優衣

かつたけい

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第八章 それで、どうする?

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 二階の自室に父親のパソコンを持ち込んだは、インターネットでまつしまゆうについて調べていた。なんとなくの思い付きではあったが、果たして彼が世間にどのような評価をされている選手であるのか気になったというのがその理由だ。
 現役時代、というよりは生前の頃というべきか、とにかく以前にはネットなどという場での自分への評価などこれっぽっちも興味がなかったというのに。

 ユース上がりの若手DFしげうちひでなどは、「ネットの掲示板など、自信を失うことはあっても得ることは絶対にない」といい切って、意図的に情報遮断していたものであるが、自分は、ただ単に一般人からの評価への関心が皆無だった。

 サポーターとの信頼関係はそれなりに築けていると思っていたので、ネットどころか現実の世界においても、他人による評価などを気にする必要がなかったのだ。
 なんであれ、切られる時は切られる。それはとっくに覚悟していたことであるし。

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【成仏】ズンダマーレの松島裕司を語るスレPart14【おだぶつ】

801 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID 48JW6ZA
 だからさあ、とってかわるフォワードが出てこなかったのがいまになって大きく響いてるよなあ。

802 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID KWZ9IUU
 まだ続いてたの、このスレ。

803 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID 77DE3RY
 技術云々はおいといて、改めて精神的支柱の重要さが分かったよ。いま引っ張ってく奴がいなくてボロボロだもんな。

804 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID LUYEEE2
 イラネ。つーかもうこの世にイネか。

805 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID NB490FE
 確かに、戦術的には、もういらなかったよな。というか、いてはいけなかった選手。チームが世代交替に失敗しかけていたから切られずにずっといただけ。いたから世代こたいも進まなかった。これがいつまでもグルグル回っていた。それだけ。

806 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID GECUUFE
 同意

807 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID JJ8623Q
 805は試合をまともに観たことないのに妄想で語って気取ってるだけのバカ。まつゆうなんかに、そこまでの影響力はねえよ。

808 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID PL8GL4R
 自分をミスター宮城だと思い込んでいただけの選手。三十を前にして既に劣化の始まっていた選手。いなくてもまったく問題ない。むしろオフにチームを作り直せるいい機会。

809 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID JJ8623Q
 808、お前もかよ、だからまつゆうなんかにそこまでチームをどうこうする影響力はねえっつってんだろ。能力的には擁護するつもりまったくないけど、それはさておいてこのスレタイ不謹慎。

810 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID NB5GHJ9
 ピッチの中だけを見て裕司の貢献度がないといってる奴は素人。

811 2014年10月14日 サッカー大好きさん ID GECUUFE
 何に貢献してたの? 具体的に教えて? つかあいつ、足が速い以外になにか持ってた?

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 こんな、ボロクソ書かれるものなのか。
 ネットという匿名の世界だからだろうか。
 それとも、生身同士の語り合いも、このようなものなのだろうか。

 もっと発信日を遡って、まつしまゆうが生きていた頃の書き込みを見てみた。いなくなった選手に対して、後から不要論が出てくることは多いと考えたからだ。

 だがどうやら、以前から不要論者はそれなりにいたようだ。
 ただしそれは、このスレッドが松島裕司個人のものだからであり、他の選手個人やチーム専用のスレッドを見てみれば、ほとんどの選手が同様に叩かれている。

 そうだよな。
 いつも負けてばっかりで、サポーターのみんなには、ろくに勝利をプレゼント出来なかったもんな。
 それでも毎試合、スタジアムに足を運んで声を張り上げてくれている、というその一点だけで、感謝の言葉もない。

 みんな、とにかく勝ちたいんだ。
 おれたち選手や、クラブ関係者だけじゃなく、サポーターたちだって勝ちたいんだ。どうでもよければ愚痴も批判も出ない。

 現在所属の選手たちでしっかり勝つことが出来るのならばいいが、しかし、これだけ監督が代わっても一向に調子の上がることのない現状を考えると、やはり次は選手の質に批判が及ばざるを得ないのであろう。
 それは理解出来る。
 なによりもまずズンダマーレが勝つこと、それこそがサポーターの望んでいることなのだから。

