボールを見上げて、真砂茂美と市原豊桜の主将である佐々さつさとが、大きく跳躍した。

 茂美は、ボールに触れることは出来なかったが相手のバランスを崩すことに成功。佐々久美子は、頭で上手に足元へボールを落とそうとしていたのだが、茂美に邪魔され跳ね上げてしまった。

 先に着地した茂美は、ボールの落下地点に寄って、腿で勢いを殺して足元に収めると、佐治ケ江優へとパスを送った。

 優は、パスの出しどころを作るために相手を一人かわそうとするが、しかし相手が気迫で伸ばしてきた足にボールを奪われてしまった。奪い返そうと追いかけ、後ろから強引に体を入れたが、それは単に相手を転ばせてしまっただけだった。
 笛が吹かれた。
 市原豊桜のFKだ。

 グラウンダーの素早いボールが、佐原南の密集したゴール前へと送られたが、山野裕子がなんとか大きくクリアした。

 この後も、市原豊桜のペースで試合が続いた。

 優は、山野裕子がやたらこちらを気にしているのが気になっていた。
 気付かれている。そう感じていた。

 自分自身の心をなんとかごまかして、試合に出て、プレーしてはいるものの、優の精神状態はパニックを起こして倒れてしまった予選大会の時から、ほとんど変わっていなかった。

 試合に出る以上は緊張するのは当然であるが、優の場合はその緊張が引き金となって過去の記憶が呼び起こされてしまうのだ。あの、精神が完全崩壊してもおかしくないような忌まわしい記憶が。

 じゃけえ、そがいなこと他のみんなには関係ないこと。
 試合に出してもらっている以上は、しっかりとやらないと。
 強く、なるんだ。
 そして……

「サジ、後ろ!」

 武田晶の叫び声が響いた。
 相手の主将である佐々久美子が、優を追い抜くように体を入れた。
 先ほどと反対の立場だ。

 そして先ほどと異なるのは、佐々久美子はファールにならないよう上手に相手から、つまり優からボールを奪っていたということ。

 彼女自身の技術の高さだけでなく、優の集中力が乱れていたというのも大きな要因ではあろうが。

 茂美がボールを奪おうと迫ったが、佐々久美子は真横にボールを転がし、走りこんで来ていたピヴォがシュートを放った。

 晶はパンチングで防ごうとしたが、ボールはその手をすり抜けて、ゴールネットに突き刺さっていた。

 佐原南 0―1 市原豊桜

 前半九分、ビヴォのたかおかによって市原豊桜が先制した。

 市原豊桜の選手たちは、手を叩き合い、喜びを爆発させた。

「切り替え切り替え! まだ一点差。まずは追いつこう!」

 山野裕子は手を叩いて、声を張り上げた。
 追いつくため、裕子は手を打った。

 優を引っ込めて、きぬがさはるを投入したのである。
 春奈はフットサル経験が浅く、ボールを扱う技術も優とは雲泥の差がある。
 しかしながらセンスはなかなかに良く、すっかり集中力を欠いた優を使い続けるよりも、チームとしてのまとまりが格段に向上した。

 だが、それでも市原豊桜の実力の前に押され続けた。
 そして佐原南は、山野裕子のトラップミスを突かれてそのまま全員に攻め上がられ、再び失点した。

 前半十一分。
 佐原南 0―2 市原豊桜

 得点者は、またもや高岡加奈だ。一発勝負のトーナメント戦、勝利の可能性を大きく引き寄せるゴールに、彼女は飛び上がって喜んでいる。

「みんな、ごめん」

 裕子は力無く謝った。

「王子先輩、落ち込まないでください。一点ずつ返してきゃいいんだから」

 生山里子の言葉に、裕子は思わず微笑んだ。苦笑といった方が正しいだろうか。
 つい最近までの、反骨心の塊であった里子を知る者ならば、誰でもこのような表情になるのだろう。

「里子のいう通りだ。くよくよしてても、しょうがない。やるぞ!」

 裕子はまた選手交代の指示を出した。
 真砂茂美を下げ、梶尾花香を入れた。
 基本フォーメーションをボックスに変更。前が衣笠春奈と生山里子、後ろが山野裕子と梶尾花香。

 入ったばかりの花香であるが、いきなり見せ場を作った。パスと見せかけて身体を反転させて前を向くと、ドリブル突破で一人かわし、中央へと切り込んだのだ。

 ゴール前で身構えるゴレイロと、その前に立つフィクソ、そこへ花香は突っ込んだ。
 勝負、と見せかけ、その瞬間にボールを真横へと転がしていた。
 後ろから駆け上がっていた生山里子が、そのボールを豪快に蹴り込んで、ゴールネットが揺れた。

 佐原南 1―2 市原豊桜

 里子のゴールにより、佐原南は一点を返した。

「サンキュー、花香!」

 里子は、花香の背中を叩いた。
 佐原南の選手たちは、ピッチの外と中それぞれで抱き合い喜び合った。
 だけどまだ、リードされている。佐原南は、なおも果敢に攻め続けた。
 しかし得点を奪うことは出来ず、ハーフタイムを迎えた。

     6
「よし、作戦会議だ。みんな集まれ! ん、晶たちなにふざけてんだ。おーい、咲、晶、こっち来い! 作戦会議やっぞ~!」

 裕子の呼び声に、みな集まった。

「基本的な戦術については、変更するつもりはない。それこそちぐはぐになって、向こうの思うツボだからね。相手個人個人に対しての注意点だけど……春奈、頼む」

 軍師役の衣笠春奈が、裕子に代わって説明を始めた。

「まず、背番号五番、主将の佐々久美子。右アラの選手だけど、彼女に対しては……」春奈は、一般論と独自解釈を交えての対策を語り出した。「以上。ま、そんな感じかな。とりあえず、この四人が要注意だから」
「だ、そうだ。注意するように。それと、基本戦術は変えないっていったけど、前半までのやり方を中心に、もう少し遊びをいれよう。相手だって、こっちの手が複数ある方が読みにくくなるだろうしね。でも、仕掛ける時には、他はしっかりとフォローやカバーをすること。あと、一人一人がもう少し判断を早くしていこう。作戦会議は以上で終了!」

 と、裕子はきっぱりいいきると、続いて佐治ケ江優へと視線を向けた。

「それと、サジさあ」

 佐治ケ江優は、少し俯き加減だった顔を上げ、裕子の顔を見た。

「あえて、いまこんなところで、いうけどさ……広島に、帰ろうと思ってるだろ」

 部員たちが、一斉に優の顔を見た。
 視線を一身に浴びる優は、驚きに目を見開いていたが、やがて、ふうと微かなため息をつくと、首を縦に小さく振った。

「えー!」

 衣笠春奈と篠亜由美が、同じタイミングで同じような顔で驚きの声を上げた。

「うちから、サジ先輩がいなくなっちゃったら……」

 花香が不安そうな表情を作った。
 確かに、そうなったら今後の大会において、佐原南の大幅な戦力ダウンは必至であろう。
 みなのざわめきが少し落ち着いたところで、山野裕子は言葉を続けた。

「なんか最近、試合に出ることに固執しているのも、でもなんだか空回りしちゃっているのも、練習で注意力が乱れちゃっていたのも、成田予選で胸おさえて倒れちゃったのも……全部、そのせいなんだ。広島に帰ろうと思ったのはいいけど、昔の嫌な記憶が甦って、正常な精神状態でいられなくなってしまう。でもどうしても帰りたいから、だから、その抱えている過去、強くなって、乗り越えようと思っている。……そうだろ?」

 優はまた、驚きに目を見開いていた。
 すべて、その通りだったからである。
 誰にも、家族にすらも、相談なんかしたことないのに。

 優は、黙って頷いた。
 裕子は笑みを浮かべた。とてもぎこちない笑みであったが。

「バカだなあ。一人で抱えなくたっていいんだよ。人間なんて、弱くたっていいんだよ。……それに、広島に戻ったって、どこに住んでたって、あたしたち、仲間じゃん。だから、そんなに気負わなくたっていいんだよ」

 ぎこちのない笑みはもどかしさや気恥ずかしさの入り混じったものであり、台詞はいささかの濁りのない、正直なものだったのだろう。裕子のその言葉は優の肌から、さーーっと一瞬にして体内へと浸透していった。

