雲を突き抜けたその上に

かつたけい

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第十五章 現実なんだ

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 ギャッジアップさせたベッドに背中をもたれさせて、窓からの景色を眺めている。
 お見舞いに訪れたわたしの目に映るのは、だいたいいつもこのような光景だ。
 さすがに抗がん剤治療の翌日などは、ベッドを起こさずぐでっと横たわっていたり、眠っていたりするけれど。

 今日は直近の抗がん剤治療からもう何日も経っていることもあり、ノックしてドアを開けると、彼女はいつも通りに窓を眺めていた。

 いつも通りであるというのに、わたしがちょっとびっくりして「え?」という表情を顔に浮かべてしまったのは、ボスが真っ赤なニット帽を被っていたからだ。

 振り向くと、間違いなくボスだった。
 わたしたちは、ちょっとの間、見つめあった。
 先に口を開いたのはボスだ。

「抗がん剤で、髪の毛完全に抜けた」

 ちょっと恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、両手で軽く帽子を押さえ付けた。

 わたしは、なにがなんだか分からずに、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
 やがて不意に、かっと顔が熱くなった。わたしの方こそ、恥ずかしい気持ちになった。書店でなにを調べていたんだ、と。

 調べるまでもなく、考えるまでもなく、抗がん剤による治療をしている以上このようになるのは当然のことなのに、すっかり忘れていたのだから。そこまで気が回らなかったのだとはいえ。

「仕方ないですよ。腫瘍を攻撃するためとはいえ、異物、ある意味で毒ともいえるようなものを体内に流し込むわけですから、副作用も出てしまうんです。……と、読んだ本に書いてありました。でも、しっかり治して、投与の必要がなくなれば、段々と戻るから大丈夫です。それよりも吐き気とか、具合悪そうにしているボスを見ることの方がわたしには辛いですよ」

 気を取り直したわたしは、医学書の受け売りをあえて淡々とした感じに述べてみせた。無駄におろおろしてボスを不安にさせてもよくないと思って、ちょっと頑張って強がってみたのだ。

「ありがと。今日は吐き気は平気。昨日までは、もう気持ち悪くて吐いても吐いてもおさまらなくて大変だったけど。……それでね、一つ提案なんだけど」
「はい?」

 なんだ、藪から棒に。

「この帽子の中がどうなっているか、秘密を大公開するから、コオロギもなにか秘密を一つ告白しようよ。見たいでしょ、あたしのハゲ頭」
「いえ、別に見たくないですよ! それに、わたし別に秘密にしていることなんかなんにも……」

 ちょっと前までは色々と抱えていることもあったけど、でもそれって、ボスの秘密を他の誰にもいえなかったというだけで、わたし自身の秘密ではないからな。

きみチャン、ナンダカ冷タイヨネー」
「ソウ? ッテ本人ノ前デイウナヨ。オイラハ別ニソウハ思ワナイ」
「ナンダヨオ前ー、裏切ル気カヨー。イイ子ブリヤガッテヨー」

 ボスはいつの間にか二体の、キャベツ畑人形のような手作り感満載の可愛らしいパペットにそれぞれ腕を入れて、声色を使って人形同士による会話をさせていた。

 この前はガソリンがブーブークッションを持って来ていたけど、これは誰からだろう。こういった物を選ぶセンスがあるのは、ノッポか、サテツかな。なんだか荒い感じの作りだし、もしかしたら本当に手作りかも知れない。

 それよりもわたしは、「君江ちゃん」といわれたところに引っ掛かっていた。
 まあそう思うのは当たり前か。いつも「コオロギ」だったものな。エラーなんかしたら、さらに頭に「便所」の二文字が追加されたりもするし。

 日記を読んでしまった今だから分かることなんだけど、ボスはこれまでずっといじめられっ子こで、転校する先々で友達らしい友達も出来なかった。

 だからきっと、他人を下の名前を呼んだことなどほとんどなくて、呼びたくとも恥ずかしくて呼べなくて、新天地でボスとして君臨することになった杉戸町でもやっぱり恥ずかしくて呼べなくて、照れ隠しのためわたしたちに対しては徹底的にあだ名で呼ぶようにしでいたのではないか。
 そう思っていたのに、人形でごまかしながらとはいえ突然下の名前を呼ぶなんて……

 わたしは、ちょっとくすぐったいような、嬉しい気分になっていた。
 ボスの不器用なところが、なんとも可愛らしく、いじらしく思えて。

「君江、でもいいですよ。わたしだって野球以外のところではドンやノッポのこと、ウミちゃんとか、トモちゃんって呼んでますから」
「バ、バカいってんじゃねえよ! 誰が名前で呼びたいなんていったよ、アホ!」

 久し振りにボス節が炸裂。でもそれは、見透かされた気持ちをごまかそうとしているだけにも思えた。
 わたしは、そんなボスの心の機微というか、そんなところが可愛らしく思えて、ついまた笑ってしまった。

 顔を真っ赤にしながら、俯きがちに、こちらをチラチラと見ているボスだったが、やがて、もっと俯き、もっと顔を真っ赤にしながら、ぎゅうーーっとニット帽を引っ張り深くかぶって目を隠し、ぼそぼそっと、口を開いた。

「そんな呼ばれたいのならっ、望みかなえてやる。……き、きみ、きみ……君江……ちゃん」
「なんですか、ボス」
「ああ、それズルい!」
「そうですか? じゃあ、まどかちゃん」
「なんだよ、さらりと平然とさあ! あたしだけ子供みたいじゃんか! いいよ、コオロギで、もう。ああ、恥ずかしかった」
「入院中でもメンタルトレーニングをかかさないなんて、さすがボスですね」

