神様のいたフットサル部

かつたけい

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第四章 良子、邪魔!

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「ドン、一歩目が遅いよ! 迷うな!」

 主将のはなさきつぼみが、ピッチ脇で腕組みをしながらミニゲームを行う部員たちを指導している。

 彼女はしんどうりよう並みに背が低く、隣に立つ副主将が反対に大きいものだから、こうして並ぶとまるで階段である。

 主将の印象について無記名アンケートを行なったならば、おそらく「冷たい」「クール」「冷血そう」「非情」などといった回答が上位にくるであろうか。主将のくせに口数が少なく最低限度のことしか喋らないということや、地獄の特訓を部員たちに科すくせに自分は平然とそれをただ眺めているというところが彼女がそういった印象を持たれる由縁である。
 女海賊と陰口叩く者もいるが、まさにいいえて妙といえる表現であろう。

「でも、その後の切り返しに対応出来たのはよかった。上達したな」

 無口な女海賊は、珍しくでもしかしなど言葉を繋げた。

「はい! ありがとうございます!」

 鈍台洋子は、主将に褒められてにんまり笑顔を作った。
 いつも笑っているように見えるので、なにを考えているのか本心が読み取りにくそうな彼女であるが、性格もその柔和な顔の通り温厚なので、心から喜んでいるのだろう。

 現在は六月、本年度の佐原南女子フットサル部がスタートして二ヶ月半が経過していた。

 入部当時は相当どころではなく肥満していた鈍台洋子であるが、真面目に部活練習と食事節制を続けてきた結果、見違えるほどスリムになってきていた。

 まだまだどちらか問うまでもない肥満体型ではあるが、元がかなりのものであったため、身体だけ見るとすっかり別人であった。細い目や、美味しい物を食べているかのようなにこやかな表情は、いささかの変化もなかったが。

「ドンちゃん、確かにえらい良くなってたで。抜いた思たら足が伸びてきてるから、びっくりしたわほんまに。実は天才なんちゃう?」

 高木双葉、洋子をベタ褒めだ。

 双葉の内心のこと、実は恥ずかしい気持ちを誤魔化しているだけなのである。格下と思って安心していた鈍台洋子から、あっさりとボールを奪われてしまったという恥ずかしさを。
 どうであれ、洋子の笑顔に変化はなかっただろうが。

「ありがとう双葉ちゃん。あたしねえ、最近なんだか足を動かすのが軽くなった気がするんだあ」

 洋子は、とりゃあと叫んで両腕を振り上げて思い切りジャンプした。
 どすん、と着地の音はまだまだまだまだ重そうであるが、本人の表情は実に軽やかそうであった。

「そらあんな胴体が上に乗ってたんやから、もともと足の筋肉は凄いってことやろ。常にウエイトトレーニングで鍛えとったってことなんやから」

 なんだか失礼にも捉えられる双葉の台詞であるが、洋子は特に気にとめたふうもなく、

「そうだねえ」

 というと、ムフフと漫画のように笑った。

「ちょっと、ごめんなっ!」

 二人の間を、風のように駆け抜けていく物体があった。
 二年生のである。
 ついいままで壁際でリフティングしていたはずだが、失敗して大きく蹴り過ぎたのだろうか。

 とにかく奈義真理江は全力疾走して床に落下するぎりぎりでボールに追い付くと、右足の甲で救い上げた。
 右足の甲、左足の甲、右足の甲、と器用にドリブルリフティングでやってきた方へと戻って行った。

「ナギマリ先輩、惚れ惚れするくらいリフティングが上手やなあ」
「そうだね」

 リフティングどころか単純なパスやトラップ技術もまだまだ未熟な双葉と洋子、ナギマリ先輩の技術の高さにはただただ舌をまくしかなかった。

 奈義真理江、言動も髪型もどこか昭和の不良少女を思わせる二年生である。私生活が不良かどうかは誰も知らないことであるが、間違いなくいえることは誰よりもフットサルへの態度に関しては真面目ということ。
 生まれ育ちは埼玉県北部にあるよりというところなのだが、名門校に入りたいという一心で親元を離れ、わざわざこの佐原南高校のある千葉県へと引っ越してきたというくらいなのだから。

 ボールを回収した奈義真理江は現在、体育館の壁際で、同じく二年生であると浮き球パスをヘディングでおさめる練習をしていた。

 フットサルは床にボールを転がすのが基本といえる競技であるが、佐原南女子フットサル部ではこのように伝統的にハイボール練習を取り入れている。フットサルからサッカーに転向する者も多いからというのがその理由だ。

 練習の相方である野々部菜々子は、奈義真理江からの特段なんでもないボールを思い切り明後日の方向へ飛ばしてしまっていた。

 お互い近い距離で向き合ってのパス交換だというのに、どれだけの力をその足に込めたのか、野々部菜々子の蹴ったボールはぽーんと天井近くにまで上がり、ぽーっと見ていた高木双葉たちの頭上を通り越えた。

「っと、またごめん!」

 高木双葉と鈍台洋子の間を再び奈義真理江が駆け抜けた、ボールをトラップした。くるり反転しながら右のももで跳ね上げると、壁際に立つ野々部菜々子へと蹴り返した。

「なんや、さっきのもナギマリ先輩のミスやなかったんやな。教室でも暇さえあればお手玉を使って練習しとるっていうやん、それが今日はやけに調子悪いねんなって思うたら」
「単にナベ先輩が今日も絶不調ってだけだったんだね。あたしなんかがいうのもなんだけど」