 どう表現すればいいのだろう。なんともくすぐったい感触。なんとも気持ちのよい感触。
 その麻薬のようなくすぐったさから逃れるように、優はゆっくりと話しはじめた。

「前に、王子がいったでしょう。これからも続いていく人生、自分なりの、楽になれる方法を見つけないと辛いって。それには、王子がいまいった通り、自分が強くなって、広島に帰ること。それが出来れば、あたしの今後の人生は大きく変わるんじゃないかと思う。今後だけじゃない、これまでの、過去の記憶だって、大きく変えることが出来る。……なにをやってもダメなあたしが成長を実感出来るのって、フットサルだけだから。だから、この大会を頑張ることで、強くなったという実感を得たいんだ。……それに、あたしなんかのせいで、いつまでも両親を離れ離れにはしておけない」

 佐治ケ江は自分にいい聞かせるように、柔らかな口調ながらも力強くそう語った。
 また、なんともむず痒そうな笑みが、裕子の顔に浮いた。

「もう一回いうぞ。どこにいたって、あたしたち仲間だからな。自分は一人きりだなんて思うなよ。そのうちにみんなで広島に遊びにいくからな。……でも、サジなら、向こうでも仲間たくさん出来るよ。優しいし。強いし。そう……サジはもう充分に強いんだから。自信、持ちなよな」

 裕子はそういうと、佐治ケ江の背中を強く叩いた。

「ありがとう、王子」

 消え入りそうな、小さな声であったが、でも、その短い言葉には、気持ちのすべてがこもっていた。

 本当に、この部に入ってよかった。
 梨乃先輩に出会えたこと。王子や、他のみんなと出会えたこと。

 千葉へと引越してきても、この佐原南に入学していなかったら、このフットサル部に入部していなかったら、まだ自分で殻にこもってしまっていて、一人きりだったかも知れない。
 いじめられなくはなっていたとしても、でも誰を信じることもなく死んだような生き方をしていただけだったかも知れない。

 そう、佐原南に入り、この仲間たちと会えたこと、それにより自分ははじめて生というものを得たのだ。
 どこにいても仲間。
 優はその言葉を深く胸に刻み込んだ。

 涙が出そうだった。
 もしもここに誰もいなかったら、きっと声を上げて泣き出してしまっていたに違いない。

「よし、じゃあ後半、絶対逆転しようぜ!」

 裕子は叫んだ。
 全員で肩を組みんで、円陣を作った。

     7
 後半戦が開始された。
 佐原南はすぐに選手交代、
 生山里子、衣笠春奈、佐治ケ江優、真砂茂美、武田晶の五人になった。

 いままで市原豊桜に押されていたのは単純な気持ちの問題だったのか、それともハーフタイムでの春奈の指示が的確だったのか、前半に比べて佐原南のパスが繋がるようになっていた。
 シュートも増え、前半戦開始直後と比べると明らかに形勢が逆転していた。

 一番の要因としては、佐治ケ江優の復活であろうか。
 ハーフタイムにかけられた裕子の言葉の魔術により、悩んでいた優の気持ちが完全に吹っ切れたのである。いままでの不調が信じられないくらいに、ピッチの上をいきいきと躍動している。

 そして後半七分、優が二人を抜き去りゴール前に送ったボールに、生山里子が冷静に合わせ、ついに佐原南は同点に追いついた。

 佐原南 2―2 市原豊桜

 その後、膠着状態になるが、佐原南はファールによって相手に第二PKを与えてしまう。
 だがこれは、結果としては佐原南への追い風だった。

 武田晶がファインセーブを見せたことにより、佐原南の選手たちは、掴みかけていた自信を確固たるものにしたのだ。

 前半終了間際に見せたような怒涛の攻撃が、再びはじまった。

 市原豊桜は、焦りが焦りを呼び、特長である相手を包み込むような守備も攻めも出来ず、個人の頑張りでボールを跳ね返すのが精一杯の状態になっていた。

「同点なんだよ! びくびくしてんじゃないよ!」

 主将の佐々久美子がひとり大声を発し、ひとり踏ん張っているが、焼け石に水といった有様だった。

 佐治ケ江優は山野裕子からのパスを受け取ると、ドリブルで駆け上がった。
 滑らかな曲線を描き、まったく速度を落とすことなく相手選手を抜き去った。だがそこで、背後からユニフォームを思い切り引っ張られ、転倒。
 審判の笛が鳴った。

 市原豊桜の直接FK対象となるファールは、これで後半六つ目であり、佐原南は第二PKを獲得した。
 裕子は優に歩み寄ると、手を差し出し引っ張り起こした。

「サジ、第二PK、自分で蹴りな」

 ポンと肩を叩かれた優は、少しの沈黙の後、小さく頷いた。
 第二ペナルティマークにボールをセットした。

 審判の笛が鳴ったと同時に、ゆっくりとボールに近寄っていく。

 そして、蹴った。
 ただ真っ直ぐ、ただ力強く。

 技巧派である優には珍しい、爪先を叩き付けるような豪快なシュートであった。

 市原豊桜のゴレイロは、佐治ケ江優というキープレイヤーの特徴をしっかり頭に叩き込んでこの試合に臨んだことだろう。そして、そうであればこそ、それが裏目に出ることになったのであろう。
 豪快なシュートに意表を突かれて、完全に判断が遅れてしまったのだ。
 といっても一瞬のことではあるが、しかしそれはゴールネットを揺らすに充分であった。

 佐原南 3―2 市原豊桜

 優のゴールによって、ついに佐原南は二点差をひっくり返した。

「先輩、凄い!」
「さすがサジ!」
「よく決めた!」

 生山里子、武田晶、山野裕子らは、優の身体をばんばんと叩いて、この大会初ゴールの彼女を手荒く祝福した。

 試合再開。
 残り時間はもうほんの数分。市原豊桜としては、点を取らなければこのまま敗退が確定するというのに、なにをすることも出来なくなっていた。調子を上げた佐原南のパス回しの前に、ついていくことが出来なくなっていたのである。
 失点しないよう守ることに精一杯で、とても攻撃を組み立てるどころではなかった。
 市原豊桜の選手たちは、攻守において焦りに支配されてしまい、いたずらにファールが多くなっていった。

 そして、生山里子がドリブル突破からのシュートを惜しくも打ち上げてしまったところで、長い笛が鳴った。

 試合終了。
 こうして佐原南は、3―2で決勝大会初戦突破を決めたのである。

「サジ、やった!」

 裕子は優へと走り寄り、飛びつくと、彼女の華奢な身体をぎゅっと抱きしめた。

「……苦しいよ」
「ごめん」

 裕子は優の身体から離れた。
 二人は、見つめ合った。
 裕子は、柔らかく微笑んだ。
 優は、困ったような、ほっとしたような表情であった。

     8
 実に迷いのない、素早い寄せであった。
 右サイドでパスを受けたやまゆうであるが、その瞬間にはすでに相手二人に詰め寄られており、前を向いてドリブルをするどころかボールを取られないようにするだけで精一杯だった。
 しかたなく自陣へとドリブルして、フィクソの真砂まさごしげへと戻した。

 改めて攻撃の組み立てだ。
 茂美から、ゆうへとパスが送られた。

 受けた優は、すぐさま逆サイドにいる山野裕子へ。
 裕子はワンタッチで、前方にいるいくやまさとへと出した。

 だが、里子へは届かなかった。
 素早く駆け上がって来た、相手のフィクソにカットされていたのである。

 わらみなみ高校 対 ひがし高校。
 その、前半戦だ。

 我孫子東は、千葉県で有名なフットサル強豪校だ。
 一人一人が実に優れた個人技を持っており、連係も実に洗練されており、現在、佐原南を圧倒している。
 まだゴールは割らせていないものの、佐原南としてはとにかく耐えるしかない状況であった。

