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第七章 ボス
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1
「……実はとんでもない富豪のお嬢様で、だからあんなに我が儘なのか」
ドンがぼそり呟いた。
「反対に、実は超絶貧乏で、だからああまで性格が歪んだのか」
続いて隣にいるノッポが、ドンの口調を真似してぼそり。
「実はさしたる理由など特にはなく、だって太陽が暑いから的にどうしようもなく理不尽かつ横暴であるのか」
ガソリンがなんだか分からないことを、だらだら述べている。
「実は正体が宇宙人で、我々人類がどこまでああした横暴さに耐えることが出来るかを調査に来たとか」
その隣のアキレス。少し前までいつもおどおどしていたというのに、本人のいない場では随分というようになって来たものだ。
「わたしは……真っ直ぐだと思う」
というのはフロッグだ。ドンから始まってたまたま時計周りに発言者が移って行ったものから、自分もなにかいわなければならないと思ったのだろう。
「どうして輪を乱すかなあ」
ガソリンがつまらなそうに、自分の太ももをぱしんぱしんと叩いた。
「今さあ、ここに本人いないよお。せっかくなんだし、正直なところをぶちまけちゃえばあ? 色々と溜まりに溜まる不満をさあ」
「今いったのが正直な気持ち。別に不満はないよ」
「へー。なんにもしてないのに罰ゲームとかいわれて、変顔で校庭を走らされることはあ?」
「まあ、それは確かにやめて欲しいけど……」
わたしの知らない時に、そんなことやらされてたのか。
フロッグだけ他校の生徒だし、それはちょっときついな。
「ちょっと機嫌損ねただけで関節技で締められたり」
「それも、やめて欲しいけど……」
わたしもだよ。
「魔球蝶の舞い! って、叫びながら投げさせられたりとかあ」
「あれもう二度とやりたくない……」
そんなことさせられているフロッグを、ははと笑ってあげられればまだ良かったのかも知れないけど、緊張して青ざめた頬っぺたを膨らませているフロッグがあまりに哀れで、我々もがたがた震えてしまっていたからな。空気が緊迫してしまっていて、フロッグには相当に辛い雰囲気だったと思う。
ボスがどのような生活をしているのか。という話で盛り上がっていたのだけど、いつの間にか態度や性格の話になってしまっていた。
ボスは現在コタローコーチと、対戦相手をどうするかについて話し合いをしている。絶対にここにいないとなると、開放感から必然的に無駄口が増えるわけであるが、大体がこのようにボスの話ばかりになる。普段絶対に出来ないからな、こんな話。
「ああそうだ、学校の七不思議というかボスの七不思議をここで一つ」
サテツが、唐突に会話に割り込んで来た。
「七不思議?」
わたしは尋ねた。
「うん。あたしね、外で一人でいるボスを目撃したことあるんだよね」
「その程度なら、あたしだってあるよ。公園で、一人で練習してるところ。見つかったら、恥ずかしそうにしてたよ。本当は練習なんて必要ないけど暇つぶしで、とかなんとか笑ってごまかしてた」
なんだ、ガソリンもボスが練習しているところ見たことあるんだ。だったらこの間わたしが見かけた時に、こそこそ隠れている必要もなかったな。正確には隠れていたわけではなくて、気迫が凄くて話し掛ける機会を逸してしまっただけだけど。
「そんな当たり前なんじゃなくて! もっと凄いのだよ」
「どんなのさ?」
ガソリンが尋ねる。
「いっても信じてくれないだろうなあ」
「分かんないよ」
「いやあ、信じてくれないよお」
「だからあ、いってみないと信じるも信じないもないでしょ! いいよもう、話したくないなら教えてくれなくても。そうか、サテツは話したくないんだ」
「話したい! だって本当に凄いとこ見ちゃったんだもの」
「聞いて欲しい?」
「うん」
「じゃあ、聞いてあげるからいってみな」
「分かった。あのね……」
サテツは、他に誰もいないというのに声をひそめた。
「うんうん」
と、これは、わたしたちの声。
もったいつけられ聞く気をなくしているガソリンと反対に、他の者たちはみなサテツの思わせぶりな態度に踊らされすっかり食いついていたのだ。
「お母さんとカスミに買い物に行った帰りにさあ、お寺の辺りかな、痩せたボロボロの仔犬が歩いててね、自動車にひかれそうになってたんだ。栄養もとれずふらふらだったのか、気付きもしなくて。もうダメ、ひかれる、ってところをね、さっと飛び出した女の子が間一髪、抱き抱えて助けたんだけど……」
「それが、ボスだった?」
「そう」
おーっ、とみなは感心の声を上げた。
「でもボスが猫を助けても、別に意外でもないんじゃない? 別にボス悪党ってわけじゃあないんだし。単に横暴で短気で我が儘で身長がチビなだけで、特に七不思議とは思わないなあ。悪党だとしても、映画の悪党だって、やたらペットを可愛がってたりするじゃん。片手にワイングラス持って、膝に猫を乗せてさあ」
ガソリン、なんかそのセンス古い気が……
「うん。七不思議はここからなんだ。ボスは自分も危うくひかれそうで、へなへなと道路にへたり込んで、泣き出しそうな顔になっていたんだけど、仔犬をぎゅうっと抱きしめたまま、あたしの空耳じゃなかったらこういったんだよ。『危なかったねえ。おー、おー、よちよち』って」
「えーーー?」
わたしも、みんなも、思わず驚きの声を上げていた。
確かに、それは意外だ。ボスならば、「根性が足りねえんだよ」とか、幼い犬にすら乱暴な言葉で説教したり、殴ったりしそうなものだというのに。
「さらにさらに、胸の中でもぞもぞする仔犬に、可愛らしく身をよじらせながら『きゃはっ、くすぐったいよお』なんて」
「ないない! それは絶対にない」
「事実ならば確かに七不思議だ」
「双子の姉妹がいるとか」
「本当のボス像が分からなくなってきたあ」
「嘘でしょ?」
「本当だって!」
「単に動物が好きで、人間嫌いってだけでしょ? しっかし笑えるなあ、きゃはっ、とか本当かそれえ。あたしも見てみたかったあ」
ガソリンはお腹を抱えて笑い始めた。
意地が悪いんだからな。
でもノッポがいってたけど、本当のボス像が一体どんななのかって、わたしも気になっちゃうな。特にこうした話を聞いてしまうと。
わたしはこのボス論談義には参加せずだったけど、考えとしてはフロッグと同じかな。
少なくとも、性根は真っ直ぐだと思う。
でなければ野球チームを作ろうなどという情熱を持つはずない。
一人で、あんなにボロボロになるまで練習するわけがない。
2
「ででででーん」
お母さんが仰々しい仕種で運んで来た平皿を、そろおっと食卓に置いた。
お皿には、もくもくと湯気の上がっているエビチリが、山のように積まれている。
既に席に着いて待っているわたしとフミ、俊太は、わーっと歓声を上げた。お調子者のフミは、大袈裟に拍手をしてみせた。
そうこうしている間にお父さんが、ご飯を盛った茶碗や取り皿をそれぞれの位置へ並べていく。
「次っ、ででででーん」
お母さんが、また仰々しい動作で運んで来た海鮮サラダの皿を食卓に置いた。
続いて豚肉の生姜焼き。仰々しい言動に飽きたのか、今度は普通の仕種で持って来た。
肉料理がもう一つ。下にたっぷりの野菜炒めを敷いた、南蛮唐揚げ。
白身の焼き魚。
卵焼き。
味噌汁。
「うわあ、すっごおい」
フミが感動に驚いたような顔で、ぐわっと身を乗り出さんばかりだ。ほとんどが演技だと思うけど、自分自身それが演技であることに気付いていない。だから大人受けがいいんだよなあ。これも天性の才能か。
ここは我が家のダイニング。
今日は久し振りに、お母さんが早くに仕事から帰って来た。
そして晩御飯を、久し振りにお母さんが作ることになったのだ。本当はお父さんが週当番なのだけど、お母さんがせっかくだから作らせてと頼んだとのこと。
こうして先々月の旅行以来、久々に家族全員で手を合わせいただきますをすることになったのである。
家の食卓でということだと、何ヶ月ぶりだろうか。全員揃ってだなんて、お正月以来かも知れないな。
「美味そうだな、食べるぞこのやろーーっ!」
お父さんが、席に着くなり早速お箸を手に取った。
「あたしっ、あたし唐揚げからいっちゃうっ!」
「ぼくも!」
「唐揚げが一番苦労したんだよお。でも絶対傑作。味見してないけど」
「味見くらいしてよお」
フミ、俊太、お母さん、そしてわたしも、何故だかハイテンションになって、お箸を持ち小皿に取り分け、それぞれに口に運んだ。
その瞬間、ビリッと電流を受けたかのような感嘆符いわゆるビックリマークがみんなの顔に浮かんでいた。
次にこの空間を支配したのは、静寂の二文字であった。
みな口に食べ物を入れたまま、咀嚼することなく沈黙してしまっていたのである。
しばらくして、みな慌てたように口を動かし、なんとか口の中の物を飲み込むと、「まさかね」といった表情を浮かべ、気を取り直したように別の料理に箸を伸ばした。
しかし、喋るのも気まずいこの空気が変わることは決してなかった。むしろ、ますます重く酷い沈黙状態になってしまっていた。
静寂を打ち破ったのは、お母さんだった。
「……ごめん」
そういうと、落ち込んだようにがくりうなだれた。
「久々の食事だからと思ったんだけど、だからこそ……だからこそ素直に外食にしとけば良かった」
そう、お母さんの作った料理、あまりにもまずいのだ。
料理が得意な方ではないのは知っていたけど、というか何度か身をもって経験したこともあったけれど、でも、ここまで美味しくないのが出てきたのは初めてだった。
エビチリのエビはぐにゃぐにゃ、チリソースは辛いだけでなんの味もなし。ソースが焦げているらしく、匂いも変。
卵焼きは、塩の塊ではないかと思うほどにしょっぱいし、味噌汁もこれまた塩っ辛い。ダシと味噌のバランスがおかしい。
唐揚げは、外は焦げているのに中は生っぽく、生っぽいのにパサパサで、どうすればこのように調理出来るのか不思議なくらいだ。
その下に敷いてある野菜炒めも、よく見ると油の海に浮いている感じだし。
失敗なんてものじゃない。
でも、お母さんが一生懸命作ってくれたものなんだ。ここ何日か帰りが深夜近くて、それからも自宅で明け方近くまで仕事していて、そんなふらふらの状態で作ったんだから仕方ないじゃないか。まあ、そこを差し引いても酷い料理だけど。
いやいや、酷くない! 全然酷い料理じゃない。探すんだ。美味しいところ、褒めるところ、探すんだ。
お父さんもフミも黙っちゃってるんだもの。わたしがフォローするしかないじゃないか。ほんと長女は損だ。
「お、美味しいよ、お母さん」
「どこがあ?」
お母さん、すっかり落ち込んでいっそボロカス批判してくれた方が有り難いといった不貞腐れた感じになっちゃっている。参ったな。
「ほ、ほら、魚のこの焦げてない部分、そこだけほぐして食べれば美味しい、かも。エビチリも卵焼き混ぜれば味がつくし、卵焼きのしょっぱさ中和されるし」
料理として成り立つのかはともかくとして。
「まあ確かにねえ、そのまま普通に食べたらまずいのばかりだよねえ」
いけない! 墓穴掘った!
