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第十一章 至垂徳柳
02 渋い暖色系の調度品が、いくつか飾られている。狭く簡
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渋い暖色系の調度品が、いくつか飾られている。
狭く簡素で、高級というより上質を感じさせる、落ち着いた部屋。
天王台第三中学校の、校長室である。
牛頭の壁掛けの、すぐ下に、二十インチ強の薄型テレビがあり、画面には番組映像が流れている。
いわゆるワイドショーだ。
昨日に起きた、千葉県我孫子市内の女子中学生が死亡した事件についてを、取り上げている。
女子中学生は、野犬に顔や腹を食いちぎられて死亡。
場所は友人宅の前。
その友人は現在行方不明。
適当なことを偉そうに、もっともらしく語っている男女コメンテーターたち。
明木治奈、昭刃和美、令堂和咲、慶賀応芽、の四人は、テレビの前に肩を並べ、それぞれ顔に複雑な表情を浮かべて映像を見ている。
と、校長室のドアが開いた。
「ごめん、待たせちゃった。主な答弁は、須黒君に任せて、切り上げてきちゃった」
会見のため席を外していた、ゴリラ顔の樋口大介校長が、部屋の中に入ってきた。
口調こそ、いつも通りに軽く朗らかだが、その顔にいつもの笑みはない。
立って待っていた生徒たちに、応接用ソファに座るよう促すと、自分も部屋の奥にある肘掛け椅子に座った。
「異空との戦いの上で、ではないけれど、ついにうちからも、それ絡みの死者が出てしまったね」
腰を下ろしてからの、校長の第一声である。
アサキは、ちらり視線を左右に動かして仲間たちの顔を確認すると、ぼそり小さい声ながら、しかしはっきりと、詰問するかのような表情で尋ねた。
「以前に、校長はいいましたよね。ヴァイスタが魔法使いの成れの果てだなんて、噂だ、って」
なのに何故、と問うたのである。
問いを受けた校長は、一呼吸も置かず即答する。
「そうだよ。『魔法使い』を『魔法使い』と考えるのならね。だって、組織に登録されている人数と、関わりありそうな死亡者失踪者の人数とが、あまりに釣り合わないもの」
その言葉に反応して、治奈も口を開く。
「いずれにせよ、ヴァイスタは元人間なんだということが分かって、現在メンシュヴェルトの上層部は大騒ぎになってませんか?」
単純に、疑問の言葉を発しただけなのか。
ちくり棘で刺そうとしているのか。
はたまた純粋に、自分の所属する組織を心配しているのか。
治奈は、自分でも自分の気持ちを理解していないのかも知れない。というくらい、質問の言葉を吐く彼女の表情は、なんだか気が抜けてしまっていた。脱力感、悲壮感に満ちていた。
「いや実は……人間が成る、というのは分かってはいたんだ」
少女たちの表情に、一様に驚きの色が浮かんだ。
いや、よく見れば応芽だけが、あまり変化がないことが分かっただろうか。
「ただ、魔法魔力との関係が、まだはっきりしていない。先天的に強い者だけが対象なのか、魔法使いとして訓練で高めた場合はどうなのか、そもそも魔力はまったく関係ないのか。不確かな情報で、みんなをいたずらに煽って、不安にさせるわけにもいかないから、このことは一部の者しか知らないんだ。といわれて、面白くないかも知れないけど」
「はい、面白くはないですね。ほじゃけど、事情も分からなくはないので、責めるつもりもないですが」
治奈はつまらなそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「その言葉だけでも感謝だ。……真実はまだ未確認ながらも、でも君たちは目撃してしまった。ヴァイスタへと変じる魔法使いを。それが仲間、友達ともなれば、どんなに辛くショックなことか、鈍感なボクにも想像はつくつもり。だから……メンシュヴェルトから脱退するのは自由だよ。戦い続けてくれと強制は出来ない。もちろん、ヴァイスタのことや魔法使いとして活動した記憶は消させて貰うけど」
メンシュヴェルトからの脱退、つまり魔道着を着てヴァイスタと戦うことをやめて、そうした知識、記憶すらない、なにも知らない一般人に戻るということである。