 山野裕子は、タイムアウトを申請した。
 一般的なフットサルルールでは、前後半それぞれ一回づつタイムアウトを取ることが出来るのだ。

「1―3でいく」

 裕子は部員たちに、そう短く告げた。

「里子が前。あとは、左からサジ、茂美、あたし。あと、もうそろそろ交代してくから、みんな心の準備しといて」

 話したことは、それだけであった。
 深呼吸、そして改めて部員全員で円陣を組んで吠えたところでタイムアウト終了。

 試合が再開し、佐原南は裕子の指示通り守備的な布陣になった。

 確かに、相手の破壊力を考えると、守備的なら守り切れるというものでもないがそうしなければとても守り切れないだろう。
 だが、引いて守るということには大きなリスクが伴う。自陣ゴール近くで相手がボールを支配することになり、近距離からどんどんシュートを打たれるのだ。守る側としてはより集中力を切らさず持続させる必要があり、心身の消耗が激しくもなる。
 だから、ただ守るだけではなく、なにか奇策が必要だ。と、判断したのか、やがて裕子は、次々と選手を交代させていった。

 生山里子から、づきへ。
 佐治ケ江優から、きぬがさはるへ。
 山野裕子自身を、かじはなへ。
 真砂茂美から、なしもとさきへ。

「って、なんであたしい!?」

 ピッチに入ることを命じられた梨本咲は、驚きに素っ頓狂な声を上げていた。
 何故ならば彼女はゴレイロ。
 正ゴレイロの武田晶がピッチにいるというのに、何故、自分が入るのか。

「晶FP作戦だよ。ほら、行ってこい!」

 裕子は咲の質問に答えながら、背中をバンと叩いた。

「緊張するだろうけど、頑張れよ」
「してませんよ、緊張なんか!」

 咲はきょとんとした顔をいつもの仏頂面に戻すと、キーパーグローブを手にはめながら、小走りに自陣ゴール前へと向かった。

 ここまでゴールを守っていた武田晶は、生山里子からFPのユニフォームを手渡され、上から素早く着込むと、先ほどまで真砂茂美が守っていた最後列中央の位置についた。

 奇策により対策を施したものの、功を奏したといえるかどうかは分からない。我孫子東が圧倒的に攻め込んで佐原南が防戦一方という状況に、まったく変化は見られなかったからだ。
 布陣を1―3にした以上、より攻められるのは当然とはいえ。

 相手の守備力を考えると絶対に先制を許してはいけない状況。
 そんな焦りや不安を、ずっとベンチから見ていただけに誰よりも感じてしまったのか、ゴレイロで入ったばかりの梨本咲がさっそくやらかしてしまった。

「四秒」

 審判は親指だけ折り曲げた四本指の手を作り、高く上げた。
 フットサルは自陣にて四秒以上ボールキープしてはいけないというルールがある。それを犯し、ファールを取られてしまったのである。

 ゴール前で、我孫子東に対して間接FKを与えることになってしまった。

 ほとんどの選手たちが、佐原南ゴール前へ。

「ドンマイ」

 武田晶は、梨本咲の背を叩いた。
 ゴール前で、選手たちがひしめき合うなか、審判の笛が鳴った。

 キッカーは、小さく助走し、蹴り足を上げる。強く蹴る、と見せかけて丁寧なインサイドキックで床の上を転がした。

 我孫子東の一人が、すっとボールへ向かい、ボールをまたぐようにしながら踵を当てて進行方向を変えた。そこへ飛び込んだ他の選手が、ノートラップでシュート。

 ばちいん、と音を立てて、ボールは咲の顔面を直撃していた。
 咲は、ぽろりと落ちるボールに痛がる暇もなく、遠くへ蹴飛ばした。

「咲、サンキュ」

 武田晶は、礼をいいながらボールを追い、追いつき、ドリブル、横を走る九頭葉月へと浮き球のパス。

 葉月は相手を背負いながら胸で受け、腿を使ってぽーんと上げると、身体を反転させてボレーシュートを放った。
 これが佐原南の初シュートであった。

 我孫子東のゴレイロであるなかひめは、意表を突かれたようで動けない。しかし惜しくもポスト直撃。得点にはならなかった。
 跳ね返ったボールは、ゴレイロ田中姫子が今度はしっかりとキャッチした。

「運に助けられただけ。いま失点してたよ! 真面目にやれ!」

 主将であるなかしましようが、険しい顔で怒鳴り声をあげた。

 その叱咤の効果かは分からないが、我孫子東の動きが変わった。ボールがどんどん動くようになり、それととともに人間も動き、FP四人、時にはゴレイロも含めて連動して、前へ、前へ、佐原南ゴールへと迫る怒涛の攻めが開始された。

 現在ピッチにいる衣笠春奈、武田晶、九頭葉月、梶尾花香、梨本咲の五人は必死に弾き、防ぎ、追い、寄せ、掻き出した。

 しかし我孫子東の攻撃を弾いても弾いても、次の瞬間にはもう佐原南の陣地へと攻め込まれている。怒涛を越えた攻撃はとどまるところを知らず、何故これまで無失点に防げているのか不思議なくらいに佐原南は一方的に攻められていた。

 咲がかろうじてクリアしたボールの落下点目指し、晶が素早く駆け上がってトラップ。

 ボールを足元に収めたところまではいいが、我孫子東の激しいプレスにパスの出しどころを考える一瞬の隙すら与えてもらえなかった。

 相手の突進を、晶はなんとかかわした。いや、すっと伸びる足に奪われていた。
 追う晶。

 我孫子東の選手が、ドリブルで駆け上がる。
 花香が、なんとか食い止めようと立ち塞がるが、ワンツーで簡単に突破されてしまう。

 佐原南の守備は、もうゴレイロの咲しか残っていない。
 対して我孫子東は二人。
 この絶体絶命の危機に、咲は、ゴール前に張り付くのではなく、反対に飛び出していた。
 二人のうち、ボールを保持している選手へと。
 と見せた次の瞬間、ダッと床を蹴って方向を変え、もう一人の選手へと飛び込んだ。

 咲の読みが当たった。
 我孫子東の選手は佐原南ゴレイロの飛び出しに横パスを出し、咲はその横パスを受けた選手へと、スライディングで突っ込んだのである。

 フットサルはスライディングタックル禁止であるが、ゴレイロがPA内部でボールを奪うためのものに関しては、よほど悪質でない限り許容される。
 こうして咲は、足の裏でボールを奪い取ったのである。

 いや……
 そう見えた瞬間、相手の身体が宙へと飛んでいた。

 読み合いを制したと思われる咲の行動であったが、我孫子東の選手たちにとっては、それは単に想定し得るプレーや状況の一つだったのであろう。
 我孫子東の選手は、空中でちょんと蹴って再び横パス、味方がその浮き球のパスをゴールへとなんなく流し込んだ。

 こうして、ゴールネットが揺れた。
 その直後、前半終了の笛が鳴った。

     9
「ごめんなさい。防げなかった」

 ハーフタイム、梨本咲は申し訳なさそうな表情で首をたれた。

「あたしがまずい場所で奪われたからだよ。咲のせいじゃあない」

 武田晶は、慰めるように咲の肩を叩いた。

 それを見ていた山野裕子は突然、梶尾花香の背後に回り込んで口を塞いだ。
 花香はもごもごふがふがいいながら全力でもがき、裕子の手を振り解いた。

「なにすんですか、王子先輩!」
「いや、この流れからしてハナも、あたしが弾き飛ばされたのが悪いんです~、なんていうに違いないと思って。……晶、咲、反省会は、試合が終わってからやれって。失点なんてソーテーの範囲内。途中からほとんど一年生だったのに、これだけやれりゃあ上出来だよ。向こうさんが、これまでの試合で何点取ってきたか考えてみな。まだ前半終わったばかりとはいえ、一失点しかしてないんだよ。試合がはじまったときはさ、やっぱりこいつら強え、何点取られるんだよ、なんて不安に思っちまったけど、ところが前半過ぎてみりゃあこの結果。本当に、たいしたもんだよ。咲、よく頑張ってる。ハナも、葉月も。みんな、自信もっていいんだから」

 そう一気に喋ると、裕子はぶはーっと大きく息を吸って脳に酸素を補給した。
 自責の念に暗くなっているみんなの表情が少しだけ和らいだのを確認すると、裕子は続けた。

「それじゃ、後半戦だけど、すぐメンバー入れ替えるから。里子、サジ、あたし、茂美、晶で。フォーメーションはダイヤモンド……でも、もしかしたら、途中からイプシロンにするかも」
「そんなの、練習でやったことない」

