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第十四章 友達思いなんだね
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1
鼻をかむと、袖でまぶたごしごしとこすった。
こすりすぎて、きっともう真っ赤になっているだろう。
ひりひり痛いけど、でも、拭っても拭っても涙がボロボロとこぼれてくるのだから仕方がない。
日記を読み終えてから、どれくらい経っただろう。
何回鼻をかんで、目をこすっただろう。
あまりにも悲しくて、あまりにもボスが優しくて。
わたしはようやく机の上の、ハードカバーの日記帳をぱたんと閉じた。
また、鼻をかんだ。
ティッシュの濡れていない部分で、まぶたの涙を拭った。
ガソリンのいっていたことは本当だった。
日記には、お父さんからの虐待について微塵も触れられてなどいなかった。自分でつけた刀傷のことしか書いていない。
背中側のあの痣、自分でつけることなんか不可能だというのに。
しかも最後の日付の、事実関係が完全に嘘じゃないか。
そこまでしてお父さんを庇わなくても……
嘘が書かれているからといって、虐待についてもまったく触れられていないし、だからこの日記はお父さんのしてきたことを暴くなんの材料にもならない。
ただ、ボスの優しさや、生きる必死さだけがひしひしと伝わる、いまのような状況となってはなんとも物悲しいだけの、そんな、日記だった。
2
子供は放射線の感受性が高いため、放射線治療の効果もそこそこ見込めるという。
しかし、大人のがんは臓器の内側表層に出来ることがほとんどであるが、子供の場合は奥深くに出来るため、発見された時には既に腫瘍が肥大化していることが多く、従って比較的早期に発見出来たとしても転移は珍しいものではない。
ということなんだってさ、と、昨日サテツから教えて貰った。
最近ボスの放射線治療が開始されたらしく、それでそのような話になったのだ。
その治療が効果の高いものであるというのは、わたしにとって朗報だけど、転移が多いというのは当然ながら不安にさせる。
サテツも、順序を逆にして教えてくれればよかったのに。
がんについてどんな些細なことでも、知らないよりは知っていた方がいいわけだけど、転移がとか、生存率がとか、そうしたことを知るたびわたしは暗い表情になってしまう。もともと暗い性格だけど。
必死に戦っているボスのためにも、頑張ってもっと明るく振る舞えるようになった方がいいのは分かるのだけど。だって励ます方がどんより落ち込んでいたら、なんにも始まらないものな。
などと思う反面、生命に係わる闘病をしている者へ考えなしに笑顔など向けてもいいものかという気持ちもある。
以前なにかのドラマで、やせ細っていく患者が怒鳴りながら、笑顔の見舞い客へ枕や花を投げつけるシーンがあって、ストーリー全体はもう忘れたけど、そのシーンの映像だけ何故か覚えている。
でも、それならどんな顔をして、ボスに会えばいいのだろう。
既に何回も病室を見舞っており、これまで特に問題も感じなかったのだから、ならいつも通りにしておけばいいだけなんだろうけど。でもこれまでの自分の態度言動がどんなだったかなんて、気にもとめていなかったから、こうして改めて考えようとするとまったく思い出せない。
だからこそ困っているのだけど、でももう、歩いているうちに病院へと到着してしまった。
幸手市にある習明院大学附属病院。東武日光線杉戸高野台駅から徒歩圏にある、大きな総合病院だ。
「わたしがどうとかじゃないよな」
建物を見上げながら、ぼそり呟いた。
なんのためにここへ来た?
いま守るべきものは、わたしなどではなく、この病院にいるのだろう?
つまらないことで悩んでいたわたしは、自分の両の頬をぱしぱしと軽く叩き、顔をぶるぶると振ると、中央玄関から中へ入った。
3
折れて真っ直ぐ進み、西病棟へ。
曲がってすぐのところにあるエレベーターで、四階へ。
出ると正面にナースステーション。左に折れると長い通路で、真っ直ぐ進んで突き当たりの一つ手前がボスの入院している部屋だ。
いつも通りに通路を進んでいると、ボスの部屋からぞろぞろと人が出てきた。
これまでせいぜいがチームの誰かと鉢合わせする程度であったので、ちょっとびっくりしてしまった。
四十前後だろうか、四人の男女だ。
みな私服だし、病院の人ではなさそう。ということは、普通に考えて見舞い客ということか。
親戚の人かな。
ちょっと安心した。
もしかしたらボスって身寄りがまったくないのかな、と心配していたので。
頼れる人がまったくいないんじゃあ、大変だものな。特にがんの治療ともなれば、お金だってかかるだろうし。物心両面からのサポートがなければ、とても戦えない。
などと考えながら通路を歩いていると、次の瞬間、思わず耳を疑いたくなるような言葉が聞こえてきた。
「なんで浩平の娘なんかに、うちが医療費を出さないといけないんだ!」
一番背の高い、グレーの背広姿の、白髪混じりの男性の台詞であった。
浩平というのは、おそらく浜野浩平。大崎先生から聞いたことがある、ボスのお父さんの名前……
「もちろん本人らに出して貰うさ。でも足りない分があれば、幾らかはぼくらが負担しないとならないだろ」
「冗談いうな。一円だって勿体ない」
「本当にそうですよ。こうして取手からわざわざお見舞いに来てあげただけでも感謝して欲しいくらいですよ」
「まったく、親子そろって疫病神だよ。家系の面汚しもいいとこだ」
わたしは、四人とすれ違った。
四人は、二人ずつに分かれてわたしの横を通り過ぎた。わたしが通路の中央で足を止めてしまっていたので、邪魔だなといった表情で。
いまの言葉、それって、ボスのこと?
わたしは立ち止まったまま、沸いた疑問を胸に唱えていた。
疫病神?
来てあげただけで感謝して欲しい?
面汚し?
どうして……そんなことをいえる? 思える? 本人のいる病院で、そんなことを……
一体、何様だというの、あなたたちは?
ボスが、なにをした?