 ナベとは、野々部菜々子のコートネームであり普段からのあだ名である。
 野々部菜々子 ―― ののベナなこ ―― ベナ ―― ナベ という連想だ。

「そうやな。相変わらず暗いしなあ。でもなあ、ナベ先輩って一年の時はバリバリ点取って凄かったんやけど、須黒先輩にレギュラーの座を奪われて以来どんより落ち込んでいるらしいって聞いたで。それ以前はめっちゃ明るかったんやて」
「双葉ちゃん知らないんだあ。本当はねえ、彼氏に振られたことが原因らしいよ。大学生の彼氏に、二股かけられてたんだって」
「二股あ? はあ、そりゃあ暗くもなるなあって、うわ!」

 剛速球が二人の顔の間をかすめるように飛んで、ばちいんと勢いよく壁を叩いた。
 ボールの飛んできた先を見ると、野々部菜々子がこちらをホラー映画顔負けの凄まじい形相で睨んでいる。

「精度めっちゃ高いやん!」

 双葉、冷や汗たらり。

「絶不調ってのは単なるアピールなんやできっと。振られて落ち込んでるあたしを慰めて、みたいな。ったく、さっぱりしとらん先輩やなあ。良子の爪の垢でも煎じて飲ませたいわ」

 と、双葉は新堂良子へ視線を向けた。
 良子は芦野留美とペアになってパス練習をしているところだ。

 いや、果たしてこれは練習といっていいものか。
 トラップミス、キックミス、などミスと呼べればまだしも、基礎技術がまるでおぼつかないのだから。
 まるで初めてボールに触れた子供のように。

「本当に、名門のおか中学校で三年間フットサルをやっていたんやろか」

 これではまるで小学生どころか幼稚園、いやそれ以下ではないか。
 本当にナベ先輩に爪の垢を飲ませていいものかどうか不安になってきた。

「でも」

 絶えず笑顔で、まあ明るいこと屈託のないこと。
 気持ちいいええ。
 見ているうちまで、なんだか笑顔になってくるわ。

「よし、やっぱり飲ませよっと」

 などと、想像とはいえ他人に垢を飲ませて楽しむ双葉なのであった。

     2
 青い稲穂のにおいをたっぷりと含んだ、そよそよ揺らぐ気持ちのいい風が、窓から入り込んで部屋の空気を優しく掻き回している。

 若干の湿り気を帯びた風ではあるが、現在が梅雨の真っ只中であることを思えば特に気になるものではなかった。

 ここは香取市にある新堂良子の自宅、良子の部屋である。

 窓から見えるのは四日振りの晴れ間と青い稲穂の田園地帯だ。
 もう夕方の五時半であるが、まだまだ太陽は高く、空は青い。

 この六畳半の中央で座卓を囲んでいるのは良子と、高木双葉、芦野留美の三人である。

 集まった名目は「勉強会その2」。
 以前にフットサル秘密特訓の計画が出た際、勉強の方がおろそかにならないようにという留美の提案で勉強会を開いたことがあった。明日は第二回目の秘密特訓の日なのだが、前回は雑談メインになってあまり勉強が進まなかったので留美の発案により成層圏同盟再びここに集結したというわけだ。

 とりあえずおとなしく机に向かっていた三人であるが、開始から一時間ほども経過した頃、

「そういや昨日さあ、ウナミちゃんがさああ、吉沢君に告白しようかなとかいってんだよねええ」

 良子の持続力集中力はいち早く限界に達したようで、鉛筆を鼻の下に挟み込みながら勉強となんら関係のないことを話しはじめた。

「吉沢君って?」

 双葉が食いついて、座卓に肘をかけたまま身を乗り出した。

「ほら、ウナミちゃんの斜め後ろの席のお」
「ああ、髪型左右非対称の!」
「そうそう!」
「良子! 双葉! 恋バナ禁止! いまは勉強!」

 留美はまなじり釣り上げ雷ピシャリ。

「はいっ! どうもすみません!」

 落雷を浴びた二人はびくり肩を振るわせると、声を揃え謝った。

「分かればよろしい」

 留美は表情を和らげ、参考書に視線を落とした。

 ふう、
 と留美は心の中でため息をついた。
 さらに心の中でぼやきの言葉を発する。

 アイドル話で脱線するのならまだしも、恋バナはほんとやめて欲しいよ。
 いまみたいな話から始まって、またこの前みたいに双葉に恋愛自慢なんかされたら、間違いなく友情に亀裂が入るからなあ。

 そんなことを思いながら、留美はちらり上目遣いで双葉の顔を見た。

「なんや?」
「な、なんでもないよっ。一瞬向けただけの視線にすぐ気づくってことは、集中してないからっ。ちょっと試してみただけ。ほらあ、そんな頬杖なんかついてないでっ、集中っ!」
「だってこの問題、さっぱり分かんなくて。留美は勉強が出来るからええよなあ」
「心外だな、それ。元の出来が悪いから必死に頑張っているだけだよ」
「えー、そうかなあ」
「そうだよ」

 留美は視線を机の上の教科書に戻した。
 ペンを握り直した。

「ねえ、留美ちゃんはあ、ホリカレの中で誰が好きい?」

 まだ鼻と口で鉛筆を挟みながら、良子がまた勉強と関係のないことを尋ねた。

 ホーリーエンジェルカレイドスター、通称ホリカレ、いまをときめくジャミーズ事務所の男性アイドルグループである。

「わたしはあ、里元君かなあ」
「えー、サッチン? 意外だあ」
「そう? ……というか、いまは勉強」

 といいかけたところで、

「うちは、倉吉君」

 双葉が参戦。

「ずるい、あたしとおんなじだあ」

 良子は、幼児が兄弟におやつを奪われた時のような表情を浮かべた。

「あの……勉強……」
「なんでずるいんや。意味分からん。……あと、サッチンも」
「それもっとずるいぞ双葉。里元君はわたしのなんだから!」

 結局、留美も完全参戦。

 結局、集中力を完全に切らした三人の勉強はこれ以上進まず。

 留美もすっかり開き直って、みんなで男性アイドルを熱く語り合っているうちに、すっかり夜も遅くなってしまったのであった。

     3
「あれえ」

 ぐろふえはちょっとびっくりしたような、楽しそうな、そんな表情でコートの一角に視線を向けた。

 彼女は佐原南高校女子フットサル部二年生の仲間であるじようしのぶすぎもとよりとくまるのぶとともに、茨城県の潮来市フットサル場へと遊びに来ていたのであるが、なんとそこでよく知った顔を発見したのである。