 佐治ケ江優が、不安そうな表情を浮かべた。

「面白そう」

 生山里子は優と対象的に、楽しげな笑みを浮かべた。

「あと、里子とサジは交替せず、最後まで出て貰うから。里子は体力あるから平気だろ」
「あたしはいいですけど、サジ先輩が死んじゃう」

 優の体力がないのは、誰もが知るところなのだ。

「死んだら、他にも選手いるから」

 裕子は、だからどうしたというような冷ややかな表情を浮かべた。

「王子がやれというなら、やるよ」

 優は頷いた。
 裕子はその言葉を心に噛みしめると、突然、にんまりとした笑みを浮かべた。

「これまでの二試合、サジをどんどん出せば、もっと楽に戦えたかも知れない。そうしなかったのは、他のみんなを信じていたのもあるけど、本当は、こうなることを考えていたから。もしも勝ち上がったならば、相手は我孫子東になるだろう。サジを最大限に活用しないと絶対に勝てない。だから、あまり疲労しないように温存した。……それと、強くなりたいというサジの気持ちを聞いたから、なおのこと、サジには我孫子東と思う存分に戦って欲しいと思った。死ぬ気で、戦って欲しいと思った。そういう個人的な感情で試合をどうこうするの、申し訳ない気持ちもあるけど」

 裕子は口を閉ざした。
 沈黙が訪れた。
 それを破ったのは、優であった。

「ありがとう、王子」

 裕子は、優のやわらかな表情に、何故だかちょっとドキッとしてしまい、焦りながら、

「ま、まあ、そ、それが決勝大会突破のための最善の策とも思ってたしさ。……それじゃ、後半は一人一人がもうちょっと素早い判断で、ボールを回してこう。それには、チームメートを思いやること。あたしの大好きな言葉にこんなのがある、ひとりはひとりのために! えっと、あとなんだっけ?」
「あともなにも、出だしから間違ってんだけど。知らない言葉使うなよ、バカのくせに」

 武田晶が、袈裟懸けの一刀を裕子に浴びせた。

     10
 我孫子東のキックオフで、後半戦がスタートした。
 佐原南は次々と選手交替を行い、裕子の指示通りに、ピヴォ生山里子、左アラ山野裕子、右アラ佐治ケ江優、フィクソ真砂茂美、ゴレイロ武田晶、という布陣になった。

 佐原南の後半の入り方としては、とにかく我孫子東の攻撃をしっかり抑えるということであった。

 しかし思わぬアクシデントが発生。
 相手のファールにより、真砂茂美が足を痛めてしまったのである。

 急遽、茂美に代わって一年生のともはらりんが入った。
 鈴も最近実力をつけてきてはいるものの、個人能力において真砂茂美の比ではなく、また、フィクソをやった経験など練習でもほとんどない。
 従って、間違いなく佐原南の守備は、不安が増大してしまっていた。

 ただ、そうであればこそ、相手のファールによって得たこのFKに対する佐原南の選手たちの集中力は高まっていた。

 キッカーは、佐治ケ江優である。
 審判の笛が鳴ると、短く助走し、右足で蹴り上げた。

 ゴール前でカクッと折れ曲がるように、ボールが落ちる。
 分かっていたとばかりに山野裕子が飛び込み頭を叩き付けようとしたが、間一髪の差で我孫子東の選手にクリアされてしまった。

「サジ、いいボールだった! 続けてこう! みんなもしっかり守れてる! 隙を見て上がってこう!」

 山野裕子が手を叩き、味方を励ました。
 その後、試合の流れは完全に膠着状態になった。
 一進一退、ではない。
 誰が見ても、我孫子東が佐原南を圧倒していた。

 我孫子東は誰もが優れた個人技を持っており、そして一人一人の戦術理解が高くチームとしても実に洗練されており、なおかつこのような舞台の経験が豊富であった。勝つことに慣れているのである。

 ただし佐原南も、こと守備に関しては少しずづ対応出来るようになってきていた。
 フィクソで入った友原鈴が、みなの予想を越える粘りを見せてくれていること、それと、全体のチームワークが奔走させられる都度、相手の攻撃を跳ね返す都度、向上してきているのだ。

 だが、困った問題が一つ。
 予期されていたことではあるが、佐治ケ江優の疲労である。
 走り出しや守備など、動き明らかに鈍くなってきていた。

 先ほど負傷で退いた真砂茂美がテーピングを巻いて復帰し、友原鈴が前目のポジションに上がったというのは好材料ではあったが、素直に喜ぶことも出来ない状況であった。

 何故ならば、佐原南をさらに苦境に追い込むようなことが起きたからだ。
 我孫子東の交代ゾーンに、はやしばらかなえが立ったのである。

「いよいよ来っぞぉ!」

 山野裕子は大声で注意、覚悟を促した。
 林原かなえは一年生ながら、実に経験豊富な選手であり、また、俊敏性が非常に高く、ボール捌きも群を抜いている。
 チームワークにまだ難があるということで、我孫子東の試合においては出番のないこともあるが、しかしその個人技は間違いなく対戦する者の脅威の的であった。

 使われることの少なさ故に、いざ使われる時には相手が疲労しているようなタイミングで投入されることが多い。

 後半戦の佐原南は、佐治ケ江優のチームといって過言でなく、その佐治ケ江優に濃く疲労が見えてきたことで、かき回すべく投入されたのであろう。

 我孫子東ほどの強豪ともなると、情報が色々と出回っており、林原かなえは、佐原南にとって間違いなく後半戦における要注意人物の一人であった。

 林原かなえは、主将の中島祥子と入れ替えにピッチへと入った。

 現在ボール保持している生山里子は、要注意人物の投入に、警戒心を強めたはずであったが、しかし、一瞬のうちにボールを奪われていた。ふと気がつけばボールがなくなっていた、といった焦りと驚きのない混ぜとなった里子の表情。
 ぎゅっと瞬きし、それらの感情を振り払った里子は、目の前で余裕の表情を浮かべている林原かなえから、ボールを取り戻そうと足を突き出した。

 だが林原かなえは噂に聞く巧みなボールコントロールで、里子をあざ笑い続けた。
 なおも里子が必死で食らいついていると、

「野蛮なだけで、つまんない」

 林原かなえは、もう飽きたといわんばかりに素早いステップで一瞬にして里子を振り切ると、前線へとロングパスを送った。

 しかしそれは通らなかった。真砂茂美が足の痛みを押し殺しながらボールの落下地点に駆け込んで、大きくクリアしたのである。

 茂美のクリアは、駆け寄った佐治ケ江優が腿でトラップして収めた。すぐさま相手のプレスを受ける優であるが、ひらりかわすと前線の生山里子へと速いパスを出した。

 右足の裏で踏みつけて、ボールを受けた里子。
 その背後から、林原かなえが迫っていた。

「里子、後ろ!」

 優は叫びながら、フォローに向かおうと走り出した。

 だが遅かった。里子もけっして油断していたというわけではないのだろうが、林原かなえの決断力や俊敏性がこれほどまでと予想出来なかったことを油断というのならば、油断だったのであろう。

 どうであれ結果は変わらず。我孫子東の最要注意人物に、一瞬にしてボールを奪われたというのが事実であった。

 今度は駆け寄った優が、林原かなえと向かい合うことになった。
 勝負は一瞬だった。

 林原かなえは、フェイントで生じた優の足の間にボールを通すと、驚くべき敏捷さでもって優の脇を抜けた。優の背後へと回り込み、自分の転がしたボールを回収した。

「たいしたことないね」

 ふふんと鼻で笑うと、ドリブルで駆け上がりはじめた。だが次の瞬間、ぐらりよろけていた。駆け寄った山野裕子に、どかんと身体をぶつけられたのだ。

 林原かなえは素晴らしいバランス感覚で、倒れることなく再度走り出そうとしたが、ここで審判の笛がなった。いまの山野裕子のファールを取ったのだ。

「アドバンテージ取ってくれてもよかったのに!」

 林原かなえは不満げに唇を尖らせながら、自分にぶつかってきた山野裕子の顔を睨みつけた。
 ぶつかられた二の腕の部分を、ぱっぱっと反対の手で払った。

「やあだ。野蛮な猿って嫌い」

 そう呟きながら彼女はボールを拾い、ファールを受けた場所にセットした。
 先ほどの山野裕子のファールにより、我孫子東にFKが与えられたのである。

 林原かなえのFKは、なんとかゴレイロの武田晶がキャッチし胸に抱え込んで難を逃れた。だが、伏せるように倒れたところを我孫子東の選手に背中に乗られてしまい、晶は激痛にのた打ち回った。

