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第六章 ナイスキャッチ!
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1
その胸騒ぎもさして脳に定着することなく、あっという間に忘れてしまっていた。
だからこそ、その時になって余計に後悔したのだけど。
不安とか、悔しさとか、怒りとか、負の感情って器の大きさが決まっていると思う。負に限らないかも知れないけど。
なにがいいたいかというと、ボスにがーっと追い立てられ、お尻を叩かれながら残りコースのジョギングを続けているうち、そのあまりの横暴さに、直前まで抱いていた不安な感情などはすっかり脳の外へと追い出されてしまっていたということ。
こうまで元気で大声で横暴で傲慢で我儘で暴力的で自信過剰で毒舌的なら、そもそも心配なんかいらないかという気持ちにもなっていたし。
「次っ!」
ここはジョギングを終えて戻ってきた練習場の空き地だ。
ガソリンは大声を上げ、打球を放ったバースにボールを投げ返すと、帽子を被り直し腰を低く落として構えた。
一人ぽつんと守備に立つガソリンに対し、残る全員がそれぞれバットを持って円弧を描くように並んでガソリンと向かい合っている。
全員で、一人に対してノックを行っているのだ。
バースに続いて、今度はその隣に立っているドンがボールを軽く放り上げ、バットを振った。
バウンドし転がるボールに、ガソリンは反応し、横へ走るが、あとほんのわずかというところで届かず、グローブの先をかすめた。
これはドンの打球が悪かった。
しかし、
「そんくらい捕れ!」
ボスの怒鳴り声。
能力の優秀さを分かっているだけに、ガソリンにはやたら厳しいのだ。
「次は捕る! だから、次!」
次は、わたしが打つ番だ。
ガソリンの気迫に負けないようしっかりバットを振ったつもりだったが、ころころ緩いゴロになってしまった。しかも真正面だ。
「優しすぎんだよ! そんなんじゃ百回やっても練習になんねえよ! あいつにはな、こんくらいで丁度いいんだ!」
ボスが、見本を見せてやるとばかりに思い切りバットを振った。
まだ屈んだ体勢でわたしのボールを受けたばかりのガソリンは、驚きに目を見開きながらも素早く立ち上がり、大きくジャンプし腕を高く伸ばして弾丸のような激しい打球をキャッチした。
とっ、と綺麗に着地するが、疲労に力が入らなかったか膝を崩してしまう。
なんとか持ち直し、わたしとボスが打った二つのボールを投げ返すと、あらためてこちらを睨むような目つきで腰を落とし構えた。
ぜいはあと息を切らせ肩を大きく上下させているのが、こちらからでもよく分かる。
ボスも少し息が荒い。さっきまで自分が打球を受ける番で、まだ疲労が回復しきっていないのだ。
「守備交代! 次はサテツやれ!」
ボスの交代指示に、ガソリンはふらふらした足取りながらも、余裕しゃくしゃくといった表情を浮かべ戻って来る。ボスと一緒で意地っ張りだから、弱っている姿を見られたくないのだろう。
「お願いします!」
代わって守備についたサテツは、大声を出すと腰を軽く落とした。
これまではボスが一人でノックを担当していたのだが、練習方法模索の一環ということで、前回より全員で順繰りに一人に対してノックする方法にしている。打つ側にとっても練習になるだろうということで。
器具もなにも充実していない出来たての弱小球団としては、色々と工夫をして発展させていかないといけないのだ。
この守備練習以外の練習による効果もあるのだろうけど、経験なしの初心者として入団したサテツもドンもフミも、近頃は上手にミート出来るようになって来ていた。
まだ丁寧に打ち分けるまではいかないけど、空振りすることがすっかり激減している。もう初心者ではなく、立派な初級者だ。初級に立派というのもなんだけど。
とにかく彼女ら初級者組の、キャッチボールの飛距離が伸びたり、しっかりミート出来るようになっているところを見るたび、底上げされて来ているな、とチームとしての成長を感じて嬉しくなる。冷たいいい方をすればまだ基礎を習得しつつあるというだけであり、そんな程度で喜んではいけないのだろうけど。
でも強くなっているのは事実。
過去より現在がよりよくなっているのは事実。
もっと練習して、
もっと強くなって、
早く、公式戦に出たい。
現在はもう七月。
当然だけど杉戸町内のリーグに出たくとも、期間中の途中参戦は出来ない。
だからリーグに関しては、秋から初冬にかけて開催されるらしい短期リーグに参加申請をするつもりだ。
それとは別に、トーナメント戦による小さな大会も幾つかあり、こちらは参加に関して特別な条件がない限り基本的には出場可能のはずで、現在コタローコーチとボスでどれに出るべきか検討しているところだ。
したがって現在は、トーナメントで戦うことを動機付けにして練習をしている。
といっても意識の高め方の問題というだけで、練習内容が変わるわけではないけど。
なにがどうであれやることは一つ。
基本練習を繰り返して、連係を高める。
これだけだ。
どうやって男子に勝つか、ということをみな意識して練習に取り組んではいるものの、実際のところそのような部分など我々がチームをもっと成熟させない限り枝葉のような些細な問題にしかならない。
とはいえ、その成熟がどこまでのものか、計るためには試合をしてみるしかないわけで、
しかし試合をしてみるといっても、力関係というのは相対的なもので、つまり相手が強ければわたしたちが弱くなるわけで、
一般的な女子チームと戦うことさえ出来れば、ある程度適切に自分たちの実力が分かるのだろうけど。
だから一回だけでもいいから、どこか遠征に行きたいのだけどな。
東京都下には小学生女子チームだけのリーグがあると聞いたことがあるし、きっと探せばもっと近くにだってあるだろう。
でもボスが、そういうことに猛反対なんだよなあ。わざわざ弱い相手を探してまでの初勝利に意味があるのか、って。
一理あるといえばあるんだけど、でも、ボスは女子を過小評価しすぎだ。自分だって女子のくせに、男子を片っ端からやっつけていつか銀河最強軍団になるんだとか、どこまでも自分が成長するようなとめどない自信を持っているくせに。
わたしたちのような女子チームが他の地にもあって、猛練習によってもの凄い強さになっているという可能性だってあるじゃないか。
「いっきますよお!」
打順はどんどん進んで、今度はアキレスがバットを振った。
緩いゴロ。
サテツは、ととっと横へ移動して、しっかりしゃがんで捕球した。
以前、このようなボールを、焦ってモグラ叩きのように上から被せようとして思い切りトンネルで捕逸していたことがあった。あれから練習を重ねて、もうしっかり基本の動きは身にしみついており、かなり安心感が出て来ている。
まあ先ほども述べたけど強さとは相対的なもので、成長したとはいえ男子相手にどこまで戦えるのかはまったく予想もつかないけど。
「打つよ!」
次、ノッポが打った。
地を疾るような速いゴロ。
サテツはだっと走り出し、そして横へ大きく跳んだ。
しかしボールはグローブの先を弾いて、逃げてしまった。
捕球は出来なかったけど、でもかなり敏捷性が上がって来ているな。
まだまだ外見上は肥満体型だけど、中では少しずつ筋肉がつき始めているのだろう。
「行きまあす!」
フミがボールを放り上げ、バットを振った。
先ほどガソリンに対しては空振りしてしまっていたけど、今度はしっかり落ちて来るボールを捉えた。ばすんと心地よい反発音がして、ライナー性のすっと線を引いたような打球が飛んだ。
しかし、プロ選手だって捕れっこない、まったく検討違いの方向。
まだまだ打ち分けが出来ず、運任せなところがあるからな、フミは。
でもミートするだけならかなり上手になってきたし、今度こそ試合で使ってあげたいところだ。せっかく退団することなく、ここまで続けてくれているのだし。
まあ調子に乗って猛練習を始めて追い抜かされたりしても、経験の長い姉として恥ずかしいところだけど。猛練習されても抜かされないよう、わたしももっと練習しないとだな。
次、わたしが打つ番だ。
「行くよ!」
ボールを放り上げ、両手でバットを握り、タイミングをはかり、くっと手を引いて……腰の回転とともに、打つ!
「あ……」
わたしは後ろを振り返った。
当てるのに失敗して打ち上げてしまっただけでなく、ボールが遥か後ろへと飛んで行ってしまったのだ。
「おねーえちゃあん」
フミのこの、にいーっといやらしい笑み。「わたしはさっき、ちゃんと打ったよお」と、そういいたいのだろう。
ばつの悪さに、わたしはもう頭を掻いて照れ笑いするしかなかった。
2
「えーっ、チエちゃんそんなこといってたんだあ」
わたしはひゃー驚いたといった感じの笑みを浮かべた。
「そおなんだよ、だからみんなあの時ね、気まずそうにしーんとなっちゃってたんだよ」
「へえええ」
休み時間。ドンと二人で、廊下を歩いている。次の授業のために、音楽室へ向かうところだ。
六組の教室前へと差し掛かった瞬間である。
「てめえ、もう一回いってみろやああ!」
なんだか、聞いたことある女の子の声が……
「いってえ! なにすんだ、このクソチビ!」
男子の怒鳴り声。
次の瞬間、どばあん! と、教室のドアが、下の部分になにかが思い切りぶつかったように外れた。
ドアの上の部分が教室内へと倒れながら、下の部分がぐわあっとこちらへ向かって勢いよく滑り迫る。まるで忍者屋敷のどんでん返しだ。
「わ」
廊下の教室側近くにいたドンの巨体が、ドアに足払いをされて、ふわり宙を舞っていた。そして落下。倒れたドアの上に、どーんと落ちた。
「いてくそっ!」
巨体をどすんと落とされた瞬間、横たわったドアの下から聞いたことある女子の悲鳴というか怒りの叫び声。
うがああああ! という絶叫とともに、火山の噴火であるかのように勢い良くドアが持ち上がって、ドアの上に倒れていたドンはごろり転がって教室の中へ。
その持ち上がったドアの端が、ドンを心配して近寄ろうとするわたしのアゴをガッと捉えた。
「えぐっ!」
アゴ砕けなかったら首がもげるような、ドアによる強烈なアッパーカットだ。
幸い、アゴも首もどちらも無事のようだけど、アゴが泣きたいほど痛い。じーんとして、ぴいーーーっと変な耳鳴りがし始めた。
ドアはくるんと回転して、再びドンの上に倒れた。
姿を表したのは、やはりボスだった。
わたしの顔など目にも入らないようで、踵を返し教室内にいる男子を睨み付けると、
「誰がクソチビだ、相澤てめえ! 上等だあ!」
ドアをだんだんだんと踏んで、教室へと踊り込もうとする。
「いたっ! いたっ!」
下敷きになっているドンの悲鳴。
ドアは、ドンの身体を軸にシーソーのように傾いて、ボスはつるり転んで尻餅をついた。
教室の中で、生徒たちが笑っている。
「バカじゃねえの?」
あざけるような視線を向けているのは、相澤健太だ。
「バカはてめえの方だあ!」
ボスは短い距離をたたっと駆けて、拳を振り回し殴り掛かる。
「チビの手が届くわけね……ぎぃっ!」
相澤は踏み潰された虫のような悲鳴を上げ、顔を苦痛に歪めた。
純情な女の子には絶対に名称を口に出せないような部分に、ボスが己の拳を叩き込んだのだ。
そこを押さえて、ぴょんぴょん跳ねている相澤。一体どれだけ地獄のような痛みなのか、想像もつかない。良かった、わたし女子で。
って、それどころじゃない!