「うわ、やば」

 知った顔三人のうち一人もこちらに気がついたらしく、他の二人の手を引っ張って屈み腰でベンチの透明フード裏へとささっと隠れてしまった。

「ははーん」

 笛美は腕を組んでにやり笑みを浮かべると、フェンス中央にある通用口から外へと出て、田んぼとの間の狭い道を雑草かさこそ掻き分けて、の隠れているベンチの方へと進んでいった。

 やがてフェンス越しに、フード裏に隠れている三人の背中が見えた。笛美たちのことが気になって、まったく背後にまで気が回らないようであった。その笛美本人が、こうしてすぐ後ろにまで来ているというのに気づかずに。

 三人のうちの一番大柄なのが、ずっと呼吸を止めていてもう限界といった感じにぷはーっと大きく息を吸うと、

「あーっ、危なかったあ。須黒先輩に見つかったかと思ったあ」

 ほっとしたように額の汗を拭った。
 もう見つかってんですけどお。と、心の中でおかしみこらえている笛美。

「え、なんで? 見つけられたらなんか困るの?」

 一番背の低い、おっとり声が疑問の言葉を発した。

「分からへんのか? いじめられるからやないか。へえ秘密特訓してるんだあ、ほな成果を見せてもらおーかなあ、とかいって。二年生は特に意地の悪いのが揃っとるからなあ。ムクチ先輩とか、あれもう最悪やで、あのブタゴリラ」

 そんな三人のやりとりに、笛美はまたにやり笑みを浮かべると、すーっと息を吸い込んだ。

「へえ、秘密特訓してるんだあ!」

 大声を張り上げた。

「うわあ!」
「出たあ!」

 背後からの突然の大声に、新堂良子がびくりと大きく肩を震わせ、芦野留美と高木双葉が悲鳴をあげた。
 そう、須黒笛美の発見した知った顔というのは、成層圏同盟の三人だったのである。

「ほなあ練習の成果を見せてもらおうかなあ!」

 笛美は、先ほどの双葉の言葉をそのまま真似して叫んだ。

「いや、あの、お見せするとか、しないとか、まだ、わたくしたち、そこまで成長は、して、いないのでっ」

 高木双葉は、しどろもどろであった。先輩への悪口をすっかり聞かれていたわけだから当然だ。

「へえ、そうなんだあ。じゃあ他の二年にさっきのお前らの話、全部いっちゃおうかなあ。意地が悪いとかなんとか。ムクチが特に最悪とかあ」

 笛美はにひひと、いやらしい声で笑った。

「ムクチ先輩のくだりだけはやめてくださあい。いや、全部やめてくださいっ!」
「最悪とかなんとかいってたのは、双葉一人だけなんだけどなあ」

 留美がぼそりと防御弾幕を張った。
 まあ確かに、双葉以外の二人は悪口に相当するようなことはなにもいってはいないが。

「あーっ、あーっ、そうやってうち一人を生け贄に差し出すんかい! 成層圏同盟の仲間やろ!」
「分かった分かった。それで、どうすればいいんですか須黒先輩、練習の成果を見せろって」

 留美は観念した表情で、須黒笛美に向き合った。

「簡単。試合やろうよ、試合。ここ初めて借りてみたのはいいけど、五人じゃあ時間を持て余してたとこなんだ。じゃ、ちょっと待ってて」

 笛美は、雑草掻き分けフェンス沿いを走り、仲間たちを呼びに戻った。

 このようにして、二年生たちにとっての楽しい余興、成層圏同盟にとってはなんだかムードとして罰ゲームのように緊張する、そんな戦いが始まったのである。

 なお、二年生は五人いるため、須黒笛美が良子たち側に入っての四人対四人だ。

 二年生チーム
 すぎもとよりじようしのぶとくまるのぶ

 一年生+αチーム
 ぐろふえしんどうりようあしたかふた

 全員がFPで、ゴレイロは置かない。
 PA内で、サイドネット内側に当てたらゴールとみなすルールだ。

「よし、そんじゃ開始。ぴっ!」

 戦術の打ち合わせをまったくしないまま、須黒笛美の叫び声でキックオフ。

「そりゃっ」

 二年生チーム、杉本頼子がちょこんとボールを前に蹴り、そして横へ転がした。

 一年生+αチームのα部分である須黒笛美はダッシュし、二条忍がボールを受けるより先にサイドラインに蹴り出した。

「なにも決めてないけど、お前らのやり方に合わせるから好きにやりな」

 笛美は楽しそうに、良子たち三人の顔を見た。

「は、はい!」

 びしっと気をつけをする双葉。

「気負っててもしょうがない、どんどんいくよ! ワラ! シャク!」

 留美は開き直ってこの罰ゲームを受け入れたか、なんとも試合に入りきれていない様子の双葉と良子の二人をコートネームで呼んで気合いを注入した。

 まあ、入りきれないのも無理はないだろう。
 罰ゲームのような試合といっても、負けてなにをやらされるというわけでもない。
 でも、こっそり練習しているところを先輩に見つけられて、成果見せてみろよとプレーを強要されているこのままならない状況が、既にもう充分に辛い。
 その上、下手なプレーなどした日には、秘密特訓の成果を後々までバカにされ続けるに決まっているし。

