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第八章 行くぞーーーーーっ!
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1
良子は真っ暗な部屋で布団の上に横たわって、大の字になって天井を見上げている。
帰宅するなり制服姿のまま倒れ込んで、もう二時間である。
まだ夜の八時半。
眠るには早い時間であるが、だからといって立ち上がったとしてもなにをする気力も起こらなかった。
でも、ここでこのようにしていたところで、それはただ、思い出したくない記憶ばかりを思い出してしまうというだけであった。
日和ケ丘中学校時代に受けた、津田文江による干渉の数々を。
良子がまともにボールを蹴れなくなっているのをいいことに、毎日のように彼女から密着するがごとしの指導を受けていたのだ。
名目は指導であるが、明らかないじめであった。
単純なミスをする良子に対して、何故出来ないのかを執拗に問い詰めるのだ。
それにより良子が悪循環に陥ることを、分かっているのだ。
それにより良子が家族の問題に苦しむことを、分かっていて笑いながら問い詰めるのだ。
迂闊にもそうしたデリケートな問題について話してしまったことが津田文江のそうした行動に繋がっているわけで、黙秘しておけばよかったと後悔するのであるが、過ぎたことをどうこう出来るものではなかった。
しつこく問われてつい漏らしてしまった悩みについて、津田文江は逐一を覚えており、ことあるごとに持ち出してはフットサルでの失敗を強引にそのことへと結び付けて良子に答えを強要させようとするのだ。
そのようなことをしてくる先輩に密着されて常識的な感覚であれば朗らかでいられるはずもないのが当然であるというのに、挨拶の声が小さい、態度が暗い、などとよく怒鳴られた。
だから良子は、精一杯明るくするよう精一杯頑張った。
なるべく指導を受けないように。
指導を受けるということは、すなわち家庭での良子の行い、つまりは母親を見捨てたことを執拗に追求され、責められるということに他ならなかったから。
おかげで学校では面白くなかろうとも笑顔でいられる技術が身についたけど、感謝の念など抱けるはずもなかった。
笑顔で学校生活を過ごすものの、自宅で一人きりになると泣いてばかりいた。
フットサルにこだわり続けて、母親を失ってしまった。そう思えばこそ自分への誓いとして、フットサルをひたすら頑張り意地になって続けていたわけであるが、そのような考えが精神衛生上良いはずがなく、それに加えて津田文江のそうした行動である。良子の心は、どんどん蝕まれて壊れていった。
やがて、指導というより陰湿ないじめであることに周囲が気づきはじめ、津田文江は良子へ近づくのを禁じられた。
津田文江がなにもいいわけすることもなくあっさり身を引いたため、二人がくっつくことはなくなった。
でも決して良子の心は楽になどならなかった。
何故ならばもう津田文江は、良子を追い込んで自尊心を満足させるために、接近し声を掛ける必要などなかったからだ。
毎日、離れたところから微笑んでいる。それだけで充分だったのである。
良子は彼女からの視線を受けるたびに、これまでのことを思い出した。
津田文江に、良子が家族に感じている負い目を心の奥底までほじくり返されたことを。
その負い目があればこそ、前述したような理由によりフットサル部を退部することなく在籍し続けたわけであるが、だからといってそんなこと喜べるはずもなかった。
負けてたまるかという意地もあったし、清水由香利のような仲良しが出来たことなども救いとなって、なんとか部活に毎日通い続けて、やがて時は流れて翌年になった。
良子は二年生になり津田文江は三年生になったが、ただそれだけのことであり、二人の関係性そのものにはなんら変化が生じることはなかった。
ただし環境としては大きな変化が一つあった。
夏休み中に行われた大会を最後に、津田文江が引退したのである。
引退したとはいえOGとして頻繁に体育館を訪れていたため、あの笑顔を見なければならない頻度がそれほど変わったわけではなかった。
例え訪れていなくとも、いつ来るのかというのが恐怖でもあり、心の休まる時はないといってよかった。
つまり良子は、ほぼ三年間を津田文江の恐怖に怯えながら生きてきたのである。
外見上は実に朗らかであったが、それは津田文江に仕込まれたものであり、いま振り返れば中学時代に心から楽しいなどと思えたことは一度たりともなかったように思う。
それから半年が経ち、良子は父親の転勤によって中学卒業と同時に千葉に移り住むことになったわけだが、それは仲の良い友達と別れなければならない淋しさなどまるで苦に思えないくらいに嬉しいものだった。
フットサルをまたまともにプレー出来るようになるかどうかなど分からないが、でもとにかく、これでまた思い切りフットサルが出来る。
他人から笑われるような低レベルなものであろうと、そんなの関係ない。
お母さんがいなくなってしまった時に、自分に誓ったんだ。
どんなに下手だろうともフットサルを精一杯頑張り、楽しむことを。
自分が弱く情けないばかりに中学での三年間はまったく果たすことが出来なかったけれど、でも今度こそ、やってやるぞ。
生まれ変わったと思って、精一杯。
そう思っていたのに。
フットサルによる親友だって出来たし、入部したところが神様のいたフットサル部で、これはここで頑張れという運命なんだ、って、そう思っていたのに……
どうして……
2
「シャクは、どうしたい?」
部室に呼ばれた良子に対し、主将の花咲蕾が開口一番に発した問いである。
「どう、とは?」
聞くまでもなく、良子にはなんとなく分かっていた。でもそう質問を返したのは、自分自身の言動を主導していく勇気がないからだった。
主将は脚のガタついた椅子に座りながら、そっと腕を組んだ。少し考えて、というよりはあえて間を空けたような感じに口を開いた。
「チーム作りの件だよ。さすがにこうなってしまうともう、やれと強制は出来ないからな」
主将は以前、良子による良子を中心としたチームを作るよう、良子に命令を出した。
一学期一杯で退部する予定の良子であるが、現在部員である以上は精一杯やってもらう、と。
だが、事情が変わった。
大会二回戦目で当たるであろう前橋森越学園に、良子の小中学校での先輩である津田文江が転校してきておりチームを率いる主力になっていることが分かったのだ。
花咲主将は良子が翼をなくしてしまった理由を知る数少ない一人であり、津田文江とのことだって知っている。彼女によって、どれだけ良子が苦しめられたかということも。
そんな津田文江が、関東に越してきたばかりか今度の大会で佐原南と対戦する可能性が濃厚になったのである。
主将はその場におらず見ていなかったが、部室でそれを知った良子が部員たちのいる前で顔面蒼白になって狂ったような悲鳴を上げて泣き叫んだともなれば、やはり無理強いは出来ないのであろう。
強制しない、辞退は自由、いますぐ退部するのも自由、すべて好きにすればいい。
ということのようであるが、しかしそのように選択をすべて委ねられても、良子としては困ってしまうところであった。
「あたしが決めないと、ダメですか?」
自分に選択の出来ないこと、素直に良子は話した。
「どうしてそんなこと尋ねる?」
「……どうして、といわれても……」
「練習が回るようになってきていたから? 少し自信がついて、面白くなってきて、辞めずに頑張ってみようと思っていたら、その子と対戦するかも知れないという話になって、ぐらついている。挑戦して、乗り越えたい気持ちもあるけど、余計に傷つくのも怖い」
主将は眼鏡の奥の切れ長の目を良子からそらすことなく、淡々と自分の想像を述べた。
良子は少し考え込むようにして、やがてゆっくりと口を開いた。
「……自分のことながら自分でもよく分からないんですけど、たぶん主将のおっしゃる通りなんだと思います。だからあたし、どうすればいいのか……」
「だから好きにしろといっている。自分の責任で決めろ」
「そんな……」
保護されて当然などと甘えていたつもりはないが、突き放された、見放された、などと考えてしまうということは、そう思っていたということなのだろうか。
結局良子は、主将の問いに対して答えを出すことは出来なかった。
もう少し待って欲しい。そうとしかいえず、弱々しくうな垂れながら部室を去ったのである。
3
「ごめん、遅くなった」
新堂良子は体育館に戻ってくると、一年生たちが練習している中へと飛び込んだ。
「花咲主将、なんだって?」
良子不在の代理指揮をとっていた芦野留美が、良子へ近寄りながら尋ねた。
「なんでもない。大会の話。練習方法について色々とアドバイス受けた」
良子は作り物めいた不自然な笑顔を浮かた。
嘘をついた。
本当は部活をいますぐ辞めるかどうか、そういった話をしていたのだ。
いま退部を決意してもおかしくない状況にあるとはいえ、自分自身のことを決められず保留にして逃げ出してきたからには、こうして指揮をとり続けるしかない。
良子は、留美から簡単にここまでの練習内容や成果を聞くと、一年生の指揮に戻った。
しかし、みんなを裏切っているような罪悪感からか、その指揮は実に酷いものであった。
芦野留美の協力などもあって段々と自分のチームを作ることへの自信を深めていた良子であるというのに、すっかり最初の状態へと戻ってしまっていた。
それは罪悪感のためであるのか、
津田文江と対戦するかも知れないという恐怖のためなのか、
こうした事柄の連鎖によって、家族の問題を思い出してしまうということか、
自分のことであるというのに、なにが原因で自分がおかしくなってしまっているのか、自分でもまったく分からなかった。
4
「えっと、距離感は、こんな感じかな。相手の守り方が予想の通りであることと、奪われた時にフィクソがしっかりカバーをしくれることが前提にはなるけれど。とりあえず攻めはこのパターンと、あとオプションとしては三人を少し寄せて真ん中を突き破る……でも、結局練習では最後まで上手くいかなかったからなあ」
新堂良子は自宅自室で、机に置いたディスプレイに映る赤と白の三角の動きを見ながら独り言を呟いていた。
左腕につけているリストフォンの内容を、大型ディスプレイに表示させ、戦術の微調整をしているところだ。
監督経験などない良子としては、これまで自分が選手としてやってきたつたない経験と、こうすれば良いかもという漠然とした考え、それくらいしか戦術を組み立てるための素材を持っていない。
だから基本としては最初から練習していることを精錬させていくだけであるが、試合とは対戦相手の存在するものであり、それに合わせた修正も必要である。現在、その修正の部分を考えていたのだ。
たかだか高校生の部活であり、それほど詳細な情報が入手出来るわけではないが、すべての情報がネットワーク化しているこの時代、一昔前と比べれば遥かに参考になるものが得られる。
良子はそうした情報を入手して、戦術を少し変えたり、攻守における新たな策、緊急事態に取るべき策、などを打ち立てようとしているのだ。