「海ちゃん、大丈夫?」
ドンを野球以外での呼び名で呼びながら、屈み、横になっているドアをどかした。
「大丈夫大丈夫。でも一体なんなのお?」
救助されて頭をぷるぷるっと振るわせるドンの問いに、わたしは無言で指差した。
なんとか地獄の痛みから復活した相澤と、ボスが取っ組み合いをしているところを。
取っ組み合いというより、ボスがしがみついてぶんぶん振り回されているだけにも見えるけど。
やっぱりここまで身長差があって、なおかつ性別も違うとなると、いくらボスでもどうしようもないな。勝敗が決まるのも時間の問題だろう。
と思っていたら、
「いてててて!」
ボス、噛み付きで猛反撃だ。相澤は振りほどこうとするけれど、スッポンのように離れない。
しかも大口開けて思い切り深くがぶりではなく、皮膚を軽くつまむようにかじりついているから、これはきっと凄まじく痛いぞ。
「なんで二人は喧嘩しているの?」
わたしは、去年同じクラスだった橋本真矢ちゃんが近くにいることに気付いて尋ねた。
「いつものことだよ。相澤が浜野さんの身長のことからかって、浜野さんが切れて」
「はあ……」
元気だな。
過ぎるくらいに。
もう絶対大丈夫。絶対なんともない。
まったく、げほげほ咳込んでいるボスを心配して損しちゃったよ。
3
と、そのような理由により(というわけでもないけど)、現在わたしたち高路一家は心置きなく家族旅行を楽しんでいるのであった。
七月十日。土曜日。天気 晴れ。
現在訪れているのは、福島県にある大内宿というところだ。
高い山にぐるり囲まれた土地の中、昔話に出て来るかのような茅葺き屋根の建物が、観光客でごった返す通りの両側にずらり並んでいる。
茅葺き屋根の建物はみな観光客用のお店で、中でもおそば屋さんの数が多い。
わたしたちはそのうちの一軒に入り、巨大な丸太をすっぱり両断したようなテーブルに着いていた。
現在、注文の料理が届くのを待っているところだ。
「ネギ一本なんかで食べられるのかなあ」
わたしは、周囲のお客さんが実際にそうしておそばを食べているにも関わらず、なんとも不安になっていた。
なんでもこの辺りのおそば屋さんで出るおそばは、なんと箸ではなく太い長ネギ一本を使いすくって食べるらしいのだ。
口になかなかおそばを運べないだけならまだしも、下手をしたらどぼんと落としておつゆが服にはねたりしてしまうのではないか。
みんなは不安にならないのだろうか。
「きっと、うまく出来てんだよ」
わたしの向かいに座ってそう楽観的に構えているのは、初登場、わたしたちのお母さんである高路留美だ。
小太りという外観の印象通り通り声が低く、その声から来る印象の通り豪放磊落な性格だ。
働いており、土日勤務や、帰宅が夜遅いのは当たり前で、そもそも帰れないことも少なくない。
お母さんを置いて家族旅行に出るわけにいかず、でもお母さんの都合が良い土日が今回しかなく、梅雨真っ只中ではあるものの雨天決行で予定を立て、出発し、ここへ来ているのである。
週間天気予報では最初雨予報だったが、日が近づくごとに降水確率が下がり、最終的には文句のつけようがないほどの晴天になった。てるてる坊主を子供ら三人でたくさん作って吊るしたけど、その効果だろうか。
だからといって、ネギ一本で食べるそばへの不安が消えるわけではないけれど。
「お母さんのいう通りかも知れないけど、でも意外と食べやすいのかもとかそういうイメージは全然わかないなあ」
だっておそばを、お箸の代わりにネギ一本だよ。
「キミ、お前なあ、いつものことだけど、なにかをする前からマイナスイメージ持つのやめろよな」
斜め向かい、お母さんの隣に座っているお父さんに、注意されてしまった。
後ろ向きな性格に育ってしまったんだから、仕方ないじゃないか。
ああ、そういえばお父さんの名前などまだ紹介していなかったかな。
高路隆敏。
四十歳。
一応名の知られている機械メーカーの、営業。
その職種ゆえか分からないけど、家ではやたら態度が大きい。まあ、お母さんと喧嘩になると途端にぷしゅ~って萎んじゃうのだけど。
「おまちどおさまあ」
中年女性が威勢の良い声で、運んで来た料理を次々とテーブルに置いていった。
弟は親子丼で、残る四人はみんなおそばだ。
わたしは、自分の前に置かれたおそばをまじまじと見た。他のお客さん同様に、太いネギがせいろの横に置かれている。やはり、これを使って食べろというのか……
失敗したら恥ずかしいな。
でも、そんなこと気にするなら最初から俊太と同じく親子丼にでもしとけばよかったよな。
俊太、交換してくれないかな。
いやいや、せっかくの旅行なんだ。なにごとも経験だ。
さっきのお父さんの言葉、よくボスにもいわれていることだろう。
ここでもいわれたこと、神の啓示と思え。
自己啓発。そう、変わるんだ。
せめて、この旅行の間くらいは。
自分そのものをどんどんプラスに変えていかれれば理想だけど、さすがにそこまでは無理だから。
「フミ、お姉ちゃん先に食べてみるから」
わたしの背中を見なさい。という姿勢を、年上として妹に誇示してみせた。
フミは既に平気な顔してネギを手に取り食べようとしていたところであったため、「だからなに?」という顔であったが、構わない。わたしの、気持ちのありようの問題なのだ。
チャレンジだ!
行くぞ!
と、ついにおそばをネギで食べるという初体験をしたわけであるが……
結論としては、とにかく食べにくかった。
おつゆにぼちゃん! って、やっぱりやってしまったし。
ネギかじりながら食べるんだよ、甘いネギだから大丈夫だよ、なんてお母さんにいわれてちょっとかじってみたけど、嘘、辛くて辛くて涙が出そうだった。
途中から諦めてお箸で食べたところ、とっても美味しいおそばだった。
家族はみんな、ネギ使って特に問題なさそうに食べていたし、ネギをかじってもいたから、わたし一人が不器用で、わたし一人が味覚お子様ということなのかも知れないけど。
散々ではあったけれど、良い経験にはなったのかな。どうしてわざわざそのような食べ方をするのか興味もわいたし、旅行から帰ったら調べてみようかな。
明確な理由があるものなのか分からないけど。
野球なんかでも、不思議な決まり事とか、言葉とか、そういうものがあるものな。
例えば「コンダラ引き」とか。由来を疑問に思うことなく当然のように使っていた言葉だったけど、テレビで真相を知った時は吹き出したっけな。お腹おさえて、大笑いしちゃったよ。
4
食後ちょこっと休んで、今度は土産物屋に行くことになった。
遅い昼食だったので、既に午後三時。
お土産を買ったら、あとは宿泊予定の旅館へと向かうだけだ。
家を出発したのはまだ薄暗いうちだったというのに、道路の混雑で到着が遅れ、午前中に塔のへつりというところを見るくらいしか出来なかった。もの凄く綺麗で不思議な眺めで、そこを見ただけでも充分に価値のあるものではあったけど、でももう一箇所くらいは回りたかったな。
なお、今夜宿泊するその旅館、温泉付きとのこと。
旅行自体ほとんどした経験がないのもあるけれど、温泉って初めてだ。
どんな感じの眺めで、どんな感じの雰囲気なのか、ちょっと恥ずかしいけれど楽しみでもある。
さて、ここはまだ大内宿。おそば屋を出たわたしとフミと俊太の三人は、お父さんの指差す土産物屋を視界に捉えると全速力で走り出し、店内に入り込んだ。
入ってみれば、特になんの変哲もない土産物屋だ。小学校の遠足で何度も経験しているような。
「ユウト君には、これがいいかなあ」
フミが、こそこそっと小さな声を出しながら、無数に掛けてあるキーホルダーの一つを手に取った。
「好きな男の子?」
無意識に漏れた呟きと分かっていただけに、無視すべきだろうとも思ったのだけど、つい好奇心が若干勝って尋ねてしまった。
「ち、違う。違う。違う。違う!」
そんな丁寧に、四回も否定しなくていいのに。
むしろ怪しいなあ。そういう態度を取られると。
まあいいや、フミのプライベートだし、わたしはなんにも干渉しません。
「ねえフミ、それ選んだら、チームのみんなにお菓子を買おうよ」
迷惑かけちゃったからな。
土日は野球の練習があるのだけど、年内でこの日しか家族旅行が出来ないかも知れないことを正直にボスに打ち明けたところ、「それは絶対に行って来い!」と快く承諾してくれたからだ。土産物なんかいらないからな、といわれたけど、そういうわけにはいかない。
「分かった。ああ、あたしもやっぱりそういうお菓子かなんかにして、やっぱりクラスの子全員に配ろおっと」
「え、それひょっとして、わたしがフミの独り言を聞いてしまったから?」
「違うよ!」
「だったらさ、クラスの他の子にお菓子もいいけど、せっかくなんだからユウト君にキーホルダーも買いなよ」
「やだよ! あいつ嫌な奴だもん!」
わたしが余計なこといってしまったばかりに、意地になっちゃったよ。
悪いことしたな。フミと、そのユウト君に。
でもフミは、その数分後には乙女の純心を傷付けられたことなんかけろり忘れておおはしゃぎしていたけど。
単に子供だからなのか、記憶力が弱いのか、それとも本当にユウト君のことなんとも思っていないのか。
この後、お父さんお母さんもお店でお土産を買って、予定通りに大内宿から旅館へと移動。
予定通り温泉を経験。
いわゆる露天風呂を想像していたけど、室内だった。
でもおかげで恥ずかしさも軽減して(それでもかなり恥ずかしかったけど)楽しむことが出来た。
翌日の日曜日は朝から色々なところを回って、だいぶ遅い時間に家に帰って来た。
フミと俊太は自動車の後部座席で、寄り添うように寝息を立てていた。
こうして家族五人での久々の家族旅行、わたしは充分存分に堪能したのだった。
5
そのせいで、気の緩みが出てしまったのだろうか。
いや、そんなことはない。
心身とも充分にリフレッシュして、全身全霊をあげてというとちょっと大袈裟かも知れないけどとにかく精一杯その後の練習に臨んだはずだ。
仮に多少の気の緩みがあったとしても、それで全体を左右してしまうほどに突出した才能なんかわたしは持っていない。
でも……直前の練習によって相手への対策及び連係を高めるという機会を、わたしのせいで失ってしまったのも間違いのない事実か。特にわたしは内野手だから、細かい連係が大きく結果に繋がるからな。
誰からも責められてなんかいないし、わたし自身も自分に責任があるものかどうかなんて正直分からない。
でも、気にしてしまう。
引きずってしまう。
ことあるごとに思い返してはため息をついてしまう。
仕方ないだろう。
ああまでボロボロにやられたとあっては。
先日の日曜日、わたしたち杉戸ブラックデスデビルズはチーム結成から数えて二回目の練習試合をおこなった。
今度こそ、と前回敗戦の悔しさを晴らすべく臨んだのだが、またしても大量失点無得点という大敗北を喫してしまったのだ。
前回の対戦相手である堤根バードアストロズは、他のチームに所属していた子を寄せ集めた新規参入チーム。従って連係の甘さは想定通りではあったが、個人能力までは情報が無く予想出来ず、わたしたちがボロ負けしたことについてもきっと能力優れた選手が多かったのだろうと納得することは出来た。
しかし今回戦った杉戸倉松ハッスルズは、去年も一昨年もリーグ戦で最下位、今年にしても現在のところその定位置をがっちりキープしている、そんなチームだ。
女子の身で実におこがましいことをいうかも知れないが、そのようなチームに一矢報いることすら出来ず完膚なきまでに叩きのめされたとあっては自分たちの非力を悔やまずにいられないというものだ。強いては、自分自身を悔やまずにいられないというものだ。
自分を責める理由をなにか探すとなると、わたしはどうしても今回の家族旅行のことを考えてしまう。あの日しかタイミングが合わず、是非もないことだったのだけど。
