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1
並木道を折れて、小さな児童公園に入った。
眼下に、海の広がる綺麗な景観が飛び込んできた。そこでようやく足を止めて、膝に両手を付いて大きく呼吸をした。
やがてジョギングによる息の乱れが少しだけ回復すると、動的ストレッチを開始。腰を軽く捻りながら、膝を高く上げる。
佐治ケ江優は、代表遠征を終えて昨日ブラジルから帰国したばかりだ。
まだ時差ボケと疲労が多分に残っており体調は最悪であるが、だからこそしっかりと朝から身体を動かして、早くリズムを取り戻したかった。これからFWリーグ開幕に向けて身体を作っていかなければならないからだ。
でもいくら気合いを入れるためとはいえ、Tシャツとショートパンツではちょっと寒かったか。もう三月で昼は暖かとはいえ、まだ早朝なのだから。
体感的にはそれほど寒くもないのだが、止まっているとすぐに筋肉が冷えてしまう。せめてジャージのズボンくらい履いておけばよかった。
ここは広島県三原市である。
昨日は札幌のマンションへは戻らず、久しぶりに実家に帰り、泊まったのだ。
今日は昼から夕方にかけて、こちらに住む友人何名かと会い、夜の飛行機で札幌へと戻る予定だ。
ストレッチを一区切りつけると優は、肩を回し額の汗を拭いながら改めて遠くへと視線を向けた。
ここは切り立った高台で、真下には古くからの住宅街、遠く前方には青い海が広がっている。
地元の人間が自慢する絶景である。
優もこの眺めが好きであった。
ここに住んでいた頃は、特になんとも思っていなかったのに。
次はいつ、ここへ来られるだろうか。
とりあえずしっかりと眺望を目に焼き付けると、名残惜しくはあったが絶景にくるり背を向けた。
クールダウンで、ウォーキングで実家まで帰ろう。
と、公園を出たところで、びくりと肩を大きく震わせた。
「おはよう」
散歩をしている老婦人に声をかけられたのである。
優が実家暮らしであった頃、いつも犬を連れてこの道を散歩していた婦人だ。あれから十年近くが経ち、すっかり老人の顔になっていたが間違いない。
顔を見た瞬間に優は犬のことを連想して飛び上がってしまったのであるが、飛び上がっておいて正解であったかも知れない。
以前とは異なる犬種のようではあるが、とにかく老婦人は相変わらず犬を連れていたからである。
でも結局、二度飛び上がってしまっただけなので、正解どころか単なる災厄か。
「久しぶりじゃねえ」
老婦人は目を細めた。
彼女も優のことを覚えていたようである。
優は、チワワだかスピッツだか分からないが小さな犬の姿にちょっとたじろぎながらもぐっと踏ん張り、
「ほんまにお久しぶりです」
挨拶を返した。
眉間にしわを寄せた難しい顔で、ゆっくりと犬の前にしゃがみ込むと、犬の頭へと恐る恐る手を伸ばした。
優の額には脂汗がじっとりと浮かび上がり、たらたらたれていた。
犬の頭に触れた。
手を回すように、ゆっくりと撫でた。
「必ず撫でてくるけえね」
「ほうですか?」
と、優がガチガチと歯を打ち鳴らしながら、老婦人の顔を見上げた瞬間である、突然犬が甲高い声で吠えた。
「うわあっ!」
優はびっくりして、まるで爆発に吹き飛ばされたかのように跳ね上がり退いていた。
どぼ。
道路端のU字溝に、右足が足首までどっぷりとつかっていた。
跳ね飛んだ泥やその音にびっくりしたのか、乱れ撃つかのように犬が吠え始めた。
「ああっ、あのあのっ、ほいじゃまたっ!」
優は泥の中から足を引っ張り出すと、逃げるように走り出していた。
じゃかぽじゃかぽと音を立て、泥水で走る軌跡を道路に描きながら
2
「おめでとーーーーーーーーーーっ! ようこそこっち側の世界へ。いやあ、めでたい、某アイスクリーム屋まであと数字一つだねえ」
また仲間が一人増えたとばかりに、ニコニコ顔の遠藤裕子。
彼女は、佐治ケ江優の背中をバンバン叩くと、腕を回し肩を組んだ。
「ありがとうといえばいいのかなんといえばいいのかでもありがとうといっておくべきなのじゃろうかでもただバカにされとるだけのような気もするしほじゃけえやっぱりきにせずありがとうといっておくべきとおもうんじゃけども」