「わたしは残ります」
アサキの、迷いのない言葉。
迷いのない顔。
「だって、ここで魔法使いであることをやめたら、ヴァイスタと戦うことをやめたら、これまで一体なんのために正香ちゃんと成葉ちゃんが頑張ってきたのか分からない」
それだけをいうと、また弱々しい表情に戻って俯いてしまった。
カズミが、弱々しいアサキの肩を軽く叩いた。
「あたしも同じ気持ちだよ。魔法使いが戦わなきゃあ、この世は終わりなわけだし、なんにもせずに滅びを待っていたら、アサキのいう通り正香たちがなんのために戦ってきたのか分かんねえもんな」
「ほうじゃね。もう降りるわけにはいけんね。世界を守ることも大切じゃけど、それ以上に、正香ちゃん成葉ちゃん二人のために」
あらためて決意を刻み込もうということか、治奈は言葉の最後をゆっくり力強くさせながら、ぐっと拳を握った。
「でもよ、なんだって絶望することでヴァイスタなんかになるんだろうな」
カズミがぼそり、疑問の言葉を発する。
すぐに、返答があった。
「これまで唱えられていた説ではな、ああ、説っちゅうても幾つかあるんやけど、『魔法使いの成れの果て』とする場合な」
疑問に応じるのは、応芽である。
「ヴァイスタが、犠牲者の絶望を使って、犠牲者の魂を闇に染め上げて、仲間を作る、といわれているんや。数を増やしたいんやな。魔法力の強い者ほど、深い絶望の果てには、より呪われた、強大なヴァイスタになる」
「魔法力が強いほど……」
「強大な、ヴァイスタに……」
アサキ、そして治奈が、応芽の発する言葉に引き込まれて、知らずぼそりと反芻していた。
「せや。しかし犠牲者の意思が強く、絶望しつつもヴァイスタになることを拒むなら、殺し食らって闇だけ取り込む。個体数は増えへんけど、食らったその個体は強くなるし、魔法使いという敵も減るわけで、『新しい世界』へとさらに近付きもするっちゅうわけや」
応芽はここで少し言葉を切り、二呼吸ほど置くと、また口を開いた。
「ただな、今回の件で、ヴァイスタがおらへんでもヴァイスタに成ることが分かったから、説の前提部分が色々と当てはまらなくはなるんやけど、でもこの説はこの説で、大枠としては間違ってはいない気がする」
「詳しいじゃんよ」
カズミが腕を組み、壁に背を預けながら、応芽を見ている。
少し下げた顔で、少し冷めた目を、垂れた前髪から覗かせて。
「まあ、小学生の頃から組織におったからな」
「ああ、そう」
気怠そうな表情を応芽へと向けたまま、カズミは、ふんと鼻を鳴らした。
「なんや」
その態度が気に触ったか、応芽は食い付いた。
食い付かれたカズミの反応は、早かった。
「昨日の、お前のこと、なんにも解決してねえんだけど」
睨む、というまでではないが、前髪の間から、鋭い眼光を応芽へと向けた。
「せやから、なにがや」
「いわないと分からない? お前が寝間着で慌てて走ってきて、間に合わなかった、とかいって悔しがってたことだよ。あの時、正香がヴァイスタと一緒にいたわけじゃねえし、それまではその説の通りと思っていたんなら、別に一秒一分争う話じゃなかったわけだろ」
ぎゅ、カズミは両の拳を強く握るが、手の中の汗が不快なのかすぐに手を広げ制服のスカートで拭った。
応芽はそんなカズミを見ながら、焦れったそうに軽く足を踏み鳴らすと、詰め寄るように、
「い、いつヴァイスタと接触するかも分からへんやろ! あんな憔悴した状態やから、無抵抗で闇を受け入れてしまうかも知れへん。それで急がな思っただけや。悪いんか」
「いや、人間がヴァイスタと接触せずともヴァイスタに成ること、お前、知ってたんじゃねえのか」
「そんなこと……その、あたしは……」
口ごもってしまう応芽。
無言になり、そのまま困ったように、なにかを考えている顔であったが、やがて、両の拳をぎゅっと握り、身体をぶるぶるっと震わせると、喜怒哀楽の先頭三つが混ざった顔で、怒鳴り声を張り上げた。
「し、し、知っとったわっ! ……正確にはっ、そうである可能性が高いということを……知っとった!」
「ウメちゃん、それ以上は駄目だ!」
校長が慌て立ち上がって、制止しようとする。
「ウメちゃん?」
こそっと疑問の言葉を呟くのは、治奈である。