 だから、インターネットの掲示板で松島裕司がどれだけ叩かれていても、素直に受け入れることは出来た。
 勝利のための、熱い気持ちを持っているからなんだ、と。

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177 2014年8月20日 サッカー大好きさん ID N8GB5J9
 小宮山、裕司のこと大嫌いなのかと思ってたけど、反対だったんだな。http://andoronet.net/あすりーと/komiyamacom/20140814235901/index.html


 なお閲覧を続けているうちに、このような書き込みを見つけた。
 貼り付けてあるURLは、やま本人のブログだろうか。

 最後のほうが投稿した日付だとすると、松島が死んでから一ヶ月半ほど後の書き込みのようだ。

 なお小宮山とは、愛知県おかざき市を本拠地とするオミャンパス岡崎に所属するJリーガーである。
 松島裕司とは小学生の頃からの知り合いであること、両チームのサポーターまたは選手個人のファンならば誰でも知っている話だ。

 優衣は、そのURLをクリックした。

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 コミです。

 ごめんなさい。長いことブログの更新をさぼってしまってました。

 ようやく、自分の気持ちに対しての整理が出来ました。ようやく、少し落ち着いてきました。

 なにに対してのことか、だいたい皆さんには想像つくかも知れませんね。

 そう。あいつのことです。

 あいつの名前を呼んでやるのは絶対に嫌なんで、この書き込みだけ見ている人には誰のことなのか分からないかも知れませんね。

 うざったくて、無駄に熱くて、イライラさせられる奴なんで、あいつのことはいつも、野郎、あいつ、あのバカ、変態野郎、アンポンタン。

 いや、ほんとに、凄いバカなんですよ。あいつは。

 (今回は、考えなく書くつもりなんで文章がとりとめなくなると思いますけど、ご容赦下さいね)

 小学校の頃、ポケットに両手入れて歩いているリーゼントのいかにも田舎のツッパリって感じの不良がいたんだけど、それを見たあいつ、「ポケットに両手入れてちゃまともに走れないだろうから、からかってやろうぜ」って、本当に実行してんですよ。うわあ、って悲鳴あげたよおれ。

 当然、そのツッパリはポケットから手を出して全力で走って追い掛けてきて、捕まってボコボコ。関係のない、おれまで一緒にですよ。

 小学生じゃなかったら殺されてたよ。

 まったくあいつは、なんでポケットに手を入れたままで追いかけて来ると思うかなあ。

 こんなバカな話が、まだまだ腐るほどあるんでけど、きりがないので。

 まあ、あいつとはね、思えば色々と

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 小宮山のブログを閉じた。

 両手で頬杖をつくしのはらのその顔には、なんとも幸せそうな微笑が浮かんでいた。
 まつしまゆうとしての、遥かな過去に思いを馳せていた。

 しばらくして、また、掲示板に戻った。
 先ほど読んでいたところから、さらに少しづつ遡って行くと、なんだか粛々とした様子になっていた。
 粛々、といっても、仏壇などのアスキーアートがバリバリ張られている、なんとも異様な雰囲気であったが。

 ちょうど松島裕司が死んだ頃か。

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787 2014年7月2日 サッカー大好きさん ID AC9AA9N
 今日オレ裕司の告別式いってきた

788 2014年7月2日 サッカー大好きさん ID RYBVW3B
 おれも行ってきた。両親がいて、挨拶してたけど、そういや姉ちゃんらしいのはいなかったな。

789 2014年7月2日 サッカー大好きさん ID Z7XYNOG
 >788
 ニワカかお前は? あれは誰かが意味もなく広めた嘘だよ。松島に兄弟なんかいねえよ。一人っ子。

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 え……

 の顔は凍り付き、思考が停止していた。
 一秒、一分、果たしてどれだけの時が流れたのかだろうか。
 自分の唾を飲む音に、我に返っていた。

 しかしその後も正常な思考が出来ずに、しばらく呆然とうつろな表情で画面を見つめていた。

 ゆっくりと、胸に手を当てた。
 いつまで当てていても、頼りなく不快な心臓の鼓動は正常に戻る様子をみせなかった。

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 「テレビの前の君たちっ、来週もラブリーショウターイム! ほあんほあんの無敵魔法で一緒に変身しよっ!」

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 二〇一四年 十月十九日 日曜日
 日本女子サッカーリーグ 第二十一節
 ACおお 対 石巻いしのまきベイスパロウ
 会場 県営大津第二陸上競技場(滋賀県大津市)