ただ必死に、生きるために、戦っているだけじゃないか……
ぶるっと身体が震えたかと思うと、瞬時に、頭が真っ白になっていた。
叫んでいた。
獣のような凄まじい絶叫を上げていること、僅かに残った理性で感じていた。驚いていた。でも、止められなかった。
いけない。ダメだ。僅かなその理性が必死に訴えかけるのだけど、わたしには届かなかった。
ずずっと踵を返した瞬間、腕を振り走り出していた。
ナースステーションの前を通り、エレベーターへ。
ちょうど扉が閉まるところだった。
両手で扉を殴りつけていた。
なんだか分からないことを叫びながら、何度も、何度も。殴っていた。
どおん、どおん、と音が響く。
エレベーターの階数表示が、3、2、と変化するのを見ると、わたしはきょろきょろ見回し階段を見つけ、走り出そうとする。
「ちょっと、なにやってるの!」
看護婦さんに、背後から押さえ付けられていた。
4
「はい。はい。すみませんでした。申し訳ありませんでした」
わたしは何度も頭を下げながら、ナースステーションを出てドアを閉めた。
「友達思いなんだね」
受付の窓から、看護婦さんがにこり笑っている。
わたしはまた、恐縮したように頭を下げた。
別に友達思いなんかじゃない。むしろ、とんでもない迷惑をかけてしまうところだったわけで。
ボスの親戚らしき人たちの発言が許せず、追い掛けて、エレベーターの扉をガンガン叩き、看護婦さんに捕まったのだ。
まったく記憶にないのだけど、わたしは暴れもがいて逃れようとして、三人掛かりでナースステーションまで引っ張って来られたらしい。
深く反省している。
見苦しく弁解するのならば、怒りに我を忘れるなどという経験自体が初めてで抑え方が分からなかったということなのだけど。
他人の家のことに口を出すべきではないとはいえ、でも、あの態度が許せなかったのだ。仮に親族でないとしても、一人の子供の生死に対して、あまりにむごい言葉だったから。あまりにも非常識な発言だったから。
何度目かのお見舞いで、看護婦さんにわたしの顔を知られていたので助かった。そうでなかったら、とんでもないことになっていたに違いない。
もうわたしの心は落ち着いている。
落ち着いているどころか、メーター振り切った反動で、普段以上に落ち込んでしまっている。もしまたさっきのような現場に遭遇したとしても、きっと怒る気力も沸かないだろう。
でも、感情的な怒りはもうおさまったとはいえ、あの人たちへの憤りはまた別だ。
ボスが可哀相だ。
父親があんな人物だというのに、親族の人まで……
ここへ来る道々、どんな顔でボスに会えばいいのだろうと悩んでいたけれど、さっきの会話を聞いてしまって、その思いが一層強くなっていた。
どうしよう。
わたしは、ボスのいる部屋の前で、入るのに躊躇して立ち尽くしていた。
別に普段通りノックして入ればいいだけなのに。
しばらくして、ぶんぶん首を振って迷いを振り払うと、ドアをノックし、開き、部屋の中へとそっと顔を覗かせた。
と、その瞬間、
「暗い!」
ピシャリとした雷に打たれ、わたしはびくりと肩をすくませていた。
大声の主は、ベッドで上体を起こしているパジャマ姿の女の子だった。
「暗い、って……」
わたしは部屋に入ると、そっとドアを閉めた。
ボスはわたしが驚いたことに満足したか、にこにこ笑っている。
「どう見たって暗いだろ、その顔。……というか、普段からさあ。せっかくコオロギは優しくて良い子なんだから、もうちょっと朗らかになれば、きっと人気者になれて毎日が楽しいと思うよ。勿体ないなあ」
「そんなこといわれても……」
だいたいわたし、良い子なんかじゃないよ。
さっきだってボスの親戚の人に、怒りで我を忘れてしまっていたし。ほんと、とんでもないことをしてしまうところだったのだから。
「さっき、そこの通路でなんか叫んでたでしょ?」
ボスの問いに、わたしは頷いた。あんな絶叫をしてしまったのだ。隠せるはずがない。
「おじさんたちが部屋を出てすぐだったから……もしかしたら、あたしのために怒ってくれた?」
わたしは、なんといって良いのか分からず、言葉を考え黙り込んでしまっていた。
なんといって良いかというより、心のなかでまたあのイライラが生まれつつあり、それを抑え込むのに時間が掛かったというのが本当のところだった。
だって今のボスの言葉、つまりあの人たちは先ほど通路で話していたような暴言を、病床のボス本人に対しても面と向かって平然とぶちまけていたということなのだから。
それに対してどんなわたしは言動を選ぶべきなのか、それが分からず、考え込んでしまっていたのだ。
でもわたしの心の動きなど、ボスにはお見通しだったということだろうか。
「ありがとね」
そういって、にこりと笑ったのである。
組んだ手を頭の後ろに回して、言葉を続ける。
「出来れば世話になんかなりたくないけどね、こっちだって。まあ、なんかあった時のための話ではあったけど、でも子供のあたしにいわれてもねえ。お父さん、嫌われてっからさ、事務的な話はともかく単なる愚痴は全部あたしに来るんだよね」
やっぱり、そうだったんだ。
あの人たち、この部屋でもボス本人に対して励ましの言葉をかけるでもなく、そんな話をしていたんだ。
恥ずかしくないのかな。
ボスにいうようなことじゃないだろう。そんなこと。
また怒りが再燃しかけ、ぐっと堪えるのが大変だった。
わたしは冗談で友達や妹や弟に怒ったような態度を取ることはあるけど、本気でそういう感情になったというのは初めての経験で、気持ちをどうコントロールすればいいのかよく分からなかった。
わたしがあれこれ考えても仕方ないことではあるけど。
お金のことは、あの人たちと、ボスのお父さんとの話なのだから。
わたしは、わたしに出来ることをするだけなんだと、分かってはいる。ただボスを励まし、元気づけるだけだと、分かってはいる。
といってもこうして顔を見せるくらいしか、出来ることはなにもないのだけれど。
ガソリンみたくつまらないことも楽しく思わせるような話術の才能もないし、サテツみたいな雑学でもないし。
「いつまで立ってるの? そこの椅子に、座んなよ」
ボスはいつになく優しい口調で、部屋の隅に置かれたパイプ椅子を指差した。
「はい」
お言葉に甘えて腰を下ろすことにした。
小さな椅子に、なんだか不自然なほど大きな座布団が置かれているなあ、と思いながら、腰を沈めたその瞬間であった。
ブーーーーーーー!