「だからさあ、最初から外食にしとけば良かったなあって後悔してる。ごめんね、ほんと。余計なことした」
「そんなことない! お母さん、慣れてないから仕方ないもの。そんなことよりも、お母さんが一生懸命作ってくれたご飯を、みんなで食べられるというだけで嬉しいんだよ」
「本当に君江は……良い娘に育ったなあ」
「そんなことないよ」
そういわれたことは嬉しいけど、同時に自己嫌悪に陥っていた。
フォローしなきゃならないなんて長女も楽じゃないよ、なんて酷いこと思っていたのだからな。
フミみたいに美味しくないと思ったらあからさまな不機嫌顔を作れる方が、よっぽど素直で素敵なことなのかも知れない、とも思うわけで。
……って、なんでわたしだけが、こんなことで悩まないとならない? お父さんもなんとかいってよね。俊太も、もう小学二年なんだから、なんか気のきいたこといえ。
心の中でぶつぶつ文句をいってしまうわたし。
でも、この頃はまだ分かっていなかったのだ。
このような程度のことで苦悩出来るだなんて、不満に思えるだなんて、いったいどれだけ幸せな家庭であったのかということを。
3
どうして止めなかったのだろう。
神の身でない以上、これから起こることなど分かるはずもなく、だから仕方のないことではあるのだろうけど、でも、そう悔やまずにいられない。
そういったことが人生には稀にあるものだと思うけど、この日の出来事が、まさにその一つだった。
やがて訪れる結末、運命といったものはまったく変わらないものであったにせよ、だからといってなにも今日このようなことの起こる必要性などなかったのではないか。
そう思わずにはいられないものだった。
九月十四日 火曜日。曇り。
練習の際には体育館の女子更衣室を使って着替えることになっている。この日その時、わたしとフミ、ガソリン、ノッポの四人がそこにおり、ユニフォームへの着替えをしていた。
ガソリンとノッポが、先ほどから雑談でぺらぺら舌を動かし続けている。
アキレスがヘッドスライディングから勢い余ってくるんと前転し、一本背負いのように背中を打ち付けて痛みに泣いていたという笑い話から、いつの間にかボスの話題へと変わっていた。
「……のくせにさあ、恥ずかしいからメンタルトレーニングになるんだあ、とかいって、じゃあボス一人だけ全然トレーニング出来てないじゃんかねえ。だって恥ずかしいって感じないんだもん」
先日また、教室で変顔絶叫大会をやらされたのだ。
「えー、一人じゃなくてガソリンもでしょお」
「それ酷いなあ、あたしはしっかり恥ずかしく……は、思っちゃいないか。でもあっちはやらせる方で、こっちはやらされる方で、やっぱりなんか釈然としないものがあるんだよ。させといてなんだよお前、ってさあ」
「といってもどうしようもない」
「でも、ちょっとでもいいからやり返してやりたいよねえ。なんかボスが恥ずかしいと思うようなこと、ないかなあ……あ、そうだ! いいこと思いついたっ!」
ガソリンは、手のひらをぽんと叩いた。
「え、なあに?」
そばで話を聞いていたフミが食いついた。
「うん、あのねえ」
ガソリンが、目を細めていやらしい笑みを浮かべた。
その時である。
部屋のドアが開き、スポーツバッグを肩に掛けたボスが入って来た。
ここで着替えるわけではない。
いつも、大きな荷物だけ置くとすぐ更衣室を出て、一人別の場所で着替えるのだ。
本人曰く、他人に肌を見せるのが絶対に嫌ということだ。
もうすぐ学校の健康診断があるのに、どうするつもりなんだろうとも思ってしまうけど。
「おおっ、ちょうど来たあ。ねえねえ、ボスさあ」
ガソリンがにやにや笑いながら、部屋を出て行こうとするボスの先回りをしてドアの前を塞いだ。
「なんだよ、気持ち悪い奴だなあ。どけよ」
「その前に質問。あのさ、恥ずかしいことすればメンタル鍛えられるとかいって、教室で変な顔とか声とか、散々やらせたよね」
「少しは鍛えられたろ」
「まあね。でもボスさあ、全然恥ずかしがってなんかいなかったよねえ」
ガソリンもだけど。
他のみんなは、あまりの恥ずかしさに溶けてなくなりそうなくらいだった。
「なにがいいたいんだよ。着替えるんだから、どけってば」
ボスは、ガソリンの顔を睨みつけながら、肩を掴もうとする。
その手をガソリンはぱしり払うと、悪戯っぽい笑みを強くした。
「だからあ、ボス一人だけトレーニングしてないのずるいよねってこと。恥ずかしい思いすれば鍛えられるんならさあ、いま鍛えてあげるよ。だから感謝したまえ!」
そういうと、ボスへと飛び掛かった。
「なにすんだ!」
悲鳴に近い、裏返ったような叫び声が上がるが、ガソリンは構わず押し倒してしまう。
「いいからいいから」
馬乗りになりボスを押さえ付けながら、ガソリンは楽しげに笑っている。
次の行動に、わたしは驚きのあまり声も出なかった。
なんと、ボスの服を脱がせにかかったのだ。
跨がったまま、裾をぐいぐいとめくり上げていく。
「おい、やめろ! てめえ、ふざけんなあ!」
ボスは怒鳴りながら、最大限の力で暴れ、逃れようとする。
どったんばったん上下左右に大きく揺れているというのに、ガソリンは器用にロデオをこなし、まるで動じない。
「これも訓練だよ、訓練。メンタルトレーニング。まったくさあ、リーダーともあろう者が着替えごときで恥ずかしがってんじゃないよ。いっそ全部見せて晒してすっきりしちゃえ! ほらほらあ、ノッポも手伝って手伝って!」
「うん……ごめんねえ、ボス」
ノッポはちょっと躊躇いつつも、これは冗談なのだと思ってか腕を押さえ付けた。
確かにボスは横暴ではあるけれど、最近みな冗談で接することが出来る、そんな雰囲気は生じてきていたから。
でも……
「やめろっていってんだろがああ! ほんといい加減にしろよ! ただじゃおかねえぞ!」
暴れ続けるボス。冗談と思っていないこと、明らかだった。
「はいはい、恥ずかしいほど良いトレーニングになる。君はいま、猛烈な速度で鍛えられているぞお」
ボスはどうやら薄い長袖シャツを重ね着しているようで、めくるとさらにもう一枚の裾がズボンの中に入っていた。ガソリンは、そちらもぐいぐいズボンから引っ張り出して、大きくめくり上げた。
ついにキャミソールが見えてしまい、危機を感じたボスの暴れかたが激しくなった。
ガソリンはその尋常ならざる様子に、ようやくいぶかしむような表情を浮かべたのだけど、でも半ば意地になってしまっていたようで、身をよじり抵抗するボスから一番上のシャツを剥ぎ取ってしまった。
「ちょっと、もうやめなよお」
わたしはようやく口を開いた。
でもそれは、必死に止めようとするような、抗議するような、そんなものではなかった。
同性ではあるけれど、でもあんなに恥ずかしがっている。見せまいとしている。その必死さにただならぬものを感じたのは間違いないけど、でも、その必死さ故に、わたしも少し興味が沸いてしまっていたのかも知れない。無意識に、すべての責任をガソリンに押し付けて。
なんの弁明にもならない言葉ではあるけれど。
「これで少しは涼しくなったでしょ? だいたい、なあんでこんな暑いのに長袖を重ね着してんだよお」
決まっている。
それほどに、絶対的に肌を見せなくないからだ。
そういえば、体育の時間もショートパンツや半袖シャツを絶対に着ようとしないらしいと彼女と同じクラスの菜緒ちゃんから聞いたことがある。
「てめえの知ったことかよ! 早くどけよ! ふざけたことしてんじゃねえぞお!」
「やあだよ」
相変わらずの軽いガソリンの表情。
でもその笑顔の質は、明らかに変わって来ていた。
ふざけている自分をいまさら止められない。そんな感じに思えた。
「ね、ガソリン、やめた方がいいんじゃ」
わたしはもう一回注意した。
いや、注意と呼べるものか。どうとでも取れるような言葉を、なんの感情も乗せずにとりあえず吐き出しただけだ。
とりあえずの責任から逃れるために。
本当は、無価値で無責任な、バカバカしい好奇心を満たしたかっただけのくせに。
でも、
この後になにが起こるか、それは予想が付くはずもないことで、
つまり、なにも知らなかったからであったわけで、
といっても、どんな弁解にもなってはいないけど……
「もう観念しな! とりゃあ!」
ガソリンは、一枚目を剥ぎ取ったことに要領を掴んだようで、下に着ていたシャツを見るも簡単に脱がしてしまった。
まったく悪気のない、軽い冗談といった顔を、なんとか作り保持しながら。
ガソリンにくみしだかれているボスの上半身は、こうしてついに下着であるキャミソールだけという姿になった。
その姿が視界に飛び込んで来た瞬間、わたしの脳はなにを感じたのだろう。
憐憫とか、そういうものではなく、ただ単に目の前のものがひたすらに信じられなかった。
だってその光景は、日常とあまりに掛け離れたものだったから。
言葉を失う、というのはこういうことをいうのか。
全身が、視線が硬直していた。
わたしだけではない。
フミも、ノッポも、ことを起こした張本人であるガソリンも。
静寂。
完全に空気は凍り付き、誰かの息遣いどころか心臓の鼓動さえ聞こえてもおかしくないほどだった。
ごくり。と、わたしは唾を飲んだ。
いつも何事にも物おじすることのないガソリンも、自分の招いた結果にただ青ざめた表情を凍り付かせていた。
わたしたちがなにを見たのか。
傷と、痣。
それだけだ。
でも、ただそれだけであったならば硬直することなどなかった。驚き、心配し、声を掛けていただろう。
それが普通の反応だ。
普通の反応すら出来なかったのは、それがあまりに凄まじい規模だったからである。
つまりは、その傷と痣が、見える範囲隙間なく至るところびっしりと存在していたのである。
腕も、肩も、大きくめくれているお腹も。おおよそどを探せばまともな肌の部分があるのか、というくらいに。
下着姿であり裸体ではないので、上半身のすべてが晒されたわけではないが、しかしもう下着の中がどうなっているのかなど確かめるまでもなかった。
上半身だけでなく、おそらくは下半身も同様なのではないか。
いや、間違いないだろう。ショートパンツやスカートの時には、必ず厚手のタイツを着用していたことを考えても。
打撲系の傷、擦り傷に、切り傷もある。カッターでちょこっと、というようなものではなく、相当深くざっくりと肉をえぐったような。
それほど日の立っていなさそうなものもあれば、どれほど前のものなのかぐずぐずになった肉が癒着してこんもり盛り上がっている部分もある。
野球練習によるものだろうか、などという疑問は生じる余地もなかった。そんなことでお腹が痣だらけになるはずがないからだ。お腹や腕が、深い切り傷だらけになるはずがないからだ。
あまりの凄惨さに、わたしは一瞬にして吐き気を催し、口を抑えしゃがみ込んだ。
凍りついた空気、静止した時間を動かしたのは、わたしのその態度、呻き声だった。
と同時にフミが、ぎゃーーーっと恐ろしい悲鳴を上げた。
自分の招いた結果が信じられず呆然とした表情でぶるぶると震えていたガソリンが、フミの叫び声にはっとしたように目を開いた。
「ご、ごめ……」
ん、までいわないうちに、その顔が大きくのけぞっていた。
突如突き上げられた拳が、顎を捉えたのだ。
ガソリンはたまらずごろんと後ろに転がった。
ずっしりのしかかっていた重しがなくなって、ボスはゆっくりと立ち上がった。めくれたお腹を直すと、シャツを拾い、袖を通し始めた。
転がされたガソリンはぶんぶんと頭を振ると顔を上げた。その瞬間、また驚きにはっと目を見開いた。
無表情でちくちくと服を着ているボスであるが、なんと目にこぼれそうなほどの涙を溜めていたのである。
わたしたちが黙って見つめている中、ボスの限界は早かった。
えくっ、としゃくり上げると、そのまますすり泣きを始めたのである。
「ご、ごめん、ボス、だって知らなかったからっ! あたし、なんにも知らなかったからっ!」
そう、この中で一番うろたえているのはガソリンであった。
冗談でボスのシャツを脱がせたところから、すべては始まっているのだから。
「だだ、だって、あたし、ボスが、あたし、ああええとっ、そのっ、みんなとっ……」
青ざめた顔で弁解じみた態度を取り続けるガソリン。
きっと、ボスの他人行儀なところを直してあげて、もっとみんなで仲良くなりたくて、といったようなことをいおうとしているのだろう。普段絶対にそんな本心を口に出さない彼女だけど、それだけうろたえていたのだ。