でもまあ自己を責め悔やんでいるのは、わたしだけでないようだ。
アキレスは、翌日試合だというのに夜遅くまでテレビを見ていたこと(なんでも、平常心で臨みたかったからだとか)、ノッポとバースは居残りで練習しすぎて体力や集中力を過度に疲労させてしまったこと、ガソリンは当日朝のテレビ番組で星座占いの結果が最下位であるのを見てしまったこと、フロッグは薮に逃げ込んだ飼い猫を妹と探していて指を蚊に刺された、等々。
他人のことなら、そんなの関係ないよと笑って否定してあげることが出来るけど、自分自身のことだとやっぱり責めて落ち込んでしまうなあ。
まあ負けは負けだ。
過ぎた時は戻らない。ボスやコーチがいっている通り、気持ちを切り替えるしかない。
連係がまだまだというところを欠点ではなく、たっぷり伸び代があるのだとプラスに捉えるしかない。
まだまだ成長出来るんだ、強くなれるんだ、と前向きな気持ちをしっかり持って、自分たちを研究し、ひたすらに練習するしかない。
でも、心の中で無責任に唱えるだけならたやすいこと。密度の濃い練習を行うためにはしっかりした練習環境が必要なわけで、でもそんな環境などどこにもないわけで、だから困っているわけで、どうすればいいんだ……
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そんな悩みを抱えていたわたしたちの耳に、天はやはり見守っているのだと思うような朗報が飛び込んで来たのは、試合の帰り道でのことだった。
コタローコーチがもったいつけながら話してくれたのだけど、普段の練習場として、小学校の校庭を使わせてもらえることになったのだ。
フロッグだけは他校の生徒なのだけど、入っても特に問題ないとのこと。
なんでも来月に教育関係の偉い人が数名、視察に来るとかで、校長が学校の美点になるようなところをたくさん見せたいのだそうな。
コタローコーチはちょうど校庭での練習許可について校長に掛け合おうと考えていたところ、逆に呼ばれて、その話を持ち掛けられたということだ。
フロッグはほんの少しだけ練習に通うのが遠くなってしまうけど、自転車だからほとんど変わらないだろう。
バットやボール、防具などの用具一式は、体育用具室にあるものを使って構わないし、自前の物を置いてしまっても構わない。
出された条件は、練習後のトンボ掛け程度。これは別に、野外スポーツをやる者としてごくごく当たり前の話。
つまりはさしたるデメリットどころかなんのデメリットもなく、しっかりとしたグラウンドを使って野球練習が出来るようになるのだ。
この小学校にはわたしが入学する何年か前まで野球部が存在していたのだが、出生率低下による生徒数減少が部員減少に直結し、廃部になってしまったという過去がある。
でも設備はまだ撤去せず残してあるため、つまりは校庭にあるバックネットや、スコアボード、ダイヤモンドにピッチャーマウンド、用具室のベースや防具、そうしたものをすべて自由に利用出来るようになるのだ。
すべて撤去し地面も整備してサッカーグラウンドを作ろう、などという案も一昨年くらいから出ていたらしく、これ以上も以下もないというくらいのラッキーなタイミングだった。
用具云々設備云々よりも、しっかりとした地面で練習が出来るというのがわたしとしては一番嬉しいところかな。
いま使っているのは単なる住宅建設用の空き地だから、地面が固かったり柔らかかったり石が埋もれていたりだから、足元に注意せずガムシャラに走るなんてとても無理だったからな。
先日も、アキレスが石に躓き転んで顔を地面に減り込ませてしまって。「土食べちゃったあ」って泣いてたっけ。怪我がなかったから良かったけど、とにかくそういった危険が減るのは良いことだ。心配が減る分、練習に集中出来る。
練習効率の問題だけでなく、これまでは堂々と練習するのも躊躇うような他人の敷地だったからな。これで堂々思う存分やれるというものだ。
人目を気にしていたコタローコーチも、練習に参加しやすくなるだろう。まあ、来て貰ったところでやれることはあまりないけど。
声出しくらいの役には立つかなと思っていたけど、なんだか見当違いのことばかり叫ぶからなあ。
今日もその空き地で練習をして、久し振りにコーチが来たのだけど、やっぱり変なことばっかり叫んでいたし。
でも、良いのだ。
今日が、この空き地を使う最後の日。コーチを呼んだ一番の目的は、練習後のトンボ掛けを手伝って貰うためだからだ。
道具をなにも持っていないこともあり、これまでまともに地面の整備なんかしておらず、すっかりボコボコになってしまっているから、立つ鳥あとを濁さぬようコーチに頼んで学校からトンボを何本か借りて来たのである。
別段わたしたちがなにもせずとも、土木の人が専用の機械であっという間にならしてしまうんだろうけど、まあ常識感や罪悪感の問題というものだ。
この空き地での最後のチーム練習はすべて終了して、現在そのトンボ掛けをしているところだ。
わたし、フミ、ドン、ノッポ、ガソリン、フロッグが横並びになってトンボをずるずると引いている。
空き地の端っこでは、バース、アキレス、サテツ、コタローコーチがへたり込んで息をぜえぜえはあはあ。さっきまでずっとトンボを引いていたからだ。
特にコーチのばて具合は見るも凄まじい。マラソン二回分の距離を水分無補給で完走したかのかというくらい。
「これもトレーニングだからなあ、ちゃんとやれよお!」
ボスが腕組して、どっしり構えている。
一人だけ、なんにもしてない人だ。
立っているだけならまだ良いけど、どんっ!て踏み鳴らしてすぐに足跡つけるやめて欲しいなあ。
ああっ、またやった、どんって。
もう。
「……ああああ、汗だらだらあ。しかしボス、今日もいばってるよねえ」
ノッポの声。
トンボずるずるの音で聞こえないとでも思っているのか、ちょっと声が大きい。ボス地獄耳だから聞こえちゃうって。
「いばってるねえ」
その隣でトンボを引いているドン。
「ピラミッド工事の鞭打つ人じゃないんだからさあ」
「ほんとほんと。でもピラミッド工事の方がまだいいよ」
「なんで?」
「だってエジプトなんだし、石の上で焼いた硬いパンの先祖みたいの食べられるじゃない。あれどんなのか食べてみたい」
「それ、ただエジプトってだけで、ピラミッド工事と関係ない。工事する人は奴隷なんだから、きっと食べられないよ」
「あれ日常的な食事じゃないの? でもまあ食べられるとしても、ボスみたいなのがいて全部奪われちゃうか」
「想像しちゃったよ。ジャムもよこせえ、って」
「古代エジプトにジャムないでしょ」
「あったかも知れない。おいアキレス、その小倉マーガリンも全部よこせえ」
「それボスみたいじゃなくて、ボスじゃん」
「おいアキレス、お笑いやりながら校庭一周してこおい」
「だから完全にボスじゃん。昨日の昼休みのボスじゃん」
笑い合っている二人。
ずるずる引きながらだから、ボスから離れて行くところだから、だから聞こえないと思ったのかも知れないけど……
「なんだあ? あたしがパン奪って全部食うだあ? 想像しちゃったアハハア、だあ? おーいアキレスお笑いやってこおい、だあ?」
うわ、まずいよドン、ノッポ、しっかり聞かれてるよ。
そうなんだよ、ボスって片方の耳は聴力弱いみたいなんだけど、もう片方はそれを補って余りある性能だからな。
わたしはトンボを引く速度を上げて、こっそり警告しようとドンたちの背中を追い掛けたのだが、時すでに遅しだった。
「トンボ掛け一時中断! 地面整備前のウォーミングアップするのをすっかり忘れてた! トンボの前に、まずはウサギだああ!」
「えーーーーーーーーっ!」
間欠泉のようにどぼっと沸き上がる驚きというか不満というかの声。
「ドンとノッポ、だけだよね」
ガソリンが恐る恐る尋ねた。
「全員に決まってんだろ。トンボがけ前のウォーミングアップなんだからさあ。ん、なんだって? ドンとノッポがどうかしたのかあ? おーいドン、ノッポ、お前らどうかしたのかあ?」
意地が悪いな、ボスは。
「な、全員ておれもか?」
今度はコタローコーチが、恐る恐る尋ねる。
「当たり前田のクラッカーだよ。ほら、早く準備っ」
「うええ。しかしよくその古いギャグ知ってるな、お前」
というわけでわたしたち全員、ドンたちのお喋りが原因で、うさぎ跳びをやらされるはめになってしまったのだった。
ウォーミングアップもなにも、練習たっぷりやった後でとっくに身体くたくただというのに。むしろ早くクールダウンしたいくらいだというのに。
「ここから、あそこの地面ぼっこんとしてるとこまで十往復! 逆らう者は五百往復!」
ボスは二十メートルくらい向こうにある、三十センチほどの幅の溝を指差した。
「えーー……はい」
みな諦めて、うさぎ跳びを開始した。
地面整備の途中なので、あまり荒らさないよう列になって。
列といっても、コーチはスタートを切った数秒後にはみんなより遥かにおいていかれて、一人ぽつんであったけれど。
「ほらほらあ、もっとペース上げろお、あんまりだらしないと毎日それで家から通学してもらうぞお!」
と、ぱんぱん手を叩いているボスの顔を、ガソリンとバースとサテツとアキレス、四匹のうさぎ達がぜいはあ息を切らせながら恨めしそうにじーっと見ている。一人楽しやがって、と。
ボスは鼻を掻き、そっぽを向き、ごまかそうとしていたが、なおもうさぎ達にまじまじ見つめられ、耐え切れなくなったか頭をばりばり掻くと舌打ちした。
「あたしもやるよ。それでいいんだろ!」
渋い顔でそういうと、列の最後尾(コーチ除く)に加わってうさぎになった。
おー、とわたしは胸の中で声を上げていた。
筋トレを始めたことというよりも、自分を曲げたことに対してだ。
とはいうものの、小柄ってだけでうさぎ跳びに負荷がかかっていないように見えてしまって、なんだか全然辛そうに思えないな。
ドン、バース、ノッポの大型トリオは、どすんどすん着地のたびに靴が減り込んで、本当に大変そうだ。
まあドンとノッポは自業自得だけど。バースは可哀相だな。
などと悠長に周囲を観察している余裕もないのだけど。
わたしも先ほどまでの練習による疲労のせいで、このうさぎ跳びがしょっぱなから辛くてたまらないのだ。だいたい今時うさぎ跳びなんかやらないよ。
この極悪非道な状態からなにか掴むとすれば、チームの底上げを感じるということかな。
わたしの修行がまだまだというのもあるけど、サテツやフミ、アキレスたちの体力がしっかりついてきているという証明でもあるわけだから。わたしがこんなに大変だと思うことと、同じことをやっているということは。
コタローコーチだけは論外だけど。
大人の男の人だというのに、体力ないにも程があるよ。
最近ジョギングを始めたんだなんていってたけど、その効果が出て来るのは果たして何十年後のことやら。
などと苦痛を紛らわせるために思考に逃げていると、突然、後ろの方からげほごほと咳込んでいるのが聞こえて来た。
あまりに激しい咳き込みように、わたしはうさぎ跳びをやめてしまい、立ち上がって振り返った。
思っていた通り、咳き込んでいるのはボスだった。
まるで喘息の幼児のように、四つん這いになり地面に顔を埋めるように近づけて、必死に喘いでいる。
「ボス、ボス、大丈夫?」
そばにいたサテツが、背中をさすってやろうということか近寄り手を伸ばす。
だけど、ボスはその手に気付くとぱしりと払いのけた。
咳込み続けながら、口元を手で隠してよろよろと立ち上がった。
「やめた! あたしはボスなんだから、うさぎ跳びなんかする必要ねえんだよ! ああもう土埃を吸い込み過ぎて、咳が止まんないよ!」
げほごほしながら、口を押さえたまままるで逃げるように走り出して、木材の陰に隠れてしまった。
気管、弱いのかな。
……それともそういうことではなく、嘘をついている?
わたしたちに、なにか隠している?