 天気は晴天。
 残留を勝ち取るために敵地へと乗り込んできた石巻ベイスパロウの選手たちは、相手よりも一足先にピッチへと出て気合いを入れてウォーミングアップをおこなっていた。

 そんな中、もとあかねは少し動きを休め、AC大津のゴール裏へと視線を向けた。

「ついに、ゼロか……」

 寂しさのうっすら乗った声を、風がさらっていった。

 通常、試合時のゴール裏にはレプリカユニフォームや、チームカラーのシャツを着て応援するサポーターがいるものであるが、今日の大津ゴール裏には誰一人として存在していなかったのだ。

 メインスタンドに目を向ければ、チームカラーと同じ赤い服を着ている者はちらほらと目にはつくものの、その雰囲気や座っている席のバラバラ具合から考えて、今日たまたまその色を着てきたというだけであろう。

 ホームチームを応援してはいるのかも知れないが、俗にいうサッカーのサポーターとは全く異質の存在だ。
 まさか一人もいないはずがないし、自分たちが早く来すぎただけかな、最初はそう思っていた茜であったが、しかしもう、あと十五分で試合開始である。

 メインスタンド、バックスタンド、どこにもサポーターらしい者の姿は見えないし、太鼓の音も聞こえない。これはもう、間違いないということなのだろう。

 AC大津の前身は、まいづるギャラクティカレディースという京都に存在していたクラブである。
 その頃から、不人気クラブとして有名であった。
 数年前に経営難からクラブが別会社に移管されて、本拠地が京都府から滋賀県に移ったのだが、移転先にて地元民の関心を引き込むことに失敗して、以前よりも遥かにサポーターの数が減ることになってしまった。

 と、そこまでは茜も知ってはいた。
 いずれはクラブの努力やら、なでしこフィーバーの影響などもあって、徐々に認知度も上がって、ある程度のところまで人気回復したところで落ち着くのであろう、などと思っていたら、それがまさかサポーター数ゼロとは。

 そういえば以前の対戦時にも、サポーターが一人もいなかった気がする。その時には、石巻でのゲームであったため、あまり気にしてはいなかったのだが。

 前節に一番乗りでチャレンジリーグへの降格が決定してしまったAC大津であるが、そのことだけがこのサポーター皆無の理由ではないだろう。
 単純に、絶望的なまでに人気がないのだ。

 石巻ベイスパロウも同じく認知度の低い不人気クラブであるが、それでもこの会場のアウェイゴール裏には、石巻からはるばると来てくれたであろうオレンジ色のユニフォームが十人はいるというのに。

 残留争いをしているベイスパロウとしては、相手のモチベーション低下もやむなしのこのような状態は、むしろ歓迎すべきなのかも知れない。
 しかし、日本女子サッカーの発展を願う一人としては、拭い切れない寂しさが生じてしまうのはどうしようもなかった。

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 あかねだけではない。
 もまた、やるせない思いを胸に抱いている一人であった。

 これまで「サポーターの数など関係ない、一人でも応援してくれる人がいればいい」などと思っていたけど、まさか誰一人としていないとは……

 ズンダは弱いけれども、なんだかんだとサポーターは大勢いたからな。
 幸せだったんだな。
 それって。
 ……いや……違うぞ。それは。

 頭を振り、自分の考えを、即座に否定していた。

 サポーターが沢山いることを幸せに思うのは間違いじゃない。むしろ正しい。
 でも別にゼロだからいけないってわけじゃない。家族やら、応援してくれる人は絶対にいるんだから。

 だいたい、サッカーをやるってまず自分のためだろ。それがいつか、誰かの心を、誰かの人生を、ちょっとだけ幸せにすることに繋がる、そしてそういう思いが、自分への誇り、満足に繋がる。
 だから、やるんだ。

 そうでも思わなければ、女子サッカーや、地域リーグ、サッカーに限らず客のいないアマチュア競技を人生の全てをかけてやっている奴なんて虚しいだけじゃないか。

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 それから二時間が経過した。

 果たして誰が、この事態を予想しえたであろうか。
 大勝したというのに、絶望的な気持ちを味わうことになるなどとは。

 AC大津 4-5 石巻ベイスパロウ

 ベイスパロウは前半開始早々に守備の乱れを突かれて失点してしまったが、しかしすぐにCKからゴールを決めて追い付いた。その後は互いに点を取り合い、ベイスパロウには滅多にない大量得点での勝利を飾った。