大会は明日。
もう練習することは出来ないが、佐原南の選手たちは戦術理解能力は非常に高く、試合前に伝えるだけで充分に実践してくれるだろう。その点は、良子は心配していない。むしろ、自分の立てた戦術がそもそも通用するのか、そちらの方がよほど不安だ。
だからこそ有用な戦術オプションがないか、必死にシミュレーションを繰り返していたのである。
明日、大会に参加するかどうかも分からないというのに。
結局、主将代理の役目を降りるか否か、決めきれずにこの大会前日を迎えることになってしまったのである。
誰も、なにもいってこなかったから。
主将が改めて声をかけてくれていれば、辞めますといえたかも知れないのに。
だからぎりぎりまで練習を続け、ぎりぎりまで戦術を考えるしかなかったのである。
第一戦目の対戦相手である埼玉県立杉戸商業高校、ここに対してはもう腐るほどシミュレーションを実行しており、実際に上級生を仮想的と見立てての練習もしっかりと行なっている。
対して、第二回戦で当たるかも知れない前橋森越の対策に関してはさっぱりであった。
毎日の練習で自分たちの連係を高めていくということは出来ても、この相手に対しての戦術オプションは、なにも考えることが出来ずにいた。
去年までの特徴や、一般的なデータを当て込んでのシミュレーションは行なっており、そうした範囲内での練習は繰り返しやっている。
しかし、判明している個人データを入れてのシミュレーションはまだなにも行なっていない。
要するに、転校生である津田文江のデータを、なに一つとして入力していないのだ。
今年の前橋森越はあなどれない恐ろしい相手であるが、それは津田文江の存在を避けて語ることは出来ないというのに。
入力しようとは何度も試みたが、その都度、良子の呼吸は乱れ、頭痛がして、結局やれることからやろうと杉戸商業への対策に戻ってしまうのだ。
第一回戦を突破出来なければ、どのみち対戦することもないのだから、などと自分にいい訳をしながら。
そもそも自分が大会に参加するかどうかも分からないのだから。
もう前日であるというのにまだこのような煮え切らない心境であること、我ながら最低だと思っている。
しかし、どうしようもなかったのだ。
何度も主将に声を掛けようと思ったが、掛けられなかったのだ。
今日の部活練習が終わる最後の最後まで、いや帰り道も、家に帰った後、いま現在も、自らをどうすべきであるかずっと迷っているのだ。
きっと自分は、欠陥人間なんだ。
誰かの信頼に応えたり、出来ない人間なんだ。
親友とか、本当に信頼出来る誰かを作ったり出来ない、作る資格のない人間なんだ。
だから、心からお母さんを信頼して、大切にしてやること、守ってやることが出来なかった。
……戻れれば。
時を戻すことさえ出来れば。
変われるのに。
絶対に、変わってみせるのに。
良子は、心の中でため息をついた。
フットサルのことで悩むと、必ずぐるぐる回った挙句にお母さんのことに行き着いてしまう。
家族を放っておいてフットサルに夢中になっていたということが今回の一連のことすべての根底なので、それは当然といえば当然であるのだが。
でも、いまはフットサルのことだけを考えたいのに……
ダメだ。
頭を休めよう。ちょっと下へ行って、休憩しよう。
休んでどうなるとも思えないけど、でもそうしないと脳味噌蒸発して死ぬ。
と席を立ち、ふと人の気配に振り返ると、開いたドアのところに兄の高貴が立っていた。
「ちょっと、なあに兄貴、ノックもしないで開けないでよ」
「したよ。何回も。でも返事がなかったんじゃないか」
「あ、そうなんだ。ごめん」
「夕食が出来たから、呼びにきたんだよ。なにやってたんだ。またフットサルのことか? ほんと熱心だなあ」
こっちの気も知らないで、なにをのほほんと。
そう思ったけれども、学校でのこと部活でのことなどなにも教えていないのだから当然か。
きっと兄貴たちにすれば、自分はいまだにあの頃の良子のままなのだ。
フットサルを頑張って自慢の娘であり続ければお母さんはいつまでも家にいてくれる。そんな子供じみた幻想を胸に抱いて、ただひたすらガムシャラだったあの頃のままなのだ。
結局、いくらフットサルを頑張ったところでお母さんを止めることなど出来なかった。
大会があったあの日、黙って家を出てそれっきり行方知れずだ。
もしかしたらフットサルなんかを頑張らずに、ただお母さんの側にいてあげたら、出ていくことなんかなかったのでは。
いまさらそんなことを考えたところでどうしようもないというのに、ことあるごとに考えてしまう自分が嫌になる。
お母さんのことが好きだからこそ、だからフットサルを頑張り抜くんだ。そう自分に誓って、中学時代のあの三年間を耐えたのだというのに。
つい先ほどまではフットサルや津田文江のことで頭が一杯であったが、いまは母親のことで一杯になっていた。悩みの根源は同じであるとはいえ。
ダイニングに入り、食卓に入り、家族と一緒に食事を始めても、なおも考えてしまっていた。
みんなはお母さんのことをどう思っているのだろう、などと。
会いたいけれど、もう諦めているのだろうか。
それとも、自分たちを捨てた親になんか会いたくもないのだろうか。
石巻にいた頃に一度、良子が狂ったように泣き喚いて自殺寸前の大騒動にまでなったことがある。それ以来、家族はあまり母親のことには触れない。
だから、良子はみんながどう考えているのかを知らない。
みんながどう考えているのかなど、想像してみたこともなかった。
自分は、どうしたいのだろう……
「あのさ」
自分の世界にどっぷりと入り込みながら黙々と箸を使っていた良子であったが、不意に顔を上げ口を開いていた。
大五郎、高貴、雄二が良子へと視線を向けた。みな表情が真面目であるのは、先ほどからの良子の態度にただならぬものを感じていたからであろうか。
まだ幼い六葉だけはこの空気感に気づくこともなく、がっしり握り締めたプラスチックのスプーンをせっせと口に運んでいたが。
「あの……」
みんなの視線を受けていることに気づいて、良子はばつ悪そうに口ごもってしまった。
別になにかをいおうと意識して口を開いたわけではないのだ。
母のことを考えていて、みんなはどう思っているのだろうなどと思った瞬間、無意識に口が開いてしまったという、ただそれだけなのだ。
「なんでもない。ごめん」
良子は下を向いてしまった。
これまで自ら母の話をしようとすることなど決してなかったというのに、どうして母のことを考えていて口が勝手に開いたのだろうか。
自身のことであるというのに、さっぱり分からなかった。
良子の無意識は、いまここで、母のなにを家族に伝えようとしていたのか。
そもそも何故このタイミングで。
明日が大会の日だからであろうか。
そのような話を出来るようになったんだという勇気の成長を自覚し、明日の大会に臨もうとしたのだろうか。
分からない。
分かっているのは焦り、罪悪感、劣等感、怒り、負の感情がないまぜとなって泥沼に深く埋もれていくという不安であった。
そうした不安が頭の中をぐるぐると回り、やがて不安は恐怖となり、その恐怖に耐えられなくなって、まだ食事の途中であるというのに席を立ち、風呂に入り、寝た。
5
かすかに広げたカーテンの隙間から良子が見たもの、それは高木双葉と芦野留美の姿であった。
二人ともジャージのズボンと白いシャツという姿で、スポーツバッグを足元に置いている。
良子を迎えに来たのだろう。
本日埼玉県にて行われるフットサル大会予選に参加するためだ。
良子は二階自室の窓辺に立って、前述した通り気づかれないようカーテンのわずかな隙間から二人を見下ろしていた。
ふう、と思わずため息をつきそうになり、慌てて口を押さえた。
ふわり微かに揺れるカーテンに、自分がここに隠れていることがバレてしまうと思ったからだ。
部屋の隅には、スポーツバッグが無造作に置かれている。
とりあえず前日のうち試合に必要な一式を詰め込んでおいたものであるが、しかし肝心の良子自身がまるで出掛ける仕度などしておらず、まだ寝間着姿のままであった。
午前七時。
もう目覚めてから二時間も経っているというのに。
既に佐原駅前に集合する時間であるというのに。
ただ良子にとっては、自分のことよりも窓から見える二人のことの方がよほど気になるところであった。
あの二人は、あんなところで一体なにをやっているのだろうか。
六時くらいにやって来て、もう一時間もあのままで。
乗る予定の電車が佐原駅に到着するまであと三十分の余裕があるとはいえ、もう集合時間であるというのに。
確認したいのはやまやまであるが、自分から窓を開けて声を掛ける勇気もなく、なんともはがゆい気持ちであった。
呼んでくれれば……
玄関のチャイムを押してくれさえすれば、出るのに。
たとえ自分がぐずろうとも家族の誰かは出るだろうし、強引に玄関まで引っ張っていくか、または双葉ちゃんたちをこっちに連れてくるか、してくれるだろう。
なんで、呼んでくれないんだ。
ただ、そこに立っているだけで……なにしに来たんだよ。
などと心の中で愚痴をいうも外の二人に伝わるはずもなく、呼び鈴が鳴らされるなど一切ないままさらに五分が経過した。
双葉たちは顔を見合わせると、道路に置いたバッグを手に取って肩に背負った。
まさか……
良子の小さな胸の中で、心臓がどくんと大きく跳ねた。
驚きと不安は、現実のものとなった。
二人は良子の部屋の窓をちらりと見上げると、なにをいうこともなくそのまま歩いて去ってしまったのである。
信じられない出来事に、良子はしばし唖然としてしまっていた。
だって、おかしいじゃないか。
迎えに来ておいて。
わたしがなかなか玄関から出てこないというのならば、普通は呼び鈴を押すなり大声で呼び掛けるなりするはずではないか。
ここに来たのが花咲主将なら話は分かる。無理強いせずに、あくまでわたしの判断に任せるためにだ。
でも、二人にはそんなことまったく話してもいないのに。
そのために昨日まで練習をしてきたんだから行くに決まっている、そう思っているはずなのに。
……主将だ。
きっと、主将が二人に話したんだ。
余計な助け舟を出させないように。
わたしがわたし自身の意思で、大会へと向かうように。
でも、
でも……
「でも、それが出来ないから、困ってるんじゃないかあ……」
良子は力抜けたように膝を崩し、かすれたような声を出しながら、幼児のおままごとのようにぺたんと床に座り込んでしまった。
完全孤立の状態に、身体が、指先が、ぶるぶると震えていた。
自分をそんな状態へと追い込んだ主将に、怒りの矛先が向けられていた。
花咲主将は、なんでこんな意地悪ばかりするんだ。
なにを考えているのか知らないけど、大きなお世話なんだよ。わたしみたいなヘタクソに主将をやれとかさあ。
いまのだってそうだよ。双葉ちゃん留美ちゃんが一緒に行こうよと呼びに来てくれれば、きっとそうしたのに。
二人とも、わたしのこと呼びたかったと思うよ。じゃあ、邪魔するなよ。
主将のバカ。
チビ。
わたしと同じくらいだけど、でもいってやる。チビ!