 恥ずかしい、という言葉に乗って、わたしはちょっと冗談をいってみた。

「コオロギ、性格悪くなった」

 ボスは腕を組み、ぶすっとした表情で頬っぺたをぷうっと膨らませた。無死満塁に追い込まれたフロッグみたいだ。

「ボスに鍛えられましたから。……そうだボス、話は変わりますけど病気が治ったら、どこか行ってみたいところありますか?」

 ちょっと唐突ではあるけれど、尋ねてみた。

「え……」

 ボスはちょこっと考え込んだかと思うと、また両腕にパペットをはめ、顔を突き付けあって「オ前、ドコ行キタイ?」「エート、エート、オイラハネ」などとやっていたが、そのうちに、

「これもう飽きた」

 と、腕を引き抜くと、あらためてうーんと唸り腕を組んだ。
 シンキングタイム約三十秒。

「東武動物公園」

 導き出された回答だった。

「コオロギは、何度も行ったことあんでしょ? 自転車でちょいのところだし」
「いえ、まだ一度も」
「え、そうなの?」

 近くに住んでいると、むしろ行かなかったりするものだ。

「じゃあ治ったら、みんなと一緒に行きましょうか」

 恥ずかしそうに喜ぶ、そんなボスの顔が見られるかなと思っていたのだけど、彼女の表情の変化は、わたしが想像すらしないようなものだった。
 すうっと突然にして喜怒哀楽すべてが消失したような感じになって、背もたれになっているベッドによりぐっと背中を預けたのである。

「もしも治ったらね」

 ぽそぽそっと独り言を呟くように、まるで気力の感じられない小さな声を出した。

 ただ笑顔になって貰いたいだけだったのに、その予想外の反応に、わたしはしばらく言葉が出ないどころか、思考、いや感情すらもまとまらない状態になっていた。

 どれくらいの時間が経っただろう。実際は、ほんの数秒、数十秒くらいなのだろうけど、とにかくわたしはようやくにして言葉を発した。まだ思考はグチャグチャだったけど、とりあえず感情のベクトルが自分なりに認識出来た瞬間、知らず口が動いていたのだ。

「なにいってるんですか。きっと、よくなりますよ」

 と。
 でも、それに対する反応は、なにもなかった。
 ボスは無表情のまま、壁を見つめているだけだった。
 そしてまた、独り言のように、無気力に、呟いた。

「あたし、もうダメかも知れない」

 また、なにかの冗談でいっている?
 ブーブークッションみたいに、驚かせようとしている?
 きっと、そうに違いない。
 だって、わたしの知るボスはこんなことはいわない。少しは弱音を吐くかも知れないけど、でも絶対に、こんな台詞は……

 だけどボスのこの、すべてを放棄したような表情。
 抗がん剤の辛さで、そういう気分になっているのかも知れない。いわゆる、鬱状態に。
 なのにこれまで無理して明るく振る舞っていたものだから、反動に襲われてしまっているのかも知れない。

 でも、
 でも、
 じゃあわたし、どうすればいいの?
 もうお見舞いに来なければいい?
 ボスが明るくなれるようなこと、いわなければいい?

 って、そんなこと考えちゃいけない!
 わたしたちがボスを励まし、勇気づけなくてどうするの?

「そんなことありません。絶対に治ります。現代の医学って、凄いんですから。それに、人間の免疫力だって凄いんですよ。だからもっと、お医者さんや、自分自身を信じて下さい」

 なにが正解なのかという自身の気持ちに悩みながらも、空気をつくろうためにとりあえずこの場において無難といえるような言葉が口をついて出ていた。
 わたし自身その言葉を強く信じていえることか出来れば、もっとよかったのだけど。

 ボスはわたしを見ようともせず、表情なく壁を見つめたまま、

「ありがとう。ほんと優しいよね、コオロギは。……ごめん、なんだか眠くなってき……」

 ボスの目が、すっと閉じていた。
 程なくして、息遣いが変わった。
 それは寝息であった。
 天使のような可愛らしい顔で、ボスは眠ってしまっていた。

 疲れが出たのかな。
 薬にしたって、色々なものを飲まされているのだろうし。

 上半身を起こしたまま眠ってしまったけど、このままだと横に倒れてベッドから落ちてしまわないだろうか。などと心配していたら、ちょうど看護婦さんがやって来て、ベッドを水平に戻して、柵を起こしてくれた。

 わたしはベッドの横にパイプ椅子を置いて座り、なにを考えるでもなく、ボスの寝顔をずっと見つめていた。
 二十分ほども経っただろうか。立ち上がり、病室を後にした。

     2
「治療の効果の副作用、ということならいいんだけどね」

 ドンが難しそうな顔で、ふんっと鼻から息を吐いた。

「そうなのかどうか、どの本を見ても全然書いてないんだもんね」

 サテツが、口調と難しい顔を真似してみせた。ふんと鼻息は吐かなかったけど。

 ここはわたしたちの教室だ。
 クラスが同じ者同士、ドンの机の周りに集まってどんより暗い気分を共有し合っていた。

 わたしはほぼ毎日一人で、他のみんなはグループになって順繰りに、さつ市にある病院までボスのお見舞い行っている。

 既に治療は本格的な段階に入っており、しかも複数種類並行であるため肉体的にも精神的にも辛いに違いない。そう思って、まめに顔を見せるようにしているのだけど、その都度不安になることがある。
 ここ最近、目に見えてボスの顔がやつれてきているということ。

 顔だけではない。身体も、パジャマの上からだというのに、もともと小柄なのがさらに一回り小さくなっているのが分かる。

 治療が進んでいる証拠ならばいいのだけど、そうかどうかなんて素人に分かるはずもなく、見ていてとても辛く、見ていてとても不安になる。
 もしかしたら治療の効果がなく、依然がんは猛烈な速度でボスの身体を蝕み続けているのではないか、と。