まさか、ね。
7
初夏に染み入る蝉の声。
などというが、すでに完全な夏だ。
もう夏休みに入っているので夏なのは当然だけど、それにしても今年は本当に暑い。染み入るなどという涼やか爽やかなものでは決してなく、湯気に溶け入るといったような言葉こそふさわしい。
こんな日に元気なのは、蝉とアイス屋さんだけではないだろうか。いや、蝉も溶けそうだ。
わたしはドンとフミと一緒に、もあもあと湯気の立ち上りそうなほどに熱せられたアスファルトの上を歩いている。
暑さだけでなく湿気も凄い。
胸元のざっくり空いたノースリーブやショートパンツなど、みなこれ以上ないくらいの薄着姿だというのに、なんの効果もなく一歩を踏み出すたびに汗がだらだら身体を伝い落ちている状態だ。
まあ、そのような恰好をしているからこそ汗を吸収せず、まるでサンオイルを全身に塗ったかのようにぬるぬるとした有様になってしまっているわけだけど。
三人ともバッグを肩に掛けいる。
中に入っているのはボールとグローブ、ペットボトルやタオルなどだ。
夏休みに入って毎日練習してきて、今日は久しぶりにチーム練習のない日。でもなんだか練習を休みたくなく、特にプライベートでの用事もないため、ならば個人練習を合同でやろうと学校へ向かっているところだ。
途中でノッポとバースと合流し、五人で練習する予定。
しかしこの凄まじい暑さ、果たして練習になるのだろうか。
あまりの高温多湿に太陽の文句をぐちぐちいいながら歩いていたわたしたちであったが、ちょうど小さな児童公園の横を通り過ぎようというところでわたしは一人ぴたりと足を止めた。
二人は、四、五歩ほど進んだところで気付いて、振り返った。
「どうしたの、キミちゃん」
大柄な体格に似合わずドンが可愛らしく小首を傾げた。
「あ、ごめんウミちゃん。ちょっと忘れ物。フミと二人で、先に行ってて」
「いいよ、この公園の木陰でフミちゃんと待ってるよ」
「ダメダメ! ……ほ、ほら、友子ちゃんたち待ってるかも知れないから早く行ってあげなきゃ。急いで取って来るから、先に学校へ歩いていてくれればすぐ追い付くよ」
「そう? じゃあ先に行ってるね」
こうしてドンとフミは、ノッポたちとの待ち合わせ場所へと向かいここから去った。
しょわしょわしょわしょわ蝉のうるささの中、一人ぽつんと立つわたし。
忘れ物をしたというのは嘘だ。
誰もいないと思っていた小さな児童公園だけど、向こう端、茂みの向こう側にボスっぽい姿を見つけた。それが、わたしが立ち止まった理由だ。
公園の敷地に入り、少し進んでみると、茂みの向こうにいるのはやはり間違いなくボスだった。
私服姿で、ボール練習をしている。
コンクリートの壁に至近距離からボールを投げて、それをキャッチするという練習だ。
何故?
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かんでいた。
それはボスへの疑問ではなく、わたし自身の行動への問い掛けだった。
別に、ボスが一人で練習をしているからどうだというんだ。
みんなで、声を掛ければ良いじゃないか。
一緒に練習しようといえば良い、ただそれだけのことじゃないか。
何故わたしはこうして一人で、隠れるようにボスを見る必要があったのか。
何故……
でも、実は分かっていた。自問などするまでもなく。
一人きりでいるボスを他のみんなに見られることに、恐怖に近い不安があったのだ。
わたしは最近ボスのことで少し心配になっていることがあり、みんなもそれに気づいてしまいはしないかと。
これまで何度か見た、立っていられないほどの激しい咳のことだ。
なにかの病気ではないのか。
本人は、埃っぽいからとか、暑いからとか、都度その場の環境のせいにしているけど。
どうなのだろう。
杞憂に終わるならそれが一番だけど。
ボスは今日もいつも通り厚着、というより露出のまったくない服装だ。
上は薄地ではあるが長袖のシャツ。
下は動きやすいショートパンツではあるけれど、厚手のタイツで素足を完全に隠している。
じっとしているだけでも蒸されて料理になってしまうのではないかというくらい今日は暑いというのに、そんなボスの格好、見ているだけでこっちの脳が溶けてしまいそうだ。
仕上がったユニフォームに初めて袖を通した日、ノッポの家を借りて着替えたのだけど、ボスはみんなに肌を見せることを強く拒絶して、一人トイレで着替えていた。
いまは一人きりなんだから、この異様な極暑の中で運動する以上はもっと肌を出す服装でもいいのに。でないと、身体が内側から溶けてしまって練習どころじゃないだろう。
まあ、外で一人でといっても、誰に会うか分からないからな。こうしてわたしだって、茂みの裏でこっそり練習している姿を見付けてしまったわけだし。
それにしても、肌を見せることがそこまで恥ずかしいものなのだろうか。一緒にお風呂に入ろうというのなら、まだ分かるけど。
咳のことだけじゃなく、このこともちょっと不安になってきたな。
前にサテツが「肌を出すの嫌なの分かる」などといっていたけど、サテツはちょっと肥満気味だから、そう思うのも別に不思議ではない。でもボスは、スタイルが良いとはいえないけれど全然余分な肉なんかついていないのに。タイツの上から分かる足の形なんかも、すらっとして細いのに。
わたしは、ゆっくりと近寄っていた。
こっそり、というつもりもなかったのだけど、無意識に息を殺して忍び寄っていた。
ボスはわたしの気配に全然気付くことなく、練習を続けている。
時折、服の袖でおでこの汗を拭っている。
よく見ると顔中が汗でだらだらだ。
また、ボールを投げた。三メートルほどの距離にある、コンクリートの壁へと。
力を込めて投げた軟球が、バウンドしてもの凄い速度で戻る。
瞬時に反射を判断して、横へすっと跳んで腕を伸ばしキャッチ。
どすんと倒れ、土埃が上がった。
すぐに起き上がり、汗を拭うと、またボールを投げた。
大きく横っ跳び。
キャッチ。
わざと角度を付けて投げることで、ダイビングキャッチの練習をしているんだ。
この暑さの中で、いつからやっているのだろう。
着ている服は、じっぽり汗を吸ってびしょ濡れだ。それに土がついて、すっかり泥まみれのようになっている。
ローマは一日にして成らず、だな。
日々勉強し、日々努力をしているんだ。自ら作ったチームを強くするために。
どんどん野球を覚えてきていること傍目から見ても分かるくらいだったけど、こういうことだったんだ。
感心した。
わたしたちも、負けていられないな。
それと、ボスが元気そうで安心した。
体調の悪さをみんなの前では隠しているだけかも知れない、そう思っていたのだけど、一人でこの様子なら特に問題なさそうだ。
何度か激しく咳込んでいたのは、やはり気管がもともと弱いか、日々の頑張りからの無理がたたって調子を落としてしまっていたということなのだろう。
しかし本当に、凄い気迫だ。
こうやって毎日毎日ボロボロになるまで練習して、身体に野球を染み込ませているんだな。
わたし、いつまでもこっそり見ているつもりなどなかったのだけど、出て行くことをすっかり忘れてただぼーっと突っ立っていた。
ボスは、ボールとグローブを投げ捨てると転がっているバットを拾った。
今度はどんな気迫のこもった練習で、身体に野球を叩き込もうというのだろうか。
なにごとも一朝一夕に出来るものではないからな。考えず身体が動くようになるまで、とにかくひたすらに反復練習。ボスも、わたしと同じタイプだな。
などと微笑ましく見ているわたしの目が点になったのは、次の瞬間のことだった。
「おおりゃあああ!」
ボスはいきなり絶叫すると、地面に立てたバットに飛び付くように足を絡み付かせて、捻るようにばったんと倒れたのだ。
バットを押さえ付けながら、ぐいぐいとそのバットに足を絡ませ締め付けている。
「アキレス、てめえええ!」
……ひょっとして、関節技の練習している?
まさに、ローマは一日にして成らず。
しかしわたしはその姿に感動ではなく、背筋の凍るぞーっとした思いを感じたのだった。
8
「それじゃあ投げるよ。せーのっ!」
わたしの掛け声に合わせ、わたしとボスとガソリンの三人は一斉に手にしていたボールを投げた。
それぞれの数メートル前に立っている、フミとサテツとドンの三人へと。全力までとはいかないが、かなりの強めで。
サテツとドンはかろうじてではあるがキャッチ。フミは、まさか顔へ飛んで来るとは思わなかったのかびくりと身をのけぞらそうとして、反対に自らの顔で思い切りボールを受けてしまった。
わたしは笑みを浮かべた。
実は、わざと顔面を狙って投げたのだ。
「ほら、全然痛くないでしょう?」
「あ……本当だ! 全然痛くないよ、お姉ちゃん!」
それもそのはず。剣道の防具に全身を包まれているのだから。
コタローコーチに頼んで、学校の日曜剣道教室で余っている防具一式を借りたのだ。フミとサテツ、二人の分を。
ドンはキャッチャーだから、自前の防具だ。
この防具を利用して、まだまだ初級者である三人のため、強めのボールを怖がらず受けるための練習をしているのだ。している、というよりも今のが第一投だ。
ドンたちは三人とも、それなりに上手くキャッチボールが出来るようになっては来たのだけど、まだまだ相手が気を使って投げてこそというお約束のようなボールしかキャッチ出来ない。
試合ともなれば厳しい打球や、味方からの送球などもあるわけで、しかしそういったことを想定した練習をしようとすると三人は怖がってすくんでしまい、まともにキャッチ出来なくなってしまう。
それならば逆転の発想で、防具を着せた上でもっともっと近い距離からのボールで練習をすれば良いのでは、と考え早速実践に移したというわけだ。
ボールを当てられて防具の胴が割れてしまわないかという心配があるけど、軟球だから別段問題はないだろう。
「それじゃあ今度はフミ一人だけで。投げるよ」
わたしは合図をせずに、いきなり強く投げた。
また顔を狙ったボールであったが、今度は怖がらずしっかりグローブに収めることが出来た。
「やった!」
面の奥で、フミの顔が嬉しそうにぐに破顔した。
「ほらね、楽にキャッチ出来たでしょう? 怖がっていただけ。やれば出来るんだよ。慣れれば簡単だし、怖くなんかなくなるから。むしろ防具があると、見にくくて邪魔なくらいだよ」
「そうかも知れないけど、でも防具がないとやっぱり怖いなあ」
フミの言葉にサテツが頷いた。
「見ててあたしも思った。良い練習方法だとは思うけど、防具を外したら反対にどんなボールも怖くて取れなくなりそうだな」
ボスが不安げな言葉を吐いた。
わたしは笑顔を向けて、
「大丈夫です。並行して、防具を着用せずに遠くからのボールをキャッチする練習もします。少しずつ距離を近付けるようにしていきます」
「ああ、なるほど、考えたじゃんか。上手くいきそうだし、こいつら三人の守備練習については当面お前に全部任せるからな」
「はい」
そう、もう分かると思うけど、この練習の発案者はわたしだ。
先日、ボスが一人で猛特訓しているところへ遭遇し、その真剣さに感銘を受け、わたしもわたしに出来るなんらかの方法でチームを強くしたいと強く思うようになったのだ。
強くなるためにはどうすれば良いか。
簡単にいえば、打てるようになり、守れるようになれば良いのだ。
現在どこが悪いのか、別段研究するまでもない。
攻撃においては、ドンたちのところで打線が完全に途切れてしまっているということ。
ノッポやガソリンのところだけで得点しなければならないわけで、男子相手だというのにそんなチャンスの少なさでは、なにをいかんともすることが出来ず、チームはいまだに一点すら上げることが出来ていない。
打率を少しでも均一化に近付けることさえ出来れば、戦術を計算することも出来るようになるだろう。
守備においても、やはりネックはサテツとドン。二回おこなった練習試合では、どちらも二人が徹底的に狙われた。
キャッチャーというポジション柄、ドンは露骨に狙い打ちされることもないだろう、と最初は思っていた。しかし二度目の練習試合の時、バントの処理でドンが悪送球してしまってから、相手がバントばかりで攻めるようになった。スクイズだけでも三、四点は決められただろうか。
我々のフォローといっても限界があるし、サテツとドンの成長がチーム力強化へ近道といっても過言ではないのだ。
また、フミがしっかり役立つようになれば、それは攻守両面で有効なオプションになる。