そのうちなんだかむなしくなってきて、頭の中で長いため息をついた。
しばしの沈黙ののち、
「一人じゃ行かれないから、困ってるんじゃないかよお」
また、先ほどいったような言葉をため息混じりに繰り返した。
でも……そうまでして参加しなければならないようなことか。
このまま部屋にいて、行かなくたっていいんじゃないか。
たかだか学校の部活じゃないか。
三年生にとって大事な大会だかなんだか知らないけど、わたしにとって大事でもなんでもない。
どうせ一学期で退部するんだし。
別にわたしなんかが行く必要ないだろう。みんなに迷惑だろうし。
というか、行かれない。
たとえ行きたくとも、行かれないよ。
無理だ。
最初から、無理だったんだ。
「留美ちゃん、双葉ちゃん、ごめんね。せっかく来てくれたのに」
良子はかすかに口を開き、二人に謝ると、ゆっくりと立ち上がった。
信じていた者を裏切ってしまったことからくる罪悪感。でも心が定まって、ちょっとだけすっきりしたような顔でもあった。
部屋を出て階段を下りながら、左腕にはめているリストフォンの画面をつけた。
主将へ不参加の連絡をしようと思ったのだ。
「あれ、姉ちゃん、大会あんじゃないの?」
階段の下で、弟の雄二が歩きながら歯を磨いていた。
「行くのやめようかなーと思って」
良子は元気なく笑った。
「えー、いいの? そんな勝手に」
「よくはないんだろうけど……体調不良なんだから仕方ない」
嘘をついた。
体調ではなく、心の不良だ。
なにが良子だよな。名前負けもいいところだ。
不良子ならぴったりなんだろうけどさ。もしくはバカ子だ。
自虐的な言葉を心の中で発しながら、居間へと入った。
「あれ、今日試合とかいってなかったか? まだ出掛けないなと思ったら、なにやってんだそんな格好で」
兄の高貴だ。
さすが兄弟というべきか、雄二と同じようなことをいってきた。
「欠場。あたしなんかが一人いなくたって、佐原南は変わらないよ」
むしろ、お邪魔虫がいなくなって劇的に強くなるかも知れない。
そしたらそっちの方がみんなにも喜ばしいことじゃないか。
良子は跳ね上がるようにして、勢いよくソファにお尻を沈めた。
「フットサル部、やめるつもりなんだって?」
高貴は、良子の隣に腰を下ろした。
「え?」
兄の言葉に、どんと心臓跳ね上がった。
「どうして……そのことを……」
良子はそういったきり、口を半開きにしたまま硬直してしまっていた。
しばらくして、高貴が口を開いた。
「やめるつもりなら、いまお母さんの話をしても構わないよな。だって二つのことが絡み合って、心の状態が悪い方へと行ってしまってたんだろ。でも、一つがすっきり解消されるわけだからな」
「だからさあ、どうして兄貴がそんなこと知っているの!」
お母さんの話になると、罪悪感から頭の中が真っ白になってなにも考えられなくなってしまう。
家族のみんなが知っているのは、それくらいのはずなのに。
部活でのことなんか、家族の誰にも話したことなんかなかったのに。
「この間、高木さんが遊びに来ただろ。その時にね。良子には絶対に内緒で、それとなくフォローしてやってくれっていわれてたんだよ。やっぱりおれには無理みたいだけどね、それとなくだなんて」
「双葉ちゃんが……」
この前、確かに兄貴となにか話しているようではあったけど、そんな話をしていたのか……
「良子さあ、昨日の晩御飯の時、なにかいいかけてやめただろ」
数秒の間をおいて、良子は頷いた。
「お母さんのことだろ」
その直球に、またまた良子の胸はどくんと跳ね上がった。
「分からないよ」
良子は半分嘘をついた。
母親のことをあれこれ考えているうちについ口が開いてしまったのだから、母親のことに決まっている。
それについてなにをいおうとしたのか自分でも分かっていない、というのは本当であったが。
「分かんないわけあるか。あれはな、お前がお母さんのことを考えている時の顔だ」
もう十六年も一つ屋根の下で暮らしてきた兄に、このような嘘は通じないようであった。
「まだ、後悔してんのか? お母さんがいなくなった時のこと」
「分かんないよ! なに、さっきからお母さんお母さんってさあ」
良子は、突然声を荒らげた。
はぐらかそうとしたところを追求され逃げ場をなくし、大声でごまかそうとしたのだ。
「さっきいったろ。フットサルを続けないんなら、こういう話をしても構わないよなって」
「だからって、なんでこんな時に」
こんな時にでなくとも、そもそもこれまで自分を気づかって決してお母さんの話などしなかった兄貴だというのに。
どうして、自分がこれほど弱っている状態の時に、わざわざそんな話をしてくるんだ。
「おれにもよく分からないけど、色々と事情を聞いてしまった以上は大会の前までに決着をつけておかないといけないんじゃないかって気がしてさ。自分自身にある程度の決着をつけたその上で、良子にはどうしたいかを考えてもらいたいんだ。……ではもう一度聞くぞ。あの時のこと、まだ悔やんでるのか?」
「だから、知らないよ、そんなこと。考えたこともない! もうその話するな!」
良子は声を裏返らせながら叫ぶと、溜まったもやもやを払うように首を左右に激しく振った。
高貴はそんな良子を見ながらも、穏やかな表情をなに一つ変えずに続けた。
「おれもな、お母さんがいなくなってもケロッとしてたなんてよくいわれるんだけど、実際には隠れて大泣きしてたんだよな。いつも生意気なことばかりいってたから、だから愛想つかして出て行ったんじゃないかって、ずっと後悔してた。……いまでもね」
「兄貴も?」
良子は、ちょっと信じられないといった表情で高貴の顔を見つめていた。
「おれもだよ」
洗面所で歯を磨き終えた雄二が、タオルで顔を拭きながら居間へと入ってきた。
「クラスの女の子を泣かせてしまって、お母さんが学校に呼び出されたことがあったんだ。その翌週だったからさ、消えちゃったの。だから、ずっとずっと後悔してた。姉ちゃんなんかじゃなくて、おれが原因でいなくなったんだって。いまでも思ってるよ。おれのせいだって」
「雄二……」
良子には、震える唇からかすかに弟の名を呼んだ。
「なんだお前、いつから聞いてたんだ。ま、いいけど。でな、こうしたことはね、おれたちだけでなく六葉も思ってるらしいんだよ」
「え……」
「自分がお腹の中で暴れたから、お母さん痛くて嫌いになったんじゃないか、って。おれたちは、生まれた後もずっと一生懸命に可愛がっもらえて、育ててもらえたというのに、自分が生まれたら出て行ってしまったんだから、なんて思っているみたい。そういったことお父さんから聞かされたのついこないだのことなんだけど、子供ながら結構ショックを受けたみたいで、自分はなにも悪くないというのにお母さんに泣いて謝ってたよ」
そこまでいうと、高貴は口を閉ざした。
良子はソファから立ち上がり、そのまま無言で立ち尽くしていた。
言葉が出なかったというよりも、高貴たちの言葉が頭の中をぐるぐる回り続けていたのだ。
みんながどういう思いでいたのかなんて、考えてみたこともなかった。
つらいのは自分だけなんだと思っていた。
みんな、つらかったんだ。
だけれども、わたしのことを考えて、常に気をつかってくれていた。
それなのに……
それなのに、わたしは……
段々と、良子の表情が変化していった。
明るいものではなかったが、それは間違いなく雪の下で土を突き破り蕾が伸びていくかのような、そんな、未来を感じさせる表情であった。
良子はゆっくりと口を開いた。
「あたし、自分が耳を塞ぐことしか考えていなかった。みんながどう思っているかなんて、考えたこともなかった」
思っていることを正直に口に出したことで、良子の顔が少しすっきりとしたものになっていた。
一呼吸を置いて、またゆっくり口を開いた。
「あたしね、自分自身の気持ちをずっと騙し続けてきていたけど、でも本当はどんな気持ちなのか分かっていた。違う違う違うって、嘘の言葉で自分の正直な心を掻き消し続けてきた」
「本当の、気持ち?」
高貴は尋ねた。
「いつかお母さんを探そう。後悔してもいい。……って」
あの時から、そう思っていた。
だからこそ、いまやるべきことをきっちりやろう。フットサルをしっかりと楽しんで、それだけじゃなく人生をしっかりと楽しんで、幸せになって、お母さんの育て方は間違っていなかったことを証明してやるんだ。そう思っていた。
だからたとえボールを蹴れなくなっても、くさぶえFCや日和ケ丘中学校で必死にフットサルにしがみついて頑張ってきた。
でも、いつの間にか頑張る方向性がずれてしまっていたんだ。
ただ意地に意地を重ね、自分の心に嘘を重ねてきただけだったんだ。
わたし、なにをやっていたんだろうな。
もう子供じゃないってのに、なにを一人で殻に閉じこもっていたんだろうな。
わたしのこと思ってくれる家族がいるというのに。
素敵な友達が石巻にたくさんいたし、こっちにだってあんな素晴らしい友達がいるというのに。
ほんと、なにやってたんだろう。
バカ子だ。
新堂バカ子だよ、わたし。
ふと気がつくと、視界がぐにゃぐにゃに歪んでいた。
涙が溢れ、こぼれていたのである。
拭っても拭っても、次から溢れて止まらなかった。
「ありがとう、兄貴、雄二。……本当にありがとう」
しゃくり上げながら、なんとか目の前の兄弟に感謝の言葉を絞り出した。
「え、え、なんか、わけ分かんないんだけど。そもそも二人とも、なんでお母さんの話なんかしてたんだよ?」
途中から話を聞いて乗っかってきただけの雄二は、すっかりきょとんとした顔になってしまっていた。
高貴はなにも語ることなく、ただいたずらっぽく笑った。
「あ、そうだ良子、おれさっきいったよな。こういった話をして、その上で良子がどうしたいのか考えて欲しいって」
兄の言葉に良子は、
「いまいった通りだよ。こんな朝っぱらから、人生考えさせられることになるなんて思わなかったけど……」
涙を拭って笑顔になった良子は、ふと壁の時計に目をやった。
「あーーーーーーーーっ!」
間髪入れず、大口開いて間抜けな顔で叫んでいた。
時計の針は、七時二十分を指している。
つまり、大会会場へと向かう電車があと十分で佐原駅を出発してしまうということだ。
良子は踵を返すやドタドタ大きな音を立て、階段を全力で駆け登った。
自室へ入ると猛烈な速度で寝間着を上も下も脱ぎ捨てジャージへと着替え、スポーツバッグを背負うと再びドタドタ一階へ。