 しかし内容に目を向ければ酷いものであった。
 特に後半などはゲームを完全に支配されて、なにも出来なかった。

 ゲームが進む中、まるで修正が出来ず、走らされて、いつしか足も止まり、跳ね返すだけで精一杯になり、決定機を何度も何度も作られた。

 四失点で済んだのが奇跡といっても過言でなかった。

 中でも運が良かったのが後半ロスタイムの、なかけいのスライディングタックルだ。主審は流してくれたが、PK判定を取られていたとしてもおかしくないプレーだった。それを決められていたら、勝ち点三が取れずに降格が決定してしまっていたところだ。

 今期初の逆転勝利、そして四年振りの五得点、そして、残留のライバルであるかしわレニウスとスズマーレひらつかが揃って負けたこと、等々、普通に考えればベイスパロウが逆転残留というドラマを作るための最高の舞台が整ったと、選手たちの闘志も燃え上がったかも知れない。

 しかし、前節に一番乗りで降格の決まったチームを相手に、今日のような出来では……

 全てが悪かったわけではない。
 ひさの個人技によるチャンスは何度も作り出したし、それで実際に得点も重ねることも出来た。
 だが、チーム力としては大津に遥か及ばなかった。

 今日に限らずここ数試合だ。ここ数試合、ベイスパロウのチーム力は目に見えて低下していた。

 先制を焦るあまり、
 リードを守ることに固執するあまり、
 かえってボールを回せずに、相手に支配を許してしまうのである。

 ただ、焦りが出るのは、当然のことかも知れない。
 降格、初の二部落ち、という現実が、すぐそこまで近付いているのだから。

 残留争いライバルの、次節の対戦相手を考えれば、ベイスパロウが次節に勝ちさえすれば残留が決まる可能性はおおいにあるだろう。しかし、最下位を相手に今日のような試合をしてしまったようなチームが、どうやって次の相手である神戸SCに勝てというのか。
 今節に勝利して、リーグ優勝を決めた強豪チームに。

 出場選手の半数以上が日本代表と元日本代表という、実質なでしこジャパンそのものといっても過言でない、そんなチームに。

 次の試合、運命の最終節まで、あと二週間。

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 ひんやり肌寒い秋の夜。
 空を見上げれば群青の天幕に、無数の星々が瞬いている。

 その遥か遥か下、石巻いしのまきランドの外れでは、赤、青、緑、様々な色の小さな炎が、しゅーしゅーと、パチパチと、音を立てて自己の存在を主張し合っては、はかなく消えていく。

 石巻ベイスパロウの選手たちが、土曜練習後にみんなで残って花火大会をやっているのである。

 残留へ向けての決起集会ということで、えのきコーチともとあかねが提案したのだ。

 花火大会といっても、子供用の花火セットや線香花火など、実にささやかなものであるが、前座なので別にそれで構わない。もうしばらくすると、バーベキューが始まる。そちらが本日のメインイベントなのだから。

 現在、キャンプ大好きな野本茜やつじうちあきらが、せっせとそのメインイベントの準備をしているところだ。

かしわレニウスもスズマーレひらつかもぉ、絶対にいいい……負けるッ! だから次におれたちが神戸に勝てば残留だ。勝利、すなわち残留。うん、実に分かりやすい。絶対に勝つぞ。気持ちだぞ、気持ち!」

 バーベキューセットを組み立てている茜の脇を、自分勝手な熱弁を繰り広げながらささもと監督が通り抜けた。なんだかふらりふらりとした足取りで。

 笹本監督、普段は弱気な発言ばかりしているくせに、今日はやたらと強気であった。

「くまひげさん、そういうのはね、バーベキュー始まって飲み始めてから熱く語ってくださいよ。それよりただぼーっとしてるだけなら準備手伝ってください! ……ん? えーーっ、なんでもうビール飲んじゃってんの? やだあ、なにこの人?」

 茜は別に段取りを重視するタイプでもないが、しかしみんながわいわい花火をやって楽しんでいるところを我慢して、秋菜やチカたちと裏方仕事でバーベキューのセットを組み立てていたのであり、さすがに不満顔であった。

「くそ、後でくまひげの分も肉食ってやる」

 などと小声でいっている。

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 さて、花火組であるが、しのはらもとハルとの線香花火持続勝負にもちょっと飽きて、一休みすることにした(ならば手伝えとあかねの声が聞こえてきそうであるが)。