現在のところフミはまだ使えるレベルに達しておらず、従って我がチームは九人きりで試合に臨むしかなく、戦局を変えるための施策をなにも打てない状態だから。
これまでわたしは、ボスにいわれたことはしっかりやって来たつもりだし、問われればドンやフミにアドバイスをしていたけど、基本的には自ら他人をどうこうすることは考えていなくて、ただ自分自身を強くすることしか頭になかった。
でも、それだけではダメなのだ。
積極的に全体を、チームを強くしていかないと。
自分から、チームに参加していかないと。
最近、そう強く思うようになって来ていた。
本当は心境の変化としてはほんのちょっぴりで、でも、そのほんのちょっぴりが嬉しくて、自己を認めたくて、錯覚しているだけなのかも知れないけど。
でも錯覚だろうと幻想だろうと、いまそういう気になっていると思っているのは事実なんだ。「明日のわたしはどうせ」、などと後ろ向きなことを思わず、チームを強くするために精一杯頑張らないと。
「それじゃ、続けようか。あと何回か投げて、その後はさっきいった通り防具つけずにキャッチする練習、それから全体練習に入ろう。それじゃ、投げるよ」
わたし、ガソリン、ボスの三人はボールを構え、またわたしの「せーの」で、向き合っているドン、サテツ、フミの三人へと一斉に投げた。
その胸騒ぎもさして脳に定着することなく、あっという間に忘れてしまっていた。
だからこそ、その時になって余計に後悔したのだけど。
不安とか、悔しさとか、怒りとか、負の感情って器の大きさが決まっていると思う。負に限らないかも知れないけど。
なにがいいたいかというと、ボスにがーっと追い立てられ、お尻を叩かれながら残りコースのジョギングを続けているうち、そのあまりの横暴さに、直前まで抱いていた不安な感情などはすっかり脳の外へと追い出されてしまっていたということ。
こうまで元気で大声で横暴で傲慢で我儘で暴力的で自信過剰で毒舌的なら、そもそも心配なんかいらないかという気持ちにもなっていたし。
「次っ!」
ここはジョギングを終えて戻ってきた練習場の空き地だ。
ガソリンは大声を上げ、打球を放ったバースにボールを投げ返すと、帽子を被り直し腰を低く落として構えた。
一人ぽつんと守備に立つガソリンに対し、残る全員がそれぞれバットを持って円弧を描くように並んでガソリンと向かい合っている。
全員で、一人に対してノックを行っているのだ。
バースに続いて、今度はその隣に立っているドンがボールを軽く放り上げ、バットを振った。
バウンドし転がるボールに、ガソリンは反応し、横へ走るが、あとほんのわずかというところで届かず、グローブの先をかすめた。
これはドンの打球が悪かった。
しかし、
「そんくらい捕れ!」
ボスの怒鳴り声。
能力の優秀さを分かっているだけに、ガソリンにはやたら厳しいのだ。
「次は捕る! だから、次!」
次は、わたしが打つ番だ。
ガソリンの気迫に負けないようしっかりバットを振ったつもりだったが、ころころ緩いゴロになってしまった。しかも真正面だ。
「優しすぎんだよ! そんなんじゃ百回やっても練習になんねえよ! あいつにはな、こんくらいで丁度いいんだ!」
ボスが、見本を見せてやるとばかりに思い切りバットを振った。
まだ屈んだ体勢でわたしのボールを受けたばかりのガソリンは、驚きに目を見開きながらも素早く立ち上がり、大きくジャンプし腕を高く伸ばして弾丸のような激しい打球をキャッチした。
とっ、と綺麗に着地するが、疲労に力が入らなかったか膝を崩してしまう。
なんとか持ち直し、わたしとボスが打った二つのボールを投げ返すと、あらためてこちらを睨むような目つきで腰を落とし構えた。
ぜいはあと息を切らせ肩を大きく上下させているのが、こちらからでもよく分かる。
ボスも少し息が荒い。さっきまで自分が打球を受ける番で、まだ疲労が回復しきっていないのだ。
「守備交代! 次はサテツやれ!」
ボスの交代指示に、ガソリンはふらふらした足取りながらも、余裕しゃくしゃくといった表情を浮かべ戻って来る。ボスと一緒で意地っ張りだから、弱っている姿を見られたくないのだろう。
「お願いします!」
代わって守備についたサテツは、大声を出すと腰を軽く落とした。
これまではボスが一人でノックを担当していたのだが、練習方法模索の一環ということで、前回より全員で順繰りに一人に対してノックする方法にしている。打つ側にとっても練習になるだろうということで。
器具もなにも充実していない出来たての弱小球団としては、色々と工夫をして発展させていかないといけないのだ。
この守備練習以外の練習による効果もあるのだろうけど、経験なしの初心者として入団したサテツもドンもフミも、近頃は上手にミート出来るようになって来ていた。
まだ丁寧に打ち分けるまではいかないけど、空振りすることがすっかり激減している。もう初心者ではなく、立派な初級者だ。初級に立派というのもなんだけど。
とにかく彼女ら初級者組の、キャッチボールの飛距離が伸びたり、しっかりミート出来るようになっているところを見るたび、底上げされて来ているな、とチームとしての成長を感じて嬉しくなる。冷たいいい方をすればまだ基礎を習得しつつあるというだけであり、そんな程度で喜んではいけないのだろうけど。
でも強くなっているのは事実。
過去より現在がよりよくなっているのは事実。
もっと練習して、
もっと強くなって、
早く、公式戦に出たい。
現在はもう七月。
当然だけど杉戸町内のリーグに出たくとも、期間中の途中参戦は出来ない。
だからリーグに関しては、秋から初冬にかけて開催されるらしい短期リーグに参加申請をするつもりだ。
それとは別に、トーナメント戦による小さな大会も幾つかあり、こちらは参加に関して特別な条件がない限り基本的には出場可能のはずで、現在コタローコーチとボスでどれに出るべきか検討しているところだ。
したがって現在は、トーナメントで戦うことを動機付けにして練習をしている。
といっても意識の高め方の問題というだけで、練習内容が変わるわけではないけど。
なにがどうであれやることは一つ。
基本練習を繰り返して、連係を高める。
これだけだ。
どうやって男子に勝つか、ということをみな意識して練習に取り組んではいるものの、実際のところそのような部分など我々がチームをもっと成熟させない限り枝葉のような些細な問題にしかならない。
とはいえ、その成熟がどこまでのものか、計るためには試合をしてみるしかないわけで、
しかし試合をしてみるといっても、力関係というのは相対的なもので、つまり相手が強ければわたしたちが弱くなるわけで、
一般的な女子チームと戦うことさえ出来れば、ある程度適切に自分たちの実力が分かるのだろうけど。
だから一回だけでもいいから、どこか遠征に行きたいのだけどな。
東京都下には小学生女子チームだけのリーグがあると聞いたことがあるし、きっと探せばもっと近くにだってあるだろう。
でもボスが、そういうことに猛反対なんだよなあ。わざわざ弱い相手を探してまでの初勝利に意味があるのか、って。
一理あるといえばあるんだけど、でも、ボスは女子を過小評価しすぎだ。自分だって女子のくせに、男子を片っ端からやっつけていつか銀河最強軍団になるんだとか、どこまでも自分が成長するようなとめどない自信を持っているくせに。
わたしたちのような女子チームが他の地にもあって、猛練習によってもの凄い強さになっているという可能性だってあるじゃないか。
「いっきますよお!」
打順はどんどん進んで、今度はアキレスがバットを振った。
緩いゴロ。
サテツは、ととっと横へ移動して、しっかりしゃがんで捕球した。
以前、このようなボールを、焦ってモグラ叩きのように上から被せようとして思い切りトンネルで捕逸していたことがあった。あれから練習を重ねて、もうしっかり基本の動きは身にしみついており、かなり安心感が出て来ている。
まあ先ほども述べたけど強さとは相対的なもので、成長したとはいえ男子相手にどこまで戦えるのかはまったく予想もつかないけど。
「打つよ!」
次、ノッポが打った。
地を疾るような速いゴロ。
サテツはだっと走り出し、そして横へ大きく跳んだ。
しかしボールはグローブの先を弾いて、逃げてしまった。
捕球は出来なかったけど、でもかなり敏捷性が上がって来ているな。
まだまだ外見上は肥満体型だけど、中では少しずつ筋肉がつき始めているのだろう。
「行きまあす!」
フミがボールを放り上げ、バットを振った。
先ほどガソリンに対しては空振りしてしまっていたけど、今度はしっかり落ちて来るボールを捉えた。ばすんと心地よい反発音がして、ライナー性のすっと線を引いたような打球が飛んだ。
しかし、プロ選手だって捕れっこない、まったく検討違いの方向。
まだまだ打ち分けが出来ず、運任せなところがあるからな、フミは。
でもミートするだけならかなり上手になってきたし、今度こそ試合で使ってあげたいところだ。せっかく退団することなく、ここまで続けてくれているのだし。
まあ調子に乗って猛練習を始めて追い抜かされたりしても、経験の長い姉として恥ずかしいところだけど。猛練習されても抜かされないよう、わたしももっと練習しないとだな。
次、わたしが打つ番だ。
「行くよ!」
ボールを放り上げ、両手でバットを握り、タイミングをはかり、くっと手を引いて……腰の回転とともに、打つ!
「あ……」
わたしは後ろを振り返った。
当てるのに失敗して打ち上げてしまっただけでなく、ボールが遥か後ろへと飛んで行ってしまったのだ。
「おねーえちゃあん」
フミのこの、にいーっといやらしい笑み。「わたしはさっき、ちゃんと打ったよお」と、そういいたいのだろう。
ばつの悪さに、わたしはもう頭を掻いて照れ笑いするしかなかった。
2
「えーっ、チエちゃんそんなこといってたんだあ」
わたしはひゃー驚いたといった感じの笑みを浮かべた。
「そおなんだよ、だからみんなあの時ね、気まずそうにしーんとなっちゃってたんだよ」
「へえええ」
休み時間。ドンと二人で、廊下を歩いている。次の授業のために、音楽室へ向かうところだ。
六組の教室前へと差し掛かった瞬間である。
「てめえ、もう一回いってみろやああ!」
なんだか、聞いたことある女の子の声が……
「いってえ! なにすんだ、このクソチビ!」
男子の怒鳴り声。
次の瞬間、どばあん! と、教室のドアが、下の部分になにかが思い切りぶつかったように外れた。
ドアの上の部分が教室内へと倒れながら、下の部分がぐわあっとこちらへ向かって勢いよく滑り迫る。まるで忍者屋敷のどんでん返しだ。
「わ」
廊下の教室側近くにいたドンの巨体が、ドアに足払いをされて、ふわり宙を舞っていた。そして落下。倒れたドアの上に、どーんと落ちた。
「いてくそっ!」
巨体をどすんと落とされた瞬間、横たわったドアの下から聞いたことある女子の悲鳴というか怒りの叫び声。
うがああああ! という絶叫とともに、火山の噴火であるかのように勢い良くドアが持ち上がって、ドアの上に倒れていたドンはごろり転がって教室の中へ。
その持ち上がったドアの端が、ドンを心配して近寄ろうとするわたしのアゴをガッと捉えた。
「えぐっ!」
アゴ砕けなかったら首がもげるような、ドアによる強烈なアッパーカットだ。
幸い、アゴも首もどちらも無事のようだけど、アゴが泣きたいほど痛い。じーんとして、ぴいーーーっと変な耳鳴りがし始めた。
ドアはくるんと回転して、再びドンの上に倒れた。
姿を表したのは、やはりボスだった。
わたしの顔など目にも入らないようで、踵を返し教室内にいる男子を睨み付けると、
「誰がクソチビだ、相澤てめえ! 上等だあ!」
ドアをだんだんだんと踏んで、教室へと踊り込もうとする。
「いたっ! いたっ!」
下敷きになっているドンの悲鳴。
ドアは、ドンの身体を軸にシーソーのように傾いて、ボスはつるり転んで尻餅をついた。
教室の中で、生徒たちが笑っている。
「バカじゃねえの?」
あざけるような視線を向けているのは、相澤健太だ。
「バカはてめえの方だあ!」
ボスは短い距離をたたっと駆けて、拳を振り回し殴り掛かる。
「チビの手が届くわけね……ぎぃっ!」
相澤は踏み潰された虫のような悲鳴を上げ、顔を苦痛に歪めた。
純情な女の子には絶対に名称を口に出せないような部分に、ボスが己の拳を叩き込んだのだ。
そこを押さえて、ぴょんぴょん跳ねている相澤。一体どれだけ地獄のような痛みなのか、想像もつかない。良かった、わたし女子で。
って、それどころじゃない!