でもボスはなにも聞いていなかった。涙を拭おうともせず、ゆっくりガソリンに近寄ると、胸倉を掴み、引っ張り上げて立たせると、壁にどんと背中を押し付けた。
「誰にも、いうんじゃねえぞ。みんなもだ! 絶対に、いうな!」
ボスはガソリンに対しおでこをすり合わせるように凄むと、振り向いて今度はわたしたちにその殺気に満ちた表情を向けた。
「で、でも、でも、それ誰に……」
わたしはそんな当たり前の言葉を吐くことしか出来なかった。
「いいんだよ! 自分でやったことなんだから! 誰かに喋ったら刺すからな! 逃げたって追い掛けて、絶対に刺すからな! 身体バラバラにして、校庭に埋めっからな!」
「自分で……って」
「うるせえな!」
「でも……」
なおもわたしが、わたしたちが、うろたえ立ち尽くしていると、ふとドアの向こうから足音が近づいて来た。誰かがこの更衣室に入ろうとしているのだ。
ボスはバッグからユニフォームを取り出すと、「忘れんなよ!」と、わたしたち全員を改めて睨み付け、ドアへと小走りで向かう。
ばん、と向こう側からドアが勢いよく開けられた。
「宿題忘れて居残りさせられそうになったけど、逃げ出して来ましたあ!」
アキレスが、両手を振り上げうおおおおーーっと叫んだ。
「邪魔だよ!」
ボスにどんと肩をぶつけられ、アキレスはくるんと回転して尻餅をついた。
走り去るボスを、ぽわーんとした顔で見つめていたアキレスであったが、やがて立ち上がると、
「ね、いまボス泣いてませんでした?」
「きき、気のせい気のせい!」
わたしたち四人は、つっかえるタイミングまでぴったり合わせてアキレスの言葉を否定した。
口を閉ざすと、無言のままお互いの顔を見つめ合った。
とりあえずグラウンドへ向かおう。ということで、アキレス一人残してわたしたちは更衣室そして体育館を出た。
「どうしよう……」
フミが、がたがた震えている。
先ほど見てしまったボスの姿が、脳裏に焼き付いて離れないのだろう。
「様子を見るしかないよ。わたしたちだけ知ってしまったということは、わたしたちだけには色々と話してくれるようになるかも知れないし」
唇が震えてしまってみんなには全然聞き取れていないかも知れないけど、とにかくわたしは小さな声でそういった。
「先生に相談してみようか?」
ノッポが提案した。
「もちろん最終的には大人の力が必要だと思う。でもボス、ばらしたら刺すようなこといっていたし……」
でもそれはきっと、わたしたちではなく、自分自身をだ。
事が大きくなりそうになったならば、ボスは自分自身を終らせようとしてしまうのではないか。根拠はまったくないけど、なんとなく、そんな気がする。
「あたし、あたしの、せいだ、あんな、余計なことしなければっ!」
ガソリンが突然しゃくり上げたかと思うと涙をぼろぼろこぼして泣き出してしまった。
「違うよ。あんな傷、隠し通せるものじゃない。だからガソリンは関係ない。そう自分を責めないで」
「でも、でも……」
「とにかくまずはボスのいう通り誰にも話さないようにして、様子を見よう。これまで通り普通に、野球を頑張ろう」
ガソリンは鼻をずっとすするとごしごしと袖で涙を拭き、無言で大きく頷いた。
でも、わたしたちが普段通りに行動したとしても、ボスの方は大丈夫だろうか。
という心配は不要だった。
一人で着替え終え、遅れてグラウンドにやって来たボスであったが、
「よおおおし、今日も張り切って練習しようかああ! たるんでる奴は、バッシバシしごくからなあ!」
まったく、普段のままだった。
4
「本当に自分でやったのかなあ」
フミが、さっきから同じことばかりいっている。
ここは自宅の二階、わたしたち姉妹の部屋だ。
わたしは二段ベッド下段の布団の上で、あぐらをかくように座っている。部屋の照明はついているのだけど、頭上すぐがベッド上段であるため薄暗がりになっている。
フミは上段にいる。さっきまでと変わらぬ姿勢なら、寝転んですぐ頭上の天井を見上げているはずだ。
「分からないよ」
わたしはその都度同じ答えを返すのだけど、でも実は、フミに問われるたびに脳裏にボスのあの姿が鮮明に浮かび、そしてそれは一つの答えを導きつつあった。
自分でつけられるような傷ではない、と。
馬乗りになっていたガソリンを押し退けたボスは、素早く立ち上がると脱がされた服を拾って着たのだけど、その時にわたしははっきりと見たのだ。お腹や腕と同じように、背中も傷だらけ痣だらけだったのを。
背中だなんて、自分でつけることは絶対不可能ではないけれど、自傷行為ならそんな苦労するところにやるはずがない。
ボスは喧嘩っ早いけど、でも喧嘩でああなるはずもないだろう。
となるとやっぱり、誰かからの一方的な暴力を受けている……ということ?
学校でのボスは無敵だから、ということは、保護者からの虐待?
まさか……
でも、もしもそうならば一刻も早く先生にいうべき?
ボスからは硬く口止めされたけど。でも、誰か大人にいうべき?
客観的に、正解を導くのならば、それが正しいことなのだろうけれど……
「ね、お姉ちゃん、ボスさあ、見られた恥ずかしさがどうこうってこと以上に、単にそのことを誰にも知られたくないといった感じだったよね」
「え、どういうこと?」
「だからさあ、もしも誰かに酷い目にあわされたのだとして、怪我だらけの姿を見られることよりも、その、誰かにやられたというのをとにかく隠したいという感じだったってこと」
「ああ、いわれてみれば……」
絶対にいうな! と凄んでいた時が、なにより一番殺気に満ちていたものな。
傷だらけの姿を見られたことよりも、そこからなにかが発覚することをこそ恐れている、ということか。
じゃあ、やっぱり虐待を受けている?
いやいや、それもおかしい。
虐待を受けているのなら、隠す必要はないじゃないか。
だってそうだろう。あのような姿を見られたくなかったという羞恥心から秘密にしていたにせよ、もう見られてしまったんだ。だったらもう、素直に打ち明けてくれればいいじゃないか。わたしたち、仲間なんだから。
でも、それならなんだ、あの傷は。
本当に、自分一人でやったものなのか?
なんのために?
あの中には、かなり深そうな刀傷もあった。
自分でやったというのならば、なんであそこまでのことをする必要がある?
他人にされたのだとしても、どうしてあそこまでのことをする必要がある?
そういえば、ボスの耳……
わたしの想像に間違いがなければ、ボスの片耳はほとんど、もしくはまったく機能していない。やたら地獄耳のくせに、耳側から寄って耳打ちすると常に反応がないことからほぼ明らかだ。
もしかしたら、関係あるのだろうか。
あの傷や痣と、耳のこと。
それだけじゃない。ボス、たまに激しく咳込んでいたよな。
まさか……
考えれば考えるほど、わたしの精神は暗闇の中に落ちて行く。
もがいてももがいても、その手は泥を掴むばかりでまるで光明を見出だすことが出来ない。
自分のしてしまったこと、反対にすべきことをしなかったことへの自己嫌悪。
罪悪感。
なにも出来ないことに焦る気持ち。
「なにが真実なのかは分からないけど、でもとにかくボスにああまで真剣に口止めをされた以上は、しばらくはこれまで通りにするしかないよ」
自分の推理や、大人へ報告するべき大事ではないのかという思いは別にして、とりあえずフミにはそういってみた。
うん、とくぐもったような声が上から聞こえて来た。
仮に虐待であったとしても、おそらくはここへ引っ越して来る前からのこと。何故ならば、わたしたちが出会ったばかりの頃、既にボスは全身の肌を覆い隠すような服装をしていたからだ。
つまり、少なくとももう何ヶ月もそういった状態が続いているわけであり、コンマ一秒を争うような緊急性のある問題ではないはずだ。
可哀相だとは思うけれど、
なんとかしてあげたいとは思うけれど、
でも事を急かすと、ボスがなにをするか想像がつかない。
もしもボスのいった通り自分で自分に刃物で傷をつけているのだとしたら、下手をしたら……
考えるだけでも恐ろしい。
ならば、焦らる気持ちを抑え、じっくりいく方が良いのだろう。
子供の浅慮を後になって責められることになるかも知れない。分かっている。でも、いまはそうするしかない。
などと冷静に考えられるようになったのはつい数時間ほど前であり、それまではわたしもやはりフミのようにガタガタ震えうろたえていたのだけど。
「普段通りといわれても、出来るかなあ」
「大丈夫だって、フミ。今日はちゃんと出来ていた」
本当のことだ。今日、あの衝撃的な出来事の後にチーム練習をしたのだけど、思いのほか、びっくりするくらい普通にこなすことが出来たのだ。
わたしも、フミも、ガソリンもノッポもだ。
とはいえそれは、ユニフォーム姿で元気に毒舌を撒き散らすといういつも通りのボスの姿に、あんなことがあったなんて信じられなかったからなわけで。
練習が終わって改めて四人こっそり集まって、やはりあれは現実であったことを再認識した後は、みんなで顔を青くしてぶるぶる震えっぱなしだったのだけど。
「どおもーっ!」
お父さんと俊太が、どばんっとドアを開けて屈み腰で部屋に乱入して来た。
普段なら「着替えてることもあるんだから、急に開けないでよっ!」と怒鳴って注意したり物を投げたりするところなのだけど、いまのわたしにそのような気力はなかった。一体なんだ、と軽く注意を向ける程度だった。
「暑くなって来ましたねー」
俊太。
「そうですねー」
お父さん、揉み手で腰をくねらせている。
「こんな暑いと、我々癒し系漫才の出番ですねー」
「え、出番なのは氷屋さんとかでしょ。我々はむしろべらべら喋って、あっついのをもっともっとあっつーくしますからねえ」
「いやいやいや、暑いからこそ癒し系でね、ホットするんですよ」
「うわあ、オヤジギャクで寒うなったわあ」
ちゃんちゃん、と二人は両腕と股を思い切り広げておどけた。
「どうだっ、キミ、フミ、俊太がお楽しみ会でお笑いをやるとかいうから、おれが考えてやったネタだっ!」
両手を腰に当てていばるお父さんであるが、返るは沈黙という重たい空気だけだった。
「お父さん、だからいったんだよ! こんな下らないの受けるわけないってさあ!」
「そうかあ、くそ。なんか別のを考えるか」
「いいよ。ボクとタケル君で考えるからあ」
踵を返し、部屋を出て行く二人。
「失礼しましたー、ちゃんちゃん」
お父さんの声とともに、そろっパタンかちゃっ、とドアが閉まった。
部屋は完全な静寂に包まれた。
それからどれくらいの時間が経っただろう。
「ボスの傷、本当に自分でつけたのかなあ」
フミがぼそり呟いた。
「分からないよ」
なにかの事情によって自分でつけた傷も本当にあるのかも知れないけど、絶対にそれだけではないはず。物理的に考えて。
でもこの段階でそうした推理をフミに話しても仕方がない。
だいたいフミはまだ小学四年生なんだ。同じ小学校に通う生徒の、あんな痛ましい姿を見て悩むだなんて、それこそ間違っているというものだろう。
じゃあ大人に話せばいいのか? ということになると、話は完全にぐるぐる回ってしまうのだけど。
つまりは、
「とりあえず普段通り、様子を見るしかないよ。ボスが話してくれるのを、待つしかないよ」
こういうしかないのだった。
5
倉松タイガーアンドドラゴン 21 - 0 杉戸ブラックデスデビルズ
「やる気あんのか、てめえらあ!」
ボスの怒号が轟いたのも、当然だろう。
この結果、それに至るプレーを考えれば。
「特にお前だよお前」
ガソリンの胸倉を掴み、ぐいっと力任せに引き寄せた。
「やめろ、そういうことは! 暴力だぞ、それ」
コタローコーチが走り寄って、慌ててボスの手を引き離した。
ボスとガソリンは、お互い無言になって、やり場に困った視線を徒に泳がせていた。
しばらくして、
「ひょっとして、まだ気にしてんじゃねえだろうな」
ボスはガソリンの真横に回り込み、脇腹を小突きながらこそっと囁いた。
「そんなことないよ」
「じゃあ、ちゃんとやれよ!」
「やったよ!」
「どこが!」
このいい争いに関してだけならば、ボスが正しい。
対戦相手が、現在男子しかいないリーグにおいて上位にいるようなチームであったということも大きな要因ではあるけれど、それ以上にわたしたちが酷すぎたのだ。