誰のことも名字の後ろにさん付けで呼ぶ校長である、不思議に思うのも当然だろう。
「堪忍な、樋口のおっちゃん。もう黙ってられへんねん。白状するわ、隠しておったこと……」
いつもの上から目線の強気な表情はどこへやら、応芽は弱々しく、申し訳なさそうに肩を縮めてしまっている。
「隠してた、って……」
この唐突な展開に、アサキと治奈は、呆けたような顔になってしまっていた。
カズミは、意地になっているのか、腕を組み、応芽を睨み付ける態度表情を微塵も揺らがせない。釈明することあるならしてみろ、と強気な表情だ。
幾つかの呼吸を置いて、応芽は言葉を続ける。
「昭刃がごたごた抜かすからやないで。仲間やと思えばこそ、話すんや。……あたしはな、メンシュヴェルトの人間やないねん。リヒト、という別の組織所属の魔法使いなんや」
「リヒト?」
アサキの反芻に、応芽は小さく頷いた。
「大阪本部と東京支部だけの、小さな組織や。といっても元々は……」
「そこは、ぼくから説明するよ」
校長が、応芽の言葉を遮って、説明を始めた。
リヒトも、メンシュヴェルトと同様、ヴァイスタやザーヴェラーといった悪霊、異空からの驚異と戦い「新しい世界」の到来を阻止するための組織である。
元々は、メンシュヴェルトの関西研究所が分離独立したものだ。
考えあっての離脱ではあるが、主目的も細かな活動内容も同じであるため、共存共栄しており、また、現在のところ研究開発に関しては、合同出資した施設にて、共同で行っている。魔道着や武器を作り、テストをしたり、それらを戦場へと転送するインフラの整備開発だ。
リヒトとメンシュヴェルトの代表同士で、接触があるのかないのかは分からないが、その下である幹部たち同士は馴れ合っているところもあり、水面下で魔法使いを貸し借りすることもよく行われている。
義理であったり、打算であったり、理由は色々であろうが。
「武器を共同開発しておいて、大いなる矛盾なんだけど、ヴァイスタの研究成果に関しては守秘義務があって、お互いの情報交換は出来ないんだね。だから、ぼくも知らないことを、彼女が喋り出しちゃった時はびっくりした」
「堪忍な、樋口のおっちゃん」
応芽は済まなそうに、小さく頭を下げた。
「いや、もういいよ。……でもみんな、このことは絶対に黙っていてね。彼女がリヒトからきていることも、ヴァイスタは元人間という話も。組織同士の抗争になりかねないし、今後の関係が色々と窮屈になっちゃう。現在は、お互いの情報に干渉追求をしないルールによって、疑い合うことなく堂々としていられるのだから。……といっても末端の、つまり魔法使いの子たちには、こうして色々と隠すことにはなってしまうんだけどね」
なんといったらよいものか、といった感じに樋口校長はふーっとため息を吐いた。
少しだけ場に沈黙が訪れたが、すぐに治奈が口を開いた。
「リヒトという別組織があって、ウメちゃんがそっちの人間というのは分かったのじゃけど……校長がウメちゃんと呼んだのが、ちょっと気になるけえね」
先ほど、応芽の発言を止めようとした時に、慌てながらそう呼んでいる。
普段は、慶賀さんなのに。
誰のことも、そこに魔法使いしかいない場であっても、名字で呼んでいるのに。
「あたしの父親はリヒト幹部の一人でな、おっちゃん、樋口校長とは旧知の仲やねん。おっちゃんには、幼い頃によく遊んでもらったわ」
「ぼくは若い頃に関西で、慶賀要蔵君と一緒に、五年くらい背広組をやっていたからね。まだリヒトか出来るずっと前のことだけど」
校長が補足する。
「恥ずかしい話なんやけど、ついでやし白状するわ……あたしな、能力を買われてリヒトに入ったんやなく、単に幹部の娘やから、幼い頃から訓練生として参加させられていただけなんや。才能がないのか、訓練所で頑張ってもよう伸びんで」
自分でいう通り、少し恥ずかしげな顔で、鼻の頭を掻いた。
「まあ、そがいな気もしとったがの」
ちょっといいにくそうに、治奈が呟く。
「なんで……そう思った?」
「何故じゃろな。ウメちゃん、知識はとっても豊富なようなんじゃけど、戦闘ではそがい圧倒的にも感じなかったからなあ。自尊心だけは、さすがエリートと思っとったけど」