 わたしたちが落ち込んでいても仕方がないということは、よく分かっている。
 少しでも気持ちが元気になれるよう、精神的に励まし支えることしか、やれることはない。
 でも、そう考えると、必然的に沸き上がってくるのが先日の記憶。元気になって貰おうとして、逆にボスを追い込んでしまったこと。

 最近ボスは、感情が不安定になってきている。
 先日のわたしの時には、ただ鬱っぽくなるだけだったけど、サテツなんかは思い切り感情の爆風を食らったらしい。「あたしが痩せていくのを見て嬉しいか!」と、怒鳴られて、人形や花束を投げつけられたのだ。

 明るく穏やかな時もあるけど、わけもなく怒鳴ったり、かと思えば逆に感情を殺してふさぎ込んでしまう。
 治療の副作用か、もしくは恐怖からくる精神の不安定ということなのだろうけど。

 一体どういう態度で接すればいいのか。
 大丈夫、といい続けるしかないことは分かっているのだけど。
 こちらはあくまで笑顔でいるのが一番、ということは分かってはいるのだけど。

 結局、分かってはいるけど、分かっていないのだ。わたしも、ドンもサテツも、他のみんなも。

「どうすれば、いいんだろうねええ」

 サテツは、ドンの机の上に突っ伏すように上半身を覆いかぶせどべーっと広げた。ふざけたような態度で自分の気持ちをごまかそうとしているのかも知れないけど、その声からは悲壮感しか受けない。

「邪魔だからどいてよ」

 ドンが露骨に迷惑そうな顔。最近、少し肉付きが良いという程度にまで激痩せてきたサテツであるが、このようにされればどれだけ痩せてようとも鬱陶しいというものだろう。

「おい」

 男子の声。
 このクラスの、うえむらけんだ。

「六組のはまっているだろ。あいつ、がんなんだって?」

 ニヤニヤ顔の上村の言葉に、わたしの全身の血がさあっと一瞬にして引いていた。
 別に誰が知っていようとも、それでボスの病状がどうなるというわけでもないのに。
 でも、このことは秘密のはずなのに、なんで上村が知っているのだろう。
 わたしたち三人は不安になり、お互い顔を見合わせた。

「……そうだけど」

 しばらくして、わたしは様子をうかがうようにぼそり声を発した。はっきり病名まで知っている者に、はぐらかしても仕方ないと思ったから。

 なんで知っている? という、わたしたちの顔に浮かんだ疑問符を読み取ったのだろう。上村健太は得意げに説明する。

「六組の教室で今日、先生が話していたらしい。千羽鶴を折ろうって。学年でやるみたいだから、うちのクラスにも、話がくると思うぜ」
「ああ……」

 そうなんだ。大崎先生が教えたんだ。
 淋しいものな。身寄りがお父さんと、あんな親族しかいないのでは。
 確かにここまで事態が進んでしまった以上は、もうがんであることは秘密にはしておけない。
 でも……

 現実なんだ、と、いまさらのように感じていた。
 自分の心をなんとか冷静につなぎ止めていた幻想が、ガラガラ音を立てて崩れていくのを胸の奥に感じていた。

 そんな胸の虚空に、上村健太の次の言葉が入り込んだ瞬間、防御壁をすべて失ったわたしの頭は一瞬にして真っ白になった。

「よかったじゃん、お前ら。宣伝してた野球チームが目立つことになってさ」

 どっ、と心臓が跳ね上がっていた。
 なにをいっているのかすぐに理解出来なかったくせに、本能的に不快を感じ、血液が逆流していた。

 ぶるぶる、震えていた。
 指先が。
 全身が。
 上村の言葉が脳内をぐるぐる回り、震えがどんどん大きくなる。

「……なにを……いっているの」

 なにをいわれたのか、もう理解していた。でも、理解しているからこそ、そうやってクッションを敷いて自分の理性を杭につなぎ止めるしかなかった。
 でないとわたしが壊れてしまう。
 ボスのためにも、冷静で、強く明るくならなきゃって、思っているのに。
 でも、そうであるならば、ここでこんな質問をしてはいけなかったのだ。まともに反応しては、いけなかったのだ。

 上村健太はふんと鼻を鳴らすと、次のように答えたのである。

「だからさあ、宣伝したかったんだろ? 野球チームを。それに浜野って奴も、目立ちたがり屋みたいだし、ならよかったじゃんか、っていってんだよ。頑張っているのはいいけど、命懸け過ぎてて、本当にがんになっちゃって、笑っちゃうけどな。でもずーっと学校が休めるんだから、いいよなあ」

 上村健太は、声を上げて笑った。

 違う!
 わたしは心の中で叫び、否定していた。
 ボスはただ、変わろうとしていただけなんだ。
 引っ込み思案で、気弱で、誰より優しいのが、本当のボス。
 そんな自分から、必死に変わろうとしていただけなんだ。
 それをどうして……

「どうして……そんなこと、いうの?」

 わたしは、睨みつけていた。
 このような感情で人を見ることなんかしたくなかったけど、でも、どうしようもなかった。自分を抑えることが出来なかった。抑えたい、抑えなきゃ、と願っている自分すら、どこかへ吹っ飛んでしまっていたのだから。

「言論の自由だろ。おれがそう思ったからそういっただけだよ! 悪いのかよ」

 普段日陰でうじうじとしているわたしに抗議の目を向けられ、上村もムキになっていたのかも知れない。
 だから、別に怒るようなものでもなかったのかも知れない。小学生男子なら、誰だってこのような毒のある非常識な発言をしてしまうことくらいあるだろう。
 でも、わたしには自分のこの怒りを抑えることが出来なかった。