せっかくサテツやドンが充分な戦力へと成長を遂げつつあることを感じさせるプレーを随所に見せてくれたというのに、わたし、ガソリン、ノッポの動きがあまりに酷く、自分のプレーも、味方のプレーも、すべてを潰してしまったのだ。
中でも可哀相なのはフロッグだろう。
これまでにない最高のピッチングを見せてくれたというのに、わたしたちのエラー連発で大量失点。もう三振でしかアウトが取れないというプレッシャーから、最終的に自滅させてしまった。
負けはしたけど練習試合だし課題が出て良かった、などというレベルではない。普通に考えてチーム崩壊の危機だ。
まあ、その原因はわたしたちの個人的な問題なわけだけど。
問題とは、先日の、あのことだ。
ガソリンはボスに「そんなことはない」と否定していたけれど、それこそそんなわけがない。
あのことがまるで解消されていないために、わたしたちはすっかりボロボロになってしまっていたのだ。
でも、仕方ないだろう。
わたしたちは子供なんだ。大人のように感情を割り切れるはずがない。
もっと酷い事態になることを恐れて自分たちで抱え込んでしまっているというだけで、本当はこんな我慢なんかしたくない。辛い中を一人で秘密を抱えて頑張っているボスの姿を、見たくなんかないんだ。
でも、
でも、じゃあどうすればいいんだ。
わたしはそんな、ぎりぎりと胃に穴が空くようなはがゆさを感じていた。
でもそれはボスの秘密、怪我の理由を知る日が、あんなに早く来ようとは思ってもいなかったから。
知ってからの方が、よほど胃のぎりぎり痛む思いに悩むことになったのである。
6
「ええと、確か、この辺りだよね」
わたしは珍しく、独り言を呟いていた。
あちらこちらからしょわしょわと蝉の鳴く声が上がる中、顔の汗をタオルで拭き拭き住宅街を歩いている。
独り言が多くなっているのは、きっと不安だったからだと思う。
わたしが現在歩を進めているのは、ボスの家だからだ。
放課後にコタローコーチからチームへの頼まれ事を受けた。
既にボスは教室におらず、家へ帰ってからボスの家へ電話をかけてみたけど誰も出なかった。
伝えるのなら一日でも早い方がいいかなと思って、それでこのようにボスの家へ向かっているというわけだ。
住所を確認してみたところ、うちからそれほど遠くもないようだし。
ボスの全身を覆うあの痛々しい傷の数々を思うと、親には絶対に会いたくないところ。誰がボスをあのようにしたかなんて分からないけど、でも硬く口止めされていることもあるし、いずれにしても会うのは気まずい。
もしも良い人そうならば、仲良くなって後でこっそり相談するという手もあるけれど、表の顔と裏の顔が違うような人だと、ボスへの虐待が余計に酷くなることも考えられるし。
などといった問題がありつつも何故わざわざボスの家へ行くのかという話だけど、ボスはお父さんと二人暮らしであるとコタローコーチから内緒で教えてもらったからだ。
ならば日も暮れていないこの時間、誰か家にいるのならきっとボス一人だけだろうから。
用件を簡易的にまとめた紙文書も用意してあるから、もしも誰もいないようならば郵便受けに投函しておくか、玄関ドアにでも挟んでおけばいい。
電信柱にある番地や号を示すプレートから判断して、もうこの辺りのはずという場所に差し掛かった。
通りに面して、古くさい感じの小さな平屋が立ち並んでいるところだ。塀で囲われていないため、どの家も外観が丸見えだ。
確かここ全体、貸し家のはずだ。
「ここに、お父さんと暮らしているのかな」
また独り言をいうと、端にある家から一軒一軒、玄関の表札を確認していった。「浜野」という文字を探して。
でも、どの玄関にも表札らしきものは見当たらない。
どの家からも生活臭が感じられず、表札もないものだから、本当にここなのか不安になってきた。
と、わたしは突然びくりと肩をすくめて、ひっと悲鳴を上げた。
ガシャーン、とガラスかなにかが割れるような大きな音がすぐ近くで響いたのだ。
「その暗い顔を見てっと吐き気がすんだよ! なあにが酒の飲み過ぎは身体に悪いだボケ! てめえの顔を見てるより遥かに紛れるんだよ」
男の人が、ガラガラとした声で怒鳴っている。
再び、ガシャンとなにかが砕け散る音が響く。
「つべこべ抜かすんだったらなあ、他にもっと楽しませろってんだよ!」
びいいいっ、となにか布を裂くような音。
「いやだっ!」
という、鋭い金切り声のような悲鳴が重なった。
ボスの声だ。普段こんな女の子らしい声を出すことはないけど、でも間違いなくボスの声だ。
びっ、びいい、と布を引き裂く音は続く。
わたしの背筋に冷たいものが走り、突っ立ったまま凍り付いていた。
唾を飲み込みたかったけど、意思で動かせるすべての部分か完全に硬直してしまっており、それすらもままならなかった。
この狭い家でなにが起きているのか、もう、見て確かめるまでもなかった。
ボスが、着ている物をお父さんに引き裂かれているのだ。
「そのふざけた身体はなんだ、てめえ! バカにしやがって! 育ててやった恩を忘れやがって!」
ばあん、どうん、という低い音に、わたしの全身は震えた。
わたしの脳裏には、ボスが顔を殴られて、壁に激しく叩き付けられている映像が浮かんでいた。
やっぱりボスは……親からの虐待を受けていたんだ……
でも、
どうすれば……
わたし、どうすればいい?
胸が破れそうなほどに心臓が激しく鼓動していた。
やがて、激しい暴力を想像させる地鳴りのような響きに混じって、ボスが謝り泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
わたしの心臓の鼓動が、より速くなった。
結局、わたしはなにもしなかった。
苦しむ振りだけして自分を罪悪感から救済し、本当に苦しんでいるボスのためにはなにもせずに、ただ胸を押さえて立ち尽くしているだけだった。
「さして痛くもねえくせに、いつまでも寝っ転がってねえで、早くメシでも作れよ! そんくらいの役に立て、ゴミクソが」
「これから……買い物に、行くんだよ」
蹴られ殴られた痛みに身動き取れなかったボスが、なんとか気力を振り絞って立ち上がろうとしている。そんな姿を、わたしは想像していた。おおかたのところ間違いではないだろう。
「そのふざけたままのカッコで出るんじゃねえぞ。殺すぞ」
虐待が発覚しないように、ということか。
自分でしておいて、ふざけた身体だなんだと怒るだなんて、その方がよっぽどふざけてないか。
仮にも自分の子供だろう。
もし愛情を持てないとしても、普通ああまで傷だらけ痣だらけの酷い状態になどするか?
わたしにはもちろん子供なんかいないけど、でも、親というのは子供に精一杯の愛情を注ぐものだろう。精一杯、無償の愛情を注ぐものだろう。
育ててやった恩が、とかいっていたけれど、反対に、産まれて来てやった恩をあなたは少しでも返したのか? まどかという素敵な娘が、あなたなんかのところに生まれて来てくれた恩を、少しでも、返したのか?
顔も見ていないというのに、ボスのお父さんに対してそんなことを考えていた。だって、あまりにも理不尽で。あまりにも不条理で。
「そこで、なにしてんだ?」
ボスが、玄関の前に立っていた。
首までしっかり隠した長袖シャツ、短いスカートに厚手の黒タイツ。
いつもの格好。
では、あるけれど……
違和感を覚えたのは何故だろう。
少し髪の毛が乱れていたから?
左の頬が、真っ赤になっていたから?
単に、こうして家で会うのが初めてだから?
先ほどまでのボスの声と、わたしの聞き慣れたなんだか少年のような声と、まるで違っているから?
それとも、前から思っていた不安だった咳がボスがわたしのそれは不安で不安で不安でボスがガソリンわたしかみさまのでがてがが
が、と胸倉を強く、ボスに掴まれていた。
混乱して頭の中にわけの分からない言葉が次々と浮かんでいたわたしだったが、ボスによって錯乱状態からは我に戻った。でも、次に出てきた言葉はやはり言葉になっておらず、完全にしどろもどろだった。
「あ、ああ、あの、わ、わたわたし、え、えっと」
そんなわたしにボスはじーっと睨むような視線を送り続けていたが、やがて小さく口を開いた。
「分かっているよな」
ぼそり。
その言葉の意味は考えるまでもなく分かっている。
誰にも、このことを喋るな。そういう意味だ。
分かってはいるけど……
「でででも……」
あんなことをされているのに。
お父さんに、あんな酷いことされているのに。
全身が傷や痣だらけになるような、酷いことをされているというのに。
「でもじゃねえんだよ! 余計なことすんなってのが分かんねえのかよ!」
ぎりぎりと掴まれた服を締め上げられて、ぐ、とわたしは呼気を漏らし顔を苦痛に歪めた。
殺気に満ちたボスの顔であったが、ふと驚いたように目を見開くと、
「ご、ごめんっ!」
わたしの胸元を掴んでいた手をぱっと引っ込めると、一歩後ろへ下がり、深く頭を下げた。
「あたし、つい……。誰にもいわれたくなくて、知られたくなくて、つい……。本当に、ごめん!」
ボスはうろたえたように、もう一度大きく頭を下げた。
「全然、気にしてませんから」
わたしは嘘をついた。
殺気走った目で服の胸元をぐいぐい締め上げられて、ちょっとどころかかなり動揺していた。
「今日のこと、それとこの前のこと、誰にもいわないで欲しいんだけど」
ボスはなんだか実に弱々しく、すがるような上目遣いをわたしへと向けた。
「そういわれても……」
「お願いだからっ! ……誰にも、いわないで。……この通りだから。……お願い、します……」
一体全体誰が信じるだろうか。
ボスが……
あのボスが、ゆっくりと膝を地に付けて、土下座をしただなんて。
震えながら、頭を下げ続けただなんて。
「分かりました」
ここまでされては、頷くしかなかった。
「だから頭、上げて下さい」
チームの、ボスと同い年の中では、わたし一人だけがボスに敬語で接している。それは初めて会った時のあの横暴さについそうなってしまい、そのままずるずると続いてしまったもの。
でも今ほど、わたしのその言葉遣いを受けるにふさわしくないボスの姿はなかった。一体全体どっちがボスだか分からないくらいに、ボスは奴隷のように小さくなってしまっているのだから。今にも溶けて消えてしまいそうなくらいに。
「誰にもいいませんから、ボスがいいというまでは誰にもいいませんから、だから、顔を上げて下さい」
「絶対に、誰にもいわない?」
「はい、絶対」
「約束する?」
「はい、約束します」
わたしにいわれ続けて、ようやくボスは頭を上げ、立ち上がった。
「ありがとう」
ボスは、ボスらしくない言葉をボスらしくない口調でいうと、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
なんだか天使を見ているかのような、それはとても可愛らしい笑顔だった。
「じゃあ当面は、これまで通りのあたしでいるから。あたしカスミに夜ご飯の買い物に行って来なきゃ。それじゃっ」
「あ、ちょっと待って! ボスに用があって来たんです」
「そっか、用なきゃ来ないもんな。なに?」
「チームのことです。コーチから頼まれて。これ読んでおいて下さい」
相談ごとだから出来れば手紙より口頭で、と思っていたのだけど、もうそういう雰囲気ではない。だからわたしは、あらかじめ用意しておいた文書の入った封筒をボスに手渡した。
「分かった。読んどく。それじゃ、また明日ね! びしびししごくぞお!」
ボスは封筒を買い物袋に入れると、よく知ったボスに戻り、元気に笑いながら走り去って行った。
わたしは小さくなっていくボスの後ろ姿を見ながら、一旦、すべてを元に戻すべきなのだろうなと思っていた。このことを、なんにも知らなかった頃に。
でも、無理だ。
ボスは明るく笑いながら走っていったけれど、わたしには全然吹っ切ることなんか出来はしなかった。
それはそうだろう。
人間の心はそんなに単純じゃない。
忘れてといわれて、自由自在に忘れられるはずがない。はいそうですか、などと出来るはずがない。
どうやって、これからボスと会っていけばいいのだろう。
それにしても先ほどのボスの、「当面はこれまで通りのあたしでいるから」という台詞。これまでのあの荒々しいボスは、すべてが芝居だったんだ。
家庭問題の反動で、強がっていたということ?