優は真面目に返答を考えるもののなんと返せばよいものか、すっかり困ってしまっていた。困惑するあまり、珍しく思考がそのまま口を突いて出てしまっていた。
「あたしの時には、おめでとーっ、三十、三十、三十、三十って容赦なく三十を連呼してきたじゃんかよ。あたしのまわりを妖精のようにぐるぐる回って跳びはねながらさあ」
「ほうじゃったろうか?」
まったく記憶にない。
というか、どう考えても別の誰かだろう、それは。
「確かさあ、面白い駄洒落で笑わせてくれたりとかあ、替え歌を熱唱してくれたよね」
「駄洒落なんかいってないし、歌ってもいない」
きっぱり否定した。
本当に、そうやって人のキャラを作り変えようとするのやめて欲しい。別にキャラでいまの自分でいるわけじゃないけど。
ここは札幌市内、ノイノストラというカフェの中だ。
一度ここでお茶を飲んだことから、二人が待ち合わせ場所としてよく利用している店である。
裕子は日本酒ソムリエの仕事で一週間ほど北海道に滞在中なのであるが、仕事の合間にということで、これから優と一緒に旭川冬祭りを見に行くのだ。
誘ったのは裕子の方である。
フットサルのシーズンが始まると優はなかなかゆったりとした時間が取れなくなるだろうということと、優の誕生日を記念してどこかへ行こう、という理由で。
裕子は取材名目でいつでも全国どこへでも行かれる身分なので、単に自分が息抜きの観光旅行をしたかったというだけかも知れないが。
優は別にお祭りにあまり興味はなかったが、そうやって裕子が誘ってくれること気にかけてくれることは素直に嬉しかった。
なお、もう散々に裕子が連呼してしまっているが、優はこの誕生日を迎えたことで三十歳になった。
大台である。
だからこそ、同学年ながら先に誕生日を迎えていた裕子に、あれほどにからかわれていたのだ。
二人は軽く食事を済ませると、優の軽自動車で札幌を出発。一路旭川へ。
3
到着した頃にはお昼を大きく過ぎていたが、でも二人は充分に祭りを堪能した。
続いて土産物屋へ。
裕子は、小さな子供三人をいつも預かってくれているお義母さんに木彫りの熊を。
優は、なににしようかまったく決めきれずにいつまでも迷っていたところ、しびれを切らせた裕子が旭豆を大量にカゴに詰め込んでしまったので、それを買った。
その後、予約していた近くのホテルにて一泊。
露天風呂に二人でのんびりつかり、和室に戻って豪勢な食事。
クラブだけでなく代表とも掛け持ちの生活を送る優としては、シーズンオフ期間でないととても出来ないこと、たっぷりと堪能し、リフレッシュに努めていた。
楽しい旅行であったが、ただやっかいなことが……
予想していたことではあったが、裕子に日本酒やビールなどの酒をすすめられたのである。
予想していたことではあったが、飲めないからと断っているのに容赦なく注がれた。
五年前に二人で沖縄に旅行した時にも、まったく同じことをされたのである。
久し振りのお酒はやっぱり美味しくないし、ただ気持ち悪いだけだった。よくこんなものを毎日飲んで評論するような仕事が出来るものだ、と優はある意味感心してしまう。
とん、とコップを置いた優に裕子は、
「優ちゃんの評価は?」
尋ねた。
「マイナス百点。まずい。もういらない」
「大吟醸だぞそれ!」
「知らないよそんなこと、あーっ!」
いらないといっているそばから、どぼどぼと注がれてしまった。
仕方ない。
飲むか。
去年優勝した時のビールかけも、しぶきが口に入っただけで酔っちゃったしな。
もう三十歳、付き合いもあることだし、少しくらいは飲めるようになっておいた方がいいだろうし。
そう思った優は、息を止め鼻をつまむとコップの中身を一気に空けた。
鼻つまんでも、やっぱり気持ち悪い。まずい。
「おいおーーい、そんなぐっと空けちゃって大丈夫かよ、サジ」
「飲ませよう飲ませようとしていたくせに、飲んだら飲んだでそんなこというんじゃから」
優はげほとむせた。
「いや、だって日本酒のアルコール度数知ってる?」
「知らない」
「ビールの三、四倍あるよ」
「え……」
優の顔は、アルコールで赤くなるどころかむしろ青ざめていた。