お尻の下に、ぶるぶるぶるぶる震える感触と、ぶるぶるぶるぶる震える低い音。
わああああ、と叫びながら、わたしは跳ね飛ぶような勢いで立ち上がっていた。
「おならしたあ!」
ボスがこちらを指差して大爆笑。
「違います! 違います!」
わたしは必死に言い訳をした。言い訳というよりも、事実を主張した。
座布団を持ち上げると、その下にゴム風船のようなものがべしゃっと潰れていた。
これ確か、ブーブークッションだかなんだかいう名前の、おならの音が出る悪戯グッズだ。
やられた……
「ガソリンがくれたんだよ。コオロギなら絶対に引っ掛かるからって、仕掛けておいてくれたんだ」
はいはい。確かにわたしなら絶対に引っ掛かりますよ。石橋を叩いておきながら川に落ちるタイプだからな。
なんか妙に優しい態度だなと思っていたら、フリだったのか。
「ごめんごめん」
楽しそうな顔のまま、ボスは謝った。
悔しいけど、でもこういう悪戯をする元気があるのは良いことか。
でもなんだか複雑な気分だあ。
他のみんながここにいたら、絶対にいいふらされていたよ。病室ででっかいおならしたって。
なおも笑い続けるボス。
その楽しげな顔を見ているうち、別の意味で複雑な気持ちになっていた。
暇だからというだけでなく、こうした悪戯をして笑っていなければ自分を保てなくなっているのでは。
そんな考えが、ふと脳裏をよぎったのだ。
そうだとしても、それは仕方のないことだとは思うけど。
もしわたしがボスの立場だったら、やっぱりそうやって自己欺瞞を続けなければとっくに狂ってしまっているかも知れない。
「どうした? ……ずっと黙っているけど、もしかして怒った? ごめんね」
「違うんです。だからそんなに謝らないで下さい。謝らなければならないのは、こっちの方なんですから」
「え、え、なにがさ?」
「わたし、勝手に……読んでしまいました」
「読んだ? なにを?」
「ボスの、日記です……。ごめんなさい」
わたしは頭を下げた。
ボスはちょっと驚いたような表情になり、続いて困ったような感じになったが、すぐ笑顔に戻ったかと思うと、その笑顔に意外と思えるような言葉を乗せ、口を開いた。
「読んで貰えて、よかった」
ボスは微笑みながら、そういったのだ。
「どうして……」
「だって、本当のあたしを知って貰えたんだから」
ボスは満足したような顔で、口を閉ざした。
わたしもまた、なにを返せばいいのか分からず口を閉ざしたままで、部屋にはちょっとした静寂が訪れた。
ふと気づけば柔らかな夕日が、窓辺から部屋に差し込んでわたしたちを優しく照らしていた。
まるで止まった時の中にいるかのような錯覚に落ちかけていると、不意にボスが口を開いた。
「もうあたしね、強がっているような演技はやめる。なにがどうなったって、あたしはあたしなんだってことが分かったから。……コオロギたちと出会たことで、そう思えるようになったんだよ」
ようやく肩の荷が下りたとでもいうような、すっきりとした表情だった。
本当にこれがあのボスなのか、同じ人間なのか、というくらい、別人と思えるような顔になっていた。これまでも稀にそういう顔を見ることはあったけれど、でもそれは一瞬のことだったから。
「そうですね。演技かどうかとかはわたしには分からないですけど、別にそんなことしなくたって、ボスが誰よりも強いこと、知ってますから」
「別に強くなんかないよ。どこへ引っ越しても、いじめられっ子だったんだから。だから、変身したくて、今風の言葉でいうとキャラをかぶるっていうの? 高いところからえいと飛び降りるつもりで演じてみたら、思いのほか上手くいって、自分が強くなれたつもりだった。全部、日記に書いてある通り」
ボスはそこでいったん言葉を切るが、ふた呼吸ほど置いて、また口を開いた。
「でもね、日々過ごすうちにそんな自分に慣れてきたと思いつつも、いつもなんともいえない違和感が付きまとっていて、それが重たかった。だからもうやめて、楽になることにした。日記を読まれて、弱虫なあたしを知られてしまったからじゃないよ。さっきもいった通り、あたしはあたしなんだということを、コオロギたちが教えてくれたからなんだよ」
素に戻ることで楽だというのなら、それはボスの自由。でも、いまの言葉に、一つ反論しておきたいことがあった。
「ボスは弱虫なんかじゃないですってば」
と。
「だからって、強くもなれない」
「わたしにとっては充分に強いです。本当に凄いです、ボスは」
本心からの、わたしの言葉。
ボスがどう謙遜しようとも、何度だって否定してやる。
そう思っていたのだけど、でも、違っていた。
というよりも、論点がずれていた。
ボスはただ弱音を吐きたくて、弱い自分に戻りたいだけだったのだ。
「……怖いんだ」
ぼそ、と弱々しい口調で、身体を小刻みに震わせながら、小さく口を開いた。
「え?」
聞こえてはいたけれど、でもわたしは聞き返していた。
怖い、って……
ボスは消え入りそうな口調で、言葉を続けた。
発せられた言葉……覚悟はしていたはずなのに、わたしの頭をガツンと横から殴りつけ、すべてを粉々に砕いて吹き飛ばすような、そんな、破壊的な、絶望的な、言葉だった。
「転移、見つかったって……」
5
自宅のベッドに横たわり、なにをするでもなくただ呆然とした表情で時を過ごしている。
病院でボスから聞いた言葉、そのショックを受け止め切れず、わたしの思考は完全に停止してしまっていた。
まったく考えられないわけではないけど、考えたとしてもおんなじことばかり、非生産的なことばかりが、いたずらにぐるぐる回るだけだった。