前にサテツから聞いて、わたしたちが冗談だろうと信じなかった、自動車にひかれかけた子犬をボスが助け、抱きしめながら幼児言葉で無邪気な笑顔を見せていた、あれ、本当のことだったんだ。
先ほど、わたしの前で深く頭を下げて震えていた弱々しい姿、あれが本当の姿だったんだ。
家庭問題の反動でというよりも、転校を機会に生まれ変わりたくてということかも知れない。つまりわたしたちの知っているボスは、ボスのこうなりたかったという願望。
などと冷静に考えているふりをしながらも、いつしかわたしの呼吸ははあはあと荒くなっていた。
自己嫌悪。その四文字がわたしの頭上にどんとのしかかり、擦り潰されそうな思いだった。
知らなくてよいことだってあるのに。
他人に教えたくないことだってあるのに。
わたしは、ボスの知られたくない姿を見てしまった。
少しでもボスに近付きたい。辛い境遇から解放してあげたい。そんなお節介な気持で自分をごまかして……ただ興味本意というだけのくせにその気持ちを善意の薄皮で隠して、わたしは余計なことをしてしまったんだ。
最低だ……
「……実はとんでもない富豪のお嬢様で、だからあんなに我が儘なのか」
ドンがぼそり呟いた。
「反対に、実は超絶貧乏で、だからああまで性格が歪んだのか」
続いて隣にいるノッポが、ドンの口調を真似してぼそり。
「実はさしたる理由など特にはなく、だって太陽が暑いから的にどうしようもなく理不尽かつ横暴であるのか」
ガソリンがなんだか分からないことを、だらだら述べている。
「実は正体が宇宙人で、我々人類がどこまでああした横暴さに耐えることが出来るかを調査に来たとか」
その隣のアキレス。少し前までいつもおどおどしていたというのに、本人のいない場では随分というようになって来たものだ。
「わたしは……真っ直ぐだと思う」
というのはフロッグだ。ドンから始まってたまたま時計周りに発言者が移って行ったものから、自分もなにかいわなければならないと思ったのだろう。
「どうして輪を乱すかなあ」
ガソリンがつまらなそうに、自分の太ももをぱしんぱしんと叩いた。
「今さあ、ここに本人いないよお。せっかくなんだし、正直なところをぶちまけちゃえばあ? 色々と溜まりに溜まる不満をさあ」
「今いったのが正直な気持ち。別に不満はないよ」
「へー。なんにもしてないのに罰ゲームとかいわれて、変顔で校庭を走らされることはあ?」
「まあ、それは確かにやめて欲しいけど……」
わたしの知らない時に、そんなことやらされてたのか。
フロッグだけ他校の生徒だし、それはちょっときついな。
「ちょっと機嫌損ねただけで関節技で締められたり」
「それも、やめて欲しいけど……」
わたしもだよ。
「魔球蝶の舞い! って、叫びながら投げさせられたりとかあ」
「あれもう二度とやりたくない……」
そんなことさせられているフロッグを、ははと笑ってあげられればまだ良かったのかも知れないけど、緊張して青ざめた頬っぺたを膨らませているフロッグがあまりに哀れで、我々もがたがた震えてしまっていたからな。空気が緊迫してしまっていて、フロッグには相当に辛い雰囲気だったと思う。
ボスがどのような生活をしているのか。という話で盛り上がっていたのだけど、いつの間にか態度や性格の話になってしまっていた。
ボスは現在コタローコーチと、対戦相手をどうするかについて話し合いをしている。絶対にここにいないとなると、開放感から必然的に無駄口が増えるわけであるが、大体がこのようにボスの話ばかりになる。普段絶対に出来ないからな、こんな話。
「ああそうだ、学校の七不思議というかボスの七不思議をここで一つ」
サテツが、唐突に会話に割り込んで来た。
「七不思議?」
わたしは尋ねた。
「うん。あたしね、外で一人でいるボスを目撃したことあるんだよね」
「その程度なら、あたしだってあるよ。公園で、一人で練習してるところ。見つかったら、恥ずかしそうにしてたよ。本当は練習なんて必要ないけど暇つぶしで、とかなんとか笑ってごまかしてた」
なんだ、ガソリンもボスが練習しているところ見たことあるんだ。だったらこの間わたしが見かけた時に、こそこそ隠れている必要もなかったな。正確には隠れていたわけではなくて、気迫が凄くて話し掛ける機会を逸してしまっただけだけど。
「そんな当たり前なんじゃなくて! もっと凄いのだよ」
「どんなのさ?」
ガソリンが尋ねる。
「いっても信じてくれないだろうなあ」
「分かんないよ」
「いやあ、信じてくれないよお」
「だからあ、いってみないと信じるも信じないもないでしょ! いいよもう、話したくないなら教えてくれなくても。そうか、サテツは話したくないんだ」
「話したい! だって本当に凄いとこ見ちゃったんだもの」
「聞いて欲しい?」
「うん」
「じゃあ、聞いてあげるからいってみな」
「分かった。あのね……」
サテツは、他に誰もいないというのに声をひそめた。
「うんうん」
と、これは、わたしたちの声。
もったいつけられ聞く気をなくしているガソリンと反対に、他の者たちはみなサテツの思わせぶりな態度に踊らされすっかり食いついていたのだ。
「お母さんとカスミに買い物に行った帰りにさあ、お寺の辺りかな、痩せたボロボロの仔犬が歩いててね、自動車にひかれそうになってたんだ。栄養もとれずふらふらだったのか、気付きもしなくて。もうダメ、ひかれる、ってところをね、さっと飛び出した女の子が間一髪、抱き抱えて助けたんだけど……」
「それが、ボスだった?」
「そう」
おーっ、とみなは感心の声を上げた。
「でもボスが猫を助けても、別に意外でもないんじゃない? 別にボス悪党ってわけじゃあないんだし。単に横暴で短気で我が儘で身長がチビなだけで、特に七不思議とは思わないなあ。悪党だとしても、映画の悪党だって、やたらペットを可愛がってたりするじゃん。片手にワイングラス持って、膝に猫を乗せてさあ」
ガソリン、なんかそのセンス古い気が……
「うん。七不思議はここからなんだ。ボスは自分も危うくひかれそうで、へなへなと道路にへたり込んで、泣き出しそうな顔になっていたんだけど、仔犬をぎゅうっと抱きしめたまま、あたしの空耳じゃなかったらこういったんだよ。『危なかったねえ。おー、おー、よちよち』って」
「えーーー?」
わたしも、みんなも、思わず驚きの声を上げていた。
確かに、それは意外だ。ボスならば、「根性が足りねえんだよ」とか、幼い犬にすら乱暴な言葉で説教したり、殴ったりしそうなものだというのに。
「さらにさらに、胸の中でもぞもぞする仔犬に、可愛らしく身をよじらせながら『きゃはっ、くすぐったいよお』なんて」
「ないない! それは絶対にない」
「事実ならば確かに七不思議だ」
「双子の姉妹がいるとか」
「本当のボス像が分からなくなってきたあ」
「嘘でしょ?」
「本当だって!」
「単に動物が好きで、人間嫌いってだけでしょ? しっかし笑えるなあ、きゃはっ、とか本当かそれえ。あたしも見てみたかったあ」
ガソリンはお腹を抱えて笑い始めた。
意地が悪いんだからな。
でもノッポがいってたけど、本当のボス像が一体どんななのかって、わたしも気になっちゃうな。特にこうした話を聞いてしまうと。
わたしはこのボス論談義には参加せずだったけど、考えとしてはフロッグと同じかな。
少なくとも、性根は真っ直ぐだと思う。
でなければ野球チームを作ろうなどという情熱を持つはずない。
一人で、あんなにボロボロになるまで練習するわけがない。
2
「ででででーん」
お母さんが仰々しい仕種で運んで来た平皿を、そろおっと食卓に置いた。
お皿には、もくもくと湯気の上がっているエビチリが、山のように積まれている。
既に席に着いて待っているわたしとフミ、俊太は、わーっと歓声を上げた。お調子者のフミは、大袈裟に拍手をしてみせた。
そうこうしている間にお父さんが、ご飯を盛った茶碗や取り皿をそれぞれの位置へ並べていく。
「次っ、ででででーん」
お母さんが、また仰々しい動作で運んで来た海鮮サラダの皿を食卓に置いた。
続いて豚肉の生姜焼き。仰々しい言動に飽きたのか、今度は普通の仕種で持って来た。
肉料理がもう一つ。下にたっぷりの野菜炒めを敷いた、南蛮唐揚げ。
白身の焼き魚。
卵焼き。
味噌汁。
「うわあ、すっごおい」
フミが感動に驚いたような顔で、ぐわっと身を乗り出さんばかりだ。ほとんどが演技だと思うけど、自分自身それが演技であることに気付いていない。だから大人受けがいいんだよなあ。これも天性の才能か。
ここは我が家のダイニング。
今日は久し振りに、お母さんが早くに仕事から帰って来た。
そして晩御飯を、久し振りにお母さんが作ることになったのだ。本当はお父さんが週当番なのだけど、お母さんがせっかくだから作らせてと頼んだとのこと。
こうして先々月の旅行以来、久々に家族全員で手を合わせいただきますをすることになったのである。
家の食卓でということだと、何ヶ月ぶりだろうか。全員揃ってだなんて、お正月以来かも知れないな。
「美味そうだな、食べるぞこのやろーーっ!」
お父さんが、席に着くなり早速お箸を手に取った。
「あたしっ、あたし唐揚げからいっちゃうっ!」
「ぼくも!」
「唐揚げが一番苦労したんだよお。でも絶対傑作。味見してないけど」
「味見くらいしてよお」
フミ、俊太、お母さん、そしてわたしも、何故だかハイテンションになって、お箸を持ち小皿に取り分け、それぞれに口に運んだ。
その瞬間、ビリッと電流を受けたかのような感嘆符いわゆるビックリマークがみんなの顔に浮かんでいた。
次にこの空間を支配したのは、静寂の二文字であった。
みな口に食べ物を入れたまま、咀嚼することなく沈黙してしまっていたのである。
しばらくして、みな慌てたように口を動かし、なんとか口の中の物を飲み込むと、「まさかね」といった表情を浮かべ、気を取り直したように別の料理に箸を伸ばした。
しかし、喋るのも気まずいこの空気が変わることは決してなかった。むしろ、ますます重く酷い沈黙状態になってしまっていた。
静寂を打ち破ったのは、お母さんだった。
「……ごめん」
そういうと、落ち込んだようにがくりうなだれた。
「久々の食事だからと思ったんだけど、だからこそ……だからこそ素直に外食にしとけば良かった」
そう、お母さんの作った料理、あまりにもまずいのだ。
料理が得意な方ではないのは知っていたけど、というか何度か身をもって経験したこともあったけれど、でも、ここまで美味しくないのが出てきたのは初めてだった。
エビチリのエビはぐにゃぐにゃ、チリソースは辛いだけでなんの味もなし。ソースが焦げているらしく、匂いも変。
卵焼きは、塩の塊ではないかと思うほどにしょっぱいし、味噌汁もこれまた塩っ辛い。ダシと味噌のバランスがおかしい。
唐揚げは、外は焦げているのに中は生っぽく、生っぽいのにパサパサで、どうすればこのように調理出来るのか不思議なくらいだ。
その下に敷いてある野菜炒めも、よく見ると油の海に浮いている感じだし。
失敗なんてものじゃない。
でも、お母さんが一生懸命作ってくれたものなんだ。ここ何日か帰りが深夜近くて、それからも自宅で明け方近くまで仕事していて、そんなふらふらの状態で作ったんだから仕方ないじゃないか。まあ、そこを差し引いても酷い料理だけど。
いやいや、酷くない! 全然酷い料理じゃない。探すんだ。美味しいところ、褒めるところ、探すんだ。
お父さんもフミも黙っちゃってるんだもの。わたしがフォローするしかないじゃないか。ほんと長女は損だ。
「お、美味しいよ、お母さん」
「どこがあ?」
お母さん、すっかり落ち込んでいっそボロカス批判してくれた方が有り難いといった不貞腐れた感じになっちゃっている。参ったな。
「ほ、ほら、魚のこの焦げてない部分、そこだけほぐして食べれば美味しい、かも。エビチリも卵焼き混ぜれば味がつくし、卵焼きのしょっぱさ中和されるし」
料理として成り立つのかはともかくとして。
「まあ確かにねえ、そのまま普通に食べたらまずいのばかりだよねえ」
いけない! 墓穴掘った!