 だけど、こうなった以上は真剣にやるしかないと開き直ったか、最初から真剣な留美に続いて、

「おおおおお!」

 双葉も本気になったらしく、雄叫び張り上げながら先輩へと身体を突っ込ませた。
 面食らった格好の多田ロカから奪うことに成功するが、結局そのままラインを割ってしまう。

 ボールがタッチを割ったため、二年生チーム多田ロカのキックインだ。
 二年生、杉本頼子が受けようとしたところ、芦野留美が上手く足を出してファールなしで奪った。

 留美はドリブルしながらパスコースを探すが、次の瞬間、大柄な身体が足を払われふわっと宙に舞っていた。
 肩から落ちる。
 杉本頼子に、後方からスライディングタックルを受けたのだ。

「はい、一発レッド」

 須黒笛美は淡々とした口調で、ピッチ外を指差し頼子の退場を示唆した。

「えーっ、レッドはきついよ!」

 頼子は両手を広げ、無実というかそこまでの罪ではないことを必死に訴えた。

「レッドだな。残念だけど、ここを受け入れないと二年生の股間じゃなくて沽券に関わる」

 二年生チーム、二条忍。

「あたしも、レッドだと思う」

 同じく多田ロカ。

「右に同じ」

 同じく徳丸信子。

「えーーっ、味方の退場を願うなんて! お前らなんなんだよ!」
「いやあ、願うわけじゃないけど、どう考えてもレッドだから」
「いつもいつも荒すぎるからそうなるんだよ。だから、サッカーの癖を早く抜けって去年からずっとずっといってきたのにさあ」
「ああもう! 分かったよ。この薄情者め」

 杉本頼子は仲間たちに不満をぶちまけながらピッチから出た。
 こうして早々に、二年生チームは一人退場することになったのであるが、でもそれは決して一年生チームを有利にするものではなかった。

 つまりどういうことかというと、ちょっと一年生をからかいつつも楽しんでやろうと思っていた二年生チームが、人数不利により本気を出さざるを得なくなってしまったのである。
 なにがどうであれ一年生ごときに絶対に負けたくないからだ。

 一年生チームにも一人、須黒笛美という二年生がいるとはいえ、やはり二年生三人による連係には太刀打ち出来ず、やがて耐えきれず失点してしまった。

 集中が切れて、すぐさまもう一失点。
 ただ、慣れて緊張が解けてきたのか、それとも失点によって開き直りが出来たということなのか、一年生チームの動きも徐々によくなってきていた。
 パスが回るようになってきた。

「うわ、ちょ、ちょっと先輩っ!」

 高木双葉は背後から徳丸信子にがすがすと身体を当てられながら(本当ならファール)、なんとかバランスを保って、フォローに入った留美へとパスを出した。

 留美は上手にトラップした。
 通せん坊をしてパスコースを塞ごうと、徳丸信子が猛然と迫るが、だが留美は冷静にボールをちょんと蹴り上げて、信子の頭上を通した。

 ゴール前へと斜めに駆け上がっていた須黒笛美に気がついた徳丸信子は、くるり踵を返してさっと笛美に身体を寄せた。

 肩をぶつけ合いながらボールを競る笛美と信子。
 笛美は信子に押さえ込まれてシュートを打つことは出来なかったが、代わりにCKを得た。

 CKは、一年生+αチームが人数の関係では有利であったが、混戦の中、急に足元に転がってきたボールを双葉が慌てて打ち上げてゴールキックにしてしまった。

 しかしながら、一年生チームの攻勢はまだまだ続いた。
 一年生チームはなかなか得点こそ奪えなかったが、しかしながら芦野留美を中心としたチームワークと須黒笛美の個人技とで何度もチャンスを作り出すことが出来るようになっていた。

 人数が少ないとはいえ本気を出している二年生相手に、善戦以上といってよかっただろう。

 そのような中、やはりというべきか新堂良子の個人技は相変わらずのお粗末なものであったが。
 繋げない。
 抜けない。
 簡単なパスがタッチを割る。
 オフザボールの動きは悪くないのだが、あまりに足元の技術が酷すぎた。

 そのようなレベルの者が一人いるというのに、負けているとはいえ僅差であることを考えると、ひょっとして代わりにまともな一年生さえ入っていれば一年が圧勝していたのではなかろうか。と思わずにいられないほどの良子の酷さであった。

 だがそんな中、
 ついに良子に汚名返上の機会が到来した。

 ぽっかり空いたゴール前へと須黒笛美がタイミングよくパスを出し、そのボールへと良子が誰よりも早く飛び込んでいたのである。

 良子の頑張りというよりは、良子の動きを察した笛美のパスをこそ褒めるべきであったが。しかしながら決定的な得点機会が良子に訪れたことに変わりはない。
 シュートが決まれば一点差だ。人数差と勢いとで逆転も可能かも知れない。

「打てえ!」

 須黒笛美は腕を振り上げ、叫んだ。

 直後に彼女が見たものは、蹴るタイミングを失いそのまま駆け抜けてしまい、ゴールの中に飛び込んでネットに手足がからまっている、新堂良子のなんとも情けない姿であった。

     4
 新堂良子は体育館隅の用具室扉の前で、たくさんあるボールを周囲に並べて一つずつ空気を入れている。
 床の上にかいたあぐらの中心にボールを置いて、手動でポンプをピストンさせている。

 十年ほど前には部の予算で購入した電動タイプのポンプがあったらしいのだが、当時の二年生が遊んでいて正規の使用をほとんどされることもないまま煙を噴いてそれっきり。
 廃棄代の関係から、現在でも用具室のどこかで埃をかぶっているだろうとのことだ。

 問題を起こすのっていつの時代も二年生なんやろか、などと無意識に漏らした独り言を聞かれてしまった高木双葉が、用具室で二年生たちのお仕置きを受けたことがある。
 良子はそんなお仕置きを恐れて仕方なく無言で真面目にしゅこしゅこと手を動かし空気を入れ続けているというわけではない。ただ単に話す相手がいないだけ。心の中はいつも通りのハイテンションだ。

 空気を入れ終えたボールに、腰を下ろしたままで右足を伸ばして、足裏でボールをころころ転がして感触を確かめる。

「今度こそ、ちゃんとやるぞお」

 良子は、足の裏でボールを感じながら、どう蹴るかプレーを想像してみた。

 単純なフェイクには絶対にやられないようにしないとな。
 重心落として、相手の行動を予測し、奪い、抜き去る。仕掛ける振りしてアシストのパスだ。
 いや、パスの振りして仕掛けちゃおうかな。
 よし、
 行くぞお!