ショックを受けたボスの言葉、とは、今日お見舞いに訪れた際に聞かされた、がんの転移のことだ。
最近放射線による治療が始まったことは知っていたけど、それは胃がんのみに対するものと思っていた。そうではなく、全身に対してのものだったのだ。
転移の可能性については認識を持ち、覚悟をしていたはずであったというのに、受けたショックは覚悟していた十倍も百倍も凄まじいものだった。
ただ転移という事実を知ったというだけでなく、それを知ることになった時の、自分自身の態度言動が許せないということも、いま自分が心を乱している要因の一つかも知れない。
がんの恐怖からの、弱音を吐きたいという信号を、ボスがあんなに出していたというのに、わたしはそれを否定して、ボスは強いボスは強いと追い込もうとしていたのだから。
きっと誰だってあのような状況下に置かれたら、恐怖に堪えられるはずがない。
それならば、弱さをこそ受け止めてあげるべきだったのに。
6
「ごめん。喋る気力が、ない。……聞いては、いたけど、思って、いたより、ずっと辛いよこれ。……ごめんね、せっかく来てくれたのに」
ボスはとろんとした表情で天井を見上げながら、視線をわたしの方へと向けようとしている。しかし首も目も、上手く制御することが出来ず、もどかしそうな表情を滲ませている。
放射線療法だけでなく、抗がん剤の投与も始まったのだけど、その影響によるものらしい。
ドラマや漫画などでは吐き気や倦怠感が凄まじいと聞くけど、それが本当であることを目の当たりにすることになるなど、つい先日までは想像もしていなかった。
わたしはベッド脇の、ボスの視界に入る位置にパイプ椅子を置いて、座っている。わたしはここにいるよ、ボスは一人じゃないよ、ということを示すために。
だから別に無理してこちらに顔を向けることなどないのだけど、でもボスは、とろんとしたような、苦しいような、入り混じった表情でこちらを向こうと頑張り続け、でもどうにも身体動かずごめんねばかりいっている。
それが辛くて、涙が出そうで、でもボスにそんな顔は見せたくなくて、三十分ほどで病室を後にした。
昨日はガソリン、フミ、ノッポと四人でお見舞いに来た。
必然的にというべきか、ガソリンとノッポがぺらぺらと喋りっぱなしになっていたから、ボスは楽しい話を聞いているだけでよかった。
わたし一人だと、ダメだ。本当に、自分の喋る才能のなさには嫌になる。
苦しませてしまうばかりで、少しでも楽にしてあげること、楽しい気持ちにさせてあげることが出来ないのだから。
7
それはまったくの偶然だった。
公園でガソリンの姿を発見したことは。
家で腐っていても仕方ない、と青空の下へと出て散歩をしていたのだけど、以前ボスが一人でボール練習をしていた児童公園に、ガソリンがおり練習をしていたのだ。
二人は背格好が似ているから、一瞬ボスかと思って飛び上がって驚いてしまった。すぐ人違いであることには気づいたけれど。
どんな練習をしているのだろうと思い、敷地に入り、近寄ってみた。
壁に、斜めからボールを投げて、反射に反応してダイビングキャッチ。起き上がっては反復している。
ボスが以前ここでやっていたのと、まったく同じ練習だ。
そういえばガソリンも、この公園でボスの練習を見たことあるといっていたな。わざと同じ練習をしているのだろうか。
「ああ、なんだコオロギ、いたんだ。ひょっとして、ずっと見てた?」
ガソリンが練習を休め、こちらを見ていた。
彼女は袖で額の汗を拭った。
一昨日降った雨で土がまだぬかるんでいることもあり、ジャージが全身泥まみれだ。
いつからここで練習していたのだろう。
……転移のこと、彼女ももう聞かされて知っているというのに。
わたしなんか、チーム練習の時以外は家に閉じこもって、なにもせずぼーっと過ごしているだけだというのに。
「いま来たばかりだよ」
わたしは小さく首を振ると、力のない笑みを浮かべた。
ガソリンも小さな微笑みを返すと、わたしへとボールを放り投げた。
わたしは前進しながら腕を伸ばし、両手でキャッチすると、放り返した。
それが無言の合図になったか、気づけばわたしたち二人は一緒に野球の練習を始めていた。
一人がが投げて、一人がダイビングキャッチ、と、先ほどまでの一人練習を二人で。
わたしはグローブを持っていないけど、両手でキャッチすればなんということはない。ジャージでなく、トレーナーにジーンズという普通の服装だったけど、別に泥だらけになったって構わない。
ただそれだけのことで心についた泥を払うことが出来るのなら、よっぽど有り難い。
……でも、こんな程度のことで、心の泥を払い落とすことなんか、出来やしなかったけど。
「ボスのためにも、チームを強くしないとね」
あまり無言でいるのも気まずくて、なんとなく口をついて出たわたしの言葉。
「そうだね」
と、ガソリンは頷いた。
「来年には、ボスも一緒だろうしね。あの子、隠れて練習している量が凄いんだもん。このままなら、あたし絶対に戻って来たボスに抜かされる。だから、いまのうちにたっぷりと引き離しておくんだ」
あの子凄い、って、ガソリンこそ凄いよ。
疑わず、信じて、前を向いていられるなんて。
わたしには、とても無理だ……
わたしには……
強くなんかないから。
ボスの強いところ、弱いところ、受け止めて、元気にしてあげるためにも、わたしたちは強くなければならないのに……
分かっているけど、でも、
強くなんて、なれないよ。
そもそも、なんでボスなの?
まだ小学生だというのに、
あんな病気になって、苦しまなければならないの? 生命を奪われる恐怖に怯えなければいけないの?