やがて、血中にお酒が回りはじめた。
暴れるなど性格が変わることはまったくなかったが、気持ち悪さがこみ上げてきて、トイレに駆け込んで吐いた。吐き続けた。
三十にして大人の階段を上ったどころか、その階段が安物でガラガラと崩れてしまったような気分の優であった。
などと思考に遊べるようになったのは翌日の昼頃からであり、それまでずっと吐き気で苦しんでいたわけであるが。
もう絶対にお酒なんか飲まない、と心に誓う優であった。
五年前にも同じこと思ったけど、でも今度こそもう絶対の絶対に。
4
福岡市にある最大四千人を収容するウィングリンクアリーナ福岡の観客席はぎっちりと人が詰まっており、まだ三月だというのにものすごい熱気でまるで蒸し風呂であった。
女子フットサルプロリーグ、通称FWリーグの2024年シーズンが本日開幕した。
第一節は恒例のセントラル開催であり、一つの会場で全クラブが試合を行うのだが、今回選ばれた会場がこのウィングリンクアリーナ福岡なのである。
先ほどデウルース日光とカステライナ喜多方の試合が終了し、これから本日の第二試合であるエステセジオ広島対ベルメッカ札幌の試合が行われるところだ。
いま日本の若者の間では、ちょっとしたフットサルブームが起きていた。
先日に行われた日本女子代表の海外遠征で、強豪であるブラジルやイングランドを破るなどの快進撃を果たし、それによりメディアが注目し、人気に火がついたのだ。
先々週に開幕した男子のFリーグに続き、女子のこの試合においても会場は満員。
テレビカメラや報道関係者の数が、例年よりも遥かに多かった。
もうすぐ第二試合の開始時刻である。
ピッチ上には十人の選手が立っている。
エステセジオ広島のピヴォである永野明美が、中央でボールを軽く踏み付けてキックオフの笛を待っている。
ピッチ反対側、ベルメッカ札幌側はいま円陣を組んだばかりであった。
「連覇と気負わず、一試合ずつ大切に、こうして試合の出来ることに感謝して戦っていこう。ベルメッカ、いくぞ!」
「おーっ!」
キャプテンマークを腕にまく佐治ケ江優の、ちょっと頼りなくもあるが仲間たちに安心をもたらす声、それを掻き消すような気合全開の叫び声を選手たちは張り上げた。
真っ赤なユニフォーム上下、ベルメッカ札幌の選手たちは円陣を解くとピッチ上に散らばった。
ベルメッカ札幌サポーターから選手コールが起こる。
まずはゴレイロの池田沙矢香。
続いて佐治ケ江優。
その優へのコールにかぶせるように、エステセジオ広島のサポーターから大ブーイングが起こった。
エステセジオ広島は佐治ケ江優の古巣であり、優はそこを退団してプロ契約としてベルメッカに移籍した。そのような過去があるため、この対戦カードは毎試合のように佐治ケ江優に対するブーイングが起こるのである。
移籍から、もう十年近くが経つというのに。
なお、優へのブーイングはまったく関係ないことかも知れないが、ベルメッカ札幌はアウェーでエステセジオ広島に勝利したことがただの一度もない。
エステセジオ広島が残留争いをしていた2020年シーズンですら、カップ戦も含めてベルメッカの一敗一分である。
ベルメッカが優勝した昨シーズンも、やはり一敗一分だ。
だから今年こそは、絶対にアウェーで勝ってやる。
優はそう心に誓っていた。
現役引退しようと思ったことは何度もあるが、現在はやる気満々であり自ら引退するつもりはない。当然そうなる日がいつかは来るのだろうが、この相手にしっかりと勝たないことには現役を辞めたくとも辞められない。
そう思うに至る明確な理由があるわけではないが、アウェー未勝利が続いたり、引退時期について悩んだりしているうちに、いつしかエステセジオ広島にアウェーで勝利することが頭の中で相当に重要なものになっていた。
自分のこの人生に一つの区切りをつけるためにも、なんらかの価値を持たせるためにも、古巣であるこの相手に対して負のジンクスを破ってから引退をしたい。
今節はセントラル開催であるためスタジアムの雰囲気という点ではどちらがホームなのかアウェーなのか分からなかったが、そんなことは勝敗にはなんの関係もないことだろう。