 てらなえとぬまたえしずが、秋の夜空星空を見上げるなどという顔に似合わず風流な真似をしているのを発見し、それに加わった。

「おー、まじまじ星を見るのなんて小学校の自由研究以来だわ」

 優衣は、どっかりと柵に背中を預けた。銭湯につかる酔っ払いオヤジのようで、こちらこそ風流のかけらもなかった。

 ぐぅーーーーーーっ、と突然、牛が唸るような音がしんとした夜気な中に響いた。

「ちょっと誰よお! お腹を鳴らしてんのは。優衣?」

 なえが顔をしかめた。

「ち、ちがう! これはおならだ!」

 慌て顔で、優衣は弁明をした。バーベキューに合わせて昼食を抑えたことを、いやしん坊と思われたくなくて。

「やっぱり優衣か。というか、おならだと思われたほうが恥ずかしいでしょ、普通。もう、せっかくのムードが」
「ムードって顔じゃねえだろ」
「なんだとコラ」
「いてて、ほっぺ引っ張るのやめて!」

 などと幼稚な争いをしている優衣たちのそばへ、ささもと監督がもったりもったりした足取りで近付いてきた。

「おい、お前ら! 灯油が届いていてると思うから誰か二人くらいで持ってきてくれ! だってよ。アッキーが」

 そのままもったりもったりと通り過ぎていった。

「面倒くせえなあ」

 優衣は舌打ちすると、一同をぐるりと睨みつけ、負けねえなどと呟きながら自分の手の甲のシワでジャンケン占いをすると、

「よっしゃ、決めますか! さーいしょはグー!」

 握り拳を高く上げ、振った。

「お前ら高校生の若輩どもがやるに決まってんでしょ。なにが最初はグーじゃ」

 寺田なえは、両手で優衣のこめかみグリグリ。

「いててて! くそ、なんでお前は怒られないんだよ、サル!」

 優衣は小田静子の頬っぺたを両手で掴むと、相当な力を入れて引っ張った。

「いへへへへ、だってあたひ、なんにもいっへないじゃないでふか! いへへ、ほんといたひ! ほんほいたひ!」
「うるせえな、握りっ屁かがすぞてめえ」

 などと唯一の後輩へ威張ってみたところで自分も若輩という立場が変わるわけでもなく。優衣は諦めて静子と二人でクラブハウスへの道を歩き出した。

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 いつものことではあるが、照明が全くないところを遠くに見える灯りを頼りに歩くことになるため、夜は少し怖い。
 普段はみんなで騒ぎながら通るので、それほどでもないのだが。

「ロウソクの一本でもいいから、途中に灯りつけといて欲しいですよねえ、先輩。でもロウソクじゃあ逆に怖いかあ。って……あれ、先輩?」

 しずは来た道を振り返った。
 しかしそこには誰の姿もなかった。

 いまのいままで、夜目にもはっきりと見えるくらいのすぐ後ろを優衣先輩が歩いていたはずなのに。

 真っ暗な中で、木の葉が風に揺れるかさかさという音だけが聞こえている。

「優衣姉ぇ、冗談はやめて下さいよお」

 暗闇の中をその場でくるんと回って、正面へと視線を戻したその瞬間、

「わっ!」

 大声とともに、静子の目の前に突然何者かが現れた。

「うわああああ!」

 静子はぴょんと後ろに吹っ飛んで、地面に思い切りお尻を打ち付けた。

「天敵から逃げるエビみたいだな、お前」

 現れたのは優衣であった。先回りをして、隠れていたのだ。

「ああもう。してやられた」

 静子は苦笑すると、腰を上げ、ジャージのお尻についた土を払った。
 また二人は、闇の中を歩き出した。

「あ、そうだサル」
「なんですか?」

 今度はなにを仕掛けてくるつもりだ? と思ったか、ちょっと警戒した表情になった。

「こないださあ、おれが以前からズンダマーレを好きだったみたいなこと、いってたよな」
「はい」

 静子はちょっぴり警戒心を解いた。
 でもなんでそんなこと聞くんだろう、といった疑問符が代わりに浮かんでいた。

「なんで好きとか、誰が好きとかさ、そういうようなこと、なんかいってた?」
「いえ、なにも聞いたことないです。だいたい優衣姉、自分からぺらぺらと喋ることって全然なかったじゃないですか。たまたまあたしたちが聞けば、それには答えてくれましたけど」
「そうか……」
「ああ、ひょっとして、記憶が戻るようにですか?」
「うん。まあ、そんなところ」