どうして……
鼻をかむと、袖でまぶたごしごしとこすった。
こすりすぎて、きっともう真っ赤になっているだろう。
ひりひり痛いけど、でも、拭っても拭っても涙がボロボロとこぼれてくるのだから仕方がない。
日記を読み終えてから、どれくらい経っただろう。
何回鼻をかんで、目をこすっただろう。
あまりにも悲しくて、あまりにもボスが優しくて。
わたしはようやく机の上の、ハードカバーの日記帳をぱたんと閉じた。
また、鼻をかんだ。
ティッシュの濡れていない部分で、まぶたの涙を拭った。
ガソリンのいっていたことは本当だった。
日記には、お父さんからの虐待について微塵も触れられてなどいなかった。自分でつけた刀傷のことしか書いていない。
背中側のあの痣、自分でつけることなんか不可能だというのに。
しかも最後の日付の、事実関係が完全に嘘じゃないか。
そこまでしてお父さんを庇わなくても……
嘘が書かれているからといって、虐待についてもまったく触れられていないし、だからこの日記はお父さんのしてきたことを暴くなんの材料にもならない。
ただ、ボスの優しさや、生きる必死さだけがひしひしと伝わる、いまのような状況となってはなんとも物悲しいだけの、そんな、日記だった。
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子供は放射線の感受性が高いため、放射線治療の効果もそこそこ見込めるという。
しかし、大人のがんは臓器の内側表層に出来ることがほとんどであるが、子供の場合は奥深くに出来るため、発見された時には既に腫瘍が肥大化していることが多く、従って比較的早期に発見出来たとしても転移は珍しいものではない。
ということなんだってさ、と、昨日サテツから教えて貰った。
最近ボスの放射線治療が開始されたらしく、それでそのような話になったのだ。
その治療が効果の高いものであるというのは、わたしにとって朗報だけど、転移が多いというのは当然ながら不安にさせる。
サテツも、順序を逆にして教えてくれればよかったのに。
がんについてどんな些細なことでも、知らないよりは知っていた方がいいわけだけど、転移がとか、生存率がとか、そうしたことを知るたびわたしは暗い表情になってしまう。もともと暗い性格だけど。
必死に戦っているボスのためにも、頑張ってもっと明るく振る舞えるようになった方がいいのは分かるのだけど。だって励ます方がどんより落ち込んでいたら、なんにも始まらないものな。
などと思う反面、生命に係わる闘病をしている者へ考えなしに笑顔など向けてもいいものかという気持ちもある。
以前なにかのドラマで、やせ細っていく患者が怒鳴りながら、笑顔の見舞い客へ枕や花を投げつけるシーンがあって、ストーリー全体はもう忘れたけど、そのシーンの映像だけ何故か覚えている。
でも、それならどんな顔をして、ボスに会えばいいのだろう。
既に何回も病室を見舞っており、これまで特に問題も感じなかったのだから、ならいつも通りにしておけばいいだけなんだろうけど。でもこれまでの自分の態度言動がどんなだったかなんて、気にもとめていなかったから、こうして改めて考えようとするとまったく思い出せない。
だからこそ困っているのだけど、でももう、歩いているうちに病院へと到着してしまった。
幸手市にある習明院大学附属病院。東武日光線杉戸高野台駅から徒歩圏にある、大きな総合病院だ。
「わたしがどうとかじゃないよな」
建物を見上げながら、ぼそり呟いた。
なんのためにここへ来た?
いま守るべきものは、わたしなどではなく、この病院にいるのだろう?
つまらないことで悩んでいたわたしは、自分の両の頬をぱしぱしと軽く叩き、顔をぶるぶると振ると、中央玄関から中へ入った。
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折れて真っ直ぐ進み、西病棟へ。
曲がってすぐのところにあるエレベーターで、四階へ。
出ると正面にナースステーション。左に折れると長い通路で、真っ直ぐ進んで突き当たりの一つ手前がボスの入院している部屋だ。
いつも通りに通路を進んでいると、ボスの部屋からぞろぞろと人が出てきた。
これまでせいぜいがチームの誰かと鉢合わせする程度であったので、ちょっとびっくりしてしまった。
四十前後だろうか、四人の男女だ。
みな私服だし、病院の人ではなさそう。ということは、普通に考えて見舞い客ということか。
親戚の人かな。
ちょっと安心した。
もしかしたらボスって身寄りがまったくないのかな、と心配していたので。
頼れる人がまったくいないんじゃあ、大変だものな。特にがんの治療ともなれば、お金だってかかるだろうし。物心両面からのサポートがなければ、とても戦えない。
などと考えながら通路を歩いていると、次の瞬間、思わず耳を疑いたくなるような言葉が聞こえてきた。
「なんで浩平の娘なんかに、うちが医療費を出さないといけないんだ!」
一番背の高い、グレーの背広姿の、白髪混じりの男性の台詞であった。
浩平というのは、おそらく浜野浩平。大崎先生から聞いたことがある、ボスのお父さんの名前……
「もちろん本人らに出して貰うさ。でも足りない分があれば、幾らかはぼくらが負担しないとならないだろ」
「冗談いうな。一円だって勿体ない」
「本当にそうですよ。こうして取手からわざわざお見舞いに来てあげただけでも感謝して欲しいくらいですよ」
「まったく、親子そろって疫病神だよ。家系の面汚しもいいとこだ」
わたしは、四人とすれ違った。
四人は、二人ずつに分かれてわたしの横を通り過ぎた。わたしが通路の中央で足を止めてしまっていたので、邪魔だなといった表情で。
いまの言葉、それって、ボスのこと?
わたしは立ち止まったまま、沸いた疑問を胸に唱えていた。
疫病神?
来てあげただけで感謝して欲しい?
面汚し?
どうして……そんなことをいえる? 思える? 本人のいる病院で、そんなことを……
一体、何様だというの、あなたたちは?
ボスが、なにをした?