事実として、ここまでそのようなホームアウェーの勝敗記録が続いてきている以上は、エステセジオ広島だって自信を持って挑んでくるだろうから。
だからこそ、
「最初から点取りに行く! 3-1で」
優は仲間たちの顔を見ながら、みんなの中央に位置するように移動した。
Yの字の陣形になった。
ただ中央の優は、前の二人に近い位置を取っており、三人横並びのようにも見える。
「アラは互いをよく見てバランス取りながらどんどん上がって。シン、守備大変だろうけど舵取りは任せたから。もしも先制されても、五分まではそのまま続ける」
「分かった!」
「了解!」
アラの野方志保と宜良朱里は、大きな声で返事をしたものの、その表情には自信と不安が入り混じっているのが見てとれた。
前年度優勝チームであるという自信と、この相手にアウェーで一度も勝ててないという不安があるのだから当然のことであろうし、そのようなこと関係なくとも今日から新シーズンが開始するのだから普段以上に緊張するのもまた当然であろう。
なお先ほど優が味方に戦術指示をしていたが、今日は監督から、ある程度好きにやっていいといわれているのだ。
だから昨夜のミーティングも、監督が話したのはスカウティングで得た相手の情報を事実として述べたくらいだ。それを元に、優が戦術を打ち立てたのである。
監督は第一節だからそうしたというよりは、エステセジオ広島が相手だからそのようにしたのであろう。監督もこの対戦成績を気にしており、打ち破るために大きな賭けに出たのだ。
佐治ケ江優の思い、監督の思い、コーチ、他の選手たち、サポーターたち、それぞれの思いが合わさって、このピッチというキャンバスにどう表現されることになるのであろうか。
それが分かるのは、もうすぐだ。
第一審判がゆっくりと笛を口に運び、軽くくわえた。
笛の音が、長く鋭く鳴り響いた。
すべてを吹き飛ばすかのような観客の熱気が爆発する中、エステセジオ広島の永野明美がちょんとボールを蹴った。
す、とそこへ向かって優は走り出した。
佐治ケ江優の2024年シーズンが、いま始まった。
並木道を折れて、小さな児童公園に入った。
眼下に、海の広がる綺麗な景観が飛び込んできた。そこでようやく足を止めて、膝に両手を付いて大きく呼吸をした。
やがてジョギングによる息の乱れが少しだけ回復すると、動的ストレッチを開始。腰を軽く捻りながら、膝を高く上げる。
佐治ケ江優は、代表遠征を終えて昨日ブラジルから帰国したばかりだ。
まだ時差ボケと疲労が多分に残っており体調は最悪であるが、だからこそしっかりと朝から身体を動かして、早くリズムを取り戻したかった。これからFWリーグ開幕に向けて身体を作っていかなければならないからだ。
でもいくら気合いを入れるためとはいえ、Tシャツとショートパンツではちょっと寒かったか。もう三月で昼は暖かとはいえ、まだ早朝なのだから。
体感的にはそれほど寒くもないのだが、止まっているとすぐに筋肉が冷えてしまう。せめてジャージのズボンくらい履いておけばよかった。
ここは広島県三原市である。
昨日は札幌のマンションへは戻らず、久しぶりに実家に帰り、泊まったのだ。
今日は昼から夕方にかけて、こちらに住む友人何名かと会い、夜の飛行機で札幌へと戻る予定だ。
ストレッチを一区切りつけると優は、肩を回し額の汗を拭いながら改めて遠くへと視線を向けた。
ここは切り立った高台で、真下には古くからの住宅街、遠く前方には青い海が広がっている。
地元の人間が自慢する絶景である。
優もこの眺めが好きであった。
ここに住んでいた頃は、特になんとも思っていなかったのに。
次はいつ、ここへ来られるだろうか。
とりあえずしっかりと眺望を目に焼き付けると、名残惜しくはあったが絶景にくるり背を向けた。
クールダウンで、ウォーキングで実家まで帰ろう。
と、公園を出たところで、びくりと肩を大きく震わせた。
「おはよう」
散歩をしている老婦人に声をかけられたのである。
優が実家暮らしであった頃、いつも犬を連れてこの道を散歩していた婦人だ。あれから十年近くが経ち、すっかり老人の顔になっていたが間違いない。
顔を見た瞬間に優は犬のことを連想して飛び上がってしまったのであるが、飛び上がっておいて正解であったかも知れない。