「やれること、やってくる! 行ってきます!」
久しぶりに腹の底からの大きな声を出すと、靴を履き、玄関の扉を開けて飛び出した。
夏の、眩しい朝日がかっと良子の全身を照らした。
じりじり焦がしてくるような陽光の中、良子はぐっと拳を握り締めた。
後悔してもいい。
全力で、いま出来ることをやる。
それだけだ。
リストフォンで主将に連絡している時間などはない。
徒歩で二十分くらいかかる距離だけど、全力で走ればきっとまだ電車に間に合う。
「行くぞーーーーっ!」
良子は大声で叫び、田園風景を背に全力で駆け出した。
6
「きいへんなあ」
高木双葉は、昭和前半風デザインの円柱型郵便ポストに背中を預け、意味もなくざりざりと靴裏で道路を引っ掻いている。
「きっと来るよ。信じよう」
芦野留美は口ではそういうものの、自身も道路を足の裏で引っ掻きたくてむずむずそわそわとしているように見えた。
「でも、もう時間ないで」
ここは佐原駅南口前。
現在の時刻は七時二十七分。
あと少しで成田行きの電車が来てしまう。
「あと三分あるよ」
「意外に楽観的やなあ、留美は」
感情としてはまったく一緒で、正直に口に出すか、気持ちを押さえるために楽観論を吐くかの違いだけかも知れないが。
「最悪、次の電車だっていいんだし」
「アホか、第一試合やで。ウォーミングアップがまったく出来ひんやん」
「いちいちうるさいなあ。こっちだって焦ってるんだよ」
「うちのがもっともっと焦っとるわ! ……とか戦ってもしょうがないことやな。ごめんな」
「こっちこそ。……来てくれると、いいね」
「せやな」
双葉は改めてポストに背中を預けると、澄み渡る青い空を見上げた。
佐原駅前には二人だけでなく、佐原南高校女子フットサル部の部員全員が集まっている。
ただ一人を除いて。
その一人とは、新堂良子である。
もうすぐ電車の到着する時間であるというのに、みながまだ改札を通らず集合場所にいるのはまだ全員が集合していないため、つまりは良子を待っているためなのである。
来るかどうかなど分からないが、特に誰も欠席の連絡を受けてはいないので、とりあえず待つしかなかったのである。
「お前ら、なんで連れてこなかった?」
花咲主将が周辺案内のそばに寄りかかって腕組みをしながら、いつもの無表情な顔を双葉たち二人へと向けていた。
「えーーーーっ! 絶対に良子に構うなってゆうたんは主将やないですかあ! なんだったんですかあ、あの言葉は?」
「記憶にない」
ぼそり一言、わずかコンマ五秒で主将の答弁時間終了。
都合のええ記憶やなあ。つうか成績学年トップのくせに。
独り言が漏れても構わんわ、という気持ちで双葉は心の中で悪態をついた。
そう。二人は主将から直々に、間違っても当日の朝に良子を迎えに行ったり声を掛けたりはするなと釘を刺されていたのである。
この試練を乗り越えられないどころか乗り越えようとするつもりもないようなら、別に大会に来なくとも、いますぐ退部しようとも構わないから、と。
だから二人は主将の命令を忠実に守り、迎えに行くこともなく、声を掛けることもなく、ただの早朝散歩として良子の家の前を通ったのだ。
たまたま通りかかったその民家の前で、なんとなく少し休憩しようかということで、朝の六時から一時間と五分、民家の窓を見上げながら休んでいたのだ。
待てども良子は家から出てこないわ、集合時間に思い切り遅れたことでムクチ先輩の頭突きは食らうわ、二人にとって散々であったが。
駅の壁に掛けられた液晶表示のアナログ時計の長針が、カチッという小さな電子音とともに七時二十八分に変わった。
「もう時間だ。行こう」
主将は表情一つ変えず、部員へ指示を出した。
「来なかったね」
一年生の高井真矢は、双葉と留美の肩を軽く叩くと、改札へと歩き出した。良子がというよりは双葉たち二人に同情するような表情であった。
「一人でも欠けると、なんか淋しいなあ。特に良子ちゃんとなると」
鈍台洋子もちょっと残念そうな顔で、九頭柚葉の手を掴んで引っ張り歩き出した。
部員たちが次々と自動改札を通って、残るは双葉と留美だけになった。二人とも少し躊躇を見せていたが、いつまでここにいても埒があかないし電車に乗れなくなってしまう、と諦めて他に続いた。
双葉はふと振り向いたが、駅前のロータリーには数人の外国人観光客がいる程度で、他に人の姿は一人も見えなかった。
はあ、と双葉はため息をついた。
構内スピーカーから、成田行きの電車が到着するアナウンスが流れた。
それから三十秒ほどもすると、かたん、かたん、かたん、とホームに電車がゆっくりと進入してきた。
車内はガラガラのようである。
停車し、ドアが開いて二人ほどの乗客が降りると、部員たちは次々と乗り込んでいった。
双葉と留美は乗り込むのを渋ってホームに立ったままであったが、ついに発車ベルが鳴り始めたため、渋々と乗り込んだ。
その時である。
「あーっ!」
という桐谷舞の叫び声に、双葉と留美は振り向いて外を見た。他のみなも同様に、舞の見る方向へと顔を向けた。
双葉と留美は顔かたちのまったく異なる二人であるが、まるで双子かと見まごうような表情の変移であった。
驚きに小さく目を見開いたかと思うと、困ったように、嬉しそうに、目を細めてこぼれるような笑みを浮かべたのである。
何故そのように驚いたのか、語るまでもないだろう。改札の向こうに、ずっと待っていたものがついにあらわれたのだ。
身体の半分ほどもある大きなスポーツバッグを背負って全力でロータリーを突っ切ってくるのは、間違いなく新堂良子であった。
「来たああああああっ!」
双葉は笑顔満面右腕を突き上げた。
「ちょっと待ってえ!」
良子は必死に走りながら、すがるように前へと手を差し出した。当然ながら虚しく空を掴んだだけであったが。
「待てゆうて電車が待つわけないやろ! 急げえ!」
双葉の声に励まされ、良子は残る体力を振り絞ってぐんと加速した。が、その瞬間どしんと大きな外国人男性とぶつかって、よろけ、スポーツバッグを落としてしまった。
「ごごごめんなさい、すみません!」
良子は鼻を押さえながらペコペコ頭を下げた。
「謝っとる場合かあああ!」
双葉はあまりのじれったさに床を踏み鳴らし、絶叫していた。
良子ははっと目がさめたように身体を震わせると、素早くバッグを掴み上げた。
「良子ちゃん!」
「早く!」
「急いで!」
「シャク、急げよ!」
双葉や留美のみならず、他の部員たちにも励まされ急かされ、良子はロータリーを突っ切り終えて、駅の入口へ。
素早く自動改札を通った……いや、通ろうとしたところで大きなスポーツバッグが改札の間に引っ掛かって、後ろに身を持っていかれたはずみにICカード乗車券をぽとり落としてしまった。
「ぼけとる場合かーーーーーーっ!」
絶叫響く中、ついに発車ベルが鳴り終わり、しゅーーーとドアが閉まり始めた。
だが、途中でガツッと音がしてドアの開閉が停止した。
閉じようとするドアの間に、双葉が自らの頭を突っ込んだのだ。
「あいたたたっ!」
なんでバッグでなく頭など突っ込んでしまったのだろうと激痛の中後悔する双葉であったが、とにかくそのおかげで再びドアは開き、ついに新堂良子が飛び込んできたのである。
「よっしゃーーーっ!」
「やったーーっ!」
何人か他の乗客もいるというのに、一目はばからず部員たちの歓声が上がった。
良子はバッグをどさり床に落とすと、膝に手をついて、ぜいぜいと喘いだ。
無理なご乗車はおやめください、という車内アナウンスが流れると、ゆっくりと電車が動き出した。
「遅れて……すみませんでした」
良子は花咲主将の姿を発見すると、呼吸の回復も待たず歩み寄り深く頭を下げた。
「本当なら体罰ものだけど、まあ、その話はまた今度だ」
主将はいつものように、表情一つ変えることなくぼそりと声を出した。
「はい!」
良子は笑顔で、元気良く返事をした。
なんか明るさ戻ってるねえ、などと周囲で部員たちがぼそぼそ。
「待っとったでえ、良子お」
双葉が良子に近づいた。なんだか泣き出しそうな声で。よく見ると確かに少し涙ぐんでしまっている。
「ごめん、心配かけた。双葉ちゃん、留美ちゃん」
「かけすぎや!」
双葉は溢れそうになる涙を指で拭った。
「あたしは別に、そんな心配してなかったけどねえ。信じてたから」
留美は淡々とそういいながらも、その顔を見られまいと良子に背を向けた。
「ありがとう。双葉ちゃん、留美ちゃん、それにみんな、本当にありがとう。それと、迷惑かけてほんとうにごめんなさい」
良子は改めて、周囲に頭を下げた。
涙ぐんでいる双葉につられて、自分も涙目になっていた。
「良子ちゃん、今日は主将代行として、頑張ってよね」
鈴鹿澄子が、ちょっと照れたような笑顔を見せた。
「おー、澄子が笑うなんて珍しい。そうや、澄子のいう通り一回戦二回戦の指揮、よろしゅう頼むで」
「分かった。みんなの力を合わせて、絶対に勝とう」
良子と双葉はどちらからともなく手を差し出し、がっちりと握手をかわした。
笑い合う二人。
こうして列車は田園の中を突き抜けて、彼女たちは遠く埼玉県にある大会会場へ遥々と向かうのであった。
第一部・完
次章からは第二部である激闘編です。
あと二試合。
それで、長々と書き綴ってきた佐原南高校女子フットサル部の物語も完結です。
良子は真っ暗な部屋で布団の上に横たわって、大の字になって天井を見上げている。
帰宅するなり制服姿のまま倒れ込んで、もう二時間である。
まだ夜の八時半。
眠るには早い時間であるが、だからといって立ち上がったとしてもなにをする気力も起こらなかった。
でも、ここでこのようにしていたところで、それはただ、思い出したくない記憶ばかりを思い出してしまうというだけであった。
日和ケ丘中学校時代に受けた、津田文江による干渉の数々を。
良子がまともにボールを蹴れなくなっているのをいいことに、毎日のように彼女から密着するがごとしの指導を受けていたのだ。
名目は指導であるが、明らかないじめであった。
単純なミスをする良子に対して、何故出来ないのかを執拗に問い詰めるのだ。
それにより良子が悪循環に陥ることを、分かっているのだ。
それにより良子が家族の問題に苦しむことを、分かっていて笑いながら問い詰めるのだ。
迂闊にもそうしたデリケートな問題について話してしまったことが津田文江のそうした行動に繋がっているわけで、黙秘しておけばよかったと後悔するのであるが、過ぎたことをどうこう出来るものではなかった。