「傷をえぐることを平気で。明木って、意外と口が悪いな。……あたしの、双子の妹が、えらい優秀やったんや、いいとこ全部持ってかれたのかも知れへんなあ」
「ああ、妹さんがいるんだよね。前、写真を見せてくれたもんね」
アサキの言葉に、応芽は小さく頷いた。
「見せたんやなく、勝手に見られたんやけどな。とにかく、親が、おっちゃんとの縁があって、あたしはこっちに引き抜かれたんや。無期限レンタルみたいなもんやな。魔法使いは十代のうちだけやし、最後までこっちにおるかも知れん。……色々と、隠しとってすまんかったな」
応芽はそういうと、また小さく頭を下げた。
「なにいってるの。ウメちゃんは別に、謝らなければならないようなことは、なんにもしてないでしょ」
アサキは、昨日の今日で、まだ元気の回復していない弱々しい顔に、精一杯の微笑みを浮かべると、応芽の手を両手に取って、そっと握った。
「違う組織から、とか、ちょっと驚きはした。でも、同じ目的の仲間なんでしょ? 今は今で、わたしたちの大切な仲間。これからも一緒に、頑張ってこうよ」
「あ、ああ、よろしゅうな。な、なんか照れるな」
応芽はいったん手を離すと、自ら差し出して握り返した。
楽しい雰囲気、などでは、もちろんない。
まだ、悲劇の翌日なのだ。
でも、だからこそ、傷を舐め合っていたわけだが、こうして場が少し和み掛けたところに、冷水が浴びせられた。
「仲間とかいってさあ、隠し事をしてたじゃねえかよ」
カズミである。
腕を組み、壁に寄り掛かりながら、冷ややかな目で応芽を真っ直ぐ見つめている。
「昭刃……」
一瞬にして静まり返った空気の中、カズミの名を呼ぼうとする応芽であるが、その震える声をカズミが一刀両断した。
「あたしは、お前のいうことは信じない」
と。
大きくも、語気強くもないが、冷たく、きっぱりとした言葉で。
そのまま彼女は言葉を続ける。
「仲間だって思っているなら、さっきの話、隠すほどのものか? 他になにかを隠していて、疑われそうになったから小出しにしてるんだろ。一番知られたくないこと、隠すために。違うか?」
「ちょ、ちょっとカズミちゃん、いい過ぎだよ! ウメちゃんだってきっと……」
アサキが、カズミへと顔を寄せた。
穏便に済ませたいのか、顔は笑顔だが、語調の中に、苛立ちや困惑が、はっきりと滲み出ていた。
それ以上に、苛立っているのはカズミであったが。
「いい過ぎじゃねえよ! リヒトとやらの研究で、ヴァイスタ化のこと色々と知ってたんなら、もしも話してくれていれば、正香のこと助けられたかも知れねえ。そこを黙ってて、なにが仲間だよ! 正香と成葉が死んだの、こいつのせいじゃねえかよ!」
「カズミちゃん、いい加減にしないと、わたし怒るよ」
「怒りゃいいだろ。泣き虫ヘタレ女が怒ったからなんだってんだよ。ウメも、ほら、なんとかいってみろよ。どうせまだ、なんか隠してんだろ」
「カズミちゃん!」
アサキが、珍しく声を激しく荒らげた、その時である。
「その通りや!」
応芽が、裏返った大声を張り上げたのは。
だけどすぐに、弱々しい声になって、
「その……通りや」
同じ言葉を、繰り返した。
「……確かにあたしは、一つ、大きな秘密を持っとる。でもそれは、リヒトとしてやない。慶賀応芽、個人としての秘密や。……かなえたい、夢があるんや。どうしても、やり遂げたいことがあるんや」
「かなえたい……夢?」
アサキが小さい声で繰り返すと、応芽は小さく頷いた。
応芽は、カズミにじっと冷たい目で睨まれながら、言葉を続ける。
「なんなのかは、いえへん。実は、お前らにも大いに関係あることや。でも、いえへん」
「わたしたちにも……」
また、アサキが小さな声で繰り返し、応芽が小さく頷いた。
「……かなえるには、ちょっと無茶な夢でな、でもかなえたい。周囲にどんな犠牲が出ようとも知るか。って、これまでは、ずっと、そう考えていたんや」
ひと呼吸置いて、応芽は続ける。
「でもな、今は違う。無茶をせず、誰にも迷惑を掛けずに夢をかなえる方法、考えとる。お前らが、好きやから。……お前らが、頑なやったあたしを変えたんや。それが強くなったということか、弱くなったということか、自分でも分からへんのやけどな」
「ウメちゃん……」
ちょっとくすぐったい顔で、応芽を見つめるアサキ。