以前とは異なる犬種のようではあるが、とにかく老婦人は相変わらず犬を連れていたからである。
でも結局、二度飛び上がってしまっただけなので、正解どころか単なる災厄か。
「久しぶりじゃねえ」
老婦人は目を細めた。
彼女も優のことを覚えていたようである。
優は、チワワだかスピッツだか分からないが小さな犬の姿にちょっとたじろぎながらもぐっと踏ん張り、
「ほんまにお久しぶりです」
挨拶を返した。
眉間にしわを寄せた難しい顔で、ゆっくりと犬の前にしゃがみ込むと、犬の頭へと恐る恐る手を伸ばした。
優の額には脂汗がじっとりと浮かび上がり、たらたらたれていた。
犬の頭に触れた。
手を回すように、ゆっくりと撫でた。
「必ず撫でてくるけえね」
「ほうですか?」
と、優がガチガチと歯を打ち鳴らしながら、老婦人の顔を見上げた瞬間である、突然犬が甲高い声で吠えた。
「うわあっ!」
優はびっくりして、まるで爆発に吹き飛ばされたかのように跳ね上がり退いていた。
どぼ。
道路端のU字溝に、右足が足首までどっぷりとつかっていた。
跳ね飛んだ泥やその音にびっくりしたのか、乱れ撃つかのように犬が吠え始めた。
「ああっ、あのあのっ、ほいじゃまたっ!」
優は泥の中から足を引っ張り出すと、逃げるように走り出していた。
じゃかぽじゃかぽと音を立て、泥水で走る軌跡を道路に描きながら
2
「おめでとーーーーーーーーーーっ! ようこそこっち側の世界へ。いやあ、めでたい、某アイスクリーム屋まであと数字一つだねえ」
また仲間が一人増えたとばかりに、ニコニコ顔の遠藤裕子。
彼女は、佐治ケ江優の背中をバンバン叩くと、腕を回し肩を組んだ。
「ありがとうといえばいいのかなんといえばいいのかでもありがとうといっておくべきなのじゃろうかでもただバカにされとるだけのような気もするしほじゃけえやっぱりきにせずありがとうといっておくべきとおもうんじゃけども」
優は真面目に返答を考えるもののなんと返せばよいものか、すっかり困ってしまっていた。困惑するあまり、珍しく思考がそのまま口を突いて出てしまっていた。
「あたしの時には、おめでとーっ、三十、三十、三十、三十って容赦なく三十を連呼してきたじゃんかよ。あたしのまわりを妖精のようにぐるぐる回って跳びはねながらさあ」
「ほうじゃったろうか?」
まったく記憶にない。
というか、どう考えても別の誰かだろう、それは。
「確かさあ、面白い駄洒落で笑わせてくれたりとかあ、替え歌を熱唱してくれたよね」
「駄洒落なんかいってないし、歌ってもいない」
きっぱり否定した。
本当に、そうやって人のキャラを作り変えようとするのやめて欲しい。別にキャラでいまの自分でいるわけじゃないけど。
ここは札幌市内、ノイノストラというカフェの中だ。
一度ここでお茶を飲んだことから、二人が待ち合わせ場所としてよく利用している店である。
裕子は日本酒ソムリエの仕事で一週間ほど北海道に滞在中なのであるが、仕事の合間にということで、これから優と一緒に旭川冬祭りを見に行くのだ。
誘ったのは裕子の方である。
フットサルのシーズンが始まると優はなかなかゆったりとした時間が取れなくなるだろうということと、優の誕生日を記念してどこかへ行こう、という理由で。
裕子は取材名目でいつでも全国どこへでも行かれる身分なので、単に自分が息抜きの観光旅行をしたかったというだけかも知れないが。
優は別にお祭りにあまり興味はなかったが、そうやって裕子が誘ってくれること気にかけてくれることは素直に嬉しかった。
なお、もう散々に裕子が連呼してしまっているが、優はこの誕生日を迎えたことで三十歳になった。
大台である。
だからこそ、同学年ながら先に誕生日を迎えていた裕子に、あれほどにからかわれていたのだ。
二人は軽く食事を済ませると、優の軽自動車で札幌を出発。一路旭川へ。
3
到着した頃にはお昼を大きく過ぎていたが、でも二人は充分に祭りを堪能した。
続いて土産物屋へ。
裕子は、小さな子供三人をいつも預かってくれているお義母さんに木彫りの熊を。
優は、なににしようかまったく決めきれずにいつまでも迷っていたところ、しびれを切らせた裕子が旭豆を大量にカゴに詰め込んでしまったので、それを買った。