しつこく問われてつい漏らしてしまった悩みについて、津田文江は逐一を覚えており、ことあるごとに持ち出してはフットサルでの失敗を強引にそのことへと結び付けて良子に答えを強要させようとするのだ。
そのようなことをしてくる先輩に密着されて常識的な感覚であれば朗らかでいられるはずもないのが当然であるというのに、挨拶の声が小さい、態度が暗い、などとよく怒鳴られた。
だから良子は、精一杯明るくするよう精一杯頑張った。
なるべく指導を受けないように。
指導を受けるということは、すなわち家庭での良子の行い、つまりは母親を見捨てたことを執拗に追求され、責められるということに他ならなかったから。
おかげで学校では面白くなかろうとも笑顔でいられる技術が身についたけど、感謝の念など抱けるはずもなかった。
笑顔で学校生活を過ごすものの、自宅で一人きりになると泣いてばかりいた。
フットサルにこだわり続けて、母親を失ってしまった。そう思えばこそ自分への誓いとして、フットサルをひたすら頑張り意地になって続けていたわけであるが、そのような考えが精神衛生上良いはずがなく、それに加えて津田文江のそうした行動である。良子の心は、どんどん蝕まれて壊れていった。
やがて、指導というより陰湿ないじめであることに周囲が気づきはじめ、津田文江は良子へ近づくのを禁じられた。
津田文江がなにもいいわけすることもなくあっさり身を引いたため、二人がくっつくことはなくなった。
でも決して良子の心は楽になどならなかった。
何故ならばもう津田文江は、良子を追い込んで自尊心を満足させるために、接近し声を掛ける必要などなかったからだ。
毎日、離れたところから微笑んでいる。それだけで充分だったのである。
良子は彼女からの視線を受けるたびに、これまでのことを思い出した。
津田文江に、良子が家族に感じている負い目を心の奥底までほじくり返されたことを。
その負い目があればこそ、前述したような理由によりフットサル部を退部することなく在籍し続けたわけであるが、だからといってそんなこと喜べるはずもなかった。
負けてたまるかという意地もあったし、清水由香利のような仲良しが出来たことなども救いとなって、なんとか部活に毎日通い続けて、やがて時は流れて翌年になった。
良子は二年生になり津田文江は三年生になったが、ただそれだけのことであり、二人の関係性そのものにはなんら変化が生じることはなかった。
ただし環境としては大きな変化が一つあった。
夏休み中に行われた大会を最後に、津田文江が引退したのである。
引退したとはいえOGとして頻繁に体育館を訪れていたため、あの笑顔を見なければならない頻度がそれほど変わったわけではなかった。
例え訪れていなくとも、いつ来るのかというのが恐怖でもあり、心の休まる時はないといってよかった。
つまり良子は、ほぼ三年間を津田文江の恐怖に怯えながら生きてきたのである。
外見上は実に朗らかであったが、それは津田文江に仕込まれたものであり、いま振り返れば中学時代に心から楽しいなどと思えたことは一度たりともなかったように思う。
それから半年が経ち、良子は父親の転勤によって中学卒業と同時に千葉に移り住むことになったわけだが、それは仲の良い友達と別れなければならない淋しさなどまるで苦に思えないくらいに嬉しいものだった。
フットサルをまたまともにプレー出来るようになるかどうかなど分からないが、でもとにかく、これでまた思い切りフットサルが出来る。
他人から笑われるような低レベルなものであろうと、そんなの関係ない。
お母さんがいなくなってしまった時に、自分に誓ったんだ。
どんなに下手だろうともフットサルを精一杯頑張り、楽しむことを。
自分が弱く情けないばかりに中学での三年間はまったく果たすことが出来なかったけれど、でも今度こそ、やってやるぞ。
生まれ変わったと思って、精一杯。
そう思っていたのに。
フットサルによる親友だって出来たし、入部したところが神様のいたフットサル部で、これはここで頑張れという運命なんだ、って、そう思っていたのに……
どうして……
2
「シャクは、どうしたい?」
部室に呼ばれた良子に対し、主将の花咲蕾が開口一番に発した問いである。
「どう、とは?」
聞くまでもなく、良子にはなんとなく分かっていた。でもそう質問を返したのは、自分自身の言動を主導していく勇気がないからだった。
主将は脚のガタついた椅子に座りながら、そっと腕を組んだ。少し考えて、というよりはあえて間を空けたような感じに口を開いた。
「チーム作りの件だよ。さすがにこうなってしまうともう、やれと強制は出来ないからな」
主将は以前、良子による良子を中心としたチームを作るよう、良子に命令を出した。
一学期一杯で退部する予定の良子であるが、現在部員である以上は精一杯やってもらう、と。
だが、事情が変わった。
大会二回戦目で当たるであろう前橋森越学園に、良子の小中学校での先輩である津田文江が転校してきておりチームを率いる主力になっていることが分かったのだ。
花咲主将は良子が翼をなくしてしまった理由を知る数少ない一人であり、津田文江とのことだって知っている。彼女によって、どれだけ良子が苦しめられたかということも。
そんな津田文江が、関東に越してきたばかりか今度の大会で佐原南と対戦する可能性が濃厚になったのである。
主将はその場におらず見ていなかったが、部室でそれを知った良子が部員たちのいる前で顔面蒼白になって狂ったような悲鳴を上げて泣き叫んだともなれば、やはり無理強いは出来ないのであろう。
強制しない、辞退は自由、いますぐ退部するのも自由、すべて好きにすればいい。
ということのようであるが、しかしそのように選択をすべて委ねられても、良子としては困ってしまうところであった。
「あたしが決めないと、ダメですか?」
自分に選択の出来ないこと、素直に良子は話した。
「どうしてそんなこと尋ねる?」
「……どうして、といわれても……」
「練習が回るようになってきていたから? 少し自信がついて、面白くなってきて、辞めずに頑張ってみようと思っていたら、その子と対戦するかも知れないという話になって、ぐらついている。挑戦して、乗り越えたい気持ちもあるけど、余計に傷つくのも怖い」
主将は眼鏡の奥の切れ長の目を良子からそらすことなく、淡々と自分の想像を述べた。
良子は少し考え込むようにして、やがてゆっくりと口を開いた。
「……自分のことながら自分でもよく分からないんですけど、たぶん主将のおっしゃる通りなんだと思います。だからあたし、どうすればいいのか……」
「だから好きにしろといっている。自分の責任で決めろ」
「そんな……」
保護されて当然などと甘えていたつもりはないが、突き放された、見放された、などと考えてしまうということは、そう思っていたということなのだろうか。
結局良子は、主将の問いに対して答えを出すことは出来なかった。
もう少し待って欲しい。そうとしかいえず、弱々しくうな垂れながら部室を去ったのである。
3
「ごめん、遅くなった」
新堂良子は体育館に戻ってくると、一年生たちが練習している中へと飛び込んだ。
「花咲主将、なんだって?」
良子不在の代理指揮をとっていた芦野留美が、良子へ近寄りながら尋ねた。
「なんでもない。大会の話。練習方法について色々とアドバイス受けた」
良子は作り物めいた不自然な笑顔を浮かた。
嘘をついた。
本当は部活をいますぐ辞めるかどうか、そういった話をしていたのだ。
いま退部を決意してもおかしくない状況にあるとはいえ、自分自身のことを決められず保留にして逃げ出してきたからには、こうして指揮をとり続けるしかない。
良子は、留美から簡単にここまでの練習内容や成果を聞くと、一年生の指揮に戻った。
しかし、みんなを裏切っているような罪悪感からか、その指揮は実に酷いものであった。
芦野留美の協力などもあって段々と自分のチームを作ることへの自信を深めていた良子であるというのに、すっかり最初の状態へと戻ってしまっていた。
それは罪悪感のためであるのか、
津田文江と対戦するかも知れないという恐怖のためなのか、
こうした事柄の連鎖によって、家族の問題を思い出してしまうということか、
自分のことであるというのに、なにが原因で自分がおかしくなってしまっているのか、自分でもまったく分からなかった。
4
「えっと、距離感は、こんな感じかな。相手の守り方が予想の通りであることと、奪われた時にフィクソがしっかりカバーをしくれることが前提にはなるけれど。とりあえず攻めはこのパターンと、あとオプションとしては三人を少し寄せて真ん中を突き破る……でも、結局練習では最後まで上手くいかなかったからなあ」
新堂良子は自宅自室で、机に置いたディスプレイに映る赤と白の三角の動きを見ながら独り言を呟いていた。
左腕につけているリストフォンの内容を、大型ディスプレイに表示させ、戦術の微調整をしているところだ。
監督経験などない良子としては、これまで自分が選手としてやってきたつたない経験と、こうすれば良いかもという漠然とした考え、それくらいしか戦術を組み立てるための素材を持っていない。
だから基本としては最初から練習していることを精錬させていくだけであるが、試合とは対戦相手の存在するものであり、それに合わせた修正も必要である。現在、その修正の部分を考えていたのだ。
たかだか高校生の部活であり、それほど詳細な情報が入手出来るわけではないが、すべての情報がネットワーク化しているこの時代、一昔前と比べれば遥かに参考になるものが得られる。
良子はそうした情報を入手して、戦術を少し変えたり、攻守における新たな策、緊急事態に取るべき策、などを打ち立てようとしているのだ。
大会は明日。
もう練習することは出来ないが、佐原南の選手たちは戦術理解能力は非常に高く、試合前に伝えるだけで充分に実践してくれるだろう。その点は、良子は心配していない。むしろ、自分の立てた戦術がそもそも通用するのか、そちらの方がよほど不安だ。
だからこそ有用な戦術オプションがないか、必死にシミュレーションを繰り返していたのである。
明日、大会に参加するかどうかも分からないというのに。
結局、主将代理の役目を降りるか否か、決めきれずにこの大会前日を迎えることになってしまったのである。
誰も、なにもいってこなかったから。