なにか、悪くないものが、この場に生じ掛けていた。
だが、またしてもカズミが冷水をぶっ掛けた。
「どうでもいいよそんな話」
そのような冷たい一言、冷たい表情で、応芽の気持ちを、容赦なく突っぱねたのである。
一歩出て、応芽へと凄んだ顔を寄せると、ドスのきいた声を絞り出した。
「なんか邪魔しようってんなら、してみろよ。容赦なくぶっ飛ばす。最悪、殺し合いになるかも知れねえけど、その覚悟がてめえにあんなら、いつでもかかってきな」
それだけいうと、凄んだ顔を少し和らげる。
でもそれは、応芽への態度の軟化でもなんでもなかった。
「校長、話まだあんのかも知れないけど、あたしもう行きます。治奈とアサキも、ごめんな、あたし葬儀用の服なんか持ってねえから、なんか買っとかねえとさ。制服も考えたけど、擦り切れてボロボロだしさあ」
ははっ、と乾いた笑い声を出して、ドアへと向かうカズミへと、応芽が、もどかしそうな顔で呼び掛ける。
「あ、昭刃っ、あたしはっ、昭刃のこと……昭刃のことっ、大事な、た、大切な仲間やと思っとる!」
「もうこっちは思ってねえよ。じゃあな」
少し振り返って、半身で応芽へと冷ややかな視線を向け、微かに鼻を鳴らすと、部屋を出て、ドアも閉じずに足音荒く去っていった。
残った部屋を支配するのは、誰でもなくただ静寂であったが、やがて、アサキが、呆然とした顔をなんとか変化させて、わずかではあるが笑みを浮かべた。
「ごめん、ウメちゃん」
そういうと、応芽の身体をそっと抱き締めた。
「……なんで自分が謝るんや」
応芽は、アサキの身体に顔を隠すようにして、ずっと鼻をすすった。
「あ、ごめんね。……きっとね、カズミちゃんは、ただ気が立ってるだけだよ。昨日のことで、カズミちゃんだってまともに寝てないのだろうし。わたしは、さっきのウメちゃんの言葉を信じるし、カズミちゃんもきっと分かってくれる。大丈夫。大丈夫だから」
「ほんま優しいなあ、令堂は。どうしたら、そないなれるん」
応芽は、アサキの腕の中で、くぐもった弱い声を出すと、それきり、抱き締められるまま、いつまでも儚く身体を震わせていた。
狭く簡素で、高級というより上質を感じさせる、落ち着いた部屋。
天王台第三中学校の、校長室である。
牛頭の壁掛けの、すぐ下に、二十インチ強の薄型テレビがあり、画面には番組映像が流れている。
いわゆるワイドショーだ。
昨日に起きた、千葉県我孫子市内の女子中学生が死亡した事件についてを、取り上げている。
女子中学生は、野犬に顔や腹を食いちぎられて死亡。
場所は友人宅の前。
その友人は現在行方不明。
適当なことを偉そうに、もっともらしく語っている男女コメンテーターたち。
明木治奈、昭刃和美、令堂和咲、慶賀応芽、の四人は、テレビの前に肩を並べ、それぞれ顔に複雑な表情を浮かべて映像を見ている。
と、校長室のドアが開いた。
「ごめん、待たせちゃった。主な答弁は、須黒君に任せて、切り上げてきちゃった」
会見のため席を外していた、ゴリラ顔の樋口大介校長が、部屋の中に入ってきた。
口調こそ、いつも通りに軽く朗らかだが、その顔にいつもの笑みはない。
立って待っていた生徒たちに、応接用ソファに座るよう促すと、自分も部屋の奥にある肘掛け椅子に座った。
「異空との戦いの上で、ではないけれど、ついにうちからも、それ絡みの死者が出てしまったね」
腰を下ろしてからの、校長の第一声である。
アサキは、ちらり視線を左右に動かして仲間たちの顔を確認すると、ぼそり小さい声ながら、しかしはっきりと、詰問するかのような表情で尋ねた。
「以前に、校長はいいましたよね。ヴァイスタが魔法使いの成れの果てだなんて、噂だ、って」
なのに何故、と問うたのである。
問いを受けた校長は、一呼吸も置かず即答する。
「そうだよ。『魔法使い』を『魔法使い』と考えるのならね。だって、組織に登録されている人数と、関わりありそうな死亡者失踪者の人数とが、あまりに釣り合わないもの」
その言葉に反応して、治奈も口を開く。
「いずれにせよ、ヴァイスタは元人間なんだということが分かって、現在メンシュヴェルトの上層部は大騒ぎになってませんか?」
単純に、疑問の言葉を発しただけなのか。
ちくり棘で刺そうとしているのか。