ただ必死に、生きるために、戦っているだけじゃないか……
ぶるっと身体が震えたかと思うと、瞬時に、頭が真っ白になっていた。
叫んでいた。
獣のような凄まじい絶叫を上げていること、僅かに残った理性で感じていた。驚いていた。でも、止められなかった。
いけない。ダメだ。僅かなその理性が必死に訴えかけるのだけど、わたしには届かなかった。
ずずっと踵を返した瞬間、腕を振り走り出していた。
ナースステーションの前を通り、エレベーターへ。
ちょうど扉が閉まるところだった。
両手で扉を殴りつけていた。
なんだか分からないことを叫びながら、何度も、何度も。殴っていた。
どおん、どおん、と音が響く。
エレベーターの階数表示が、3、2、と変化するのを見ると、わたしはきょろきょろ見回し階段を見つけ、走り出そうとする。
「ちょっと、なにやってるの!」
看護婦さんに、背後から押さえ付けられていた。
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「はい。はい。すみませんでした。申し訳ありませんでした」
わたしは何度も頭を下げながら、ナースステーションを出てドアを閉めた。
「友達思いなんだね」
受付の窓から、看護婦さんがにこり笑っている。
わたしはまた、恐縮したように頭を下げた。
別に友達思いなんかじゃない。むしろ、とんでもない迷惑をかけてしまうところだったわけで。
ボスの親戚らしき人たちの発言が許せず、追い掛けて、エレベーターの扉をガンガン叩き、看護婦さんに捕まったのだ。
まったく記憶にないのだけど、わたしは暴れもがいて逃れようとして、三人掛かりでナースステーションまで引っ張って来られたらしい。
深く反省している。
見苦しく弁解するのならば、怒りに我を忘れるなどという経験自体が初めてで抑え方が分からなかったということなのだけど。
他人の家のことに口を出すべきではないとはいえ、でも、あの態度が許せなかったのだ。仮に親族でないとしても、一人の子供の生死に対して、あまりにむごい言葉だったから。あまりにも非常識な発言だったから。
何度目かのお見舞いで、看護婦さんにわたしの顔を知られていたので助かった。そうでなかったら、とんでもないことになっていたに違いない。
もうわたしの心は落ち着いている。
落ち着いているどころか、メーター振り切った反動で、普段以上に落ち込んでしまっている。もしまたさっきのような現場に遭遇したとしても、きっと怒る気力も沸かないだろう。
でも、感情的な怒りはもうおさまったとはいえ、あの人たちへの憤りはまた別だ。
ボスが可哀相だ。
父親があんな人物だというのに、親族の人まで……
ここへ来る道々、どんな顔でボスに会えばいいのだろうと悩んでいたけれど、さっきの会話を聞いてしまって、その思いが一層強くなっていた。
どうしよう。
わたしは、ボスのいる部屋の前で、入るのに躊躇して立ち尽くしていた。
別に普段通りノックして入ればいいだけなのに。
しばらくして、ぶんぶん首を振って迷いを振り払うと、ドアをノックし、開き、部屋の中へとそっと顔を覗かせた。
と、その瞬間、
「暗い!」
ピシャリとした雷に打たれ、わたしはびくりと肩をすくませていた。
大声の主は、ベッドで上体を起こしているパジャマ姿の女の子だった。
「暗い、って……」
わたしは部屋に入ると、そっとドアを閉めた。
ボスはわたしが驚いたことに満足したか、にこにこ笑っている。
「どう見たって暗いだろ、その顔。……というか、普段からさあ。せっかくコオロギは優しくて良い子なんだから、もうちょっと朗らかになれば、きっと人気者になれて毎日が楽しいと思うよ。勿体ないなあ」
「そんなこといわれても……」
だいたいわたし、良い子なんかじゃないよ。
さっきだってボスの親戚の人に、怒りで我を忘れてしまっていたし。ほんと、とんでもないことをしてしまうところだったのだから。
「さっき、そこの通路でなんか叫んでたでしょ?」
ボスの問いに、わたしは頷いた。あんな絶叫をしてしまったのだ。隠せるはずがない。
「おじさんたちが部屋を出てすぐだったから……もしかしたら、あたしのために怒ってくれた?」
わたしは、なんといって良いのか分からず、言葉を考え黙り込んでしまっていた。
なんといって良いかというより、心のなかでまたあのイライラが生まれつつあり、それを抑え込むのに時間が掛かったというのが本当のところだった。
だって今のボスの言葉、つまりあの人たちは先ほど通路で話していたような暴言を、病床のボス本人に対しても面と向かって平然とぶちまけていたということなのだから。
それに対してどんなわたしは言動を選ぶべきなのか、それが分からず、考え込んでしまっていたのだ。
でもわたしの心の動きなど、ボスにはお見通しだったということだろうか。
「ありがとね」
そういって、にこりと笑ったのである。
組んだ手を頭の後ろに回して、言葉を続ける。
「出来れば世話になんかなりたくないけどね、こっちだって。まあ、なんかあった時のための話ではあったけど、でも子供のあたしにいわれてもねえ。お父さん、嫌われてっからさ、事務的な話はともかく単なる愚痴は全部あたしに来るんだよね」
やっぱり、そうだったんだ。
あの人たち、この部屋でもボス本人に対して励ましの言葉をかけるでもなく、そんな話をしていたんだ。
恥ずかしくないのかな。
ボスにいうようなことじゃないだろう。そんなこと。
また怒りが再燃しかけ、ぐっと堪えるのが大変だった。
わたしは冗談で友達や妹や弟に怒ったような態度を取ることはあるけど、本気でそういう感情になったというのは初めての経験で、気持ちをどうコントロールすればいいのかよく分からなかった。
わたしがあれこれ考えても仕方ないことではあるけど。
お金のことは、あの人たちと、ボスのお父さんとの話なのだから。
わたしは、わたしに出来ることをするだけなんだと、分かってはいる。ただボスを励まし、元気づけるだけだと、分かってはいる。
といってもこうして顔を見せるくらいしか、出来ることはなにもないのだけれど。
ガソリンみたくつまらないことも楽しく思わせるような話術の才能もないし、サテツみたいな雑学でもないし。
「いつまで立ってるの? そこの椅子に、座んなよ」
ボスはいつになく優しい口調で、部屋の隅に置かれたパイプ椅子を指差した。
「はい」
お言葉に甘えて腰を下ろすことにした。
小さな椅子に、なんだか不自然なほど大きな座布団が置かれているなあ、と思いながら、腰を沈めたその瞬間であった。
ブーーーーーーー!