「海ちゃん、大丈夫?」
ドンを野球以外での呼び名で呼びながら、屈み、横になっているドアをどかした。
「大丈夫大丈夫。でも一体なんなのお?」
救助されて頭をぷるぷるっと振るわせるドンの問いに、わたしは無言で指差した。
なんとか地獄の痛みから復活した相澤と、ボスが取っ組み合いをしているところを。
取っ組み合いというより、ボスがしがみついてぶんぶん振り回されているだけにも見えるけど。
やっぱりここまで身長差があって、なおかつ性別も違うとなると、いくらボスでもどうしようもないな。勝敗が決まるのも時間の問題だろう。
と思っていたら、
「いてててて!」
ボス、噛み付きで猛反撃だ。相澤は振りほどこうとするけれど、スッポンのように離れない。
しかも大口開けて思い切り深くがぶりではなく、皮膚を軽くつまむようにかじりついているから、これはきっと凄まじく痛いぞ。
「なんで二人は喧嘩しているの?」
わたしは、去年同じクラスだった橋本真矢ちゃんが近くにいることに気付いて尋ねた。
「いつものことだよ。相澤が浜野さんの身長のことからかって、浜野さんが切れて」
「はあ……」
元気だな。
過ぎるくらいに。
もう絶対大丈夫。絶対なんともない。
まったく、げほげほ咳込んでいるボスを心配して損しちゃったよ。
3
と、そのような理由により(というわけでもないけど)、現在わたしたち高路一家は心置きなく家族旅行を楽しんでいるのであった。
七月十日。土曜日。天気 晴れ。
現在訪れているのは、福島県にある大内宿というところだ。
高い山にぐるり囲まれた土地の中、昔話に出て来るかのような茅葺き屋根の建物が、観光客でごった返す通りの両側にずらり並んでいる。
茅葺き屋根の建物はみな観光客用のお店で、中でもおそば屋さんの数が多い。
わたしたちはそのうちの一軒に入り、巨大な丸太をすっぱり両断したようなテーブルに着いていた。
現在、注文の料理が届くのを待っているところだ。
「ネギ一本なんかで食べられるのかなあ」
わたしは、周囲のお客さんが実際にそうしておそばを食べているにも関わらず、なんとも不安になっていた。
なんでもこの辺りのおそば屋さんで出るおそばは、なんと箸ではなく太い長ネギ一本を使いすくって食べるらしいのだ。
口になかなかおそばを運べないだけならまだしも、下手をしたらどぼんと落としておつゆが服にはねたりしてしまうのではないか。
みんなは不安にならないのだろうか。
「きっと、うまく出来てんだよ」
わたしの向かいに座ってそう楽観的に構えているのは、初登場、わたしたちのお母さんである高路留美だ。
小太りという外観の印象通り通り声が低く、その声から来る印象の通り豪放磊落な性格だ。
働いており、土日勤務や、帰宅が夜遅いのは当たり前で、そもそも帰れないことも少なくない。
お母さんを置いて家族旅行に出るわけにいかず、でもお母さんの都合が良い土日が今回しかなく、梅雨真っ只中ではあるものの雨天決行で予定を立て、出発し、ここへ来ているのである。
週間天気予報では最初雨予報だったが、日が近づくごとに降水確率が下がり、最終的には文句のつけようがないほどの晴天になった。てるてる坊主を子供ら三人でたくさん作って吊るしたけど、その効果だろうか。
だからといって、ネギ一本で食べるそばへの不安が消えるわけではないけれど。
「お母さんのいう通りかも知れないけど、でも意外と食べやすいのかもとかそういうイメージは全然わかないなあ」
だっておそばを、お箸の代わりにネギ一本だよ。
「キミ、お前なあ、いつものことだけど、なにかをする前からマイナスイメージ持つのやめろよな」
斜め向かい、お母さんの隣に座っているお父さんに、注意されてしまった。
後ろ向きな性格に育ってしまったんだから、仕方ないじゃないか。
ああ、そういえばお父さんの名前などまだ紹介していなかったかな。
高路隆敏。
四十歳。
一応名の知られている機械メーカーの、営業。
その職種ゆえか分からないけど、家ではやたら態度が大きい。まあ、お母さんと喧嘩になると途端にぷしゅ~って萎んじゃうのだけど。
「おまちどおさまあ」
中年女性が威勢の良い声で、運んで来た料理を次々とテーブルに置いていった。
弟は親子丼で、残る四人はみんなおそばだ。
わたしは、自分の前に置かれたおそばをまじまじと見た。他のお客さん同様に、太いネギがせいろの横に置かれている。やはり、これを使って食べろというのか……
失敗したら恥ずかしいな。
でも、そんなこと気にするなら最初から俊太と同じく親子丼にでもしとけばよかったよな。
俊太、交換してくれないかな。
いやいや、せっかくの旅行なんだ。なにごとも経験だ。
さっきのお父さんの言葉、よくボスにもいわれていることだろう。
ここでもいわれたこと、神の啓示と思え。
自己啓発。そう、変わるんだ。
せめて、この旅行の間くらいは。
自分そのものをどんどんプラスに変えていかれれば理想だけど、さすがにそこまでは無理だから。
「フミ、お姉ちゃん先に食べてみるから」
わたしの背中を見なさい。という姿勢を、年上として妹に誇示してみせた。
フミは既に平気な顔してネギを手に取り食べようとしていたところであったため、「だからなに?」という顔であったが、構わない。わたしの、気持ちのありようの問題なのだ。
チャレンジだ!
行くぞ!
と、ついにおそばをネギで食べるという初体験をしたわけであるが……
結論としては、とにかく食べにくかった。
おつゆにぼちゃん! って、やっぱりやってしまったし。
ネギかじりながら食べるんだよ、甘いネギだから大丈夫だよ、なんてお母さんにいわれてちょっとかじってみたけど、嘘、辛くて辛くて涙が出そうだった。
途中から諦めてお箸で食べたところ、とっても美味しいおそばだった。
家族はみんな、ネギ使って特に問題なさそうに食べていたし、ネギをかじってもいたから、わたし一人が不器用で、わたし一人が味覚お子様ということなのかも知れないけど。
散々ではあったけれど、良い経験にはなったのかな。どうしてわざわざそのような食べ方をするのか興味もわいたし、旅行から帰ったら調べてみようかな。
明確な理由があるものなのか分からないけど。
野球なんかでも、不思議な決まり事とか、言葉とか、そういうものがあるものな。
例えば「コンダラ引き」とか。由来を疑問に思うことなく当然のように使っていた言葉だったけど、テレビで真相を知った時は吹き出したっけな。お腹おさえて、大笑いしちゃったよ。
4
食後ちょこっと休んで、今度は土産物屋に行くことになった。
遅い昼食だったので、既に午後三時。
お土産を買ったら、あとは宿泊予定の旅館へと向かうだけだ。
家を出発したのはまだ薄暗いうちだったというのに、道路の混雑で到着が遅れ、午前中に塔のへつりというところを見るくらいしか出来なかった。もの凄く綺麗で不思議な眺めで、そこを見ただけでも充分に価値のあるものではあったけど、でももう一箇所くらいは回りたかったな。
なお、今夜宿泊するその旅館、温泉付きとのこと。
旅行自体ほとんどした経験がないのもあるけれど、温泉って初めてだ。
どんな感じの眺めで、どんな感じの雰囲気なのか、ちょっと恥ずかしいけれど楽しみでもある。
さて、ここはまだ大内宿。おそば屋を出たわたしとフミと俊太の三人は、お父さんの指差す土産物屋を視界に捉えると全速力で走り出し、店内に入り込んだ。
入ってみれば、特になんの変哲もない土産物屋だ。小学校の遠足で何度も経験しているような。
「ユウト君には、これがいいかなあ」
フミが、こそこそっと小さな声を出しながら、無数に掛けてあるキーホルダーの一つを手に取った。
「好きな男の子?」
無意識に漏れた呟きと分かっていただけに、無視すべきだろうとも思ったのだけど、つい好奇心が若干勝って尋ねてしまった。
「ち、違う。違う。違う。違う!」
そんな丁寧に、四回も否定しなくていいのに。
むしろ怪しいなあ。そういう態度を取られると。
まあいいや、フミのプライベートだし、わたしはなんにも干渉しません。
「ねえフミ、それ選んだら、チームのみんなにお菓子を買おうよ」
迷惑かけちゃったからな。
土日は野球の練習があるのだけど、年内でこの日しか家族旅行が出来ないかも知れないことを正直にボスに打ち明けたところ、「それは絶対に行って来い!」と快く承諾してくれたからだ。土産物なんかいらないからな、といわれたけど、そういうわけにはいかない。
「分かった。ああ、あたしもやっぱりそういうお菓子かなんかにして、やっぱりクラスの子全員に配ろおっと」
「え、それひょっとして、わたしがフミの独り言を聞いてしまったから?」
「違うよ!」
「だったらさ、クラスの他の子にお菓子もいいけど、せっかくなんだからユウト君にキーホルダーも買いなよ」
「やだよ! あいつ嫌な奴だもん!」
わたしが余計なこといってしまったばかりに、意地になっちゃったよ。
悪いことしたな。フミと、そのユウト君に。
でもフミは、その数分後には乙女の純心を傷付けられたことなんかけろり忘れておおはしゃぎしていたけど。
単に子供だからなのか、記憶力が弱いのか、それとも本当にユウト君のことなんとも思っていないのか。
この後、お父さんお母さんもお店でお土産を買って、予定通りに大内宿から旅館へと移動。
予定通り温泉を経験。
いわゆる露天風呂を想像していたけど、室内だった。
でもおかげで恥ずかしさも軽減して(それでもかなり恥ずかしかったけど)楽しむことが出来た。
翌日の日曜日は朝から色々なところを回って、だいぶ遅い時間に家に帰って来た。
フミと俊太は自動車の後部座席で、寄り添うように寝息を立てていた。
こうして家族五人での久々の家族旅行、わたしは充分存分に堪能したのだった。
5
そのせいで、気の緩みが出てしまったのだろうか。
いや、そんなことはない。
心身とも充分にリフレッシュして、全身全霊をあげてというとちょっと大袈裟かも知れないけどとにかく精一杯その後の練習に臨んだはずだ。
仮に多少の気の緩みがあったとしても、それで全体を左右してしまうほどに突出した才能なんかわたしは持っていない。
でも……直前の練習によって相手への対策及び連係を高めるという機会を、わたしのせいで失ってしまったのも間違いのない事実か。特にわたしは内野手だから、細かい連係が大きく結果に繋がるからな。
誰からも責められてなんかいないし、わたし自身も自分に責任があるものかどうかなんて正直分からない。
でも、気にしてしまう。
引きずってしまう。
ことあるごとに思い返してはため息をついてしまう。
仕方ないだろう。
ああまでボロボロにやられたとあっては。
先日の日曜日、わたしたち杉戸ブラックデスデビルズはチーム結成から数えて二回目の練習試合をおこなった。
今度こそ、と前回敗戦の悔しさを晴らすべく臨んだのだが、またしても大量失点無得点という大敗北を喫してしまったのだ。
前回の対戦相手である堤根バードアストロズは、他のチームに所属していた子を寄せ集めた新規参入チーム。従って連係の甘さは想定通りではあったが、個人能力までは情報が無く予想出来ず、わたしたちがボロ負けしたことについてもきっと能力優れた選手が多かったのだろうと納得することは出来た。
しかし今回戦った杉戸倉松ハッスルズは、去年も一昨年もリーグ戦で最下位、今年にしても現在のところその定位置をがっちりキープしている、そんなチームだ。
女子の身で実におこがましいことをいうかも知れないが、そのようなチームに一矢報いることすら出来ず完膚なきまでに叩きのめされたとあっては自分たちの非力を悔やまずにいられないというものだ。強いては、自分自身を悔やまずにいられないというものだ。
自分を責める理由をなにか探すとなると、わたしはどうしても今回の家族旅行のことを考えてしまう。あの日しかタイミングが合わず、是非もないことだったのだけど。