主将が改めて声をかけてくれていれば、辞めますといえたかも知れないのに。
だからぎりぎりまで練習を続け、ぎりぎりまで戦術を考えるしかなかったのである。
第一戦目の対戦相手である埼玉県立杉戸商業高校、ここに対してはもう腐るほどシミュレーションを実行しており、実際に上級生を仮想的と見立てての練習もしっかりと行なっている。
対して、第二回戦で当たるかも知れない前橋森越の対策に関してはさっぱりであった。
毎日の練習で自分たちの連係を高めていくということは出来ても、この相手に対しての戦術オプションは、なにも考えることが出来ずにいた。
去年までの特徴や、一般的なデータを当て込んでのシミュレーションは行なっており、そうした範囲内での練習は繰り返しやっている。
しかし、判明している個人データを入れてのシミュレーションはまだなにも行なっていない。
要するに、転校生である津田文江のデータを、なに一つとして入力していないのだ。
今年の前橋森越はあなどれない恐ろしい相手であるが、それは津田文江の存在を避けて語ることは出来ないというのに。
入力しようとは何度も試みたが、その都度、良子の呼吸は乱れ、頭痛がして、結局やれることからやろうと杉戸商業への対策に戻ってしまうのだ。
第一回戦を突破出来なければ、どのみち対戦することもないのだから、などと自分にいい訳をしながら。
そもそも自分が大会に参加するかどうかも分からないのだから。
もう前日であるというのにまだこのような煮え切らない心境であること、我ながら最低だと思っている。
しかし、どうしようもなかったのだ。
何度も主将に声を掛けようと思ったが、掛けられなかったのだ。
今日の部活練習が終わる最後の最後まで、いや帰り道も、家に帰った後、いま現在も、自らをどうすべきであるかずっと迷っているのだ。
きっと自分は、欠陥人間なんだ。
誰かの信頼に応えたり、出来ない人間なんだ。
親友とか、本当に信頼出来る誰かを作ったり出来ない、作る資格のない人間なんだ。
だから、心からお母さんを信頼して、大切にしてやること、守ってやることが出来なかった。
……戻れれば。
時を戻すことさえ出来れば。
変われるのに。
絶対に、変わってみせるのに。
良子は、心の中でため息をついた。
フットサルのことで悩むと、必ずぐるぐる回った挙句にお母さんのことに行き着いてしまう。
家族を放っておいてフットサルに夢中になっていたということが今回の一連のことすべての根底なので、それは当然といえば当然であるのだが。
でも、いまはフットサルのことだけを考えたいのに……
ダメだ。
頭を休めよう。ちょっと下へ行って、休憩しよう。
休んでどうなるとも思えないけど、でもそうしないと脳味噌蒸発して死ぬ。
と席を立ち、ふと人の気配に振り返ると、開いたドアのところに兄の高貴が立っていた。
「ちょっと、なあに兄貴、ノックもしないで開けないでよ」
「したよ。何回も。でも返事がなかったんじゃないか」
「あ、そうなんだ。ごめん」
「夕食が出来たから、呼びにきたんだよ。なにやってたんだ。またフットサルのことか? ほんと熱心だなあ」
こっちの気も知らないで、なにをのほほんと。
そう思ったけれども、学校でのこと部活でのことなどなにも教えていないのだから当然か。
きっと兄貴たちにすれば、自分はいまだにあの頃の良子のままなのだ。
フットサルを頑張って自慢の娘であり続ければお母さんはいつまでも家にいてくれる。そんな子供じみた幻想を胸に抱いて、ただひたすらガムシャラだったあの頃のままなのだ。
結局、いくらフットサルを頑張ったところでお母さんを止めることなど出来なかった。
大会があったあの日、黙って家を出てそれっきり行方知れずだ。
もしかしたらフットサルなんかを頑張らずに、ただお母さんの側にいてあげたら、出ていくことなんかなかったのでは。
いまさらそんなことを考えたところでどうしようもないというのに、ことあるごとに考えてしまう自分が嫌になる。
お母さんのことが好きだからこそ、だからフットサルを頑張り抜くんだ。そう自分に誓って、中学時代のあの三年間を耐えたのだというのに。
つい先ほどまではフットサルや津田文江のことで頭が一杯であったが、いまは母親のことで一杯になっていた。悩みの根源は同じであるとはいえ。
ダイニングに入り、食卓に入り、家族と一緒に食事を始めても、なおも考えてしまっていた。
みんなはお母さんのことをどう思っているのだろう、などと。
会いたいけれど、もう諦めているのだろうか。
それとも、自分たちを捨てた親になんか会いたくもないのだろうか。
石巻にいた頃に一度、良子が狂ったように泣き喚いて自殺寸前の大騒動にまでなったことがある。それ以来、家族はあまり母親のことには触れない。
だから、良子はみんながどう考えているのかを知らない。
みんながどう考えているのかなど、想像してみたこともなかった。
自分は、どうしたいのだろう……
「あのさ」
自分の世界にどっぷりと入り込みながら黙々と箸を使っていた良子であったが、不意に顔を上げ口を開いていた。
大五郎、高貴、雄二が良子へと視線を向けた。みな表情が真面目であるのは、先ほどからの良子の態度にただならぬものを感じていたからであろうか。
まだ幼い六葉だけはこの空気感に気づくこともなく、がっしり握り締めたプラスチックのスプーンをせっせと口に運んでいたが。
「あの……」
みんなの視線を受けていることに気づいて、良子はばつ悪そうに口ごもってしまった。
別になにかをいおうと意識して口を開いたわけではないのだ。
母のことを考えていて、みんなはどう思っているのだろうなどと思った瞬間、無意識に口が開いてしまったという、ただそれだけなのだ。
「なんでもない。ごめん」
良子は下を向いてしまった。
これまで自ら母の話をしようとすることなど決してなかったというのに、どうして母のことを考えていて口が勝手に開いたのだろうか。
自身のことであるというのに、さっぱり分からなかった。
良子の無意識は、いまここで、母のなにを家族に伝えようとしていたのか。
そもそも何故このタイミングで。
明日が大会の日だからであろうか。
そのような話を出来るようになったんだという勇気の成長を自覚し、明日の大会に臨もうとしたのだろうか。
分からない。
分かっているのは焦り、罪悪感、劣等感、怒り、負の感情がないまぜとなって泥沼に深く埋もれていくという不安であった。
そうした不安が頭の中をぐるぐると回り、やがて不安は恐怖となり、その恐怖に耐えられなくなって、まだ食事の途中であるというのに席を立ち、風呂に入り、寝た。
5
かすかに広げたカーテンの隙間から良子が見たもの、それは高木双葉と芦野留美の姿であった。
二人ともジャージのズボンと白いシャツという姿で、スポーツバッグを足元に置いている。
良子を迎えに来たのだろう。
本日埼玉県にて行われるフットサル大会予選に参加するためだ。
良子は二階自室の窓辺に立って、前述した通り気づかれないようカーテンのわずかな隙間から二人を見下ろしていた。
ふう、と思わずため息をつきそうになり、慌てて口を押さえた。
ふわり微かに揺れるカーテンに、自分がここに隠れていることがバレてしまうと思ったからだ。
部屋の隅には、スポーツバッグが無造作に置かれている。
とりあえず前日のうち試合に必要な一式を詰め込んでおいたものであるが、しかし肝心の良子自身がまるで出掛ける仕度などしておらず、まだ寝間着姿のままであった。
午前七時。
もう目覚めてから二時間も経っているというのに。
既に佐原駅前に集合する時間であるというのに。
ただ良子にとっては、自分のことよりも窓から見える二人のことの方がよほど気になるところであった。
あの二人は、あんなところで一体なにをやっているのだろうか。
六時くらいにやって来て、もう一時間もあのままで。
乗る予定の電車が佐原駅に到着するまであと三十分の余裕があるとはいえ、もう集合時間であるというのに。
確認したいのはやまやまであるが、自分から窓を開けて声を掛ける勇気もなく、なんともはがゆい気持ちであった。
呼んでくれれば……
玄関のチャイムを押してくれさえすれば、出るのに。
たとえ自分がぐずろうとも家族の誰かは出るだろうし、強引に玄関まで引っ張っていくか、または双葉ちゃんたちをこっちに連れてくるか、してくれるだろう。
なんで、呼んでくれないんだ。
ただ、そこに立っているだけで……なにしに来たんだよ。
などと心の中で愚痴をいうも外の二人に伝わるはずもなく、呼び鈴が鳴らされるなど一切ないままさらに五分が経過した。
双葉たちは顔を見合わせると、道路に置いたバッグを手に取って肩に背負った。
まさか……
良子の小さな胸の中で、心臓がどくんと大きく跳ねた。
驚きと不安は、現実のものとなった。
二人は良子の部屋の窓をちらりと見上げると、なにをいうこともなくそのまま歩いて去ってしまったのである。
信じられない出来事に、良子はしばし唖然としてしまっていた。
だって、おかしいじゃないか。
迎えに来ておいて。
わたしがなかなか玄関から出てこないというのならば、普通は呼び鈴を押すなり大声で呼び掛けるなりするはずではないか。
ここに来たのが花咲主将なら話は分かる。無理強いせずに、あくまでわたしの判断に任せるためにだ。
でも、二人にはそんなことまったく話してもいないのに。
そのために昨日まで練習をしてきたんだから行くに決まっている、そう思っているはずなのに。
……主将だ。
きっと、主将が二人に話したんだ。
余計な助け舟を出させないように。
わたしがわたし自身の意思で、大会へと向かうように。
でも、
でも……
「でも、それが出来ないから、困ってるんじゃないかあ……」
良子は力抜けたように膝を崩し、かすれたような声を出しながら、幼児のおままごとのようにぺたんと床に座り込んでしまった。
完全孤立の状態に、身体が、指先が、ぶるぶると震えていた。
自分をそんな状態へと追い込んだ主将に、怒りの矛先が向けられていた。
花咲主将は、なんでこんな意地悪ばかりするんだ。
なにを考えているのか知らないけど、大きなお世話なんだよ。わたしみたいなヘタクソに主将をやれとかさあ。
いまのだってそうだよ。双葉ちゃん留美ちゃんが一緒に行こうよと呼びに来てくれれば、きっとそうしたのに。
二人とも、わたしのこと呼びたかったと思うよ。じゃあ、邪魔するなよ。
主将のバカ。
チビ。
わたしと同じくらいだけど、でもいってやる。チビ!