 正確には違うのだが。
 知りたいのは篠原優衣という他人の記憶なのだから。

 先日、ズンダマーレの試合観戦に行った時に、スタジアムで静子とそのような話になったことは前述の通りである。
 自分の存在と、そのことが関係あるように思えてならなかった。つまりは、自分の魂が何故この肉体に入り込んだのかという、その理由である。
 それでいま、もう一歩踏み込んで聞いてみたというわけだが、結局のところさしたる情報は得られなかった。

 しかし、仮になんらかの有益な情報を聞き出せていたとしても、いまの優衣にはまともに判断することなど出来なかったであろう。
 何故ならば、

 先ほどから、なんだかチクチク刺さるような頭への不快感があったのだが、いつの間にか無視の出来ないレベルにまで大きくなってきていたからである。

「なんだよさっきから、痛えな」

 優衣はイラついた表情で、おでこを押さえた。

「ん、優衣姉、どうしたんですか?」

 静子はちらりと優衣の顔を見た。

「いや、どうもこうもさっきからさあ……うわ! いててて! くそ! 畜生! また来やがった!」

 優衣は、悲鳴とも怒鳴りともつかない大声を上げていた。
 がっくりと片膝をついた。
 ぎりぎり突き刺さる激痛に顔を歪ませて、両手で頭を抱えた。

「え、え、優衣姉、また騙そうってんじゃないですか? え、ちょっと、ほんと? ほんとの話? 優衣姉! 優衣姉ってば!」

 静子は半信半疑ながらちょっと慌てて上ずった声を出した。

「人を、誰か人、呼んできます!」

 静子は踵を返した。

「呼ばなくていい! すぐ直るから、誰にもいうな!」

 優衣は激痛の中で怒鳴り声を発すると、頭を強く抱えた。

 視神経の発作? こんな、短い期間に……いや、違う。頭に突き刺さるような激痛は似ているが、この感じ、以前に篠原優衣の記憶が脳にどっと流れ込んできた時と同じだ。

 でも今度は、なにが?
 どんな記憶が?
 なにを、自分に……優衣、は。

 優衣は痛みを必死で堪えながら、自らの内部へと意識を集中させた。

 「……生まれてこなければ……あんたなんて生まれてこなければ!」
 どこからか、そんな声が聞こえてきた。

 誰だよ、この女の声は?
 ……ああ、篠原優衣の、母親の声だ。

 聞き覚えなどあるはずはなかったが、自然にそう認識していた。

 いて、くそ!
 ぱん、という音とともに、頬を平手で打たれたような痛みを感じた。
 実際、殴られたのだ。
 これは一体いつの記憶なのであろうか。ぼやけた視界の中で、自分が、優衣が、殴られていた。

 優衣は、うつつには静子の狼狽し心配する声を聞きながらも頭になにかをねじ込まれるような激痛に耐え、脳内では全く別の種類にあたる肉体的精神的な苦痛と戦っていた。

 殴られていた。
 何度も、何度も、右から、左から。

 間違いない。
 母親だ。

 優衣の母親が、優衣の頭や顔を殴り付けているのだ。
 平手や、拳で。

 これは何歳の頃なのだろうか。優衣からの視線であり、なおかつ相当にぼやけているため、様子が全く分からない。

 優衣は一見抵抗することもなく、ただ泣き声を上げ、ただ殴られ続けている。

  やめて。
  叩かないで!

 しかし心の中で必死に叫んでいた。悲鳴を上げていた。

  どうして?

 優衣の、疑問の声。
 母親を信じたいがための、疑問の声。
 しかしそうした娘の思いは、全く親には伝わっていないようであった。

 「泣くな! もっと殴られたいの!」
 お前がこれからもっともっと殴られるのは、お前が黙らなかったからだ。そう全ての責任を優衣へ転嫁すると、母親は娘へと振り下ろす手により力を込めた。