 審判の笛が鳴り、故意ではないのだろうが晶の背中に乗ってしまった我孫子東の選手にイエローカードが掲げられた。

「晶、サンキュー! 背中、大丈夫か?」

 山野裕子は晶の守備に礼をいうと、続いて心配そうな顔になり尋ねた。

「ちょっと乗られただけ。こんなもん気にしてたら、ゴレイロなんて出来ないって」

 晶はズキズキと痛むであろう背中をさすりながら、強がった。
 すぐに顔をきっと厳しくして、ボールを置くと、大きく前線へと蹴った。

 しかし佐原南は、そこから繋げることが出来ず、あっという間に我孫子東へと渡してしまい、そこからはまた我孫子東の攻勢が続いた。

 ここで山野裕子は選手交代を指示した。
 自分をベンチに下げ、衣笠春奈を入れた。

 春奈は一対一において粘り強い守備を見せて、戦術的にも相手のパスコースを塞いだり、サイドへと追い込んだり、技術の負けている部分を補う巧みなポジショニングで我孫子東の攻撃の芽を摘み取っていった。

 だが、それだけであった。
 戦局としては、なにも変わらなかった。

 佐原南がどんな手を打とうとも、やはり我孫子東のほうが個人技としても、組織力としても、遥かに上回っていた。
 さらに、ピッチの外から我孫子東の主将である中島祥子がいくつか修正の指示をかけると、あっという間に春奈の存在は無効化された。

 仮にチームワークとして五分に近いとしても、個人技で劣る佐原南には圧倒的に不利な状況であった。

 ましてや戦術的にも負けているのだ。
 どちらが勝者となるだろうか、と第三者に尋ねたならばみな一様同じ答えを返すところであろう。

 友原鈴が抜かれた。咄嗟に足を伸ばして、林原かなえの突破をなんとか遅らせようとしたが、巧みなボールタッチの前に足先でかすめることすら出来なかった。
 林原かなえは、ドリブルで佐原南ゴールへと向かった。
 ゴレイロの武田晶は、腰を低くして構えた。
 完全な一対一だ。

 林原かなえのボールタッチが少し大きくなったのを、晶は見逃さずに飛び出した。
 次の瞬間、晶の顔に浮かんだのは驚愕の表情だった。

 まだボールは、林原かなえの足元にあったのだ。
 タッチが大きくなったふりをして、ボールにバックスピンをかけていたのだ。晶の飛び出しを誘うために。より確実に得点の出来る、完全無人のゴールを作り出すために。

 晶は前へと突進する自身の身体に強引に急ブレーキをかけるが、その瞬間、電撃に襲われたかのように苦悶の表情になり、ぐ、と呻いた。先ほど踏まれた背中に、激痛が走ったのだろう。
 それによって生じた一瞬のロス。それは、致命的な一瞬だった。

 晶の脇を、林原かなえが余裕の表情で通り過ぎていく。
 やられた、と観念した晶の顔。

 と、次の瞬間、林原かなえの身体がぐらりよろけていた。
 彼女のすぐ背後に、友原鈴の姿。
 鈴は、林原かなえをとめようと、背後から全力で追い上げたのであるが、動きに付いていくことが出来ず、ブレーキをかけることが出来ず、背中を突き飛ばしてしまったのである。

 さらに鈴は、林原かなえを転ばせて、その小柄な身体を踏み付けてしまった。

 体重をかけてしまわないよう、咄嗟に力を入れて足を引いていたため、それほど痛いことはないはずであるが、しかし、

「痛い!」

 林原かなえの、甲高い絶叫が場内に響いた。

 審判の笛が吹かれた。
 著しく危険な行為として、鈴にレッドカードが掲げられた。

 PA内でのファール。我孫子東にPKが与えられた。

 苦痛の表情で足をバタバタのたうち回っている林原かなえであったが、自分たち我孫子東にPKが与えられたことを知ると、けろりとした顔で起き上がった。

 友原鈴は、呆然とした表情で突っ立っている。
 信じられない、といった表情で。
 目に、涙が滲んでいた。
 自分の招いた結果を、心が受け入れられなかったのだろう。

「鈴。おい、鈴?」

 裕子は、鈴の顔の前で手をひらひらとさせた。
 我に返った鈴は、まぶたを指で拭うと深く頭を下げた。

「どうも、すみません」
「絶対失点ってとこだったんだから気にしない」

 裕子は笑みを浮かべて、鈴の肩を叩いた。

「でも、PKになっちゃって」
「晶を信じよう。あいつ、顔も頭も悪いけど、ここ一番で凄い力を発揮する奴だから」
「はい……」

 鈴は、力なく頷いた。
 反対にどんと構えたような言をぺらぺらの裕子であるが、その顔を見れば隠しようもない焦りが浮かんでいた。

 当然だ。
 林原かなえが得意なのは、俊敏さを生かしたプレーだけではない。ボールを蹴る能力においても、針の穴を通すような精度を持っている。

 特にPKが得意でよくキッカーを任されており、中学時代から含めて公式戦では一度も失敗したことがないという話だ。

 裕子はぎゅっと拳を握り、佐原南ゴール前で対峙する二人の勝負を見守った。

 ゴレイロである武田晶は、ゴール前の中央に直立不動。特に両腕を広げたり、威嚇するような表情を作ったりなど、相手の心理を揺さぶるようなことはなにもしていない。顔は、あくまで無表情。といっても、無表情なのは普段からであるが。

 比べて林原かなえは正反対、その顔には薄笑いが浮かんでおり、明らかに楽しそうである。あまりにも晶が無反応であるため、ちょっと面白くなさそうな顔を作ったが、それも一瞬だけであり、すぐにまた笑顔に戻った。

 笛が鳴った。
 林原かなえは、ゆっくりゆっくりと助走した。相手を嘲笑するような表情で。

 そっと、足を振り上げると、さして力むことなく、その足を振り下ろしていった。
 ゴレイロの身体がぴくりと反応したことを確認するや、突如、足の動きを加速させ、爪先をボールに叩きつけた。
 弾丸とまではいかないが、初期モーションからは想像も出来ないような、速度のあるボールが、佐原南ゴールへと襲い掛かった。

 その弾道は、完全に枠を捉えている。
 そしてその弾道は、完全にゴレイロの逆をつくものだった。

 決まった。
 これで二点差だ。

 と、林原かなえは口の端を吊り上げ、笑った。
 しかし、その笑顔はほんの一瞬で凍りついた。
 驚愕に目が見開かれ、次いでぽっかりと口が開かれていた。

 彼女の驚きは当然であろう。逆をついてやったらあっさり引っ掛かったはずの間抜けゴレイロが、シュートの軌道上に立って、両手にボールをしっかりとキャッチしていたのだから。しかも、その顔には余裕の表情すら浮かんでいるのだから。

 佐原南を救ったこのプレーに、観客席が、そして佐原南ベンチがどっと沸いた。

「なんで……」

 公式戦ではじめてPKを失敗したショックのためか、林原かなえはがくりと膝をついてしまった。

「技術に自信ある奴って、どいつもこいつも逆をつきたがるからね。逆と分かってりゃあ、止めるのは簡単」

 武田晶のその台詞に、林原かなえはすっかり放心状態といった虚ろな表情になっていた。ゴレイロの動きを読みきって蹴ったつもりだったのだろうが、しかし実際には、ゴレイロに蹴らされていたのだ。

「やったやったやったやった! 晶すげえ!」
「晶先輩、信じてましたあ!」

 ピッチの外で、PK阻止を喜んで抱き合いぐるぐる回っている山野裕子と友原鈴。

「まったく、無駄にかっこつけやがってさ」

 裕子は、頼もしい守護神を見ながら目を細めた。

「無駄じゃあないよ」

 晶は、ちょっとだけ照れたように、唇を歪め、鼻の頭を掻くと、ボールを大きく前方へと蹴飛ばした。

 確かに晶のいう通り、あの演技めいたPKセーブは無駄ではなかった。それどころか、効果絶大であった。

 林原かなえの動きに、誰の目にも分かる明らかな変化が生じていた。精神にショックを受けて動揺しているのか、動きにキレがなくなっていた。
 本人にも自覚があるのか、佐原南にプレスをかけられると抜こうとせずに、すぐにパスを選択するようになった。
 つい先ほどまでは、ニヤニヤ笑みを浮かべながら相手をからかうような言動ばかりであったというのに。