はたまた純粋に、自分の所属する組織を心配しているのか。
治奈は、自分でも自分の気持ちを理解していないのかも知れない。というくらい、質問の言葉を吐く彼女の表情は、なんだか気が抜けてしまっていた。脱力感、悲壮感に満ちていた。
「いや実は……人間が成る、というのは分かってはいたんだ」
少女たちの表情に、一様に驚きの色が浮かんだ。
いや、よく見れば応芽だけが、あまり変化がないことが分かっただろうか。
「ただ、魔法魔力との関係が、まだはっきりしていない。先天的に強い者だけが対象なのか、魔法使いとして訓練で高めた場合はどうなのか、そもそも魔力はまったく関係ないのか。不確かな情報で、みんなをいたずらに煽って、不安にさせるわけにもいかないから、このことは一部の者しか知らないんだ。といわれて、面白くないかも知れないけど」
「はい、面白くはないですね。ほじゃけど、事情も分からなくはないので、責めるつもりもないですが」
治奈はつまらなそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「その言葉だけでも感謝だ。……真実はまだ未確認ながらも、でも君たちは目撃してしまった。ヴァイスタへと変じる魔法使いを。それが仲間、友達ともなれば、どんなに辛くショックなことか、鈍感なボクにも想像はつくつもり。だから……メンシュヴェルトから脱退するのは自由だよ。戦い続けてくれと強制は出来ない。もちろん、ヴァイスタのことや魔法使いとして活動した記憶は消させて貰うけど」
メンシュヴェルトからの脱退、つまり魔道着を着てヴァイスタと戦うことをやめて、そうした知識、記憶すらない、なにも知らない一般人に戻るということである。
「わたしは残ります」
アサキの、迷いのない言葉。
迷いのない顔。
「だって、ここで魔法使いであることをやめたら、ヴァイスタと戦うことをやめたら、これまで一体なんのために正香ちゃんと成葉ちゃんが頑張ってきたのか分からない」
それだけをいうと、また弱々しい表情に戻って俯いてしまった。
カズミが、弱々しいアサキの肩を軽く叩いた。
「あたしも同じ気持ちだよ。魔法使いが戦わなきゃあ、この世は終わりなわけだし、なんにもせずに滅びを待っていたら、アサキのいう通り正香たちがなんのために戦ってきたのか分かんねえもんな」
「ほうじゃね。もう降りるわけにはいけんね。世界を守ることも大切じゃけど、それ以上に、正香ちゃん成葉ちゃん二人のために」
あらためて決意を刻み込もうということか、治奈は言葉の最後をゆっくり力強くさせながら、ぐっと拳を握った。
「でもよ、なんだって絶望することでヴァイスタなんかになるんだろうな」
カズミがぼそり、疑問の言葉を発する。
すぐに、返答があった。
「これまで唱えられていた説ではな、ああ、説っちゅうても幾つかあるんやけど、『魔法使いの成れの果て』とする場合な」
疑問に応じるのは、応芽である。
「ヴァイスタが、犠牲者の絶望を使って、犠牲者の魂を闇に染め上げて、仲間を作る、といわれているんや。数を増やしたいんやな。魔法力の強い者ほど、深い絶望の果てには、より呪われた、強大なヴァイスタになる」
「魔法力が強いほど……」
「強大な、ヴァイスタに……」
アサキ、そして治奈が、応芽の発する言葉に引き込まれて、知らずぼそりと反芻していた。
「せや。しかし犠牲者の意思が強く、絶望しつつもヴァイスタになることを拒むなら、殺し食らって闇だけ取り込む。個体数は増えへんけど、食らったその個体は強くなるし、魔法使いという敵も減るわけで、『新しい世界』へとさらに近付きもするっちゅうわけや」
応芽はここで少し言葉を切り、二呼吸ほど置くと、また口を開いた。
「ただな、今回の件で、ヴァイスタがおらへんでもヴァイスタに成ることが分かったから、説の前提部分が色々と当てはまらなくはなるんやけど、でもこの説はこの説で、大枠としては間違ってはいない気がする」
「詳しいじゃんよ」
カズミが腕を組み、壁に背を預けながら、応芽を見ている。
少し下げた顔で、少し冷めた目を、垂れた前髪から覗かせて。
「まあ、小学生の頃から組織におったからな」
「ああ、そう」
気怠そうな表情を応芽へと向けたまま、カズミは、ふんと鼻を鳴らした。