そのうちなんだかむなしくなってきて、頭の中で長いため息をついた。
しばしの沈黙ののち、
「一人じゃ行かれないから、困ってるんじゃないかよお」
また、先ほどいったような言葉をため息混じりに繰り返した。
でも……そうまでして参加しなければならないようなことか。
このまま部屋にいて、行かなくたっていいんじゃないか。
たかだか学校の部活じゃないか。
三年生にとって大事な大会だかなんだか知らないけど、わたしにとって大事でもなんでもない。
どうせ一学期で退部するんだし。
別にわたしなんかが行く必要ないだろう。みんなに迷惑だろうし。
というか、行かれない。
たとえ行きたくとも、行かれないよ。
無理だ。
最初から、無理だったんだ。
「留美ちゃん、双葉ちゃん、ごめんね。せっかく来てくれたのに」
良子はかすかに口を開き、二人に謝ると、ゆっくりと立ち上がった。
信じていた者を裏切ってしまったことからくる罪悪感。でも心が定まって、ちょっとだけすっきりしたような顔でもあった。
部屋を出て階段を下りながら、左腕にはめているリストフォンの画面をつけた。
主将へ不参加の連絡をしようと思ったのだ。
「あれ、姉ちゃん、大会あんじゃないの?」
階段の下で、弟の雄二が歩きながら歯を磨いていた。
「行くのやめようかなーと思って」
良子は元気なく笑った。
「えー、いいの? そんな勝手に」
「よくはないんだろうけど……体調不良なんだから仕方ない」
嘘をついた。
体調ではなく、心の不良だ。
なにが良子だよな。名前負けもいいところだ。
不良子ならぴったりなんだろうけどさ。もしくはバカ子だ。
自虐的な言葉を心の中で発しながら、居間へと入った。
「あれ、今日試合とかいってなかったか? まだ出掛けないなと思ったら、なにやってんだそんな格好で」
兄の高貴だ。
さすが兄弟というべきか、雄二と同じようなことをいってきた。
「欠場。あたしなんかが一人いなくたって、佐原南は変わらないよ」
むしろ、お邪魔虫がいなくなって劇的に強くなるかも知れない。
そしたらそっちの方がみんなにも喜ばしいことじゃないか。
良子は跳ね上がるようにして、勢いよくソファにお尻を沈めた。
「フットサル部、やめるつもりなんだって?」
高貴は、良子の隣に腰を下ろした。
「え?」
兄の言葉に、どんと心臓跳ね上がった。
「どうして……そのことを……」
良子はそういったきり、口を半開きにしたまま硬直してしまっていた。
しばらくして、高貴が口を開いた。
「やめるつもりなら、いまお母さんの話をしても構わないよな。だって二つのことが絡み合って、心の状態が悪い方へと行ってしまってたんだろ。でも、一つがすっきり解消されるわけだからな」
「だからさあ、どうして兄貴がそんなこと知っているの!」
お母さんの話になると、罪悪感から頭の中が真っ白になってなにも考えられなくなってしまう。
家族のみんなが知っているのは、それくらいのはずなのに。
部活でのことなんか、家族の誰にも話したことなんかなかったのに。
「この間、高木さんが遊びに来ただろ。その時にね。良子には絶対に内緒で、それとなくフォローしてやってくれっていわれてたんだよ。やっぱりおれには無理みたいだけどね、それとなくだなんて」
「双葉ちゃんが……」
この前、確かに兄貴となにか話しているようではあったけど、そんな話をしていたのか……
「良子さあ、昨日の晩御飯の時、なにかいいかけてやめただろ」
数秒の間をおいて、良子は頷いた。
「お母さんのことだろ」
その直球に、またまた良子の胸はどくんと跳ね上がった。
「分からないよ」
良子は半分嘘をついた。
母親のことをあれこれ考えているうちについ口が開いてしまったのだから、母親のことに決まっている。
それについてなにをいおうとしたのか自分でも分かっていない、というのは本当であったが。
「分かんないわけあるか。あれはな、お前がお母さんのことを考えている時の顔だ」
もう十六年も一つ屋根の下で暮らしてきた兄に、このような嘘は通じないようであった。
「まだ、後悔してんのか? お母さんがいなくなった時のこと」
「分かんないよ! なに、さっきからお母さんお母さんってさあ」
良子は、突然声を荒らげた。
はぐらかそうとしたところを追求され逃げ場をなくし、大声でごまかそうとしたのだ。
「さっきいったろ。フットサルを続けないんなら、こういう話をしても構わないよなって」
「だからって、なんでこんな時に」
こんな時にでなくとも、そもそもこれまで自分を気づかって決してお母さんの話などしなかった兄貴だというのに。
どうして、自分がこれほど弱っている状態の時に、わざわざそんな話をしてくるんだ。
「おれにもよく分からないけど、色々と事情を聞いてしまった以上は大会の前までに決着をつけておかないといけないんじゃないかって気がしてさ。自分自身にある程度の決着をつけたその上で、良子にはどうしたいかを考えてもらいたいんだ。……ではもう一度聞くぞ。あの時のこと、まだ悔やんでるのか?」
「だから、知らないよ、そんなこと。考えたこともない! もうその話するな!」
良子は声を裏返らせながら叫ぶと、溜まったもやもやを払うように首を左右に激しく振った。
高貴はそんな良子を見ながらも、穏やかな表情をなに一つ変えずに続けた。
「おれもな、お母さんがいなくなってもケロッとしてたなんてよくいわれるんだけど、実際には隠れて大泣きしてたんだよな。いつも生意気なことばかりいってたから、だから愛想つかして出て行ったんじゃないかって、ずっと後悔してた。……いまでもね」
「兄貴も?」
良子は、ちょっと信じられないといった表情で高貴の顔を見つめていた。
「おれもだよ」
洗面所で歯を磨き終えた雄二が、タオルで顔を拭きながら居間へと入ってきた。
「クラスの女の子を泣かせてしまって、お母さんが学校に呼び出されたことがあったんだ。その翌週だったからさ、消えちゃったの。だから、ずっとずっと後悔してた。姉ちゃんなんかじゃなくて、おれが原因でいなくなったんだって。いまでも思ってるよ。おれのせいだって」
「雄二……」
良子には、震える唇からかすかに弟の名を呼んだ。
「なんだお前、いつから聞いてたんだ。ま、いいけど。でな、こうしたことはね、おれたちだけでなく六葉も思ってるらしいんだよ」
「え……」
「自分がお腹の中で暴れたから、お母さん痛くて嫌いになったんじゃないか、って。おれたちは、生まれた後もずっと一生懸命に可愛がっもらえて、育ててもらえたというのに、自分が生まれたら出て行ってしまったんだから、なんて思っているみたい。そういったことお父さんから聞かされたのついこないだのことなんだけど、子供ながら結構ショックを受けたみたいで、自分はなにも悪くないというのにお母さんに泣いて謝ってたよ」
そこまでいうと、高貴は口を閉ざした。
良子はソファから立ち上がり、そのまま無言で立ち尽くしていた。
言葉が出なかったというよりも、高貴たちの言葉が頭の中をぐるぐる回り続けていたのだ。
みんながどういう思いでいたのかなんて、考えてみたこともなかった。
つらいのは自分だけなんだと思っていた。
みんな、つらかったんだ。
だけれども、わたしのことを考えて、常に気をつかってくれていた。
それなのに……
それなのに、わたしは……
段々と、良子の表情が変化していった。
明るいものではなかったが、それは間違いなく雪の下で土を突き破り蕾が伸びていくかのような、そんな、未来を感じさせる表情であった。
良子はゆっくりと口を開いた。
「あたし、自分が耳を塞ぐことしか考えていなかった。みんながどう思っているかなんて、考えたこともなかった」
思っていることを正直に口に出したことで、良子の顔が少しすっきりとしたものになっていた。
一呼吸を置いて、またゆっくり口を開いた。
「あたしね、自分自身の気持ちをずっと騙し続けてきていたけど、でも本当はどんな気持ちなのか分かっていた。違う違う違うって、嘘の言葉で自分の正直な心を掻き消し続けてきた」
「本当の、気持ち?」
高貴は尋ねた。
「いつかお母さんを探そう。後悔してもいい。……って」
あの時から、そう思っていた。
だからこそ、いまやるべきことをきっちりやろう。フットサルをしっかりと楽しんで、それだけじゃなく人生をしっかりと楽しんで、幸せになって、お母さんの育て方は間違っていなかったことを証明してやるんだ。そう思っていた。
だからたとえボールを蹴れなくなっても、くさぶえFCや日和ケ丘中学校で必死にフットサルにしがみついて頑張ってきた。
でも、いつの間にか頑張る方向性がずれてしまっていたんだ。
ただ意地に意地を重ね、自分の心に嘘を重ねてきただけだったんだ。
わたし、なにをやっていたんだろうな。
もう子供じゃないってのに、なにを一人で殻に閉じこもっていたんだろうな。
わたしのこと思ってくれる家族がいるというのに。
素敵な友達が石巻にたくさんいたし、こっちにだってあんな素晴らしい友達がいるというのに。
ほんと、なにやってたんだろう。
バカ子だ。
新堂バカ子だよ、わたし。
ふと気がつくと、視界がぐにゃぐにゃに歪んでいた。
涙が溢れ、こぼれていたのである。
拭っても拭っても、次から溢れて止まらなかった。
「ありがとう、兄貴、雄二。……本当にありがとう」
しゃくり上げながら、なんとか目の前の兄弟に感謝の言葉を絞り出した。
「え、え、なんか、わけ分かんないんだけど。そもそも二人とも、なんでお母さんの話なんかしてたんだよ?」
途中から話を聞いて乗っかってきただけの雄二は、すっかりきょとんとした顔になってしまっていた。
高貴はなにも語ることなく、ただいたずらっぽく笑った。
「あ、そうだ良子、おれさっきいったよな。こういった話をして、その上で良子がどうしたいのか考えて欲しいって」
兄の言葉に良子は、
「いまいった通りだよ。こんな朝っぱらから、人生考えさせられることになるなんて思わなかったけど……」