お尻の下に、ぶるぶるぶるぶる震える感触と、ぶるぶるぶるぶる震える低い音。
わああああ、と叫びながら、わたしは跳ね飛ぶような勢いで立ち上がっていた。
「おならしたあ!」
ボスがこちらを指差して大爆笑。
「違います! 違います!」
わたしは必死に言い訳をした。言い訳というよりも、事実を主張した。
座布団を持ち上げると、その下にゴム風船のようなものがべしゃっと潰れていた。
これ確か、ブーブークッションだかなんだかいう名前の、おならの音が出る悪戯グッズだ。
やられた……
「ガソリンがくれたんだよ。コオロギなら絶対に引っ掛かるからって、仕掛けておいてくれたんだ」
はいはい。確かにわたしなら絶対に引っ掛かりますよ。石橋を叩いておきながら川に落ちるタイプだからな。
なんか妙に優しい態度だなと思っていたら、フリだったのか。
「ごめんごめん」
楽しそうな顔のまま、ボスは謝った。
悔しいけど、でもこういう悪戯をする元気があるのは良いことか。
でもなんだか複雑な気分だあ。
他のみんながここにいたら、絶対にいいふらされていたよ。病室ででっかいおならしたって。
なおも笑い続けるボス。
その楽しげな顔を見ているうち、別の意味で複雑な気持ちになっていた。
暇だからというだけでなく、こうした悪戯をして笑っていなければ自分を保てなくなっているのでは。
そんな考えが、ふと脳裏をよぎったのだ。
そうだとしても、それは仕方のないことだとは思うけど。
もしわたしがボスの立場だったら、やっぱりそうやって自己欺瞞を続けなければとっくに狂ってしまっているかも知れない。
「どうした? ……ずっと黙っているけど、もしかして怒った? ごめんね」
「違うんです。だからそんなに謝らないで下さい。謝らなければならないのは、こっちの方なんですから」
「え、え、なにがさ?」
「わたし、勝手に……読んでしまいました」
「読んだ? なにを?」
「ボスの、日記です……。ごめんなさい」
わたしは頭を下げた。
ボスはちょっと驚いたような表情になり、続いて困ったような感じになったが、すぐ笑顔に戻ったかと思うと、その笑顔に意外と思えるような言葉を乗せ、口を開いた。
「読んで貰えて、よかった」
ボスは微笑みながら、そういったのだ。
「どうして……」
「だって、本当のあたしを知って貰えたんだから」
ボスは満足したような顔で、口を閉ざした。
わたしもまた、なにを返せばいいのか分からず口を閉ざしたままで、部屋にはちょっとした静寂が訪れた。
ふと気づけば柔らかな夕日が、窓辺から部屋に差し込んでわたしたちを優しく照らしていた。
まるで止まった時の中にいるかのような錯覚に落ちかけていると、不意にボスが口を開いた。
「もうあたしね、強がっているような演技はやめる。なにがどうなったって、あたしはあたしなんだってことが分かったから。……コオロギたちと出会たことで、そう思えるようになったんだよ」
ようやく肩の荷が下りたとでもいうような、すっきりとした表情だった。
本当にこれがあのボスなのか、同じ人間なのか、というくらい、別人と思えるような顔になっていた。これまでも稀にそういう顔を見ることはあったけれど、でもそれは一瞬のことだったから。
「そうですね。演技かどうかとかはわたしには分からないですけど、別にそんなことしなくたって、ボスが誰よりも強いこと、知ってますから」
「別に強くなんかないよ。どこへ引っ越しても、いじめられっ子だったんだから。だから、変身したくて、今風の言葉でいうとキャラをかぶるっていうの? 高いところからえいと飛び降りるつもりで演じてみたら、思いのほか上手くいって、自分が強くなれたつもりだった。全部、日記に書いてある通り」
ボスはそこでいったん言葉を切るが、ふた呼吸ほど置いて、また口を開いた。
「でもね、日々過ごすうちにそんな自分に慣れてきたと思いつつも、いつもなんともいえない違和感が付きまとっていて、それが重たかった。だからもうやめて、楽になることにした。日記を読まれて、弱虫なあたしを知られてしまったからじゃないよ。さっきもいった通り、あたしはあたしなんだということを、コオロギたちが教えてくれたからなんだよ」
素に戻ることで楽だというのなら、それはボスの自由。でも、いまの言葉に、一つ反論しておきたいことがあった。
「ボスは弱虫なんかじゃないですってば」
と。
「だからって、強くもなれない」
「わたしにとっては充分に強いです。本当に凄いです、ボスは」
本心からの、わたしの言葉。
ボスがどう謙遜しようとも、何度だって否定してやる。
そう思っていたのだけど、でも、違っていた。
というよりも、論点がずれていた。
ボスはただ弱音を吐きたくて、弱い自分に戻りたいだけだったのだ。
「……怖いんだ」
ぼそ、と弱々しい口調で、身体を小刻みに震わせながら、小さく口を開いた。
「え?」
聞こえてはいたけれど、でもわたしは聞き返していた。
怖い、って……
ボスは消え入りそうな口調で、言葉を続けた。
発せられた言葉……覚悟はしていたはずなのに、わたしの頭をガツンと横から殴りつけ、すべてを粉々に砕いて吹き飛ばすような、そんな、破壊的な、絶望的な、言葉だった。
「転移、見つかったって……」
5
自宅のベッドに横たわり、なにをするでもなくただ呆然とした表情で時を過ごしている。
病院でボスから聞いた言葉、そのショックを受け止め切れず、わたしの思考は完全に停止してしまっていた。
まったく考えられないわけではないけど、考えたとしてもおんなじことばかり、非生産的なことばかりが、いたずらにぐるぐる回るだけだった。
ショックを受けたボスの言葉、とは、今日お見舞いに訪れた際に聞かされた、がんの転移のことだ。