「あなたにそんなこという資格はない!」

 後に聞かされ自分でも信じられなかったのだけど、わたしは怒鳴り声を張り上げて上村に掴み掛かっていたのである。

「勝手だろ! なに真面目になってんだよ。根暗女! バーカ! 浜野なんて違うクラスなんだから、別にくたばろうと知ったことじゃないんだよ」

 恐らく上村も、本心からいっているわけではなかったのだろう。わたしの態度を受け、引けなくなってしまっていたのだろう。でも彼のその態度は、ますますわたしをヒートアップさせるだけだった。

「なにも知らないくせに! がんと戦うって、どれだけ辛くて、怖いことか、なんにも分かっていないくせに!」

 わたしだって、なにも分かっていない。でもそんなことは今どうでもよかった。
 わたしは、上村健太の襟首を両手で掴み、壁に押し当てていた。叩き付けていたといった方が、正しい表現かも知れない。

 びっくりしたような表情を浮かべる上村であったが、それよりわたしの方が驚いていたかも知れない。
 わたし自身の、この行動に。
 でも制御する理性は吹き飛んでおり、わたしには自分をどうすることも出来なかった。

 上村から手を離すと、目についた机に両手を掛けて、わめき散らしながら椅子ごと引き倒してしまった。
 机の中の物が、ばらばらと落ちて転がった。
 教室がざわついていたような気もするが、この時わたしの耳にはまったく入っていなかった。
 改めて上村へと掴み掛かった。

 でも、視界に入ったのが彼だったというだけで、誰でもよかったのかも知れない。
 だって、彼の暴言は、それは許せないものではあったけれど、でもそれは単なるきっかけであり、わたしの怒りは、むしろわたし自身の心の弱さに向けられていたからだ。

 迫る恐怖、突き付けられる現実、そこから逃れようと、わたしは人を責めていたのだ。

「キミちゃん、やめなよ、キミちゃんってば!」

 ドンがわたしを羽交い締めにしていた。
 わたしはわけの分からない言葉を発しながら、振りほどこうともがき続ける。
 上村健太を睨みつけながら。

「なにやってんだ、お前らあ!」

 担任の、倉田先生の怒鳴り声。
 そのあまりに大きな声に、はっと我に返った瞬間には、わたしと、上村健太は、先生の容赦ない平手を頬に受けていた。

     3
 家に帰り、家族の暖かさに触れる度に、いかに自分が幸せであったのかを思い知る。それが辛く、またそう考えてしまう自分の傲慢さに自分が腹が立つ。
 これまでは、自分の不幸ばかりを呪っていたくせに、と。
 変わる努力もしないくせに、ただ好き勝手に不満をいっていただけのくせに、と。
 気が弱いというのを隠れ蓑に、逃げることしかしなかったくせに。

 ボスは、変えよう、変わろうと頑張っていた。
 幸せ、とはいえないまでも、その片鱗のようなものの手応えは、間違いなく掴み掛けていたはずなんだ。後から思えばではあるけれど、でもボスの態度や表情からそうに違いない。

 そんなボスに、このような運命が待ち構えていたなどと、誰が予想出来ただろう。
 でもボスは戦い続けている。病院へと主戦場を変えただけで。

 すっかり髪の毛も抜け、げっそりとやつれ骨と皮だけになって、弱気になったり、暴言を吐いたりすることもあるけれど、ここ一週間ほどは随分と調子がよく、表情も明るかった。絶対に治すぞ、と張り切っていた。

 そうした表情を周囲に見せるために、果たしてどれだけ闇を振り払うための莫大なパワーを消費しているのか、わたしには想像も出来ない。

 弱気になったならばそれを受け止め支え、明るい態度を見せてくれるのならこちらも笑い返し、そうやって精神面から闘病を助けてあげる。いずれにしても、それくらいしかわたしには出来ない。それを続けていくつもりだったし、実際、ボスの心の状態もかなりよくなってきている手応えがあった。

 ボスのこうした壮絶な努力、必死の頑張りを嘲笑うかのようなことが起きたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

 ボスを悲しませることが起きたのだ。

 彼女の人格を、過去を、未来を、存在を、完全否定するようなことが起きたのだ。

 発端は、ボスのお父さんが同じ病院に救急搬送されて、そのまま入院になったこと。

 外出中に児童相談所の人に見つかり、慌てて逃げようとしたところを自動車にはねられ、足と腰の骨を折る重傷を負ったとのことだ。

 前々からボスがやたらお父さんを庇うのは知っていたけど、それは恐怖から来るものなのでは。これまでそうした思いがどうにも抜けなかったのだけど、それは違っていた。
 ボスは心底から親を尊敬し、愛していたのだ。

 何故そうだと思ったのか、経緯を順番に追っていこう。
 それはわたしにとって血が凍るくらいにショッキングなことであったけど、ここを語らなければなにも進まないから。

 大怪我を負って同じ病院に入院することになった、という現実に因果を感じ、日々を送るうちに罪悪感が大きく成長していったのか、ボスのお父さんが、誰に問われるまでもなく娘への暴力を白状した。

 単に殴る蹴るの暴力というだけではなかった。
 ……性的な虐待も、行っていたらしいのである。

 以前、ボスのお父さんは、わたしたちに対して、それを思わせるような下品な冗談をいっていたことがある。実際にボスがどこまでのことをされていたのかは分からないけど、でもあの発言は、あながち冗談ではなかったのだ。