涙を拭って笑顔になった良子は、ふと壁の時計に目をやった。
「あーーーーーーーーっ!」
間髪入れず、大口開いて間抜けな顔で叫んでいた。
時計の針は、七時二十分を指している。
つまり、大会会場へと向かう電車があと十分で佐原駅を出発してしまうということだ。
良子は踵を返すやドタドタ大きな音を立て、階段を全力で駆け登った。
自室へ入ると猛烈な速度で寝間着を上も下も脱ぎ捨てジャージへと着替え、スポーツバッグを背負うと再びドタドタ一階へ。
「やれること、やってくる! 行ってきます!」
久しぶりに腹の底からの大きな声を出すと、靴を履き、玄関の扉を開けて飛び出した。
夏の、眩しい朝日がかっと良子の全身を照らした。
じりじり焦がしてくるような陽光の中、良子はぐっと拳を握り締めた。
後悔してもいい。
全力で、いま出来ることをやる。
それだけだ。
リストフォンで主将に連絡している時間などはない。
徒歩で二十分くらいかかる距離だけど、全力で走ればきっとまだ電車に間に合う。
「行くぞーーーーっ!」
良子は大声で叫び、田園風景を背に全力で駆け出した。
6
「きいへんなあ」
高木双葉は、昭和前半風デザインの円柱型郵便ポストに背中を預け、意味もなくざりざりと靴裏で道路を引っ掻いている。
「きっと来るよ。信じよう」
芦野留美は口ではそういうものの、自身も道路を足の裏で引っ掻きたくてむずむずそわそわとしているように見えた。
「でも、もう時間ないで」
ここは佐原駅南口前。
現在の時刻は七時二十七分。
あと少しで成田行きの電車が来てしまう。
「あと三分あるよ」
「意外に楽観的やなあ、留美は」
感情としてはまったく一緒で、正直に口に出すか、気持ちを押さえるために楽観論を吐くかの違いだけかも知れないが。
「最悪、次の電車だっていいんだし」
「アホか、第一試合やで。ウォーミングアップがまったく出来ひんやん」
「いちいちうるさいなあ。こっちだって焦ってるんだよ」
「うちのがもっともっと焦っとるわ! ……とか戦ってもしょうがないことやな。ごめんな」
「こっちこそ。……来てくれると、いいね」
「せやな」
双葉は改めてポストに背中を預けると、澄み渡る青い空を見上げた。
佐原駅前には二人だけでなく、佐原南高校女子フットサル部の部員全員が集まっている。
ただ一人を除いて。
その一人とは、新堂良子である。
もうすぐ電車の到着する時間であるというのに、みながまだ改札を通らず集合場所にいるのはまだ全員が集合していないため、つまりは良子を待っているためなのである。
来るかどうかなど分からないが、特に誰も欠席の連絡を受けてはいないので、とりあえず待つしかなかったのである。
「お前ら、なんで連れてこなかった?」
花咲主将が周辺案内のそばに寄りかかって腕組みをしながら、いつもの無表情な顔を双葉たち二人へと向けていた。
「えーーーーっ! 絶対に良子に構うなってゆうたんは主将やないですかあ! なんだったんですかあ、あの言葉は?」
「記憶にない」
ぼそり一言、わずかコンマ五秒で主将の答弁時間終了。
都合のええ記憶やなあ。つうか成績学年トップのくせに。
独り言が漏れても構わんわ、という気持ちで双葉は心の中で悪態をついた。
そう。二人は主将から直々に、間違っても当日の朝に良子を迎えに行ったり声を掛けたりはするなと釘を刺されていたのである。
この試練を乗り越えられないどころか乗り越えようとするつもりもないようなら、別に大会に来なくとも、いますぐ退部しようとも構わないから、と。
だから二人は主将の命令を忠実に守り、迎えに行くこともなく、声を掛けることもなく、ただの早朝散歩として良子の家の前を通ったのだ。
たまたま通りかかったその民家の前で、なんとなく少し休憩しようかということで、朝の六時から一時間と五分、民家の窓を見上げながら休んでいたのだ。
待てども良子は家から出てこないわ、集合時間に思い切り遅れたことでムクチ先輩の頭突きは食らうわ、二人にとって散々であったが。
駅の壁に掛けられた液晶表示のアナログ時計の長針が、カチッという小さな電子音とともに七時二十八分に変わった。
「もう時間だ。行こう」
主将は表情一つ変えず、部員へ指示を出した。
「来なかったね」
一年生の高井真矢は、双葉と留美の肩を軽く叩くと、改札へと歩き出した。良子がというよりは双葉たち二人に同情するような表情であった。
「一人でも欠けると、なんか淋しいなあ。特に良子ちゃんとなると」
鈍台洋子もちょっと残念そうな顔で、九頭柚葉の手を掴んで引っ張り歩き出した。
部員たちが次々と自動改札を通って、残るは双葉と留美だけになった。二人とも少し躊躇を見せていたが、いつまでここにいても埒があかないし電車に乗れなくなってしまう、と諦めて他に続いた。
双葉はふと振り向いたが、駅前のロータリーには数人の外国人観光客がいる程度で、他に人の姿は一人も見えなかった。
はあ、と双葉はため息をついた。
構内スピーカーから、成田行きの電車が到着するアナウンスが流れた。
それから三十秒ほどもすると、かたん、かたん、かたん、とホームに電車がゆっくりと進入してきた。
車内はガラガラのようである。
停車し、ドアが開いて二人ほどの乗客が降りると、部員たちは次々と乗り込んでいった。
双葉と留美は乗り込むのを渋ってホームに立ったままであったが、ついに発車ベルが鳴り始めたため、渋々と乗り込んだ。
その時である。
「あーっ!」
という桐谷舞の叫び声に、双葉と留美は振り向いて外を見た。他のみなも同様に、舞の見る方向へと顔を向けた。
双葉と留美は顔かたちのまったく異なる二人であるが、まるで双子かと見まごうような表情の変移であった。
驚きに小さく目を見開いたかと思うと、困ったように、嬉しそうに、目を細めてこぼれるような笑みを浮かべたのである。
何故そのように驚いたのか、語るまでもないだろう。改札の向こうに、ずっと待っていたものがついにあらわれたのだ。
身体の半分ほどもある大きなスポーツバッグを背負って全力でロータリーを突っ切ってくるのは、間違いなく新堂良子であった。
「来たああああああっ!」
双葉は笑顔満面右腕を突き上げた。
「ちょっと待ってえ!」
良子は必死に走りながら、すがるように前へと手を差し出した。当然ながら虚しく空を掴んだだけであったが。
「待てゆうて電車が待つわけないやろ! 急げえ!」
双葉の声に励まされ、良子は残る体力を振り絞ってぐんと加速した。が、その瞬間どしんと大きな外国人男性とぶつかって、よろけ、スポーツバッグを落としてしまった。
「ごごごめんなさい、すみません!」
良子は鼻を押さえながらペコペコ頭を下げた。
「謝っとる場合かあああ!」
双葉はあまりのじれったさに床を踏み鳴らし、絶叫していた。
良子ははっと目がさめたように身体を震わせると、素早くバッグを掴み上げた。
「良子ちゃん!」
「早く!」
「急いで!」
「シャク、急げよ!」
双葉や留美のみならず、他の部員たちにも励まされ急かされ、良子はロータリーを突っ切り終えて、駅の入口へ。
素早く自動改札を通った……いや、通ろうとしたところで大きなスポーツバッグが改札の間に引っ掛かって、後ろに身を持っていかれたはずみにICカード乗車券をぽとり落としてしまった。
「ぼけとる場合かーーーーーーっ!」
絶叫響く中、ついに発車ベルが鳴り終わり、しゅーーーとドアが閉まり始めた。
だが、途中でガツッと音がしてドアの開閉が停止した。
閉じようとするドアの間に、双葉が自らの頭を突っ込んだのだ。
「あいたたたっ!」
なんでバッグでなく頭など突っ込んでしまったのだろうと激痛の中後悔する双葉であったが、とにかくそのおかげで再びドアは開き、ついに新堂良子が飛び込んできたのである。
「よっしゃーーーっ!」
「やったーーっ!」
何人か他の乗客もいるというのに、一目はばからず部員たちの歓声が上がった。
良子はバッグをどさり床に落とすと、膝に手をついて、ぜいぜいと喘いだ。
無理なご乗車はおやめください、という車内アナウンスが流れると、ゆっくりと電車が動き出した。
「遅れて……すみませんでした」
良子は花咲主将の姿を発見すると、呼吸の回復も待たず歩み寄り深く頭を下げた。
「本当なら体罰ものだけど、まあ、その話はまた今度だ」
主将はいつものように、表情一つ変えることなくぼそりと声を出した。
「はい!」
良子は笑顔で、元気良く返事をした。
なんか明るさ戻ってるねえ、などと周囲で部員たちがぼそぼそ。
「待っとったでえ、良子お」
双葉が良子に近づいた。なんだか泣き出しそうな声で。よく見ると確かに少し涙ぐんでしまっている。
「ごめん、心配かけた。双葉ちゃん、留美ちゃん」
「かけすぎや!」
双葉は溢れそうになる涙を指で拭った。
「あたしは別に、そんな心配してなかったけどねえ。信じてたから」
留美は淡々とそういいながらも、その顔を見られまいと良子に背を向けた。
「ありがとう。双葉ちゃん、留美ちゃん、それにみんな、本当にありがとう。それと、迷惑かけてほんとうにごめんなさい」
良子は改めて、周囲に頭を下げた。
涙ぐんでいる双葉につられて、自分も涙目になっていた。
「良子ちゃん、今日は主将代行として、頑張ってよね」
鈴鹿澄子が、ちょっと照れたような笑顔を見せた。
「おー、澄子が笑うなんて珍しい。そうや、澄子のいう通り一回戦二回戦の指揮、よろしゅう頼むで」
「分かった。みんなの力を合わせて、絶対に勝とう」
良子と双葉はどちらからともなく手を差し出し、がっちりと握手をかわした。
笑い合う二人。
こうして列車は田園の中を突き抜けて、彼女たちは遠く埼玉県にある大会会場へ遥々と向かうのであった。
第一部・完
次章からは第二部である激闘編です。
あと二試合。
それで、長々と書き綴ってきた佐原南高校女子フットサル部の物語も完結です。
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