その後、予約していた近くのホテルにて一泊。
露天風呂に二人でのんびりつかり、和室に戻って豪勢な食事。
クラブだけでなく代表とも掛け持ちの生活を送る優としては、シーズンオフ期間でないととても出来ないこと、たっぷりと堪能し、リフレッシュに努めていた。
楽しい旅行であったが、ただやっかいなことが……
予想していたことではあったが、裕子に日本酒やビールなどの酒をすすめられたのである。
予想していたことではあったが、飲めないからと断っているのに容赦なく注がれた。
五年前に二人で沖縄に旅行した時にも、まったく同じことをされたのである。
久し振りのお酒はやっぱり美味しくないし、ただ気持ち悪いだけだった。よくこんなものを毎日飲んで評論するような仕事が出来るものだ、と優はある意味感心してしまう。
とん、とコップを置いた優に裕子は、
「優ちゃんの評価は?」
尋ねた。
「マイナス百点。まずい。もういらない」
「大吟醸だぞそれ!」
「知らないよそんなこと、あーっ!」
いらないといっているそばから、どぼどぼと注がれてしまった。
仕方ない。
飲むか。
去年優勝した時のビールかけも、しぶきが口に入っただけで酔っちゃったしな。
もう三十歳、付き合いもあることだし、少しくらいは飲めるようになっておいた方がいいだろうし。
そう思った優は、息を止め鼻をつまむとコップの中身を一気に空けた。
鼻つまんでも、やっぱり気持ち悪い。まずい。
「おいおーーい、そんなぐっと空けちゃって大丈夫かよ、サジ」
「飲ませよう飲ませようとしていたくせに、飲んだら飲んだでそんなこというんじゃから」
優はげほとむせた。
「いや、だって日本酒のアルコール度数知ってる?」
「知らない」
「ビールの三、四倍あるよ」
「え……」
優の顔は、アルコールで赤くなるどころかむしろ青ざめていた。
やがて、血中にお酒が回りはじめた。
暴れるなど性格が変わることはまったくなかったが、気持ち悪さがこみ上げてきて、トイレに駆け込んで吐いた。吐き続けた。
三十にして大人の階段を上ったどころか、その階段が安物でガラガラと崩れてしまったような気分の優であった。
などと思考に遊べるようになったのは翌日の昼頃からであり、それまでずっと吐き気で苦しんでいたわけであるが。
もう絶対にお酒なんか飲まない、と心に誓う優であった。
五年前にも同じこと思ったけど、でも今度こそもう絶対の絶対に。
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福岡市にある最大四千人を収容するウィングリンクアリーナ福岡の観客席はぎっちりと人が詰まっており、まだ三月だというのにものすごい熱気でまるで蒸し風呂であった。
女子フットサルプロリーグ、通称FWリーグの2024年シーズンが本日開幕した。
第一節は恒例のセントラル開催であり、一つの会場で全クラブが試合を行うのだが、今回選ばれた会場がこのウィングリンクアリーナ福岡なのである。
先ほどデウルース日光とカステライナ喜多方の試合が終了し、これから本日の第二試合であるエステセジオ広島対ベルメッカ札幌の試合が行われるところだ。
いま日本の若者の間では、ちょっとしたフットサルブームが起きていた。
先日に行われた日本女子代表の海外遠征で、強豪であるブラジルやイングランドを破るなどの快進撃を果たし、それによりメディアが注目し、人気に火がついたのだ。
先々週に開幕した男子のFリーグに続き、女子のこの試合においても会場は満員。
テレビカメラや報道関係者の数が、例年よりも遥かに多かった。
もうすぐ第二試合の開始時刻である。
ピッチ上には十人の選手が立っている。
エステセジオ広島のピヴォである永野明美が、中央でボールを軽く踏み付けてキックオフの笛を待っている。
ピッチ反対側、ベルメッカ札幌側はいま円陣を組んだばかりであった。
「連覇と気負わず、一試合ずつ大切に、こうして試合の出来ることに感謝して戦っていこう。ベルメッカ、いくぞ!」
「おーっ!」
キャプテンマークを腕にまく佐治ケ江優の、ちょっと頼りなくもあるが仲間たちに安心をもたらす声、それを掻き消すような気合全開の叫び声を選手たちは張り上げた。