 ボスは奥さんをなくした成人男性の、欲望の処理をさせられていたのである。
 まだ、小学生だというのに……
 いや、それどころか、血の繋がった、親子だというのに……

 それを知った時、わたしは全身が凍りつく絶望的なショックを受けた。同時に、脳内で瞬時に回路がつながっていた。
 ふわふわと漂っていた疑惑のピースが、すべて噛み合った。
 ボスが自分の身体を傷つけていたのは、そういうことだったんだ、と。

 お父さんに、そうした欲望の対象と見られないため、自分を刃物で傷つけて、見るも痛々しくおぞましい身体への追い込んだのだ。

 でもそれにより、代償行為というのか分からないけど殴る蹴るの暴力がエスカレートすることになった。ますますボスの全身が、見るに耐えられない酷いものに変わっていく。
 欲望の解消が出来ない以上は娘に存在価値はなく、暴力がより酷いものになる。
 やがてお父さんは外に女性を作るなどするようになるが、そうなるとボスの存在は価値がないどころか嫌悪憎悪の対象でしかない。つまり余計なお荷物なのだ。

 わたしが初めてボスの家を訪れた時に、服を破く音が聞こえた。その後すぐに、身体を罵るようなお父さんの声が上がって、そして壁に叩きつけるような音、そしてボスの悲鳴が聞こえた。あれが、すなわちそういうことだったんだ。

 酔っ払ったかで、つい服を脱がせてみたはいいが、痣だらけの酷い容姿に高まった感情を萎えさせられ、激高し、殴りつける。と。

 わたしには断言出来る。ボスのお父さんは、過去にも娘を愛したことなどない。
 かつては邪魔とまでいえる存在ではなかったのかも知れないが、無償の愛を注いだことなど一度もない。繰り返すが、断言する。

 ボスの日記に、お父さんからの仕打ちについて一切の記載がなかったけど、どういうことなのかわたしには説明出来る。
 日記がお父さんに発見される可能性を考えて記す内容を控えていた、ということではない。
 ボスは、ただひたすら救済を求めていたということなんだ。

 虐待に気づいて欲しいやめて欲しい、という意味ではない。そんなことは、これっぽっちも求めてはいない。もしそうであれば、傷が発覚した時点でわたしたちや大人に助けを求めている。

 違うのだ。
 ボスは、過去から現在というこれまでの人生を、生まれた意味を、ただ肯定したかったのだ。

 すべては愛の裏返し、そう思いたかったのだ。
 だから、お父さんを徹底的に庇っていた。大好きな、お父さんを。

 もしかしたら、以前は本当に優しかったこともあるのかも知れない(それでも、愛情は抱いてはいなかったと、わたしは自信をもって断言するが)。ボスはそんな親を、いまでも信じ、救ってあげたいと思っている。
 最後の日記で、完全なる大嘘を書いていることからも分かるというもの。

 悲しいまでに優しいのだ。
 ただひたすらに、家族を求めていた。夢見ていたのだ。

 日記には、お父さんのことについてはお酒を心配するくらいしか記述がないけど、ボスの自分を変えたいという欲求も、もしかしたらお父さんのためだったのかも知れない。
 暗いだなんだと罵倒されるたび、自分がこんなだからお父さんはいつも怒っているんだ、と。

 お父さんが救急搬送されたことを聞いた時には、どうしようどうしようと泣きじゃくるばかりだったらしい。でも命に別状はないと聞いてほっと胸を撫で下ろし、いずれ怪我を治して退院して家に戻るお父さんを世話するためにも自分も早くがんを退治しないとな、と明るい表情を見せていた。
 抗がん剤治療の辛さにも負けず、あまり弱音を吐くこともなく、必死に頑張り続けていた。

 しかし、お父さんの入院から約二週間後、事態が急変することになる。

 先ほど説明した、お父さんによる娘への虐待の自白、だ。

 自白したその翌々日の朝、児童相談所の人が一人、そして警察の人が二人、ボスの入院する部屋を訪れて、虐待について真偽を問う質問を投げ掛けたらしい。

 最悪だ。何故よりによってこのようなタイミングで、そういうことをするのか。わたしは後からそれを聞かされて、彼等の行動に憤りを感じずにいられなかった。

 だってそれは、ボスの存在や自己肯定を、真っ向から否定することに他ならなかったのだから。

 虐待など受けていない、とボスは必死に抗議するものの、彼等はまったく聞く耳を持たなかったらしい。それはそうだ。虐待は事実なのだから。

 このことの、なにが怖ろしいのか。それは、お父さんが虐待を認めたという事実を、ボスが知ってしまったことにある。それによって、ボスがこれまで泥にまみれるような思いで守り続けてきたものが、粉微塵に砕けてしまったのだ。

 大崎先生から、児童相談所の人が訪れたという件を知ったわたしは、焦りと苛立ちにじっとしていられず、無断で学校を飛び出し、病院へ向かった。予想していた通り病床で一人放心状態になっていたボスの身体を、ぎゅっと抱きしめた。

 あなたはここにいるから、と。
 わたしたちは、かけがえのない大切なものを、たくさん貰ったのだから、と。

 ほうけたように無表情のボスだったけど、いつの間にか涙をボロボロとこぼしていた。
 やがて声を上げ、泣き出してしまった。
 号泣といっても過言でない、まるで叫び喚いているかのような大きな泣き声で。

 わたしは、ボスの小さな身体を抱きしめていてやることしか、出来ることを知らなかった。

 わたしこそ、どうして自分なんか存在しているんだと思っていた。自分の心のよりどころを破壊されて泣く一人の女の子に、なにをしてやることも出来ないくせに、と。

 なんなんだ、この世の中って。
 あまりにもおかしいだろう。
 あまりにもデタラメ過ぎるだろう。
 こんな子こそが、幸せにならなきゃいけないのに。

 もしも神様がいるとして「これは試練なのです」などと偉そうに説明されたら、わたし、神様の考えは間違っていますと本気でいいかえせる。
 それは違いますなどといわれても、そっちこそ違う。絶対に違う。何度だっていってやる。神様、あなたは間違っています。

 だって、常識で考えたって、おかしいと思いませんか?
 世の中を、この子を、ちゃんと見ているんですか?
 神様などと崇められいばりたいのなら、少しは働いてくれませんか?