「だからさあ、最初から外食にしとけば良かったなあって後悔してる。ごめんね、ほんと。余計なことした」
「そんなことない! お母さん、慣れてないから仕方ないもの。そんなことよりも、お母さんが一生懸命作ってくれたご飯を、みんなで食べられるというだけで嬉しいんだよ」
「本当に君江は……良い娘に育ったなあ」
「そんなことないよ」
そういわれたことは嬉しいけど、同時に自己嫌悪に陥っていた。
フォローしなきゃならないなんて長女も楽じゃないよ、なんて酷いこと思っていたのだからな。
フミみたいに美味しくないと思ったらあからさまな不機嫌顔を作れる方が、よっぽど素直で素敵なことなのかも知れない、とも思うわけで。
……って、なんでわたしだけが、こんなことで悩まないとならない? お父さんもなんとかいってよね。俊太も、もう小学二年なんだから、なんか気のきいたこといえ。
心の中でぶつぶつ文句をいってしまうわたし。
でも、この頃はまだ分かっていなかったのだ。
このような程度のことで苦悩出来るだなんて、不満に思えるだなんて、いったいどれだけ幸せな家庭であったのかということを。
3
どうして止めなかったのだろう。
神の身でない以上、これから起こることなど分かるはずもなく、だから仕方のないことではあるのだろうけど、でも、そう悔やまずにいられない。
そういったことが人生には稀にあるものだと思うけど、この日の出来事が、まさにその一つだった。
やがて訪れる結末、運命といったものはまったく変わらないものであったにせよ、だからといってなにも今日このようなことの起こる必要性などなかったのではないか。
そう思わずにはいられないものだった。
九月十四日 火曜日。曇り。
練習の際には体育館の女子更衣室を使って着替えることになっている。この日その時、わたしとフミ、ガソリン、ノッポの四人がそこにおり、ユニフォームへの着替えをしていた。
ガソリンとノッポが、先ほどから雑談でぺらぺら舌を動かし続けている。
アキレスがヘッドスライディングから勢い余ってくるんと前転し、一本背負いのように背中を打ち付けて痛みに泣いていたという笑い話から、いつの間にかボスの話題へと変わっていた。
「……のくせにさあ、恥ずかしいからメンタルトレーニングになるんだあ、とかいって、じゃあボス一人だけ全然トレーニング出来てないじゃんかねえ。だって恥ずかしいって感じないんだもん」
先日また、教室で変顔絶叫大会をやらされたのだ。
「えー、一人じゃなくてガソリンもでしょお」
「それ酷いなあ、あたしはしっかり恥ずかしく……は、思っちゃいないか。でもあっちはやらせる方で、こっちはやらされる方で、やっぱりなんか釈然としないものがあるんだよ。させといてなんだよお前、ってさあ」
「といってもどうしようもない」
「でも、ちょっとでもいいからやり返してやりたいよねえ。なんかボスが恥ずかしいと思うようなこと、ないかなあ……あ、そうだ! いいこと思いついたっ!」
ガソリンは、手のひらをぽんと叩いた。
「え、なあに?」
そばで話を聞いていたフミが食いついた。
「うん、あのねえ」
ガソリンが、目を細めていやらしい笑みを浮かべた。
その時である。
部屋のドアが開き、スポーツバッグを肩に掛けたボスが入って来た。
ここで着替えるわけではない。
いつも、大きな荷物だけ置くとすぐ更衣室を出て、一人別の場所で着替えるのだ。
本人曰く、他人に肌を見せるのが絶対に嫌ということだ。
もうすぐ学校の健康診断があるのに、どうするつもりなんだろうとも思ってしまうけど。
「おおっ、ちょうど来たあ。ねえねえ、ボスさあ」
ガソリンがにやにや笑いながら、部屋を出て行こうとするボスの先回りをしてドアの前を塞いだ。
「なんだよ、気持ち悪い奴だなあ。どけよ」
「その前に質問。あのさ、恥ずかしいことすればメンタル鍛えられるとかいって、教室で変な顔とか声とか、散々やらせたよね」
「少しは鍛えられたろ」
「まあね。でもボスさあ、全然恥ずかしがってなんかいなかったよねえ」
ガソリンもだけど。
他のみんなは、あまりの恥ずかしさに溶けてなくなりそうなくらいだった。
「なにがいいたいんだよ。着替えるんだから、どけってば」
ボスは、ガソリンの顔を睨みつけながら、肩を掴もうとする。
その手をガソリンはぱしり払うと、悪戯っぽい笑みを強くした。
「だからあ、ボス一人だけトレーニングしてないのずるいよねってこと。恥ずかしい思いすれば鍛えられるんならさあ、いま鍛えてあげるよ。だから感謝したまえ!」
そういうと、ボスへと飛び掛かった。
「なにすんだ!」
悲鳴に近い、裏返ったような叫び声が上がるが、ガソリンは構わず押し倒してしまう。
「いいからいいから」
馬乗りになりボスを押さえ付けながら、ガソリンは楽しげに笑っている。
次の行動に、わたしは驚きのあまり声も出なかった。
なんと、ボスの服を脱がせにかかったのだ。
跨がったまま、裾をぐいぐいとめくり上げていく。
「おい、やめろ! てめえ、ふざけんなあ!」
ボスは怒鳴りながら、最大限の力で暴れ、逃れようとする。
どったんばったん上下左右に大きく揺れているというのに、ガソリンは器用にロデオをこなし、まるで動じない。
「これも訓練だよ、訓練。メンタルトレーニング。まったくさあ、リーダーともあろう者が着替えごときで恥ずかしがってんじゃないよ。いっそ全部見せて晒してすっきりしちゃえ! ほらほらあ、ノッポも手伝って手伝って!」
「うん……ごめんねえ、ボス」
ノッポはちょっと躊躇いつつも、これは冗談なのだと思ってか腕を押さえ付けた。
確かにボスは横暴ではあるけれど、最近みな冗談で接することが出来る、そんな雰囲気は生じてきていたから。
でも……
「やめろっていってんだろがああ! ほんといい加減にしろよ! ただじゃおかねえぞ!」
暴れ続けるボス。冗談と思っていないこと、明らかだった。
「はいはい、恥ずかしいほど良いトレーニングになる。君はいま、猛烈な速度で鍛えられているぞお」
ボスはどうやら薄い長袖シャツを重ね着しているようで、めくるとさらにもう一枚の裾がズボンの中に入っていた。ガソリンは、そちらもぐいぐいズボンから引っ張り出して、大きくめくり上げた。
ついにキャミソールが見えてしまい、危機を感じたボスの暴れかたが激しくなった。
ガソリンはその尋常ならざる様子に、ようやくいぶかしむような表情を浮かべたのだけど、でも半ば意地になってしまっていたようで、身をよじり抵抗するボスから一番上のシャツを剥ぎ取ってしまった。
「ちょっと、もうやめなよお」
わたしはようやく口を開いた。
でもそれは、必死に止めようとするような、抗議するような、そんなものではなかった。
同性ではあるけれど、でもあんなに恥ずかしがっている。見せまいとしている。その必死さにただならぬものを感じたのは間違いないけど、でも、その必死さ故に、わたしも少し興味が沸いてしまっていたのかも知れない。無意識に、すべての責任をガソリンに押し付けて。
なんの弁明にもならない言葉ではあるけれど。
「これで少しは涼しくなったでしょ? だいたい、なあんでこんな暑いのに長袖を重ね着してんだよお」
決まっている。
それほどに、絶対的に肌を見せなくないからだ。
そういえば、体育の時間もショートパンツや半袖シャツを絶対に着ようとしないらしいと彼女と同じクラスの菜緒ちゃんから聞いたことがある。
「てめえの知ったことかよ! 早くどけよ! ふざけたことしてんじゃねえぞお!」
「やあだよ」
相変わらずの軽いガソリンの表情。
でもその笑顔の質は、明らかに変わって来ていた。
ふざけている自分をいまさら止められない。そんな感じに思えた。
「ね、ガソリン、やめた方がいいんじゃ」
わたしはもう一回注意した。
いや、注意と呼べるものか。どうとでも取れるような言葉を、なんの感情も乗せずにとりあえず吐き出しただけだ。
とりあえずの責任から逃れるために。
本当は、無価値で無責任な、バカバカしい好奇心を満たしたかっただけのくせに。
でも、
この後になにが起こるか、それは予想が付くはずもないことで、
つまり、なにも知らなかったからであったわけで、
といっても、どんな弁解にもなってはいないけど……
「もう観念しな! とりゃあ!」
ガソリンは、一枚目を剥ぎ取ったことに要領を掴んだようで、下に着ていたシャツを見るも簡単に脱がしてしまった。
まったく悪気のない、軽い冗談といった顔を、なんとか作り保持しながら。
ガソリンにくみしだかれているボスの上半身は、こうしてついに下着であるキャミソールだけという姿になった。
その姿が視界に飛び込んで来た瞬間、わたしの脳はなにを感じたのだろう。
憐憫とか、そういうものではなく、ただ単に目の前のものがひたすらに信じられなかった。
だってその光景は、日常とあまりに掛け離れたものだったから。
言葉を失う、というのはこういうことをいうのか。
全身が、視線が硬直していた。
わたしだけではない。
フミも、ノッポも、ことを起こした張本人であるガソリンも。
静寂。
完全に空気は凍り付き、誰かの息遣いどころか心臓の鼓動さえ聞こえてもおかしくないほどだった。
ごくり。と、わたしは唾を飲んだ。
いつも何事にも物おじすることのないガソリンも、自分の招いた結果にただ青ざめた表情を凍り付かせていた。
わたしたちがなにを見たのか。
傷と、痣。
それだけだ。
でも、ただそれだけであったならば硬直することなどなかった。驚き、心配し、声を掛けていただろう。
それが普通の反応だ。
普通の反応すら出来なかったのは、それがあまりに凄まじい規模だったからである。
つまりは、その傷と痣が、見える範囲隙間なく至るところびっしりと存在していたのである。
腕も、肩も、大きくめくれているお腹も。おおよそどを探せばまともな肌の部分があるのか、というくらいに。
下着姿であり裸体ではないので、上半身のすべてが晒されたわけではないが、しかしもう下着の中がどうなっているのかなど確かめるまでもなかった。
上半身だけでなく、おそらくは下半身も同様なのではないか。
いや、間違いないだろう。ショートパンツやスカートの時には、必ず厚手のタイツを着用していたことを考えても。
打撲系の傷、擦り傷に、切り傷もある。カッターでちょこっと、というようなものではなく、相当深くざっくりと肉をえぐったような。
それほど日の立っていなさそうなものもあれば、どれほど前のものなのかぐずぐずになった肉が癒着してこんもり盛り上がっている部分もある。
野球練習によるものだろうか、などという疑問は生じる余地もなかった。そんなことでお腹が痣だらけになるはずがないからだ。お腹や腕が、深い切り傷だらけになるはずがないからだ。
あまりの凄惨さに、わたしは一瞬にして吐き気を催し、口を抑えしゃがみ込んだ。
凍りついた空気、静止した時間を動かしたのは、わたしのその態度、呻き声だった。
と同時にフミが、ぎゃーーーっと恐ろしい悲鳴を上げた。
自分の招いた結果が信じられず呆然とした表情でぶるぶると震えていたガソリンが、フミの叫び声にはっとしたように目を開いた。
「ご、ごめ……」
ん、までいわないうちに、その顔が大きくのけぞっていた。
突如突き上げられた拳が、顎を捉えたのだ。
ガソリンはたまらずごろんと後ろに転がった。
ずっしりのしかかっていた重しがなくなって、ボスはゆっくりと立ち上がった。めくれたお腹を直すと、シャツを拾い、袖を通し始めた。
転がされたガソリンはぶんぶんと頭を振ると顔を上げた。その瞬間、また驚きにはっと目を見開いた。
無表情でちくちくと服を着ているボスであるが、なんと目にこぼれそうなほどの涙を溜めていたのである。
わたしたちが黙って見つめている中、ボスの限界は早かった。
えくっ、としゃくり上げると、そのまますすり泣きを始めたのである。
「ご、ごめん、ボス、だって知らなかったからっ! あたし、なんにも知らなかったからっ!」
そう、この中で一番うろたえているのはガソリンであった。
冗談でボスのシャツを脱がせたところから、すべては始まっているのだから。
「だだ、だって、あたし、ボスが、あたし、ああええとっ、そのっ、みんなとっ……」
青ざめた顔で弁解じみた態度を取り続けるガソリン。
きっと、ボスの他人行儀なところを直してあげて、もっとみんなで仲良くなりたくて、といったようなことをいおうとしているのだろう。普段絶対にそんな本心を口に出さない彼女だけど、それだけうろたえていたのだ。
でもボスはなにも聞いていなかった。涙を拭おうともせず、ゆっくりガソリンに近寄ると、胸倉を掴み、引っ張り上げて立たせると、壁にどんと背中を押し付けた。
「誰にも、いうんじゃねえぞ。みんなもだ! 絶対に、いうな!」