 きっと、これまで積み上げてきた自尊心が、ガラガラと崩れてしまって、自分の心と向き合えなくなっているんだ。

 ピッチ上でその様子を間近に見ながら、佐治ケ江優はそのように考えていた。
 自分とはまるで正反対の性格で自尊心の塊のようであるからこそ、むしろ優には林原かなえの気持ちが分かるような気がした。

 意識的にか無意識にかは分からないが、これ以上傷つきたくないので、勝負を避けてパスに逃げているのだろう。
 しかし、次第にその逃げのパスすらも読まれてカットされるようになってきていた。

 林原かなえは、完全に畏縮してしまっていた。
 ボールを持っておろおろする彼女に、生山里子はすっと近づき、笑みを浮かべ正面に立った。

「あたしみたいな技術のない野蛮人から奪われたら恥ずかしいよね。はやくパスしたら?」

 挑発した。
 ピッチ脇でそれを見ていた山野裕子は、苦笑した。

 林原かなえは、里子の挑発には乗らずに味方へパスを出そうとする。だが、衣笠春奈がしっかりパスコースを塞いでいた。
 舌打ちしつつ、思考時間を稼ごうと反転した林原かなえであるが、その瞬間、いつの間にか接近していた佐治ケ江優にボールを奪われていた。

「く」

 呼気、そして歯軋り。
 林原かなえは、完全に佐原南の術中にはまっていた。

 佐治ケ江優はドリブルで駆け上がると、遠目からシュートを放った。
 我孫子東のゴレイロである田中姫子は、素早く反応してブロックの体勢に入るが、しかしボールは枠の外、ポストに当たって跳ね返った。

 その跳ね返りに反応して、ゴール反対側から駆け込んで来ていた生山里子がシュートを打った。
 田中姫子は完全にバランスを崩していたが、しかし強靭な肉体能力で足を後ろに突き出して、なんとかボールに触れて角度を変え、外へと蹴り出した。

 佐原南のCKである。
 キッカーは佐治ケ江優。
 ゴール前へは送らず、駆け寄ってきた衣笠春奈へとボールを転がした。

 受けた春奈は、すぐに生山里子へと繋ぐ。
 パス回しによって、選手が補填可能になるまでの時間を稼ぐつもりのようであった。

「向こう、一人少ないんだよ。なに回されてんだ!」

 我孫子東の主将である中島祥子が叫んだ。

 優がボールを受ける。
 斜めから、林原かなえが向かってくる。

 それに気がついた優は、自ら彼女の方へと向かっていった。
 優は、二人掛かりで当たられることが多くて大変だったので、ならば足元の技術の高い林原かなえにちらから一対一の勝負を仕掛ければ、むしろ他の誰も手を出してこないのでは、と判断したのだ。

 そこまで読み取れたかは分からないが、一対一を挑まれたのは事実である。先ほどから消極的なプレーの目立つ林原かなえであるが、さすがに強気になって挑まれた勝負を買った。

 だがしかし、この勝負によって林原かなえの自信が回復することはないようであった。目の前に立つ華奢な体躯の相手から、ボールを奪うことどころか触れることすら出来なかったのだ。

 佐治ケ江優の足や、ボールの動きがまったく予想出来ない。蹴り足の予想が的中しても、何故かボールはまったく予期せぬ方向へと逃げてゆく。
 幼少より天才ともてはやされてきたらしい林原かなえである。そんな自分が赤子も同然の扱いを受けていることに、すっかり愕然としているようであった。
 幻惑するようなそのボールの動きに身体がついていかず、焦りに脳が混乱し始めていたようであった。

 佐治ケ江優の姿が、突然ふっと消えた。林原かなえからすれば、そのように映っただろうか。もうそろそろ友原鈴の退場から二分が経過するはずだ、と判断した優は、ちょこんとボールを前に蹴って、一気に林原かなえを抜き去っていたのだ。

 優は勢い落とさずさらに一人をかわすと、遠目からシュートを打った。
 またもや、ボールはポストを直撃して跳ね返った。

 ゴレイロの田中姫子が体勢を崩している間に、詰め寄っていた生山里子がシュート。
 だが焦っていたためかジャストミートせず、打ち上げてしまった。

「ああ……」

 呆然と突っ立っていた林原かなえから、乾いた吐息のような声が漏れていた。
 彼女の全身に、ぶつりぶつりと鳥肌が立っていた。

 どうやら、佐原南の狙いに気が付いたようであった。

 そう、優は遠目から、わざとポストに当てていたのである。
 ゴレイロの反応速度が優れているのを、逆手に取る作戦であった。

 林原かなえが驚愕に目を見開くのも、仕方のないことだろう。
 遠目から確実に、しかも反射角度まで計算に入れてポストに当てるなど、人間技と思える方がおかしいというものだ。止まったボールを蹴るのならまだしも、試合中、対戦相手のプレッシャーの中でそのようなボールを蹴るなど。
 だが、林原かなえがどんなに驚こうとも、目の前に起きていることが現実であった。

 友原鈴の退場から二分が経過し、佐原南は選手補填で真砂茂美が入った。
 相変わらず茂美の右足には、先ほど受けたファールによる負傷でテーピングがぐるぐるとまかれている。
 その入ったばかりの茂美が、手負いと思えない素晴らしいプレーをいきなり見せた。相手と激しく競り合ってボールを奪い取ると、すぐさま生山里子へと中盤を飛び越える山なりのボールを送ったのだ。

 生山里子と林原かなえが競るが、これは絶対的な身長差によって里子が有利であり、跳躍しながら頭で受けた。

 着地と同時に、腿で蹴り上げる。頭、胸、腿、とまるでリフティング練習のように高いところでボールを蹴り続け、林原かなえには渡さない。
 そうやって焦らせたところで里子は、前にいる佐治ケ江優へとパスを出した。

 林原かなえは、それぞれの位置を把握する余裕もなく、ただボールを追いかけようと走り出す。
 だが、優のちょこんと当てるようなキックで、ボールはすぐに生山里子へと戻った。
 佐治ケ江優と生山里子とのパス交換に翻弄される林原かなえ。いつしか彼女の思考は、完全に吹き飛んしまっていたようで、なにやら絶叫すると、ゆっくりドリブルする生山里子の背後から猛然と迫り、スライディングタックルでボールを奪い取っていた。

 まさかここまで荒いプレーを受けるとは、里子も思わなかったのだろう。宙に浮き、どうと肩から落ちた。

 激痛に、里子は呻き声を上げ、ばたばたと身を転げさせている。

 審判の笛が鳴った。
 林原かなえに、レッドカードが掲げられた。

 なにが起きたか理解出来なかったのか、林原かなえは呆然と立ち尽くしていた。

「ごめん……なさい」

 やがて、ようやく我に返ったか、彼女は倒れている里子に手をのばして引き起こした。そして、顔面蒼白となったまま、頼りない足取りでピッチを後にした。

 泣いていた。
 林原かなえは、大粒の涙をこぼし、顔を歪め、泣いていた。

「なんか可哀想な気もするけど、でも同情している余裕はないんだ。春奈、交代! あたし入る!」

 山野裕子は叫んだ。
 交代ゾーンより、衣笠春奈と入れ代わった。

 相手の焦りに加えて、山野裕子の持つ底抜けの元気さが加わって、試合は完全に佐原南のペースになった。

 我孫子東が一人少ないことや、だというのに集中力が乱れてしまっているということにより、佐原南のパスがどんどん繋がる。

 我孫子東の選手たちは、必死の形相で攻撃を跳ね返し続けた。
 完全なる、形勢逆転であった。

 しかし、腐っても我孫子東である。佐原南は、人数有利の間に得点を上げることは出来なかった。
 林原かなえの退場から二分が経過し、主将の中島祥子が入った。

「ガンガン攻めるよ!」

 中島祥子は叫び、気合を入れた。
 人数も戻って、これでまたこっちのペースだ。と思ったのであろうが、しかし彼女の読みは完全に外れていた。
 佐原南の攻勢が、一向に衰えないのだ。