最近放射線による治療が始まったことは知っていたけど、それは胃がんのみに対するものと思っていた。そうではなく、全身に対してのものだったのだ。
転移の可能性については認識を持ち、覚悟をしていたはずであったというのに、受けたショックは覚悟していた十倍も百倍も凄まじいものだった。
ただ転移という事実を知ったというだけでなく、それを知ることになった時の、自分自身の態度言動が許せないということも、いま自分が心を乱している要因の一つかも知れない。
がんの恐怖からの、弱音を吐きたいという信号を、ボスがあんなに出していたというのに、わたしはそれを否定して、ボスは強いボスは強いと追い込もうとしていたのだから。
きっと誰だってあのような状況下に置かれたら、恐怖に堪えられるはずがない。
それならば、弱さをこそ受け止めてあげるべきだったのに。
6
「ごめん。喋る気力が、ない。……聞いては、いたけど、思って、いたより、ずっと辛いよこれ。……ごめんね、せっかく来てくれたのに」
ボスはとろんとした表情で天井を見上げながら、視線をわたしの方へと向けようとしている。しかし首も目も、上手く制御することが出来ず、もどかしそうな表情を滲ませている。
放射線療法だけでなく、抗がん剤の投与も始まったのだけど、その影響によるものらしい。
ドラマや漫画などでは吐き気や倦怠感が凄まじいと聞くけど、それが本当であることを目の当たりにすることになるなど、つい先日までは想像もしていなかった。
わたしはベッド脇の、ボスの視界に入る位置にパイプ椅子を置いて、座っている。わたしはここにいるよ、ボスは一人じゃないよ、ということを示すために。
だから別に無理してこちらに顔を向けることなどないのだけど、でもボスは、とろんとしたような、苦しいような、入り混じった表情でこちらを向こうと頑張り続け、でもどうにも身体動かずごめんねばかりいっている。
それが辛くて、涙が出そうで、でもボスにそんな顔は見せたくなくて、三十分ほどで病室を後にした。
昨日はガソリン、フミ、ノッポと四人でお見舞いに来た。
必然的にというべきか、ガソリンとノッポがぺらぺらと喋りっぱなしになっていたから、ボスは楽しい話を聞いているだけでよかった。
わたし一人だと、ダメだ。本当に、自分の喋る才能のなさには嫌になる。
苦しませてしまうばかりで、少しでも楽にしてあげること、楽しい気持ちにさせてあげることが出来ないのだから。
7
それはまったくの偶然だった。
公園でガソリンの姿を発見したことは。
家で腐っていても仕方ない、と青空の下へと出て散歩をしていたのだけど、以前ボスが一人でボール練習をしていた児童公園に、ガソリンがおり練習をしていたのだ。
二人は背格好が似ているから、一瞬ボスかと思って飛び上がって驚いてしまった。すぐ人違いであることには気づいたけれど。
どんな練習をしているのだろうと思い、敷地に入り、近寄ってみた。
壁に、斜めからボールを投げて、反射に反応してダイビングキャッチ。起き上がっては反復している。
ボスが以前ここでやっていたのと、まったく同じ練習だ。
そういえばガソリンも、この公園でボスの練習を見たことあるといっていたな。わざと同じ練習をしているのだろうか。
「ああ、なんだコオロギ、いたんだ。ひょっとして、ずっと見てた?」
ガソリンが練習を休め、こちらを見ていた。
彼女は袖で額の汗を拭った。
一昨日降った雨で土がまだぬかるんでいることもあり、ジャージが全身泥まみれだ。
いつからここで練習していたのだろう。
……転移のこと、彼女ももう聞かされて知っているというのに。
わたしなんか、チーム練習の時以外は家に閉じこもって、なにもせずぼーっと過ごしているだけだというのに。
「いま来たばかりだよ」
わたしは小さく首を振ると、力のない笑みを浮かべた。
ガソリンも小さな微笑みを返すと、わたしへとボールを放り投げた。
わたしは前進しながら腕を伸ばし、両手でキャッチすると、放り返した。
それが無言の合図になったか、気づけばわたしたち二人は一緒に野球の練習を始めていた。
一人がが投げて、一人がダイビングキャッチ、と、先ほどまでの一人練習を二人で。
わたしはグローブを持っていないけど、両手でキャッチすればなんということはない。ジャージでなく、トレーナーにジーンズという普通の服装だったけど、別に泥だらけになったって構わない。
ただそれだけのことで心についた泥を払うことが出来るのなら、よっぽど有り難い。
……でも、こんな程度のことで、心の泥を払い落とすことなんか、出来やしなかったけど。
「ボスのためにも、チームを強くしないとね」
あまり無言でいるのも気まずくて、なんとなく口をついて出たわたしの言葉。
「そうだね」
と、ガソリンは頷いた。
「来年には、ボスも一緒だろうしね。あの子、隠れて練習している量が凄いんだもん。このままなら、あたし絶対に戻って来たボスに抜かされる。だから、いまのうちにたっぷりと引き離しておくんだ」
あの子凄い、って、ガソリンこそ凄いよ。
疑わず、信じて、前を向いていられるなんて。
わたしには、とても無理だ……
わたしには……
強くなんかないから。
ボスの強いところ、弱いところ、受け止めて、元気にしてあげるためにも、わたしたちは強くなければならないのに……
分かっているけど、でも、
強くなんて、なれないよ。
そもそも、なんでボスなの?
まだ小学生だというのに、
あんな病気になって、苦しまなければならないの? 生命を奪われる恐怖に怯えなければいけないの?
どうして……
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