 良子は、咆哮あげて獣のように挑み掛かってくるくちを、引きつけたかと思うとふわり軽やかな動きで脇を抜けた! ……と思ったらボールに乗ってしまい、つるり滑って転んで床に背中と頭を強打した。

「にゃああああ、想像の中ですら活躍出来ないいいいい! なんでだあああああ!」
「あ、あの」

 かにさき先輩がいつの間にかそばに立っていた。
 良子はいきなり声を掛けられて、肩を震わせ「はいっ!」っと飛び起きた。

「ボール二つ、貰ってもいい?」
「あ、どうぞどうぞアブ先輩」

 アブは蟹由三咲の小学生からのあだ名であり、部でのコートネームでもある。
 名づけの由来であるが、テストで自分の名前を間違って蟹油と書いてしまい、男子にからかわれたことが恥ずかしくて、一時不登校になったところ、その行動のためますます生徒らの印象に強く残って、あだ名として定着したものらしい。

 気も押しも弱いという、二年生の中で稀有というか唯一無二の存在である。吹けば飛びそうな華奢に見える身体の割に、フィジカルはやたらと強いのだが。

 無害である、というただその点だけで、一年生にとって実に人気の高い先輩なのである。

「おい、シャクレ、ボール二つくれ。あ、アブいたの? 暗いから、気づかなかった」

 二年生の武朽恵美子だ。数歩遅れて野々部菜々子もいる。

「アブはただおとなしいだけ。暗いってのは、あたしみたいなのをいうんだよ」

 野々部菜々子は猫背気味に歩きながら、ぼそっぼそっとした声を出した。

「出たあ、振られて落ち込んでるアピール。しつけえな、もうそのネタはいいよ!」
「しつこいはないでしょ! 二股かけられて振られたんだからね!」
「はい授業料授業料。あたしの知ったこっちゃねえよ、お前がバカな男に身体を弄ばれようと。そんなことよりもシャク、ボール早く! 紅白戦の前にボール練習やんだからよお。ぶっとばすぞお」
「はい、すぐやります!」

 良子は床に座り直すと、ボールに空気入れの針を刺して注入作業を再開した。

 これ全部入れ終わったら、わたしも紅白戦に参加だ。
 今日こそは、迷惑かけないようしっかりやるぞー。

 などと心に呟きながら、一つ空気入れ終えると立ち上がり、確かめるため踏みつけて足裏でころころ。

「新堂良子選手、風のように舞った。そして颯爽と抜いたあ」
「そして抜いたあじゃねえよ! 早くよこせって! 殺すぞ」
「あ、は、はい、すみません!」

 もう、せっかく今度こそ活躍する自分が想像出来そうだったのに。

     5
「邪魔だよ!」

 しんどうりようは、味方であるはずのにどんと強く背中を突き飛ばされていた。
 ぐろふえとの競り合いの中で、良子は足元のボールに気づかず見失っておろおろ。笛美に奪われようとする寸前に焦れて飛び出した奈義真理江が、良子の背中が邪魔で思わず突き飛ばすように押し退けてしまったのだ。

「ごめん!」

 ばたんごろごろと転がる良子へと背中越しに謝りながらも奈義真理江はドリブルをやめずゴールへ一直線。フィクソのくちを一瞬でかわし、シュートを打ち放った。
 ゴレイロの指を弾いて、ゴールネットが揺れた。

 ビブス組の同点弾が決まったことにより、スコアは1-1になった。

「くそお! 止めろよあのくらい! なんのために手が使えるんだお前! 手とおっぱいとせっかく四つあるんだから、どれか一つでくらい当てて防げよ! 無能ゴレイロ!」

 武朽恵美子がゆずの首を両手で掴んで、なんだか無茶苦茶なことをいいながらぎりぎり締め上げた。

「ちょっと、くるし……そっちこそ簡単に抜かれてないで、コース絞って下さいよ。フィクソのくせに」
「なんだこの和菓子屋!」

 武朽恵美子は、その手により力を込めた。

「ぐるじいっ。そっちこそ自慢のおっぱいで止めればいいでしょ、なんだよ普段は人のこと貧乳とかバカにしといて!」
「貧乳だから貧乳なんだよ! 貧乳! 貧乳!」
「牛! 牛!」

 などと低レベルの喧嘩を始めてしまった武朽恵美子と九頭柚葉のすぐそばで、奈義真理江に転ばされ倒れていた良子はよろよろとゆっくり立ち上がった。

「はーいシャクちゃーん、ナイスアシストお!」

 ベンチでとくまるのぶが楽しげに手を叩いている。
 それは、誰にでも分かる嫌味であった。

 マンマークがフットサルの基本だが他の選手の行動にも対応出来るようポジショニングが非常に大切、ではあるがシャクレごときにそこまで気を使う必要などあるまい。という油断から奈義真理江に広いスペースを走られてのシュートが決まってしまったからである。