「四対四なのに……どうしてうちが負けている? ……なんで?」

 先ほどの林原かなえのように、中島祥子の全身にもぶつぶつと鳥肌が立っていた。
 だが佐原南の攻勢は、まだまだこんなものでは終わらなかった。

「いくよ、イプシロン!」

 山野裕子が叫んだ。
 佐原南の基本陣形が、裕子の指示によって変化した。

 一番前に生山里子と佐治ケ江優。
 中央には山野裕子。
 後ろに真砂茂美、という陣形へ。

 Y字型、もしくはスター型と呼ばれる布陣だ。
 練習をしたことは一度もなく、何度か遊びでやった程度の布陣であるが、ハーフタイムで部長から使うことを示唆されていたため、選手たちは特に迷うことはなかった。

 相手がなにをやろうと関係ない、と強気に思ったか、我孫子東のみずしまあかねはドリブルで駆け上がり、中央の薄いところから突破をはかった。
 だが、水島茜が気付いたときには山野裕子と真砂茂美の二人に囲まれてボールを奪われていた。

 裕子は、優へとパスを送った。
 足をすっと伸ばして受ける優。そこへすぐに、我孫子東主将の中島祥子がついた。

 優は一見ふらふらとした動きの読めないドリブルから、急加速で一気に中島祥子を抜いていた。
 シュート体勢に入るが、背後から中島祥子に身体をぶつけられ、ボールを奪われてしまった。

 笛が鳴った。
 中島祥子のファールが取られ、佐原南に直接FKが与えられた。

 キッカーは優である。ボールをセットすると、すぐに蹴っていた。
 壁を越え、直接ゴールを狙った。

 無回転のボール。
 短い距離だというのに、すっと奇麗に曲がり、ブレながら落ちた。

 並みのゴレイロならば、ゴールネットが揺れていたかも知れない。経験豊富な我孫子東のゴレイロ田中姫子は、鋭い読みと反射神経とでキャッチしていた。

 我孫子東が、ボールを繋ぐ。
 だが次の瞬間には、生山里子と山野裕子の二人がボール保持者を取り囲み、一瞬の隙をついてボールを奪っていた。

「イプシロンの……アレンジだ……」

 我孫子東の主将、中島祥子はそう理解し、微かに口を開いて呟いていた。

 中央に位置する山野裕子が移動をすることで、彼女ともう一人とでボールを奪ったりパスコースを消す戦術だ。中央に大きな穴が空くが、これは他のポジションの選手が少し動くことで、リスクの軽減を行なう。

「でも……でも、そんなやりかたじゃあ……」

 他の選手は走り回らなくて済むが、中央にいる選手の体力消耗は並大抵のものではないからだ。
 交代出来る選手がいればよいが、あのような動きが出来る選手が山野裕子以外にいるか?
 ざっと見た限りでは、いない。
 山野裕子がやり続けるしかない。
 でもこれは、現実的なやり方ではない。
 これまでの試合の疲れだってあるのだから。

「……どれだけ、底なしの体力を持っているというの……」

 主将の驚きは当然であろう。
 このような戦法を本気で採用するというだけでも驚きなのに、実際にかみ合い、実際に我孫子東の人数が一人少なかったとき以上に佐原南が押しているのだから。

 佐治ケ江優が突破からシュートを放ち、生山里子が虎視眈々とこぼれを狙って駆け引きをし、前面のこの二人によって我孫子東ゴール前は脅かされ続けた。

 佐原南は我孫子東の攻め具合に対応してYの字を回転させて、我孫子東の長所を打ち消しているのであるが、その指示を細かに出しているのはピッチの外に立つ衣笠春奈であった。

 圧倒的に攻める佐原南。

 しかし、残り時間はあと五分。このまま点が動かなければ、佐原南の敗北、我孫子東の勝利だ。

 我孫子東は、すっかりヒビの入った防波堤を全員で支え、襲い来る波を必死で押さえ続けた。

 佐原南は次々と人が飛び出し、シュートを放つ。
 どんどんボールを回し、次々とチャンスを作る。

 佐治ケ江優が背後から激しく押され、倒された。
 審判の笛が鳴った。

 我孫子東の選手にイエローカードが掲げられ、佐原南にFKが与えられた。
 優は起き上がり、ふらふらと数歩進んだが、がくりと崩れ膝をついた。
 床に両手をついて、四つんばいの姿勢でぜいぜいと大きく呼吸をしている。
 顔を苦しそうに歪め、胸を押さえている。

「サジ、大丈夫? 交代しようか?」

 山野裕子は近寄り、尋ねた。
 ハーフタイムに、死んでも最後まで出てもらうというようなことをいっていたのに。
 その優しい言葉を受けた優は、ゆっくりと首を横に振った。

「大丈夫、だから。……いま、とっても……気持ちいいんだ」
「そう?」

 疑問符の浮かぶ裕子の表情であったが、だんだんとその顔に、なんとも嬉しそうな笑みが浮かんでいった。
 優の成長に付き合えたことが嬉しい。と、そんな表情であろうか。
 そして拳をぎゅっと握り締めたのは、優のためにも絶対に勝たねば、という決意のあらわれであろうか。

「時間がない。どんどん攻めてくぞ!」

 裕子は叫んだ。
 佐原南は、ここで選手交代。真砂茂美に代わって、梨本咲が入った。

 ゴレイロである咲を入れてなにをするのか、選手たちへ説明する必要はなかった。
 咲にゴールを守らせ、正ゴレイロの武田晶を前へ上げてFPとしてプレーさせる作戦である。

 晶は梶尾花香からFPのユニフォームを受け取り、手と頭を突っ込んで、いそいそと上からかぶった。

「あと任せた」

 晶は、ピッチに入ってきた咲とポジションを入れ代わると、フィクソであるというのに守備をゴレイロ任せにしてどんどんと駆け上がってしまった。

 晶が上がりすぎて、Y字の中央である裕子と近い距離になってしまっているということと、交代で入ったゴレイロの能力の問題などで、失点の可能性はやや高くなったかも知れない。晶は、自分は疲れていないため、その欠点は走力で補おうと考えたのだろう。

 どのみち、このまま点を取らなければ佐原南は敗退であるし、とにかく前へ、前へ、と。

 結果的に、選手間の距離がよりコンパクトになって、ボールがより回るようになった。
 こうして佐原南は、我孫子東のお株を奪うような流れるパス回しで、敵陣への攻勢をより強めていった。

 だが、その前掛かりを突かれた。
 我孫子東のゴールクリアランスから、ポンポンとボールが繋がって、前線で張る俊足ピヴォに渡り、フットサルには珍しく広大なスペースを一気に駆け上がられてしまったのである。
 しかし、

「おりゃ!」

 山野裕子が追いつき、追い抜き、外へ蹴り出していた。

「あたしより、速いなんて……」

 我孫子東の誇る俊足ピヴォは、なんともびっくりしたような、なんとも驚いたような、そんな顔で思わず呟いていた。

「脳味噌ない分だけ軽いんでね」

 裕子は自分の頭を指差して、トントンと叩いた。
 カンカン反響したかどうかは分からない。それだけ、裕子のあまりの足の速さに、観客席からどよめきや拍手が起きていたのだ。

 我孫子東のキックインは、武田晶が裏から巧みに回りこんで身体を入れて、ボールを奪い取った。
 晶はすぐさま前線の優へと、浮き球のパスを送った。

 急いで送ること最重視の雑なパスであったが、優は下がりながらすっと足を上げてピタリおさめた。

 我孫子東にとっての要注意人物である佐治ケ江優に、すかさず二人のマークがついていた。中島祥子と水島茜である。

 だが優は、二人を子供扱いするかのような抜群のキープを見せた。
 右に左に、上に下に、まるで魔術に操られているかのようにボールが縦横無尽に動き、二人を翻弄した。
 生じた一瞬の隙を突いて、優は二人の間を抜け出した。
 ゴレイロの田中姫子と一対一になると、躊躇わずシュートを打った。

 田中姫子は優れた反射神経で反応し、両手で真上へ跳ね上げた。
 ボールが、宙高く舞った。

 生山里子が、その落下地点を目掛けて走り込んだ。
 田中姫子は落ちてくるボールを見上げ、跳躍してキャッチしようと素早く膝を曲げるが、生山里子の方が一足先に高く飛び上がっていた。