     4
 グローブの先端をかすめるようにボールが逃げて行った、といえればまだかっこよかったかも知れないけど、実際は目測誤りもいいところで、二メートルも前から横っ跳びしてしまい、なんにもないところでどっすんごろりと転がっただけだった。
 抜けたボールをアキレスが走りながら拾い、ガソリンへ返した。

「コオロギ、ビシッとしなよビシッと!」

 ガソリンは手に持っているバットの先を、わたしへと向けた。いまにもそれで殴り掛かってもおかしくないくらいの、激しい剣幕だ。

「ごめん。気をつけているつもりなんだけど」
「つもりだろうがなんだろうが、さっきのプレーが現実。気が抜けちゃってんの! やる気がないの! じゃあもう一回、ショート、いくよ、そらっ!」

 ガソリンは気合満々といった表情でボールを真上に放り、バットを振った。
 だけどショートであるわたしの方に、ボールは飛んでこなかった。空振りしていたのだ。ワンテンポどころかツーテンポ遅れの酷いタイミングで。

「いまのなし! 時間巻き戻し魔法でもう一回! ショーットおっ!」

 ごまかすように早口で叫び、またバットをぶんと振った。
 今度はきちんとミートは出来たけど、ショートといいつつ完全にファーストへの打球だった。

 ファーストのサテツは、油断なくどっしり腰を落として構えていたように見えたのだけど、落としていたのは腰より気持ちのようだった。
 だって、胸の高さへの低いライナーだからそのまま捕球すればいいのに、ミットを高く振り上げ意味もなく大ジャンプして、腹部へのボール直撃を受け、身体を丸めて苦悶の表情でうずくまることになったのだから。

「ちょっとサテツ、大丈夫? あたし悪くないよ!」

 慌てたように駆け寄ろうとするガソリン。

 このように、酷い有様であった。
 わたしたち全員。
 今日だけでなく、ここ数日ずっとこんな調子だ。

「ちょっと気持ちを整理しようよ。みんな、集まって!」

 わたしは手を上げた。
 このままだらだら続けていても、時間は解決なんかしてくれない。
 ミスするだけならまだしも、昨日もフロッグがバッターの顔面に当ててしまうし、このままだと骨折など大怪我に繋がってしまう。
 肉体的な問題だけでなく、そんな状態でいつまでも続けていたら、わたしたちの心が壊れてしまう。チームが崩壊してしまう。……ボスの作り上げた、このチームが。

「わたしもなんだけど、みんなボスのことが気になって。仕方ないんだよね?」

 わたしは尋ねた。
 でも練習は練習、関係ない! そうピシャリいえればいいんだけど、わたしの性格上いえるはずもなかった。

 ならば何故みんなを集めたのかというと、叱咤することは出来なくても、せめて胸の内を吐き出させることが出来れば、みんなの気持ちが楽になるのでは。そう思ったのだ。

 吐き出して、楽になって、その上でよく考えて、もう野球は続けられないという者が出て来るのであれば、それは仕方のないこと。
 でも本当は、みんなを楽にというよりも、わたし自身の気持ちを確かめたかったのかも知れない。なにに対しての気持ちなのかと尋ねられても、自分でも分からないのだけど。

「こんな時に、楽しんで練習してられる方が変だよ」

 ノッポの声。いつもは怖い顔ながらのんびり和やかな口調なのだけど、今はどんより沈んだような、顔のままの声だった。

「大会のためには、これまで以上に真剣に練習しないといけないのは分かるんだけど」

 ドンが、もごもごと言葉を発した。

 三週間後の日曜日、わたしたちは大会に出場する。初めての、公式戦だ。
 わたしたちの他に出場するのは、勿論すべて男子チームで、しかも初戦の相手は現在町内リーグトップの強豪だ。

 最初は、クジ運の悪さをなげく声がみなの口々から漏れた。気を取り直したわたしたちは、胸を借りて自分の力を試すつもりで全力で当たろう、その上で、勝利のために全力を尽くそう、と円陣を組んで誓い合った。
 病院にいるボスからも、お見舞いの際に激励の言葉を貰った。
 とにかく全力で当たるだけ。

 ではあるのだけど、でも実際には、この通りまるで練習に身が入らない状態だった。

 このままでは、自分の実力を試すことすら出来ないのは決定的。胸を借りるだけ失礼だし、強豪どころかどのチームにも、女子チームにすら勝てやしないだろう。

 みんな、分かっているのだ。
 でもしっかりしなければと思えば思うほど、先ほどのノッポの言葉である「楽しんで練習していられる方が変」という問題に直面し、どうしようもなくなってしまう。

 サテツが実に申し訳なさそうな表情で、ぼそぼそと口を開いた。

「練習している間も、病院のボスが気になって、早くお見舞いに行きたい行きたいって思ってて。……急いで駆け付けると、ボス、最近ほとんどが眠っているんだけど、その寝息を聞いて、ああまだ生きているって安心するんだ」
「まだっていうな!」