「ナギマリ先輩、ナイスゴール! ドリブルも凄かったです!」

 良子は二年生のそうした嫌味に気づいているのかいないのか、とにかく無邪気な笑顔を浮かべ奈義真理江へと近寄った。

「悪かったな」

 奈義真理江は、良子の肩を軽く叩いた。

「え、なにがですか?」

 首を小さく傾げている良子。

「いや、だから……っと、始まるぞ」

 試合再開。ピヴォのすぎもとよりはちょこんとボールに触れると、それをまたぐようにして踵で須黒笛美へと送った。

 笛美からあしへ、そこから武朽恵美子、とワンタッチパスで人とボールが連動し、縦のスペースを作り出すと、武朽恵美子はそのスペースを使って一気に前へと蹴った。

 ピヴォの頼子が、そのボールを受けようと前へ飛び出した。

 だが、読んでいた徳丸信子がするり頼子のマークから外れてダッシュ、頼子よりも半歩分先にボールに辿りつき、収めた。頼子を背負いながら、すっと視界めぐらせ状況把握。

 信子には、二つのパスコース選択肢があった。
 左アラの野々部菜々子か、
 右アラの新堂良子だ。
 でもこれは選択肢ではなく一択だ、と迷わず野々部菜々子へとボールを転がした。

 野々部菜々子は、留美を背負いながらパスを受けた。
 絶不調アピールばかりでいつもどんより暗い態度の野々部菜々子であるが、ボールを持てば技術は非常に高い。マッチアップする芦野留美をフェイントでいとも簡単にかわし、最後列からの駆け上がりを見せるフィクソ徳丸信子へとパスを出した。

 受けた信子はスピードに乗ってピッチを突っ切り、正面突破でゴールへと向かったが、

「甘い!」

 上手く身体を寄せた須黒笛美に奪われてしまう。

 味方である徳丸信子が失ったボールを奪い返そうと走る良子であったが、それはただ信子の妨害をしてしまったに過ぎなかった。

「ああもう! シャクレがなんでこっちいるんだよ! とてつもなく邪魔っ! 消えろ!」

 信子はイラついた表情を微塵も隠さず、良子の肩を強く押した。

「キンコさあ、それちょっと酷いんじゃないか? シャクは一生懸命プレーしてるだけだろ!」

 奈義真理江がプレーを止めて、信子へと詰め寄った。

「さっきのあんたと同じことしただけでしょ」
「いや、そうだけど、でもそれは……」

 奈義真理江は口ごもった。
 確かに先ほど、邪魔だと叫んで良子の背中を突き飛ばし、転ばせてしまっている。

「あたしは無意識にいっちゃっただけだけど、お前のはそうじゃないだろ」
「無意識ならいいんだ。なら、あたしも無意識でえす」
「キンコ、怒るぞ」

 と、二人がちょっと険悪になりかけたタイミングで、新堂良子が叫ぶような大声を出した。

「あたしが下手なせいで、迷惑かけちゃってすみません! もっと頑張ります!」

 良子は二人に深く頭を下げた。

「いや、こっちこそ。さっきあたしが突き飛ばしちゃったのが発端だ。悪かったな、シャク」

 奈義真理江は良子の肩を軽く叩いた。

 徳丸信子も少し落ち着いて反省をしたのか、謝りこそしなかったが良子の頭をくしゃくしゃと掻き回し、自分のポジションへ戻った。

 試合再開。
 でも、良子はやはり酷かった。

 前言は実行している。もっと頑張ります、という。
 頑張っているのは誰の目にもよく分かるところだろう。
 しかしながら、それが完全に空回りして余計に酷いことになってしまっていた。

 このまま続けばまた徳丸信子がイライラを爆発させてしまっていたかも知れないが、そうなる前に、

「よし、じゃあグループ入れ替え!」

 あらがみ副主将が、ぱんぱんと手を叩いた。

 ピッチから出た良子は、高木双葉の隣へとへ行くと一緒に体育座りになった。

 次のグループで開始された試合を、なにやらぶつぶつ呟きながらじーっと見ていると、

「真剣やな」

 双葉が、良子の横顔へちらり視線を向け声を発した。
 良子も、双葉へと笑顔を向ける。

「みんなの動き方をよく見ようと思ってさ。足があまり速くない澄子ちゃんが、なんでイーブンなボールを競り勝てているのかとか。ドンちゃんも、体重感じさせないフットワークで凄いなあって思うし」
「ならよかった。てっきり先輩たちに怒鳴られて、めっちゃ落ち込んでんのかと思ってたわ」
「いやあ、誰より下手なんだから怒られるのは当然。いちいち落ち込んでなんかいられない。叱ってもらえるだけありがたいと思わないとね」
「お、さすが良子。その意気や! じゃ、あれやってやあれ、景気付けに」
「えー、やだよお」
「ええやん、お願い」
「恥ずかしいなあ。じゃあいくね……よおおし、練習一生懸命頑張ってえ、きっとみんなに追いつくぞおおおおおっ! どっかあああん!」
「どかああん」

 双葉は、良子に合わせて右腕を突き上げた。

「楽しいーーっ。これ一度やってみたかったんや。でも真似じゃあしょうがない、うちもなんかオリジナルの考えよっと」
「別にあたし、わざわざ考え出したわけじゃないんですけどお。じゃあ、タコ焼き焼けたでえとかは?」
「うちは関西弁使こうとるだけで関西人やないと何べんいわすねん! それに、よしやるぞーってシチュエーションで腕え振り上げタコ焼き焼けたでーって意味分からんわあ!」
「そこの二人! うるせえぞバーカ! 意味分かんないのはお前の頭だよ、この関西弁! フットサルの最中になにがタコ焼き焼けたでーだよボケ!」