「なんや」
その態度が気に触ったか、応芽は食い付いた。
食い付かれたカズミの反応は、早かった。
「昨日の、お前のこと、なんにも解決してねえんだけど」
睨む、というまでではないが、前髪の間から、鋭い眼光を応芽へと向けた。
「せやから、なにがや」
「いわないと分からない? お前が寝間着で慌てて走ってきて、間に合わなかった、とかいって悔しがってたことだよ。あの時、正香がヴァイスタと一緒にいたわけじゃねえし、それまではその説の通りと思っていたんなら、別に一秒一分争う話じゃなかったわけだろ」
ぎゅ、カズミは両の拳を強く握るが、手の中の汗が不快なのかすぐに手を広げ制服のスカートで拭った。
応芽はそんなカズミを見ながら、焦れったそうに軽く足を踏み鳴らすと、詰め寄るように、
「い、いつヴァイスタと接触するかも分からへんやろ! あんな憔悴した状態やから、無抵抗で闇を受け入れてしまうかも知れへん。それで急がな思っただけや。悪いんか」
「いや、人間がヴァイスタと接触せずともヴァイスタに成ること、お前、知ってたんじゃねえのか」
「そんなこと……その、あたしは……」
口ごもってしまう応芽。
無言になり、そのまま困ったように、なにかを考えている顔であったが、やがて、両の拳をぎゅっと握り、身体をぶるぶるっと震わせると、喜怒哀楽の先頭三つが混ざった顔で、怒鳴り声を張り上げた。
「し、し、知っとったわっ! ……正確にはっ、そうである可能性が高いということを……知っとった!」
「ウメちゃん、それ以上は駄目だ!」
校長が慌て立ち上がって、制止しようとする。
「ウメちゃん?」
こそっと疑問の言葉を呟くのは、治奈である。
誰のことも名字の後ろにさん付けで呼ぶ校長である、不思議に思うのも当然だろう。
「堪忍な、樋口のおっちゃん。もう黙ってられへんねん。白状するわ、隠しておったこと……」
いつもの上から目線の強気な表情はどこへやら、応芽は弱々しく、申し訳なさそうに肩を縮めてしまっている。
「隠してた、って……」
この唐突な展開に、アサキと治奈は、呆けたような顔になってしまっていた。
カズミは、意地になっているのか、腕を組み、応芽を睨み付ける態度表情を微塵も揺らがせない。釈明することあるならしてみろ、と強気な表情だ。
幾つかの呼吸を置いて、応芽は言葉を続ける。
「昭刃がごたごた抜かすからやないで。仲間やと思えばこそ、話すんや。……あたしはな、メンシュヴェルトの人間やないねん。リヒト、という別の組織所属の魔法使いなんや」
「リヒト?」
アサキの反芻に、応芽は小さく頷いた。
「大阪本部と東京支部だけの、小さな組織や。といっても元々は……」
「そこは、ぼくから説明するよ」
校長が、応芽の言葉を遮って、説明を始めた。
リヒトも、メンシュヴェルトと同様、ヴァイスタやザーヴェラーといった悪霊、異空からの驚異と戦い「新しい世界」の到来を阻止するための組織である。
元々は、メンシュヴェルトの関西研究所が分離独立したものだ。
考えあっての離脱ではあるが、主目的も細かな活動内容も同じであるため、共存共栄しており、また、現在のところ研究開発に関しては、合同出資した施設にて、共同で行っている。魔道着や武器を作り、テストをしたり、それらを戦場へと転送するインフラの整備開発だ。
リヒトとメンシュヴェルトの代表同士で、接触があるのかないのかは分からないが、その下である幹部たち同士は馴れ合っているところもあり、水面下で魔法使いを貸し借りすることもよく行われている。
義理であったり、打算であったり、理由は色々であろうが。
「武器を共同開発しておいて、大いなる矛盾なんだけど、ヴァイスタの研究成果に関しては守秘義務があって、お互いの情報交換は出来ないんだね。だから、ぼくも知らないことを、彼女が喋り出しちゃった時はびっくりした」
「堪忍な、樋口のおっちゃん」
応芽は済まなそうに、小さく頭を下げた。
「いや、もういいよ。……でもみんな、このことは絶対に黙っていてね。彼女がリヒトからきていることも、ヴァイスタは元人間という話も。組織同士の抗争になりかねないし、今後の関係が色々と窮屈になっちゃう。現在は、お互いの情報に干渉追求をしないルールによって、疑い合うことなく堂々としていられるのだから。……といっても末端の、つまり魔法使いの子たちには、こうして色々と隠すことにはなってしまうんだけどね」