ボスはガソリンに対しおでこをすり合わせるように凄むと、振り向いて今度はわたしたちにその殺気に満ちた表情を向けた。
「で、でも、でも、それ誰に……」
わたしはそんな当たり前の言葉を吐くことしか出来なかった。
「いいんだよ! 自分でやったことなんだから! 誰かに喋ったら刺すからな! 逃げたって追い掛けて、絶対に刺すからな! 身体バラバラにして、校庭に埋めっからな!」
「自分で……って」
「うるせえな!」
「でも……」
なおもわたしが、わたしたちが、うろたえ立ち尽くしていると、ふとドアの向こうから足音が近づいて来た。誰かがこの更衣室に入ろうとしているのだ。
ボスはバッグからユニフォームを取り出すと、「忘れんなよ!」と、わたしたち全員を改めて睨み付け、ドアへと小走りで向かう。
ばん、と向こう側からドアが勢いよく開けられた。
「宿題忘れて居残りさせられそうになったけど、逃げ出して来ましたあ!」
アキレスが、両手を振り上げうおおおおーーっと叫んだ。
「邪魔だよ!」
ボスにどんと肩をぶつけられ、アキレスはくるんと回転して尻餅をついた。
走り去るボスを、ぽわーんとした顔で見つめていたアキレスであったが、やがて立ち上がると、
「ね、いまボス泣いてませんでした?」
「きき、気のせい気のせい!」
わたしたち四人は、つっかえるタイミングまでぴったり合わせてアキレスの言葉を否定した。
口を閉ざすと、無言のままお互いの顔を見つめ合った。
とりあえずグラウンドへ向かおう。ということで、アキレス一人残してわたしたちは更衣室そして体育館を出た。
「どうしよう……」
フミが、がたがた震えている。
先ほど見てしまったボスの姿が、脳裏に焼き付いて離れないのだろう。
「様子を見るしかないよ。わたしたちだけ知ってしまったということは、わたしたちだけには色々と話してくれるようになるかも知れないし」
唇が震えてしまってみんなには全然聞き取れていないかも知れないけど、とにかくわたしは小さな声でそういった。
「先生に相談してみようか?」
ノッポが提案した。
「もちろん最終的には大人の力が必要だと思う。でもボス、ばらしたら刺すようなこといっていたし……」
でもそれはきっと、わたしたちではなく、自分自身をだ。
事が大きくなりそうになったならば、ボスは自分自身を終らせようとしてしまうのではないか。根拠はまったくないけど、なんとなく、そんな気がする。
「あたし、あたしの、せいだ、あんな、余計なことしなければっ!」
ガソリンが突然しゃくり上げたかと思うと涙をぼろぼろこぼして泣き出してしまった。
「違うよ。あんな傷、隠し通せるものじゃない。だからガソリンは関係ない。そう自分を責めないで」
「でも、でも……」
「とにかくまずはボスのいう通り誰にも話さないようにして、様子を見よう。これまで通り普通に、野球を頑張ろう」
ガソリンは鼻をずっとすするとごしごしと袖で涙を拭き、無言で大きく頷いた。
でも、わたしたちが普段通りに行動したとしても、ボスの方は大丈夫だろうか。
という心配は不要だった。
一人で着替え終え、遅れてグラウンドにやって来たボスであったが、
「よおおおし、今日も張り切って練習しようかああ! たるんでる奴は、バッシバシしごくからなあ!」
まったく、普段のままだった。
4
「本当に自分でやったのかなあ」
フミが、さっきから同じことばかりいっている。
ここは自宅の二階、わたしたち姉妹の部屋だ。
わたしは二段ベッド下段の布団の上で、あぐらをかくように座っている。部屋の照明はついているのだけど、頭上すぐがベッド上段であるため薄暗がりになっている。
フミは上段にいる。さっきまでと変わらぬ姿勢なら、寝転んですぐ頭上の天井を見上げているはずだ。
「分からないよ」
わたしはその都度同じ答えを返すのだけど、でも実は、フミに問われるたびに脳裏にボスのあの姿が鮮明に浮かび、そしてそれは一つの答えを導きつつあった。
自分でつけられるような傷ではない、と。
馬乗りになっていたガソリンを押し退けたボスは、素早く立ち上がると脱がされた服を拾って着たのだけど、その時にわたしははっきりと見たのだ。お腹や腕と同じように、背中も傷だらけ痣だらけだったのを。
背中だなんて、自分でつけることは絶対不可能ではないけれど、自傷行為ならそんな苦労するところにやるはずがない。
ボスは喧嘩っ早いけど、でも喧嘩でああなるはずもないだろう。
となるとやっぱり、誰かからの一方的な暴力を受けている……ということ?
学校でのボスは無敵だから、ということは、保護者からの虐待?
まさか……
でも、もしもそうならば一刻も早く先生にいうべき?
ボスからは硬く口止めされたけど。でも、誰か大人にいうべき?
客観的に、正解を導くのならば、それが正しいことなのだろうけれど……
「ね、お姉ちゃん、ボスさあ、見られた恥ずかしさがどうこうってこと以上に、単にそのことを誰にも知られたくないといった感じだったよね」
「え、どういうこと?」
「だからさあ、もしも誰かに酷い目にあわされたのだとして、怪我だらけの姿を見られることよりも、その、誰かにやられたというのをとにかく隠したいという感じだったってこと」
「ああ、いわれてみれば……」
絶対にいうな! と凄んでいた時が、なにより一番殺気に満ちていたものな。
傷だらけの姿を見られたことよりも、そこからなにかが発覚することをこそ恐れている、ということか。
じゃあ、やっぱり虐待を受けている?
いやいや、それもおかしい。
虐待を受けているのなら、隠す必要はないじゃないか。
だってそうだろう。あのような姿を見られたくなかったという羞恥心から秘密にしていたにせよ、もう見られてしまったんだ。だったらもう、素直に打ち明けてくれればいいじゃないか。わたしたち、仲間なんだから。
でも、それならなんだ、あの傷は。
本当に、自分一人でやったものなのか?
なんのために?
あの中には、かなり深そうな刀傷もあった。
自分でやったというのならば、なんであそこまでのことをする必要がある?
他人にされたのだとしても、どうしてあそこまでのことをする必要がある?
そういえば、ボスの耳……
わたしの想像に間違いがなければ、ボスの片耳はほとんど、もしくはまったく機能していない。やたら地獄耳のくせに、耳側から寄って耳打ちすると常に反応がないことからほぼ明らかだ。
もしかしたら、関係あるのだろうか。
あの傷や痣と、耳のこと。
それだけじゃない。ボス、たまに激しく咳込んでいたよな。
まさか……
考えれば考えるほど、わたしの精神は暗闇の中に落ちて行く。
もがいてももがいても、その手は泥を掴むばかりでまるで光明を見出だすことが出来ない。
自分のしてしまったこと、反対にすべきことをしなかったことへの自己嫌悪。
罪悪感。
なにも出来ないことに焦る気持ち。
「なにが真実なのかは分からないけど、でもとにかくボスにああまで真剣に口止めをされた以上は、しばらくはこれまで通りにするしかないよ」
自分の推理や、大人へ報告するべき大事ではないのかという思いは別にして、とりあえずフミにはそういってみた。
うん、とくぐもったような声が上から聞こえて来た。
仮に虐待であったとしても、おそらくはここへ引っ越して来る前からのこと。何故ならば、わたしたちが出会ったばかりの頃、既にボスは全身の肌を覆い隠すような服装をしていたからだ。
つまり、少なくとももう何ヶ月もそういった状態が続いているわけであり、コンマ一秒を争うような緊急性のある問題ではないはずだ。
可哀相だとは思うけれど、
なんとかしてあげたいとは思うけれど、
でも事を急かすと、ボスがなにをするか想像がつかない。
もしもボスのいった通り自分で自分に刃物で傷をつけているのだとしたら、下手をしたら……
考えるだけでも恐ろしい。
ならば、焦らる気持ちを抑え、じっくりいく方が良いのだろう。
子供の浅慮を後になって責められることになるかも知れない。分かっている。でも、いまはそうするしかない。
などと冷静に考えられるようになったのはつい数時間ほど前であり、それまではわたしもやはりフミのようにガタガタ震えうろたえていたのだけど。
「普段通りといわれても、出来るかなあ」
「大丈夫だって、フミ。今日はちゃんと出来ていた」
本当のことだ。今日、あの衝撃的な出来事の後にチーム練習をしたのだけど、思いのほか、びっくりするくらい普通にこなすことが出来たのだ。
わたしも、フミも、ガソリンもノッポもだ。
とはいえそれは、ユニフォーム姿で元気に毒舌を撒き散らすといういつも通りのボスの姿に、あんなことがあったなんて信じられなかったからなわけで。
練習が終わって改めて四人こっそり集まって、やはりあれは現実であったことを再認識した後は、みんなで顔を青くしてぶるぶる震えっぱなしだったのだけど。
「どおもーっ!」
お父さんと俊太が、どばんっとドアを開けて屈み腰で部屋に乱入して来た。
普段なら「着替えてることもあるんだから、急に開けないでよっ!」と怒鳴って注意したり物を投げたりするところなのだけど、いまのわたしにそのような気力はなかった。一体なんだ、と軽く注意を向ける程度だった。
「暑くなって来ましたねー」
俊太。
「そうですねー」
お父さん、揉み手で腰をくねらせている。
「こんな暑いと、我々癒し系漫才の出番ですねー」
「え、出番なのは氷屋さんとかでしょ。我々はむしろべらべら喋って、あっついのをもっともっとあっつーくしますからねえ」
「いやいやいや、暑いからこそ癒し系でね、ホットするんですよ」
「うわあ、オヤジギャクで寒うなったわあ」
ちゃんちゃん、と二人は両腕と股を思い切り広げておどけた。
「どうだっ、キミ、フミ、俊太がお楽しみ会でお笑いをやるとかいうから、おれが考えてやったネタだっ!」
両手を腰に当てていばるお父さんであるが、返るは沈黙という重たい空気だけだった。
「お父さん、だからいったんだよ! こんな下らないの受けるわけないってさあ!」
「そうかあ、くそ。なんか別のを考えるか」
「いいよ。ボクとタケル君で考えるからあ」
踵を返し、部屋を出て行く二人。
「失礼しましたー、ちゃんちゃん」
お父さんの声とともに、そろっパタンかちゃっ、とドアが閉まった。
部屋は完全な静寂に包まれた。
それからどれくらいの時間が経っただろう。
「ボスの傷、本当に自分でつけたのかなあ」
フミがぼそり呟いた。
「分からないよ」
なにかの事情によって自分でつけた傷も本当にあるのかも知れないけど、絶対にそれだけではないはず。物理的に考えて。
でもこの段階でそうした推理をフミに話しても仕方がない。
だいたいフミはまだ小学四年生なんだ。同じ小学校に通う生徒の、あんな痛ましい姿を見て悩むだなんて、それこそ間違っているというものだろう。
じゃあ大人に話せばいいのか? ということになると、話は完全にぐるぐる回ってしまうのだけど。
つまりは、
「とりあえず普段通り、様子を見るしかないよ。ボスが話してくれるのを、待つしかないよ」
こういうしかないのだった。
5
倉松タイガーアンドドラゴン 21 - 0 杉戸ブラックデスデビルズ
「やる気あんのか、てめえらあ!」
ボスの怒号が轟いたのも、当然だろう。
この結果、それに至るプレーを考えれば。
「特にお前だよお前」
ガソリンの胸倉を掴み、ぐいっと力任せに引き寄せた。
「やめろ、そういうことは! 暴力だぞ、それ」
コタローコーチが走り寄って、慌ててボスの手を引き離した。
ボスとガソリンは、お互い無言になって、やり場に困った視線を徒に泳がせていた。
しばらくして、
「ひょっとして、まだ気にしてんじゃねえだろうな」
ボスはガソリンの真横に回り込み、脇腹を小突きながらこそっと囁いた。
「そんなことないよ」
「じゃあ、ちゃんとやれよ!」
「やったよ!」
「どこが!」
このいい争いに関してだけならば、ボスが正しい。
対戦相手が、現在男子しかいないリーグにおいて上位にいるようなチームであったということも大きな要因ではあるけれど、それ以上にわたしたちが酷すぎたのだ。
せっかくサテツやドンが充分な戦力へと成長を遂げつつあることを感じさせるプレーを随所に見せてくれたというのに、わたし、ガソリン、ノッポの動きがあまりに酷く、自分のプレーも、味方のプレーも、すべてを潰してしまったのだ。
中でも可哀相なのはフロッグだろう。
これまでにない最高のピッチングを見せてくれたというのに、わたしたちのエラー連発で大量失点。もう三振でしかアウトが取れないというプレッシャーから、最終的に自滅させてしまった。
負けはしたけど練習試合だし課題が出て良かった、などというレベルではない。普通に考えてチーム崩壊の危機だ。
まあ、その原因はわたしたちの個人的な問題なわけだけど。
問題とは、先日の、あのことだ。