 荒上副主将の怒鳴り声が、室内の空気をびりびり震わせた。

「すみません!」

 二人は立ち上がり、深く頭を下げた。
 そして二人はそーっと顔を見合わせ、どちらからともなく笑みをこぼすのだった。

「ふざけて怒られるくらい元気ってことで、よかったわ」
「怒られたのは、ほとんど双葉ちゃんの大声が原因だけどね」
「いわせたのそっちやん」
「そうだっけえ?」

 良子はとぼけ、そして無邪気な表情で笑った。
 笑いながらも、心配してくれる双葉に心から感謝しているような、そんな表情だった。

「なんやその顔お、気持ち悪いなあ」
「えー、気持ち悪いは酷い」

 どうでもいいことにまた笑い合う二人。

 無邪気な、良子の笑顔。

 当然ではあるが、この時まだ良子は知らなかったのである。
 自分の闇と向き合わされることになるそんな出来事が、この後に待っていようなどとは。

     6
「お、美味そう。これお父さん?」

 テーブルに置かれた鶏唐揚げの平皿の端を、新堂ゆうが箸でコツコツ叩いた。

「あたし」

 良子が答えた。

「これお父さん?」

 雄二が今度はブリ大根を箸で差した。

「あたし」
「これお父さ」
「箸で差すなあああああ!」

 良子は手を横に払って、雄二の箸を弾き飛ばした。箸はくるくる回転して、冷蔵庫の扉に当たって落ちた。

「これもこれもこれもこれもこれも、今日はぜーんぶあたしが作ったの! そういったでしょ、昨日! 全部あたしが作るよって」

 今日は第二土曜日で練習のない日だから、たっぷり手間隙をかけて一人で夕飯を作ったというのに、中でも自信の料理をことごとく父が作ったと思い込んでいる弟に、良子の怒りは限界に達してしまったのた。

「姉ちゃんも箸で差してっじゃんかあ」
「え、そ、そうだっけ……あ、あたしは作った本人なんだからいいの! お父さんも、違うよってすぐさま否定してよ!」
「良子、これなかなか美味いな」

 父のだいろう、良子の話などまるで聞いておらず、長男のこうと一緒に大根を頬張っている。

「いやああああああっ、ちょっとなに食べてんのおおおお! まだいただきますをしてないでしょおおおっ!」
「じゃあ、いただきます」

 大五郎と高貴は、手を合わせた。

「じゃあ、いただきます」

 雄二も続いた。

「じゃあ、いただきます」

 妹のむつまでも。こちらは幼稚園児のこと、邪気などないのだろうが。

「じゃあってなに、じゃあって? ねえ、じゃあってなに? なんなの? その二文字なんなの? 必要?」
「姉ちゃん、一人で騒々しいよ」

 雄二が顔をしかめながら、良子がいる側の耳の穴を人差し指でほじった。

「そりゃ騒々しくもなるよおお。あったりまえでしょおおお。人がせえっかく頑張って料理したのにさああ。もお、どうして男の人ってみんなこんななんだろなあ」

 良子は席につき頬杖をつくと、ながーいため息をついた。

「うるせえなあ。あーあ、お母さんがいればなあ。毎日もっと美味しいご飯だったろうし、愚痴をぐちぐちもなかっただろうし」

 雄二はつまらなそうな顔で、唇を尖んがらせた。
 だが、大五郎と高貴の顔が凍り付いているのに気がつくと、雄二もはっとしたように目を見開き、慌てて姿勢をただした。

 ダン!
 静まり返った部屋に、低い音が響いた。

 良子は打ち付けた両拳をテーブルに置いたまま、激しい形相で雄二を睨みつけていた。

「ごめん……」

 雄二は謝った。
 その表情は、すまないといったような感じであるが、不満に溢れているような感じでもある、なんとも複雑なものであった。

「あ、あのっ、こっちこそごめん!」

 良子は動揺した表情で、雄二に頭を下げた。

「いや、そんな謝られても……もう、兄ちゃんたちが勝手に食べ始めちゃうからだぞ!」
「そうだな。おれたちが悪かった、全部、すべて」

 高貴は眼鏡のフレームを摘んでくりくり動かしながら、ごまかし笑いを浮かべた。

「よ、よしっ、食べよう。食べ続けよう」

 こうして新堂家の食卓は、なんともギクシャクとした重たい雰囲気になってしまっていた。

「お、これ上手いね。醤油かな」
「ソースだろ」
「ソースなわけないだろ。親父、醤油とソースも区別つかないのかよ、普段料理で美味しいの作っているくせにさあ」

 大五郎と高貴はそれほどお喋りな質ではないのだが、この席に限っては妙に口数が多かった。でもそれは、この重たい雰囲気の中をただ空回りするだけのものであった。

     7
 なんとか食事の時間も終わり、高貴と雄二の兄弟二人は食器の片付けを始めた。
 流しの前でぴたり身体を寄せ合って、なんだかこそこそと耳打ちしては肘鉄を食らわせ合っている。

 階段の途中からそれを見ていた良子であるが、気づかぬ振りをして、そっと二階に上がった。

 自室に入ると、明かりもつけず畳の上にごろんと横になった。
 ため息をついた。
 ず、と鼻をすすった。

 寝転がってから十秒もせずに起き上がると、口を開いて独り言。

「そうだ、留美ちゃんか双葉ちゃん、いるかなあ」

 机の上のリストフォンに手を伸ばして取ると、画面を指でなぞりメールとチャットの機能をオンにした。

 リストフォンとは、腕時計型の携帯通信端末である。
 要するに、通話機能付きの小さなパソコンだ。

 良子はこのような機械はあまり好きではなく、家で画面を見ることなどほとんどない。
 すっかり中毒になって常にかじりついているような者も周囲にたくさんいるが、なにが楽しいのか分からない。こんな物に夢中になっていたら、本来の自分の時間がまったくなくなってしまうではないか。