 ガソリンが声を裏返らせながら怒鳴った。

「ごめん、そういう意味じゃない。でもね、安心といっても結局不安の先伸ばしというか……」

 その気持ちは分かる。だって、完治したわけではないのだから。というよりも、事実としてどんどん病状が悪化しているのだから。

「だからこそだよ! だからこそ、しっかり練習するんでしょうが!」

 ガソリンは、イライラした表情で、だんと地面を踏みつけた。

 ふと、誰かの泣き声が聞こえていることに気づいた。
 フロッグだ。帽子のつばで目を隠しながら、すすり泣いている。
 隣にいるドンも目尻に涙を浮かべ、ずっずっと鼻をすすっている。

「泣いたって、なんにも変わらないんだよ!」

 腹立たしそうに声を荒らげるガソリン。でもそういう彼女こそ、知ってか知らずかすっかり涙目であった。
 つっと、その涙が頬をこぼれ落ちた。

「汗だよ汗!」

 ますます声を荒らげ、袖でごしごしと拭いた。
 などとやっているうちに、フロッグとドンの泣き声がますます大きくなっており、それにアキレスも加わっての三重奏になっていた。さらにフミも加わるまで、さして時間は掛からなかった。

 ……こんな状態で、これ以上練習を続けることは不可能だ。
 そうぼやくわたしに、ガソリンはやれると強がったけど、でも、無理したって意味がない。練習するふりをしているだけでは意味がない。

 結局、バースからの提案で、途中で練習を切り上げ、久し振りに全員でお見舞いに行くことになった。

 すぐに荷物をまとめて、出発し、チームのみんなで病室を訪れたのであるが、
 そこでわたしは、先ほどサテツがいっていた言葉の正しさを、改めて認識することになった。
 安心は不安の先伸ばしに過ぎないという現実を。

     5
 それがボスだと分かるのは、毎日のようにお見舞いに来ていたから。ここがボスの入院している病院であり、病室であると知っていたから。
 ただ、それだけだった。

 それくらい、ボスはやつれ、肉という肉がすべてそげ落ち、骨と皮ばかりで皮膚は青く、すっかり別人のような状態になっていた。面影は多分に残ってはいるものの、知らず久し振りに見た人なら絶対に誰なのか気づかないだろう。

 あの一件があってから、病状が一気に進行した感じだ。
 お父さんの、虐待の自白があってから。

 医者は関係ないといっているらしいけど、あれをきっかけとして病と戦う気力を喪失してしまったことに違いはなかった。

 現在、窮屈だけどチームのみんなで病室を訪れている。
 わたしはベッドのすぐ横に立って、小さな寝息を立てているボスの顔を見下ろしている。

 最近はお見舞いに来ても、このように眠っていることが多い。
 治療自体の過酷さによる疲労と、苦痛を抑えるための薬の影響らしい。
 起きていれば普通に会話出来ることもあるけれど、でも、ふっと突然意識を失ったように眠ってしまうことも多い。

 大崎先生はそうだとはっきり教えてくれたわけではないけれど、お医者さんはもう時間の問題だといっているらしい。お父さんにも、覚悟するようにといっているらしい。

 でも、わたしは思う。
 なんで覚悟しなきゃいけないの?
 病院でしょ、ここ。
 どんな病気でも治すのが仕事でしょ。
 と。

 分かってはいた。お医者さんの判断が正しいのだろうということは。でも、だからこそ、そう心に唱えることで抵抗をするしかなかった。だってわたしたちに、たかだか小学生の子供に、なにが出来る?

 すーすーという、かすかに聞こえるボスの寝息。
 今日も、まったく会話は出来ないのかな。
 少しくらいお話をしたいけど、せっかく眠っているところを起こすわけにいかないものな。

「帰ろうか」

 訪れてから三十分ほども経った頃だろうか。静まった部屋の中、ガソリンがぽそっと出した声に、わたしたちは頷いた。
 不安の先延ばしであるとはいえ、とりあえずボスの顔を見て、寝息を聞くことも出来たし。
 気持ちを整理するための、きっかけにはなった。
 わたしたち全員の顔をボスに見せてあげられれば、もっと良かったのだけど。

 ドアに一番近くにいるバースが、通路へと出ようとした時だった。

「……たいに」

 消え入りそうなくらい力のないものではあったけど、確かに聞こえた背後からの声に、わたしたちは驚き振り返った。

「勝てる、から……信じ……ているから」

 それは、ボスの声だった。
 ボスがベッドに横たわり目を閉じたまま、ささやくような小さな声ではあったけれど、うわ言のようではあったけれど、間違いなく、わたしたちへの言葉を発していたのだ。
 苦悶の表情を浮かべながら、ぐっと天井へ向けてなんとか両腕を突き出した。

 わたしたちは見た。
 ボスの両手が、ゆっくりと、Wの文字を作るのを。
 ウイン。
 公園で、みんなで考えた、勝利のポーズ。

 不意に、くにゃっと力抜けたように、その手は自身の胸に落ちた。
 静まり返った部屋に、またすーすーと寝息が聞こえた。

「任せて……おいてよ、ボス」

 ガソリンが、握った拳をボスへと突き出した。
 ぐっと、力強いポーズをとったつもりだったのかも知れないけど、その手が、全身が、ぶるぶると震えていた。

「絶対……絶対に、勝つ、から」

 ずっと鼻をすすると、鼻を、そして目を、袖でごしごしとこすった。
 わたしたちは、顔を見合わせた。
 小さく、でも力強く、頷き合った。

「やれること、やるしかないよね」

 ノッポが、ぼそっと呟いた。自分にいい聞かせているのか、わたしたちへと話し掛けているのか。

 でも、わざわざわたしたちに伝える必要などはどこにもなかった。
 だって、みんな同じことを考えていたのだから。
 顔を見れば分かる。
 もう、みんなの表情に迷いは感じられなかった。

 そうだ。
 わたしたちにやれること、それは練習して、練習して、初勝利を掴む。それしかないのだから。
 相手がリーグトップの強豪だろうと関係ない。男子であろうと関係ない。
 勝てるよう、必死に練習をするだけだ。
 そして、わたしたちがボスの希望になる。
 勝利を報告し、元気になって貰うんだ。

 お父さんの件で気力をなくして、ボスは見る見るうちに病気に支配され元気をなくしていった。逆に考えれば、ボスに勇気を、元気を与えられれば、また元に戻ってくれるということだ。そうに違いない。
 そうだ。

 やるぞ。
 やるぞ。
 やるぞ!