ガソリンはボスに「そんなことはない」と否定していたけれど、それこそそんなわけがない。
あのことがまるで解消されていないために、わたしたちはすっかりボロボロになってしまっていたのだ。
でも、仕方ないだろう。
わたしたちは子供なんだ。大人のように感情を割り切れるはずがない。
もっと酷い事態になることを恐れて自分たちで抱え込んでしまっているというだけで、本当はこんな我慢なんかしたくない。辛い中を一人で秘密を抱えて頑張っているボスの姿を、見たくなんかないんだ。
でも、
でも、じゃあどうすればいいんだ。
わたしはそんな、ぎりぎりと胃に穴が空くようなはがゆさを感じていた。
でもそれはボスの秘密、怪我の理由を知る日が、あんなに早く来ようとは思ってもいなかったから。
知ってからの方が、よほど胃のぎりぎり痛む思いに悩むことになったのである。
6
「ええと、確か、この辺りだよね」
わたしは珍しく、独り言を呟いていた。
あちらこちらからしょわしょわと蝉の鳴く声が上がる中、顔の汗をタオルで拭き拭き住宅街を歩いている。
独り言が多くなっているのは、きっと不安だったからだと思う。
わたしが現在歩を進めているのは、ボスの家だからだ。
放課後にコタローコーチからチームへの頼まれ事を受けた。
既にボスは教室におらず、家へ帰ってからボスの家へ電話をかけてみたけど誰も出なかった。
伝えるのなら一日でも早い方がいいかなと思って、それでこのようにボスの家へ向かっているというわけだ。
住所を確認してみたところ、うちからそれほど遠くもないようだし。
ボスの全身を覆うあの痛々しい傷の数々を思うと、親には絶対に会いたくないところ。誰がボスをあのようにしたかなんて分からないけど、でも硬く口止めされていることもあるし、いずれにしても会うのは気まずい。
もしも良い人そうならば、仲良くなって後でこっそり相談するという手もあるけれど、表の顔と裏の顔が違うような人だと、ボスへの虐待が余計に酷くなることも考えられるし。
などといった問題がありつつも何故わざわざボスの家へ行くのかという話だけど、ボスはお父さんと二人暮らしであるとコタローコーチから内緒で教えてもらったからだ。
ならば日も暮れていないこの時間、誰か家にいるのならきっとボス一人だけだろうから。
用件を簡易的にまとめた紙文書も用意してあるから、もしも誰もいないようならば郵便受けに投函しておくか、玄関ドアにでも挟んでおけばいい。
電信柱にある番地や号を示すプレートから判断して、もうこの辺りのはずという場所に差し掛かった。
通りに面して、古くさい感じの小さな平屋が立ち並んでいるところだ。塀で囲われていないため、どの家も外観が丸見えだ。
確かここ全体、貸し家のはずだ。
「ここに、お父さんと暮らしているのかな」
また独り言をいうと、端にある家から一軒一軒、玄関の表札を確認していった。「浜野」という文字を探して。
でも、どの玄関にも表札らしきものは見当たらない。
どの家からも生活臭が感じられず、表札もないものだから、本当にここなのか不安になってきた。
と、わたしは突然びくりと肩をすくめて、ひっと悲鳴を上げた。
ガシャーン、とガラスかなにかが割れるような大きな音がすぐ近くで響いたのだ。
「その暗い顔を見てっと吐き気がすんだよ! なあにが酒の飲み過ぎは身体に悪いだボケ! てめえの顔を見てるより遥かに紛れるんだよ」
男の人が、ガラガラとした声で怒鳴っている。
再び、ガシャンとなにかが砕け散る音が響く。
「つべこべ抜かすんだったらなあ、他にもっと楽しませろってんだよ!」
びいいいっ、となにか布を裂くような音。
「いやだっ!」
という、鋭い金切り声のような悲鳴が重なった。
ボスの声だ。普段こんな女の子らしい声を出すことはないけど、でも間違いなくボスの声だ。
びっ、びいい、と布を引き裂く音は続く。
わたしの背筋に冷たいものが走り、突っ立ったまま凍り付いていた。
唾を飲み込みたかったけど、意思で動かせるすべての部分か完全に硬直してしまっており、それすらもままならなかった。
この狭い家でなにが起きているのか、もう、見て確かめるまでもなかった。
ボスが、着ている物をお父さんに引き裂かれているのだ。
「そのふざけた身体はなんだ、てめえ! バカにしやがって! 育ててやった恩を忘れやがって!」
ばあん、どうん、という低い音に、わたしの全身は震えた。
わたしの脳裏には、ボスが顔を殴られて、壁に激しく叩き付けられている映像が浮かんでいた。
やっぱりボスは……親からの虐待を受けていたんだ……
でも、
どうすれば……
わたし、どうすればいい?
胸が破れそうなほどに心臓が激しく鼓動していた。
やがて、激しい暴力を想像させる地鳴りのような響きに混じって、ボスが謝り泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
わたしの心臓の鼓動が、より速くなった。
結局、わたしはなにもしなかった。
苦しむ振りだけして自分を罪悪感から救済し、本当に苦しんでいるボスのためにはなにもせずに、ただ胸を押さえて立ち尽くしているだけだった。
「さして痛くもねえくせに、いつまでも寝っ転がってねえで、早くメシでも作れよ! そんくらいの役に立て、ゴミクソが」
「これから……買い物に、行くんだよ」
蹴られ殴られた痛みに身動き取れなかったボスが、なんとか気力を振り絞って立ち上がろうとしている。そんな姿を、わたしは想像していた。おおかたのところ間違いではないだろう。
「そのふざけたままのカッコで出るんじゃねえぞ。殺すぞ」
虐待が発覚しないように、ということか。
自分でしておいて、ふざけた身体だなんだと怒るだなんて、その方がよっぽどふざけてないか。
仮にも自分の子供だろう。
もし愛情を持てないとしても、普通ああまで傷だらけ痣だらけの酷い状態になどするか?
わたしにはもちろん子供なんかいないけど、でも、親というのは子供に精一杯の愛情を注ぐものだろう。精一杯、無償の愛情を注ぐものだろう。
育ててやった恩が、とかいっていたけれど、反対に、産まれて来てやった恩をあなたは少しでも返したのか? まどかという素敵な娘が、あなたなんかのところに生まれて来てくれた恩を、少しでも、返したのか?
顔も見ていないというのに、ボスのお父さんに対してそんなことを考えていた。だって、あまりにも理不尽で。あまりにも不条理で。
「そこで、なにしてんだ?」
ボスが、玄関の前に立っていた。
首までしっかり隠した長袖シャツ、短いスカートに厚手の黒タイツ。
いつもの格好。
では、あるけれど……
違和感を覚えたのは何故だろう。
少し髪の毛が乱れていたから?
左の頬が、真っ赤になっていたから?
単に、こうして家で会うのが初めてだから?
先ほどまでのボスの声と、わたしの聞き慣れたなんだか少年のような声と、まるで違っているから?
それとも、前から思っていた不安だった咳がボスがわたしのそれは不安で不安で不安でボスがガソリンわたしかみさまのでがてがが
が、と胸倉を強く、ボスに掴まれていた。
混乱して頭の中にわけの分からない言葉が次々と浮かんでいたわたしだったが、ボスによって錯乱状態からは我に戻った。でも、次に出てきた言葉はやはり言葉になっておらず、完全にしどろもどろだった。
「あ、ああ、あの、わ、わたわたし、え、えっと」
そんなわたしにボスはじーっと睨むような視線を送り続けていたが、やがて小さく口を開いた。
「分かっているよな」
ぼそり。
その言葉の意味は考えるまでもなく分かっている。
誰にも、このことを喋るな。そういう意味だ。
分かってはいるけど……
「でででも……」
あんなことをされているのに。
お父さんに、あんな酷いことされているのに。
全身が傷や痣だらけになるような、酷いことをされているというのに。
「でもじゃねえんだよ! 余計なことすんなってのが分かんねえのかよ!」
ぎりぎりと掴まれた服を締め上げられて、ぐ、とわたしは呼気を漏らし顔を苦痛に歪めた。
殺気に満ちたボスの顔であったが、ふと驚いたように目を見開くと、
「ご、ごめんっ!」
わたしの胸元を掴んでいた手をぱっと引っ込めると、一歩後ろへ下がり、深く頭を下げた。
「あたし、つい……。誰にもいわれたくなくて、知られたくなくて、つい……。本当に、ごめん!」
ボスはうろたえたように、もう一度大きく頭を下げた。
「全然、気にしてませんから」
わたしは嘘をついた。
殺気走った目で服の胸元をぐいぐい締め上げられて、ちょっとどころかかなり動揺していた。
「今日のこと、それとこの前のこと、誰にもいわないで欲しいんだけど」
ボスはなんだか実に弱々しく、すがるような上目遣いをわたしへと向けた。
「そういわれても……」
「お願いだからっ! ……誰にも、いわないで。……この通りだから。……お願い、します……」
一体全体誰が信じるだろうか。
ボスが……
あのボスが、ゆっくりと膝を地に付けて、土下座をしただなんて。
震えながら、頭を下げ続けただなんて。
「分かりました」
ここまでされては、頷くしかなかった。
「だから頭、上げて下さい」
チームの、ボスと同い年の中では、わたし一人だけがボスに敬語で接している。それは初めて会った時のあの横暴さについそうなってしまい、そのままずるずると続いてしまったもの。
でも今ほど、わたしのその言葉遣いを受けるにふさわしくないボスの姿はなかった。一体全体どっちがボスだか分からないくらいに、ボスは奴隷のように小さくなってしまっているのだから。今にも溶けて消えてしまいそうなくらいに。
「誰にもいいませんから、ボスがいいというまでは誰にもいいませんから、だから、顔を上げて下さい」
「絶対に、誰にもいわない?」
「はい、絶対」
「約束する?」
「はい、約束します」
わたしにいわれ続けて、ようやくボスは頭を上げ、立ち上がった。
「ありがとう」
ボスは、ボスらしくない言葉をボスらしくない口調でいうと、ちょっと恥ずかしそうに笑った。
なんだか天使を見ているかのような、それはとても可愛らしい笑顔だった。
「じゃあ当面は、これまで通りのあたしでいるから。あたしカスミに夜ご飯の買い物に行って来なきゃ。それじゃっ」
「あ、ちょっと待って! ボスに用があって来たんです」
「そっか、用なきゃ来ないもんな。なに?」
「チームのことです。コーチから頼まれて。これ読んでおいて下さい」
相談ごとだから出来れば手紙より口頭で、と思っていたのだけど、もうそういう雰囲気ではない。だからわたしは、あらかじめ用意しておいた文書の入った封筒をボスに手渡した。
「分かった。読んどく。それじゃ、また明日ね! びしびししごくぞお!」
ボスは封筒を買い物袋に入れると、よく知ったボスに戻り、元気に笑いながら走り去って行った。
わたしは小さくなっていくボスの後ろ姿を見ながら、一旦、すべてを元に戻すべきなのだろうなと思っていた。このことを、なんにも知らなかった頃に。
でも、無理だ。
ボスは明るく笑いながら走っていったけれど、わたしには全然吹っ切ることなんか出来はしなかった。
それはそうだろう。
人間の心はそんなに単純じゃない。
忘れてといわれて、自由自在に忘れられるはずがない。はいそうですか、などと出来るはずがない。
どうやって、これからボスと会っていけばいいのだろう。
それにしても先ほどのボスの、「当面はこれまで通りのあたしでいるから」という台詞。これまでのあの荒々しいボスは、すべてが芝居だったんだ。
家庭問題の反動で、強がっていたということ?
前にサテツから聞いて、わたしたちが冗談だろうと信じなかった、自動車にひかれかけた子犬をボスが助け、抱きしめながら幼児言葉で無邪気な笑顔を見せていた、あれ、本当のことだったんだ。
先ほど、わたしの前で深く頭を下げて震えていた弱々しい姿、あれが本当の姿だったんだ。
家庭問題の反動でというよりも、転校を機会に生まれ変わりたくてということかも知れない。つまりわたしたちの知っているボスは、ボスのこうなりたかったという願望。
などと冷静に考えているふりをしながらも、いつしかわたしの呼吸ははあはあと荒くなっていた。
自己嫌悪。その四文字がわたしの頭上にどんとのしかかり、擦り潰されそうな思いだった。
知らなくてよいことだってあるのに。
他人に教えたくないことだってあるのに。
わたしは、ボスの知られたくない姿を見てしまった。
少しでもボスに近付きたい。辛い境遇から解放してあげたい。そんなお節介な気持で自分をごまかして……ただ興味本意というだけのくせにその気持ちを善意の薄皮で隠して、わたしは余計なことをしてしまったんだ。
最低だ……
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