 学校の授業で使うから仕方なく所持しているものの、ないならないで特に困ることもない代物だ。

 けれどもいまは、無性に誰かと話がしたかった。家族以外の誰かと。

 駅前のアイスクリームの屋台が美味しいらしいよねとか、隣の家の犬が脱毛症で頭だけ禿げてしまってザビエルの肖像画みたいなんだとか、そんなどうでもいい話を。

 電話でもチャットでもなんでもいいけど、まずはチャットで双葉ちゃんか留美ちゃんがオンラインになっているか確認しよう。

 と考えて、操作しようとしたその時である。
 リストフォンの壁紙画面がちかっと明滅し、中央にコメント窓がポップアップ表示された。


 YUKACHANさんがコネクトしようとしています。
 許可しますか?
 [はい]
 [いいえ]


 みずおか中学時代の友人だ。
 おそらく彼女のリストフォン画面のチャットリストに突然良子の名前が表れたので、接触を試みたということだろう。

 良子としては別に拒絶する理由もないし、もともと家族以外の誰かと会話をしたい気分であったので、迷わず「はい」を選択した。

『ドリちゃん……だよね? いや、久し振りだから、いちお確認』

 良子のリストフォンの画面に、メッセージが表示された。
 どうやら清水由香利本人に間違いなさそうだ。
 石巻にいた小学生中学生時代、良子は新堂良子という名前を略されドリちゃんと呼ばれていたのだ。

『そうだよ、ユカちゃん。元気?』

 たどたどしい指使いでそうタイプして送信。

『元気。そっちは?』

 と、ものの数秒で返事がきた。

『元気、じゃないよ。ユカちゃんでもいいや。聞いてよ。弟たちが酷いんだよ。私がせっかくご飯作ったのに、褒めてくれないしさあ』

 誰かと話したい、そんな気分になっていた理由は別にあるというのに、良子は自分の気持ちをごまかして、他愛のない不満をタイプした。

『でもいいや、はそれこそ酷いなあ。褒めてくんないなら作ってやんなきゃいいんだよ。それはそうとドリちゃん、そっちでもフットサル続けてるの?』
『やってるよ。凄いんだ、私ね、あの佐治ケ江優のいたフットサル部に入ったんだよ』
『えーーっ。それほんと?』
『本当』
『それは確かに凄い。部室にさ、サインとか残ってないの?』
『あるわけないよ。だってその頃は、代表と関係ない無名の選手だったんだよ』
『あっそうか』

 その後も、良子が望んでいた通りの他愛もないささやかな会話が続いた。

 母親の話を持ち出されたことで嫌な気持ちになり、それに対して自己嫌悪に陥っていた良子にとって、確かに家族以外の者と話して心を慰めることが出来れば誰でもよかったのである。

 それが中学時代の友人である清水由香利との久々の会話ということであれば、なおのこと良子の心は慰められ、楽しい気持ちになっていた。

 だが、誰が想像出来たであろう。
 清水由香利の何気ない一言が、少し気の晴れかけていた良子の心をあそこまでの奈落に突き落とすことになろうなどとは。

『そういや知ってる? 先輩、そっちに引っ越したって』

 ふみ、中学でのフットサル部の先輩だ。
 その名を目にした瞬間、良子の脳内に巨木を劈くかのような雷が落ちていた。
 一瞬にして、血の気が引いていた。
 指先が、ぶるぶると震えていた。

「あ……あ」

 なにかから逃れるように声を出そうとしたが、口の中が乾いて粘っこくなっていて、痰の絡んだような呻き声しか出なかった。
 ふーーー、と何回か息を搾り出すと、震える指をリストフォンの画面へと持っていった。

『ほんとう?』

 なんとか、それだけを打って送信した。
 返事はあっという間だった。

『本当。父親の仕事でほんの数年こっちに来てただけだから、地元へ戻ったというのが正解らしいけど』
『地元って、千葉ってこと?』
『千葉とかそういうのよく分からないけど、とにかく関東だよ。栃木、いや埼玉かな。忘れた』
『そうなんだ』

 津田先輩が、こっちへ……
 良子は震える指先でメッセージを送ると、そっと自分の左胸に手を当てた。
 軽く触れているだけなのに、ドッドッドッと激しい鼓動が痛いほどに肋骨の裏側を叩いている。
 月明かりが窓から差し込むだけの暗がりの中で、荒い呼吸の音が繰り返されていた。

 気を静めようとしていたのであるが、静まらぬばかりか、突発的に激しい恐怖に襲われ、叫び出しそうになっていた。
 水中で身動き一つ取れぬまま底へ底へと沈んでいくような、そんな恐怖に発狂しそうになり、そんな恐怖から逃れようと自分の両の頬を自分の両手で強く引っ叩いた。

 ふううっ、と呼吸した闇をすべて肺から吐き出すと、ごろり倒れ込むように横になった。

『どうしかした? ドリちゃん、どうかしたの? もう三分も返事ないよー。切れちゃったかな。あたしご飯呼ばれちゃったから、またねえ』

 良子の手の中で、リストフォンのチャットウインドウが閉じて、薄暗い待機画面に戻った。
 畳の上に横たわっている良子は、しばらくぼーっとしていたが、やがてリストフォンを壁の方へと転がした。その表情は、ただただ虚ろであった。

 なにも考えることが出来ず、ただずっと壁を見つめていたが、やがて身体が痛くなって寝返りを打つようにして反対向きになった。

 壁掛け時計が視界に入った。
 なにも考えずただ呆然としている間に、既に一時間あまりが経過していた。ほんの何分かと思っていたのに。

「もう、寝ちゃおう」

 暗闇のなか、こそりそう呟くと目をそっと閉じた。
 でも眠ることは出来なかった。
 考えまいとすればするほど、思い出したくない嫌な記憶が脳裏に浮かんでしまって。

 結局、良子がようやく眠りにつくことが出来たのは翌日の昼過ぎであった。
 留美ちゃんとしまむらに服を買いに行く予定だったけどキャンセル連絡するのも面倒だなあ、などと考えているうちに、さすがに眠気の限界が来てすっと溶けるように闇の中に落ちていたのである。
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