 優衣の泣き声が大きくなった。
 母親は、さらに力を込め、拳を振り下ろした。平手で頬を打ち付けた。

 心で必死の悲鳴や哀願の声を上げながらも、実際には泣き声以外の一切を発していないところから、おそらくまだろくに言葉も喋れない年齢なのであろう。

 ああ、
 そういうことだったんだ。

 と、打たれながらも、冷静に考えている自分がいた。

 こいつの両親が別れたこと、
 母と会えないことを、自身の勇気の無さと責めていたこと。

 以前に得た記憶により、育児放棄をされていたことは知っていたが、それだけではなかったんだ。

 放棄どころじゃない。
 完全な、虐待を受けていたんだ。

 いつ失明してもおかしくないという視神経の異常も、この虐待の後遺症なのかも知れない。
 もしかしたら、腎臓を片方失うことになったのも、こうした虐待が原因であるのかも知れない。

 視力喪失のリスクを承知でサッカーを続ける優衣に対して、父親の胸中としては実に複雑なものがあったことだろう。
 サッカーなど一刻も早くやめて欲しい。しかし、母親、自分たちの至らなさから娘を酷い目に遭わせてしまったのであるから、なんでも望む通りにさせてあげたい。
 おそらく、そんな気持ちであったのではないか。

 でもさ、優衣……お前は、どうしたいんだ?
 お前の気持ちは? お前の、本当の気持ちだよ。
 サッカーは続けたいんだよな?
 ……でもそれって、なんのため?

 単に好きだから、と思っていたけど。いや、もちろんそれもあるだろうけど。
 勇気を持ちたい……からか?
 でも、それで、どうする?
 勇気を得て、
 それで、
 母親のことを……

     16
 決起集会から帰宅したは、まずまっ先にお風呂に入った。
 皮膚が破れ肉がこそげ落ちてしまうのではないかというくらいに、いつまでもいつまでもタオルで身体を洗い続けた。
 痛みも忘れて、全身という全身を、徹底的、念入りに。
 髪の毛も、何度も洗った。熱いシャワーで何度も流した。

 幼少期の篠原優衣が感じた母親への恐怖、絶望、物理的な痛みなど、そうしたものの記憶が粘度をもってべったりと身体にまとわりついている。それを洗い流したかったのだ。

 しかしそれは、すっかり全身、精神に染み付いてしまっており、完全に、どころかまるで拭い取ることが出来なかった。
 ただ皮膚が痛くなっただけだった。

 諦めて、湯舟に張っておいた熱い湯に入った。
 二分、三分、のぼせて気持ち悪くなってきたが、反対に気持ちは落ち着いてきた。

 浴室を出て、下着と寝巻きを身につけた優衣は、バスタオルで頭を拭きながら階段を上がり二階の自室へ。

「いよいよだ……」

 一人、呟いていた。
 その表情は飄々としながらも、どことなく暗い陰が落ちていた。

 学習机本棚の端にある日記帳を引き出し、手に取った。
 ハードカバーの、錠前付き日記帳。篠原優衣の記憶を知りたかったくせに、他人の日記を勝手に読むわけにはいかない、と、ずっと読むことなく置いていたものである。

 机の中から鍵を出して錠を解除すると、なんの躊躇もなく日記帳を開いていた。

 どのようなことが書かれているのかなど、もう分かっていたから。

 先ほど頭痛に襲われて、また篠原優衣の記憶が自分の中に、どっと入り込んできた。
 それは断片的な記憶に過ぎなかったが、しかしその時、分かったのだ。
 自分が何であるのか。
 何故、自分が、この身体に中に入り込んだのか。

 真剣な表情で、次々と日記帳のページをめくっていく。
 果たして、そこには予想していた通りのことが書かれていた。

 一通りページをめくり終え、日記帳を閉じた。
 机の上に置いた。

 床に座り込み、長いため息をついた。
 それから、どのくらいの間、そうしていただろうか。
 やがて、ゆっくりと顔を上げた。
 その顔は、つい先ほどまでと比べ、なにかが抜け落ちたような、どこかすっきりとしているものがあった。

「そうだよな」

 ぼそ、と小さく口を開いた。
 最初に考えていたことと、ちょっと事実は違っていたけれど、でも、いずれはこのようになることなど、とっくに分かっていたことじゃないか。

 そうだ。
 完全燃焼してやるって、自分に誓ったじゃねえか。

 優衣は静かな笑みを浮かべると、立ち上がった。
 日記帳に錠をかけると本棚にしまった。

 ゆっくりと、身体を一周させ、自分の部屋を見回した。
 この眺め、生活を忘れないように、しっかりと記憶にしまい込むと、

「勉強、しようかな」

 椅子に腰を下ろした。
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