でもまあ自己を責め悔やんでいるのは、わたしだけでないようだ。
アキレスは、翌日試合だというのに夜遅くまでテレビを見ていたこと(なんでも、平常心で臨みたかったからだとか)、ノッポとバースは居残りで練習しすぎて体力や集中力を過度に疲労させてしまったこと、ガソリンは当日朝のテレビ番組で星座占いの結果が最下位であるのを見てしまったこと、フロッグは薮に逃げ込んだ飼い猫を妹と探していて指を蚊に刺された、等々。
他人のことなら、そんなの関係ないよと笑って否定してあげることが出来るけど、自分自身のことだとやっぱり責めて落ち込んでしまうなあ。
まあ負けは負けだ。
過ぎた時は戻らない。ボスやコーチがいっている通り、気持ちを切り替えるしかない。
連係がまだまだというところを欠点ではなく、たっぷり伸び代があるのだとプラスに捉えるしかない。
まだまだ成長出来るんだ、強くなれるんだ、と前向きな気持ちをしっかり持って、自分たちを研究し、ひたすらに練習するしかない。
でも、心の中で無責任に唱えるだけならたやすいこと。密度の濃い練習を行うためにはしっかりした練習環境が必要なわけで、でもそんな環境などどこにもないわけで、だから困っているわけで、どうすればいいんだ……
6
そんな悩みを抱えていたわたしたちの耳に、天はやはり見守っているのだと思うような朗報が飛び込んで来たのは、試合の帰り道でのことだった。
コタローコーチがもったいつけながら話してくれたのだけど、普段の練習場として、小学校の校庭を使わせてもらえることになったのだ。
フロッグだけは他校の生徒なのだけど、入っても特に問題ないとのこと。
なんでも来月に教育関係の偉い人が数名、視察に来るとかで、校長が学校の美点になるようなところをたくさん見せたいのだそうな。
コタローコーチはちょうど校庭での練習許可について校長に掛け合おうと考えていたところ、逆に呼ばれて、その話を持ち掛けられたということだ。
フロッグはほんの少しだけ練習に通うのが遠くなってしまうけど、自転車だからほとんど変わらないだろう。
バットやボール、防具などの用具一式は、体育用具室にあるものを使って構わないし、自前の物を置いてしまっても構わない。
出された条件は、練習後のトンボ掛け程度。これは別に、野外スポーツをやる者としてごくごく当たり前の話。
つまりはさしたるデメリットどころかなんのデメリットもなく、しっかりとしたグラウンドを使って野球練習が出来るようになるのだ。
この小学校にはわたしが入学する何年か前まで野球部が存在していたのだが、出生率低下による生徒数減少が部員減少に直結し、廃部になってしまったという過去がある。
でも設備はまだ撤去せず残してあるため、つまりは校庭にあるバックネットや、スコアボード、ダイヤモンドにピッチャーマウンド、用具室のベースや防具、そうしたものをすべて自由に利用出来るようになるのだ。
すべて撤去し地面も整備してサッカーグラウンドを作ろう、などという案も一昨年くらいから出ていたらしく、これ以上も以下もないというくらいのラッキーなタイミングだった。
用具云々設備云々よりも、しっかりとした地面で練習が出来るというのがわたしとしては一番嬉しいところかな。
いま使っているのは単なる住宅建設用の空き地だから、地面が固かったり柔らかかったり石が埋もれていたりだから、足元に注意せずガムシャラに走るなんてとても無理だったからな。
先日も、アキレスが石に躓き転んで顔を地面に減り込ませてしまって。「土食べちゃったあ」って泣いてたっけ。怪我がなかったから良かったけど、とにかくそういった危険が減るのは良いことだ。心配が減る分、練習に集中出来る。
練習効率の問題だけでなく、これまでは堂々と練習するのも躊躇うような他人の敷地だったからな。これで堂々思う存分やれるというものだ。
人目を気にしていたコタローコーチも、練習に参加しやすくなるだろう。まあ、来て貰ったところでやれることはあまりないけど。
声出しくらいの役には立つかなと思っていたけど、なんだか見当違いのことばかり叫ぶからなあ。
今日もその空き地で練習をして、久し振りにコーチが来たのだけど、やっぱり変なことばっかり叫んでいたし。
でも、良いのだ。
今日が、この空き地を使う最後の日。コーチを呼んだ一番の目的は、練習後のトンボ掛けを手伝って貰うためだからだ。
道具をなにも持っていないこともあり、これまでまともに地面の整備なんかしておらず、すっかりボコボコになってしまっているから、立つ鳥あとを濁さぬようコーチに頼んで学校からトンボを何本か借りて来たのである。
別段わたしたちがなにもせずとも、土木の人が専用の機械であっという間にならしてしまうんだろうけど、まあ常識感や罪悪感の問題というものだ。
この空き地での最後のチーム練習はすべて終了して、現在そのトンボ掛けをしているところだ。
わたし、フミ、ドン、ノッポ、ガソリン、フロッグが横並びになってトンボをずるずると引いている。
空き地の端っこでは、バース、アキレス、サテツ、コタローコーチがへたり込んで息をぜえぜえはあはあ。さっきまでずっとトンボを引いていたからだ。
特にコーチのばて具合は見るも凄まじい。マラソン二回分の距離を水分無補給で完走したかのかというくらい。
「これもトレーニングだからなあ、ちゃんとやれよお!」
ボスが腕組して、どっしり構えている。
一人だけ、なんにもしてない人だ。
立っているだけならまだ良いけど、どんっ!て踏み鳴らしてすぐに足跡つけるやめて欲しいなあ。
ああっ、またやった、どんって。
もう。
「……ああああ、汗だらだらあ。しかしボス、今日もいばってるよねえ」
ノッポの声。
トンボずるずるの音で聞こえないとでも思っているのか、ちょっと声が大きい。ボス地獄耳だから聞こえちゃうって。
「いばってるねえ」
その隣でトンボを引いているドン。
「ピラミッド工事の鞭打つ人じゃないんだからさあ」
「ほんとほんと。でもピラミッド工事の方がまだいいよ」
「なんで?」
「だってエジプトなんだし、石の上で焼いた硬いパンの先祖みたいの食べられるじゃない。あれどんなのか食べてみたい」
「それ、ただエジプトってだけで、ピラミッド工事と関係ない。工事する人は奴隷なんだから、きっと食べられないよ」
「あれ日常的な食事じゃないの? でもまあ食べられるとしても、ボスみたいなのがいて全部奪われちゃうか」
「想像しちゃったよ。ジャムもよこせえ、って」
「古代エジプトにジャムないでしょ」
「あったかも知れない。おいアキレス、その小倉マーガリンも全部よこせえ」
「それボスみたいじゃなくて、ボスじゃん」
「おいアキレス、お笑いやりながら校庭一周してこおい」
「だから完全にボスじゃん。昨日の昼休みのボスじゃん」
笑い合っている二人。
ずるずる引きながらだから、ボスから離れて行くところだから、だから聞こえないと思ったのかも知れないけど……
「なんだあ? あたしがパン奪って全部食うだあ? 想像しちゃったアハハア、だあ? おーいアキレスお笑いやってこおい、だあ?」
うわ、まずいよドン、ノッポ、しっかり聞かれてるよ。
そうなんだよ、ボスって片方の耳は聴力弱いみたいなんだけど、もう片方はそれを補って余りある性能だからな。
わたしはトンボを引く速度を上げて、こっそり警告しようとドンたちの背中を追い掛けたのだが、時すでに遅しだった。
「トンボ掛け一時中断! 地面整備前のウォーミングアップするのをすっかり忘れてた! トンボの前に、まずはウサギだああ!」
「えーーーーーーーーっ!」
間欠泉のようにどぼっと沸き上がる驚きというか不満というかの声。
「ドンとノッポ、だけだよね」
ガソリンが恐る恐る尋ねた。
「全員に決まってんだろ。トンボがけ前のウォーミングアップなんだからさあ。ん、なんだって? ドンとノッポがどうかしたのかあ? おーいドン、ノッポ、お前らどうかしたのかあ?」
意地が悪いな、ボスは。
「な、全員ておれもか?」
今度はコタローコーチが、恐る恐る尋ねる。
「当たり前田のクラッカーだよ。ほら、早く準備っ」
「うええ。しかしよくその古いギャグ知ってるな、お前」
というわけでわたしたち全員、ドンたちのお喋りが原因で、うさぎ跳びをやらされるはめになってしまったのだった。
ウォーミングアップもなにも、練習たっぷりやった後でとっくに身体くたくただというのに。むしろ早くクールダウンしたいくらいだというのに。
「ここから、あそこの地面ぼっこんとしてるとこまで十往復! 逆らう者は五百往復!」
ボスは二十メートルくらい向こうにある、三十センチほどの幅の溝を指差した。
「えーー……はい」
みな諦めて、うさぎ跳びを開始した。
地面整備の途中なので、あまり荒らさないよう列になって。
列といっても、コーチはスタートを切った数秒後にはみんなより遥かにおいていかれて、一人ぽつんであったけれど。
「ほらほらあ、もっとペース上げろお、あんまりだらしないと毎日それで家から通学してもらうぞお!」
と、ぱんぱん手を叩いているボスの顔を、ガソリンとバースとサテツとアキレス、四匹のうさぎ達がぜいはあ息を切らせながら恨めしそうにじーっと見ている。一人楽しやがって、と。
ボスは鼻を掻き、そっぽを向き、ごまかそうとしていたが、なおもうさぎ達にまじまじ見つめられ、耐え切れなくなったか頭をばりばり掻くと舌打ちした。
「あたしもやるよ。それでいいんだろ!」
渋い顔でそういうと、列の最後尾(コーチ除く)に加わってうさぎになった。
おー、とわたしは胸の中で声を上げていた。
筋トレを始めたことというよりも、自分を曲げたことに対してだ。
とはいうものの、小柄ってだけでうさぎ跳びに負荷がかかっていないように見えてしまって、なんだか全然辛そうに思えないな。
ドン、バース、ノッポの大型トリオは、どすんどすん着地のたびに靴が減り込んで、本当に大変そうだ。
まあドンとノッポは自業自得だけど。バースは可哀相だな。
などと悠長に周囲を観察している余裕もないのだけど。
わたしも先ほどまでの練習による疲労のせいで、このうさぎ跳びがしょっぱなから辛くてたまらないのだ。だいたい今時うさぎ跳びなんかやらないよ。
この極悪非道な状態からなにか掴むとすれば、チームの底上げを感じるということかな。
わたしの修行がまだまだというのもあるけど、サテツやフミ、アキレスたちの体力がしっかりついてきているという証明でもあるわけだから。わたしがこんなに大変だと思うことと、同じことをやっているということは。
コタローコーチだけは論外だけど。
大人の男の人だというのに、体力ないにも程があるよ。
最近ジョギングを始めたんだなんていってたけど、その効果が出て来るのは果たして何十年後のことやら。
などと苦痛を紛らわせるために思考に逃げていると、突然、後ろの方からげほごほと咳込んでいるのが聞こえて来た。
あまりに激しい咳き込みように、わたしはうさぎ跳びをやめてしまい、立ち上がって振り返った。
思っていた通り、咳き込んでいるのはボスだった。
まるで喘息の幼児のように、四つん這いになり地面に顔を埋めるように近づけて、必死に喘いでいる。
「ボス、ボス、大丈夫?」
そばにいたサテツが、背中をさすってやろうということか近寄り手を伸ばす。
だけど、ボスはその手に気付くとぱしりと払いのけた。
咳込み続けながら、口元を手で隠してよろよろと立ち上がった。
「やめた! あたしはボスなんだから、うさぎ跳びなんかする必要ねえんだよ! ああもう土埃を吸い込み過ぎて、咳が止まんないよ!」
げほごほしながら、口を押さえたまままるで逃げるように走り出して、木材の陰に隠れてしまった。
気管、弱いのかな。
……それともそういうことではなく、嘘をついている?
わたしたちに、なにか隠している?