真っ赤なユニフォーム上下、ベルメッカ札幌の選手たちは円陣を解くとピッチ上に散らばった。
ベルメッカ札幌サポーターから選手コールが起こる。
まずはゴレイロの池田沙矢香。
続いて佐治ケ江優。
その優へのコールにかぶせるように、エステセジオ広島のサポーターから大ブーイングが起こった。
エステセジオ広島は佐治ケ江優の古巣であり、優はそこを退団してプロ契約としてベルメッカに移籍した。そのような過去があるため、この対戦カードは毎試合のように佐治ケ江優に対するブーイングが起こるのである。
移籍から、もう十年近くが経つというのに。
なお、優へのブーイングはまったく関係ないことかも知れないが、ベルメッカ札幌はアウェーでエステセジオ広島に勝利したことがただの一度もない。
エステセジオ広島が残留争いをしていた2020年シーズンですら、カップ戦も含めてベルメッカの一敗一分である。
ベルメッカが優勝した昨シーズンも、やはり一敗一分だ。
だから今年こそは、絶対にアウェーで勝ってやる。
優はそう心に誓っていた。
現役引退しようと思ったことは何度もあるが、現在はやる気満々であり自ら引退するつもりはない。当然そうなる日がいつかは来るのだろうが、この相手にしっかりと勝たないことには現役を辞めたくとも辞められない。
そう思うに至る明確な理由があるわけではないが、アウェー未勝利が続いたり、引退時期について悩んだりしているうちに、いつしかエステセジオ広島にアウェーで勝利することが頭の中で相当に重要なものになっていた。
自分のこの人生に一つの区切りをつけるためにも、なんらかの価値を持たせるためにも、古巣であるこの相手に対して負のジンクスを破ってから引退をしたい。
今節はセントラル開催であるためスタジアムの雰囲気という点ではどちらがホームなのかアウェーなのか分からなかったが、そんなことは勝敗にはなんの関係もないことだろう。
事実として、ここまでそのようなホームアウェーの勝敗記録が続いてきている以上は、エステセジオ広島だって自信を持って挑んでくるだろうから。
だからこそ、
「最初から点取りに行く! 3-1で」
優は仲間たちの顔を見ながら、みんなの中央に位置するように移動した。
Yの字の陣形になった。
ただ中央の優は、前の二人に近い位置を取っており、三人横並びのようにも見える。
「アラは互いをよく見てバランス取りながらどんどん上がって。シン、守備大変だろうけど舵取りは任せたから。もしも先制されても、五分まではそのまま続ける」
「分かった!」
「了解!」
アラの野方志保と宜良朱里は、大きな声で返事をしたものの、その表情には自信と不安が入り混じっているのが見てとれた。
前年度優勝チームであるという自信と、この相手にアウェーで一度も勝ててないという不安があるのだから当然のことであろうし、そのようなこと関係なくとも今日から新シーズンが開始するのだから普段以上に緊張するのもまた当然であろう。
なお先ほど優が味方に戦術指示をしていたが、今日は監督から、ある程度好きにやっていいといわれているのだ。
だから昨夜のミーティングも、監督が話したのはスカウティングで得た相手の情報を事実として述べたくらいだ。それを元に、優が戦術を打ち立てたのである。
監督は第一節だからそうしたというよりは、エステセジオ広島が相手だからそのようにしたのであろう。監督もこの対戦成績を気にしており、打ち破るために大きな賭けに出たのだ。
佐治ケ江優の思い、監督の思い、コーチ、他の選手たち、サポーターたち、それぞれの思いが合わさって、このピッチというキャンバスにどう表現されることになるのであろうか。
それが分かるのは、もうすぐだ。
第一審判がゆっくりと笛を口に運び、軽くくわえた。
笛の音が、長く鋭く鳴り響いた。
すべてを吹き飛ばすかのような観客の熱気が爆発する中、エステセジオ広島の永野明美がちょんとボールを蹴った。
す、とそこへ向かって優は走り出した。
佐治ケ江優の2024年シーズンが、いま始まった。
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