 このタイミングで、ヘディングシュートは無理か。そう判断したか、里子は落下してくるボールを頭頂でさらに跳ね上げた。

 落ちてくるボールを押し込んでやろうと、佐治ケ江優はボールの行方を追うべく身構えた。

 だが、さすがは強豪我孫子東の正ゴレイロ、田中姫子は落下しながらもなんとか手を伸ばし、里子が跳ね上げたボールに触れて大きく弾いていたのである。

 佐治ケ江優は素早く踵を返し、ボールを追った。
 守備に戻ってきたフィクソの水島茜と肩を並べ、二人は競り合った。

 ほんの僅か、紙一重の差で優が先にたどり着いた。

 全力で走りながら前方へ、大きく跳躍した優は、ほぼ身体を寝かせた状態で、すっと伸ばした右足の爪先で小さくボールを浮かせると、そのまま空中で身体を捻って、逆の足でシュートを放っていた。

 どのような身体の使い方をすれば、このようなことが出来るのか。物理的に信じがたい、常識的に有り得ない動きに、ゴレイロの田中姫子は、ほんの僅か反応が遅れた。
 まばたきするほどの一瞬ではあったが、しかしその一瞬の間に、ボールはゴールネットへと突き刺さっていた。

     11
 受身に失敗して、優は尻から床に落ちた。
 痛みに顔を歪めながらも上体を起こし、自分のゴールを確認した。

 こうして佐原南は、残りあと四分というところで同点に追いついたのである。

 今大会初失点、そして数年ぶりの県予選での失点に、我孫子東の守護神である田中姫子は呆然とした表情で、がくりと膝を落とした。

「あたしのサジ!」

 山野裕子は両腕を大きく広げて雄叫びをあげながら、まだ床に倒れている優へと走り寄ると、上から倒れ込んでその華奢な身体に乗っかり、ぎゅっと抱きしめ、ほお擦りをした。

「やってくれると思ってた! ほんとサジ、すっげえ! 愛してる!」
「あ、ありがと……」

 重いのをこらえてなんとか言葉を発する優であったが、ぐっとさらに圧し掛かる重量が増して、吐きそうになった。

「サジ先輩、ナイシュー!」

 生山里子が、二人の上に覆いかぶさってきたのだ。

「あたしもやんなきゃダメみたいじゃんか」

 さらに、武田晶が乗っかった。

「重い……」

 優は身をよじって、脱出しようともがいた。

「切り替え切り替え! リードされてるわけじゃないんだから!」

 我孫子東の主将である中島祥子が手を叩き、意気消沈している味方を鼓舞している。

「切り替え切り替え! まだ追いついただけなんだから!」

 山野裕子は、上に乗る武田晶の身体をぶーんと遠くへ跳ね飛ばして起き上がると、相手の主将の真似をして手を叩いた。
 そうやってからかうことで、より相手に焦りを与えようとしているのであろう。

 我孫子東のキックオフで試合再開。

「よし、このまま攻め続けるぞ! サジ! 里子!」

 裕子は叫んだ。
 同点によって佐原南はさらに勢いづき、我孫子東を猛烈に攻め続け、追い込み続けたのである。

     12
 しかし、この試合を制したのは我孫子東であった。

 圧倒していたのは佐原南であるが、前掛かりに攻めていたところ一瞬の隙を突かれて、長い距離を走られそのまま決められてしまったのだ。

 その直後に試合終了。
 佐原南は予選敗退。
 千葉県代表として、関東大会へ進出することは出来なかった。

 結果を残すことが出来ず、すべては無駄であったということだろうか。
 優は、そうは思わない。

 これまでの人生の中で、この我孫子東との対戦ほど楽しいと思ったことはなかった。
 胸の奥から懇々と湧き上がる自信に、これほど気持ちが良いと思ったことはなかった。フットサルのことではなく、人として成長していることに。

 だからこそ、これほどまでに負けて悔しいと思ったことはなかった。

 悔しいと思えることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

 そんな気持ちを自分に与えてくれた仲間たちに、これほど感謝したことはなかった。

 これほどまでに、喜びの涙がとめどなく溢れてきたことなどなかった。

 これほどまでに、生まれてきたことを感謝した日はなかった。

 だから……

     13
 ゆうは、大勢に取り囲まれていた。

 現フットサル部の部員全員に、むらなつフサエ、らくやまおりといった引退した先輩たちまで。
 それどころか既に卒業して大学生であるかね前々部長まで来ている。

 ここは新東京国際空港。
 国際線が主だが、主要都市への国内線も数こそ少ないが離発着しており、今日その国内線で佐治ケ江優は、父親の待つ広島へと帰るのだ。
 みんな、彼女を見送るために集まっていたのである。

 今日、広島へ帰るのは、優一人だけだ。
 母親はこちらでやり始めた仕事の整理が残っているため、一ヶ月か二ヶ月は千葉を離れることが出来ないからだ。

「みんな、ほんとうにありがとう。フットサル部に入って、よかった」

 先日の送別会から、優は何度この台詞をいっただろう。
 でも何百回いおうとも決して薄らぐことのない、心からの言葉であった。

「我孫子東に、勝ちたかったね。最高の思い出を作ってあげられなくて、ごめん」

 山野裕子は寂しげな笑みを浮かべた。

「そんなことない。最高の、思い出になったよ」

 優は、先日のことを思い出し、柔らかな表情を作った。

「……結局、我孫子東も負けちゃったけどね」

 裕子のいう通り、我孫子東高校は本大会の二戦目で力尽きた。大量失点で負けたらしい。

 あんなに強いのに、もっと強い高校がある。どんなチームなのだろう。どんな選手たちなのだろう。優は、そう思っていた。
 機会あれば、いつか戦ってみたい、と。

 これから自分は広島に帰ってしまうわけで、だからそのような機会があるかなどは分からないけれど。
 確か、通うことになる高校にフットサル部はないはずだし。

「そろそろ時間だよ」

 武田晶の声に、みな発着状況の電光掲示板を見た。

「サジ、わざわざいう必要もないけど他にかける言葉がないからいうけど……元気でね。いつかそっち遊びにいったら、お好み焼きの美味しいとこ連れていってよ」

 山野裕子の言葉に、優は真面目な顔で考え込んだ。

「お好み焼きはよく分からないけど、美味しいお店、お父さんに聞いておくよ。そっちこそ、元気で。……でも、王子は少し元気がないくらいでちょうどいいのかもね」
「え?」

 裕子は、優の口から発せられた言葉に、それきり沈黙してしまった。
 しばらくしてから、ようやく口を開いた。なんだか変なものでも見るような目つきで。

「……あのう、サジ、ひょっとして、それ、冗談? サジ最大級の、冗談? シミズの舞台から飛び降りる的な気持ちで、よーし優ちゃん最後に一発かましちゃうぞーみたいな」
「え、そ、そんなんじゃ」

 優は、顔を赤くしてうつむいてしまった。

「サジ、王子じゃないけど、向こうでも元気にやんなよね。なにかあったら、いつでも連絡してよ」

 木村梨乃はそういって、穏やかな表情で優の顔を見つめた。

「はい。先輩方にも、本当にお世話になりました。特に、梨乃先輩にはいくら感謝しても足りないくらいです」
「なにもしてないってば。大袈裟なんだよ、サジは」

 そんなことありません。
 本当に、先輩がいたから、自分は強くなれたんです。王子たちのような、素晴らしい友達が出来たんです。

 優は、心の中でそう呟いていた。

 見捨てないでくれて、ありがとう、と。

「サジ先輩、勝ち逃げじゃあないから心配しないでください。いつかきっちり負かしてあげますから。だから、これからもフットサルを続けて下さいよね」

 生山里子が、裕子を肩でどかんと突き飛ばして前に出ると、優へと手を差し出した。

「もちろん続けるよ。……いつか、どこかでね」

 二人は、硬く握手をかわした。

「もう、いかなきゃ。……それではみなさん、お世話になりました!」

 優はとても優らしくない大きな声を出すと、深く深く頭を下げた。

 頭を上げた。
 すっかり驚いてぽかんとしているみんなに囲まれ、踵を返して歩き出した。

 こうして優は「自信」「信頼」といった大きな大きな土産を持って、生まれ故郷である広島へと戻ることになったのである。

 だがそれは、佐治ケ江優の物語において、まだまだ序章に過ぎなかった。
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