 わたしたちは病室を飛び出し、通路を走り出した。
 看護婦さんたちに注意されるが、構わず、奇声さえ張り上げながら、走った。
 エレベーターが行ってしまったばかりであることが分かると、階段を駆け降りて、中央受付へ、老人ばかりの中をぐいぐい掻き分けて、外へ。
 うわーーっ、とみんなで叫びながら全力で走った。
 もう冬も近い、澄み渡る青空の下を。
 先頭を走るガソリンが不意に立ち止まり、振り返った。
 みんなも立ち止まる。
 誰からともなく、顔を見合わせ、頷き合うと、円陣を組んでいた。

「杉戸ブラックデスデビルズ、やるぞーーーっ! ファイトオー!」

 わたしたちの叫び声を、秋の風が天へとさらって行った。

     6
 このようにしてわたしたちの、昼も夜もすべてが野球漬けという日々が始まったのである。

 練習に次ぐ練習。
 休憩も、食事も、強いては呼吸も心臓の鼓動すらも練習だった。

 顔面にボールが直撃しようともへこたれず、疲労や痛みに立てなくなろうとも肘で這い、ボールを追った。

 筋肉を休ませないと壊れるだけだ、というコタローコーチの助言に、神経系を高めるトレーニングを増やすことで練習時間を維持。

 自宅のトイレでは中腰になって脚力を鍛え、食事の際には食器を持つ手にぐっと力を込めて握力を鍛えた。一度それで茶碗がつるんと飛んで、割ってしまったこともある。

 隔日であった練習は毎日に増えていたけど、まだもの足りず、早朝練習を追加した。

 練習の休憩時間には、片足立ちや反復横跳びなどをしながら、それぞれ考案した自主トレメニューを交換し合った。

 ただ己を鍛えるだけではない。
 敵を知り己を知れば百戦なんとやら。サテツの情報網を利用して、対戦相手である杉戸レッドクロウズについての情報を色々と得ることに成功した。過去に対戦したことのある男子を探し出して、話を聞かせて貰うことが出来たのだ。
 とにかくピッチャーが豪速球で簡単には打てない、とのことだ。

 聞いた情報を元に、見て研究しようと思い、実際にリーグ戦にも視察に行った。小雨の中を、江戸川の試合場まではるばるジョギングで。
 彼らも、見物している女子の集団が大会での対戦相手だとは、まさか思いもしなかっただろう。

 杉戸レッドクロウズのピッチャーは、とくなみこうという大柄の選手。小学六年生とのことだが、実際に見たら本当に大きくて、まるで中学生だ。

 確かに、話に聞いた通りの剛速球投手だった。
 真上から降り下ろすような豪快なストレートは、確かに男子であってもおいそれとは打つことは出来ないだろう。
 ピッチャーの能力が高いだけでなく、野手にしても連係が抜群で、わたしたちからすればこれ以上のレベルが存在するなど想像も出来ない完璧さだった。

 つけいる穴がどこにもないと焦りを覚えながらも、わたしはひたすらにデータを取った。攻守両面。そこから必ず攻略の糸口が見つけられるはずだ、と信じて。

 しかし、持ち帰ったデータを研究しようにも、まずピッチャーの投げるボールを打ち返せないことには、なにも始まらない。
 剛速球を打つためには、とにかく剛速球に慣れるしかない。
 六年一組の担任の村上先生が、高校と大学で野球部所属の経験があると聞き、わたしたちは全員で頭を下げてバッティング練習のピッチャーになって貰えるようお願いした。
 他の大人を招くなど、コタローコーチの面子を潰すようで申し訳ないけど、そんなこと気にしていられない。

 村上先生からは快い快承を受け、さっそく練習場に来て貰ったものの、大人の投げるボールは想像以上に速かった。そもそも目で追えもしないのに、バットを持った腕が動くはずもなく、適当に振り回してまぐれで当たることはあっても、あまりの重さにまともに飛ばなかった。
 村上先生は、投手をやっていたわけではないというのにだ。

 でも、わたしたちの胸の奥から生じるのは、諦めの気持ちではなく、むしろ闘志だった。目の前に見えているのは、むしろ光明だった。

 だって、これを打てれば、小学生の球が打てないわけがないからだ。
 毎日、毎日、村上先生に付き合って貰っているうち、段々と打てるようになってきた。
 といっても球威に負けてまともに飛びはしなかったけれど、でも、速球に目が慣れてきたことは間違いなかった。

 さらには、力で対抗するだけでなく、上手く力を逃がすことで、まだ運次第とはいえヒットも出るようになってきた。

 バッティングセンターにもみんなで出掛けて、ここでもまた速球を打ち返す練習をした。
 練習の成果か、結構打つことが出来て、ミートの上手なガソリンが、物足りないとばかりにどんどん前へ前へ出てしまうものだから、係の人に怒られたりもした。

 わたしたちは毎日毎日、雨の日も、風の日も、朝も、昼も、夜も、家でも、授業中でも、夢の中でも、常に野球を考え、トレーニングを続けた。
 絶対に勝つんだ。そう強く、自分にいい聞かせながら。

 そして、ついに試合の日を迎えた。
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