まさか、ね。
7
初夏に染み入る蝉の声。
などというが、すでに完全な夏だ。
もう夏休みに入っているので夏なのは当然だけど、それにしても今年は本当に暑い。染み入るなどという涼やか爽やかなものでは決してなく、湯気に溶け入るといったような言葉こそふさわしい。
こんな日に元気なのは、蝉とアイス屋さんだけではないだろうか。いや、蝉も溶けそうだ。
わたしはドンとフミと一緒に、もあもあと湯気の立ち上りそうなほどに熱せられたアスファルトの上を歩いている。
暑さだけでなく湿気も凄い。
胸元のざっくり空いたノースリーブやショートパンツなど、みなこれ以上ないくらいの薄着姿だというのに、なんの効果もなく一歩を踏み出すたびに汗がだらだら身体を伝い落ちている状態だ。
まあ、そのような恰好をしているからこそ汗を吸収せず、まるでサンオイルを全身に塗ったかのようにぬるぬるとした有様になってしまっているわけだけど。
三人ともバッグを肩に掛けいる。
中に入っているのはボールとグローブ、ペットボトルやタオルなどだ。
夏休みに入って毎日練習してきて、今日は久しぶりにチーム練習のない日。でもなんだか練習を休みたくなく、特にプライベートでの用事もないため、ならば個人練習を合同でやろうと学校へ向かっているところだ。
途中でノッポとバースと合流し、五人で練習する予定。
しかしこの凄まじい暑さ、果たして練習になるのだろうか。
あまりの高温多湿に太陽の文句をぐちぐちいいながら歩いていたわたしたちであったが、ちょうど小さな児童公園の横を通り過ぎようというところでわたしは一人ぴたりと足を止めた。
二人は、四、五歩ほど進んだところで気付いて、振り返った。
「どうしたの、キミちゃん」
大柄な体格に似合わずドンが可愛らしく小首を傾げた。
「あ、ごめんウミちゃん。ちょっと忘れ物。フミと二人で、先に行ってて」
「いいよ、この公園の木陰でフミちゃんと待ってるよ」
「ダメダメ! ……ほ、ほら、友子ちゃんたち待ってるかも知れないから早く行ってあげなきゃ。急いで取って来るから、先に学校へ歩いていてくれればすぐ追い付くよ」
「そう? じゃあ先に行ってるね」
こうしてドンとフミは、ノッポたちとの待ち合わせ場所へと向かいここから去った。
しょわしょわしょわしょわ蝉のうるささの中、一人ぽつんと立つわたし。
忘れ物をしたというのは嘘だ。
誰もいないと思っていた小さな児童公園だけど、向こう端、茂みの向こう側にボスっぽい姿を見つけた。それが、わたしが立ち止まった理由だ。
公園の敷地に入り、少し進んでみると、茂みの向こうにいるのはやはり間違いなくボスだった。
私服姿で、ボール練習をしている。
コンクリートの壁に至近距離からボールを投げて、それをキャッチするという練習だ。
何故?
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かんでいた。
それはボスへの疑問ではなく、わたし自身の行動への問い掛けだった。
別に、ボスが一人で練習をしているからどうだというんだ。
みんなで、声を掛ければ良いじゃないか。
一緒に練習しようといえば良い、ただそれだけのことじゃないか。
何故わたしはこうして一人で、隠れるようにボスを見る必要があったのか。
何故……
でも、実は分かっていた。自問などするまでもなく。
一人きりでいるボスを他のみんなに見られることに、恐怖に近い不安があったのだ。
わたしは最近ボスのことで少し心配になっていることがあり、みんなもそれに気づいてしまいはしないかと。
これまで何度か見た、立っていられないほどの激しい咳のことだ。
なにかの病気ではないのか。
本人は、埃っぽいからとか、暑いからとか、都度その場の環境のせいにしているけど。
どうなのだろう。
杞憂に終わるならそれが一番だけど。
ボスは今日もいつも通り厚着、というより露出のまったくない服装だ。
上は薄地ではあるが長袖のシャツ。
下は動きやすいショートパンツではあるけれど、厚手のタイツで素足を完全に隠している。
じっとしているだけでも蒸されて料理になってしまうのではないかというくらい今日は暑いというのに、そんなボスの格好、見ているだけでこっちの脳が溶けてしまいそうだ。
仕上がったユニフォームに初めて袖を通した日、ノッポの家を借りて着替えたのだけど、ボスはみんなに肌を見せることを強く拒絶して、一人トイレで着替えていた。
いまは一人きりなんだから、この異様な極暑の中で運動する以上はもっと肌を出す服装でもいいのに。でないと、身体が内側から溶けてしまって練習どころじゃないだろう。
まあ、外で一人でといっても、誰に会うか分からないからな。こうしてわたしだって、茂みの裏でこっそり練習している姿を見付けてしまったわけだし。
それにしても、肌を見せることがそこまで恥ずかしいものなのだろうか。一緒にお風呂に入ろうというのなら、まだ分かるけど。
咳のことだけじゃなく、このこともちょっと不安になってきたな。
前にサテツが「肌を出すの嫌なの分かる」などといっていたけど、サテツはちょっと肥満気味だから、そう思うのも別に不思議ではない。でもボスは、スタイルが良いとはいえないけれど全然余分な肉なんかついていないのに。タイツの上から分かる足の形なんかも、すらっとして細いのに。
わたしは、ゆっくりと近寄っていた。
こっそり、というつもりもなかったのだけど、無意識に息を殺して忍び寄っていた。
ボスはわたしの気配に全然気付くことなく、練習を続けている。
時折、服の袖でおでこの汗を拭っている。
よく見ると顔中が汗でだらだらだ。
また、ボールを投げた。三メートルほどの距離にある、コンクリートの壁へと。
力を込めて投げた軟球が、バウンドしてもの凄い速度で戻る。
瞬時に反射を判断して、横へすっと跳んで腕を伸ばしキャッチ。
どすんと倒れ、土埃が上がった。
すぐに起き上がり、汗を拭うと、またボールを投げた。
大きく横っ跳び。
キャッチ。
わざと角度を付けて投げることで、ダイビングキャッチの練習をしているんだ。
この暑さの中で、いつからやっているのだろう。
着ている服は、じっぽり汗を吸ってびしょ濡れだ。それに土がついて、すっかり泥まみれのようになっている。
ローマは一日にして成らず、だな。
日々勉強し、日々努力をしているんだ。自ら作ったチームを強くするために。
どんどん野球を覚えてきていること傍目から見ても分かるくらいだったけど、こういうことだったんだ。
感心した。
わたしたちも、負けていられないな。
それと、ボスが元気そうで安心した。
体調の悪さをみんなの前では隠しているだけかも知れない、そう思っていたのだけど、一人でこの様子なら特に問題なさそうだ。
何度か激しく咳込んでいたのは、やはり気管がもともと弱いか、日々の頑張りからの無理がたたって調子を落としてしまっていたということなのだろう。
しかし本当に、凄い気迫だ。
こうやって毎日毎日ボロボロになるまで練習して、身体に野球を染み込ませているんだな。
わたし、いつまでもこっそり見ているつもりなどなかったのだけど、出て行くことをすっかり忘れてただぼーっと突っ立っていた。
ボスは、ボールとグローブを投げ捨てると転がっているバットを拾った。
今度はどんな気迫のこもった練習で、身体に野球を叩き込もうというのだろうか。
なにごとも一朝一夕に出来るものではないからな。考えず身体が動くようになるまで、とにかくひたすらに反復練習。ボスも、わたしと同じタイプだな。
などと微笑ましく見ているわたしの目が点になったのは、次の瞬間のことだった。
「おおりゃあああ!」
ボスはいきなり絶叫すると、地面に立てたバットに飛び付くように足を絡み付かせて、捻るようにばったんと倒れたのだ。
バットを押さえ付けながら、ぐいぐいとそのバットに足を絡ませ締め付けている。
「アキレス、てめえええ!」
……ひょっとして、関節技の練習している?
まさに、ローマは一日にして成らず。
しかしわたしはその姿に感動ではなく、背筋の凍るぞーっとした思いを感じたのだった。
8
「それじゃあ投げるよ。せーのっ!」
わたしの掛け声に合わせ、わたしとボスとガソリンの三人は一斉に手にしていたボールを投げた。
それぞれの数メートル前に立っている、フミとサテツとドンの三人へと。全力までとはいかないが、かなりの強めで。
サテツとドンはかろうじてではあるがキャッチ。フミは、まさか顔へ飛んで来るとは思わなかったのかびくりと身をのけぞらそうとして、反対に自らの顔で思い切りボールを受けてしまった。
わたしは笑みを浮かべた。
実は、わざと顔面を狙って投げたのだ。
「ほら、全然痛くないでしょう?」
「あ……本当だ! 全然痛くないよ、お姉ちゃん!」
それもそのはず。剣道の防具に全身を包まれているのだから。
コタローコーチに頼んで、学校の日曜剣道教室で余っている防具一式を借りたのだ。フミとサテツ、二人の分を。
ドンはキャッチャーだから、自前の防具だ。
この防具を利用して、まだまだ初級者である三人のため、強めのボールを怖がらず受けるための練習をしているのだ。している、というよりも今のが第一投だ。
ドンたちは三人とも、それなりに上手くキャッチボールが出来るようになっては来たのだけど、まだまだ相手が気を使って投げてこそというお約束のようなボールしかキャッチ出来ない。
試合ともなれば厳しい打球や、味方からの送球などもあるわけで、しかしそういったことを想定した練習をしようとすると三人は怖がってすくんでしまい、まともにキャッチ出来なくなってしまう。
それならば逆転の発想で、防具を着せた上でもっともっと近い距離からのボールで練習をすれば良いのでは、と考え早速実践に移したというわけだ。
ボールを当てられて防具の胴が割れてしまわないかという心配があるけど、軟球だから別段問題はないだろう。
「それじゃあ今度はフミ一人だけで。投げるよ」
わたしは合図をせずに、いきなり強く投げた。
また顔を狙ったボールであったが、今度は怖がらずしっかりグローブに収めることが出来た。
「やった!」
面の奥で、フミの顔が嬉しそうにぐに破顔した。
「ほらね、楽にキャッチ出来たでしょう? 怖がっていただけ。やれば出来るんだよ。慣れれば簡単だし、怖くなんかなくなるから。むしろ防具があると、見にくくて邪魔なくらいだよ」
「そうかも知れないけど、でも防具がないとやっぱり怖いなあ」
フミの言葉にサテツが頷いた。
「見ててあたしも思った。良い練習方法だとは思うけど、防具を外したら反対にどんなボールも怖くて取れなくなりそうだな」
ボスが不安げな言葉を吐いた。
わたしは笑顔を向けて、
「大丈夫です。並行して、防具を着用せずに遠くからのボールをキャッチする練習もします。少しずつ距離を近付けるようにしていきます」
「ああ、なるほど、考えたじゃんか。上手くいきそうだし、こいつら三人の守備練習については当面お前に全部任せるからな」
「はい」
そう、もう分かると思うけど、この練習の発案者はわたしだ。
先日、ボスが一人で猛特訓しているところへ遭遇し、その真剣さに感銘を受け、わたしもわたしに出来るなんらかの方法でチームを強くしたいと強く思うようになったのだ。
強くなるためにはどうすれば良いか。
簡単にいえば、打てるようになり、守れるようになれば良いのだ。
現在どこが悪いのか、別段研究するまでもない。
攻撃においては、ドンたちのところで打線が完全に途切れてしまっているということ。
ノッポやガソリンのところだけで得点しなければならないわけで、男子相手だというのにそんなチャンスの少なさでは、なにをいかんともすることが出来ず、チームはいまだに一点すら上げることが出来ていない。
打率を少しでも均一化に近付けることさえ出来れば、戦術を計算することも出来るようになるだろう。
守備においても、やはりネックはサテツとドン。二回おこなった練習試合では、どちらも二人が徹底的に狙われた。
キャッチャーというポジション柄、ドンは露骨に狙い打ちされることもないだろう、と最初は思っていた。しかし二度目の練習試合の時、バントの処理でドンが悪送球してしまってから、相手がバントばかりで攻めるようになった。スクイズだけでも三、四点は決められただろうか。
我々のフォローといっても限界があるし、サテツとドンの成長がチーム力強化へ近道といっても過言ではないのだ。
また、フミがしっかり役立つようになれば、それは攻守両面で有効なオプションになる。
現在のところフミはまだ使えるレベルに達しておらず、従って我がチームは九人きりで試合に臨むしかなく、戦局を変えるための施策をなにも打てない状態だから。
これまでわたしは、ボスにいわれたことはしっかりやって来たつもりだし、問われればドンやフミにアドバイスをしていたけど、基本的には自ら他人をどうこうすることは考えていなくて、ただ自分自身を強くすることしか頭になかった。
でも、それだけではダメなのだ。
積極的に全体を、チームを強くしていかないと。
自分から、チームに参加していかないと。
最近、そう強く思うようになって来ていた。
本当は心境の変化としてはほんのちょっぴりで、でも、そのほんのちょっぴりが嬉しくて、自己を認めたくて、錯覚しているだけなのかも知れないけど。
でも錯覚だろうと幻想だろうと、いまそういう気になっていると思っているのは事実なんだ。「明日のわたしはどうせ」、などと後ろ向きなことを思わず、チームを強くするために精一杯頑張らないと。
「それじゃ、続けようか。あと何回か投げて、その後はさっきいった通り防具つけずにキャッチする練習、それから全体練習に入ろう。それじゃ、投げるよ」
わたし、ガソリン、ボスの三人はボールを構え、またわたしの「せーの」で、向き合っているドン、サテツ、フミの三人へと一斉に投げた。
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