なんといったらよいものか、といった感じに樋口校長はふーっとため息を吐いた。
少しだけ場に沈黙が訪れたが、すぐに治奈が口を開いた。
「リヒトという別組織があって、ウメちゃんがそっちの人間というのは分かったのじゃけど……校長がウメちゃんと呼んだのが、ちょっと気になるけえね」
先ほど、応芽の発言を止めようとした時に、慌てながらそう呼んでいる。
普段は、慶賀さんなのに。
誰のことも、そこに魔法使いしかいない場であっても、名字で呼んでいるのに。
「あたしの父親はリヒト幹部の一人でな、おっちゃん、樋口校長とは旧知の仲やねん。おっちゃんには、幼い頃によく遊んでもらったわ」
「ぼくは若い頃に関西で、慶賀要蔵君と一緒に、五年くらい背広組をやっていたからね。まだリヒトか出来るずっと前のことだけど」
校長が補足する。
「恥ずかしい話なんやけど、ついでやし白状するわ……あたしな、能力を買われてリヒトに入ったんやなく、単に幹部の娘やから、幼い頃から訓練生として参加させられていただけなんや。才能がないのか、訓練所で頑張ってもよう伸びんで」
自分でいう通り、少し恥ずかしげな顔で、鼻の頭を掻いた。
「まあ、そがいな気もしとったがの」
ちょっといいにくそうに、治奈が呟く。
「なんで……そう思った?」
「何故じゃろな。ウメちゃん、知識はとっても豊富なようなんじゃけど、戦闘ではそがい圧倒的にも感じなかったからなあ。自尊心だけは、さすがエリートと思っとったけど」
「傷をえぐることを平気で。明木って、意外と口が悪いな。……あたしの、双子の妹が、えらい優秀やったんや、いいとこ全部持ってかれたのかも知れへんなあ」
「ああ、妹さんがいるんだよね。前、写真を見せてくれたもんね」
アサキの言葉に、応芽は小さく頷いた。
「見せたんやなく、勝手に見られたんやけどな。とにかく、親が、おっちゃんとの縁があって、あたしはこっちに引き抜かれたんや。無期限レンタルみたいなもんやな。魔法使いは十代のうちだけやし、最後までこっちにおるかも知れん。……色々と、隠しとってすまんかったな」
応芽はそういうと、また小さく頭を下げた。
「なにいってるの。ウメちゃんは別に、謝らなければならないようなことは、なんにもしてないでしょ」
アサキは、昨日の今日で、まだ元気の回復していない弱々しい顔に、精一杯の微笑みを浮かべると、応芽の手を両手に取って、そっと握った。
「違う組織から、とか、ちょっと驚きはした。でも、同じ目的の仲間なんでしょ? 今は今で、わたしたちの大切な仲間。これからも一緒に、頑張ってこうよ」
「あ、ああ、よろしゅうな。な、なんか照れるな」
応芽はいったん手を離すと、自ら差し出して握り返した。
楽しい雰囲気、などでは、もちろんない。
まだ、悲劇の翌日なのだ。
でも、だからこそ、傷を舐め合っていたわけだが、こうして場が少し和み掛けたところに、冷水が浴びせられた。
「仲間とかいってさあ、隠し事をしてたじゃねえかよ」
カズミである。
腕を組み、壁に寄り掛かりながら、冷ややかな目で応芽を真っ直ぐ見つめている。
「昭刃……」
一瞬にして静まり返った空気の中、カズミの名を呼ぼうとする応芽であるが、その震える声をカズミが一刀両断した。
「あたしは、お前のいうことは信じない」
と。
大きくも、語気強くもないが、冷たく、きっぱりとした言葉で。
そのまま彼女は言葉を続ける。
「仲間だって思っているなら、さっきの話、隠すほどのものか? 他になにかを隠していて、疑われそうになったから小出しにしてるんだろ。一番知られたくないこと、隠すために。違うか?」
「ちょ、ちょっとカズミちゃん、いい過ぎだよ! ウメちゃんだってきっと……」
アサキが、カズミへと顔を寄せた。
穏便に済ませたいのか、顔は笑顔だが、語調の中に、苛立ちや困惑が、はっきりと滲み出ていた。
それ以上に、苛立っているのはカズミであったが。
「いい過ぎじゃねえよ! リヒトとやらの研究で、ヴァイスタ化のこと色々と知ってたんなら、もしも話してくれていれば、正香のこと助けられたかも知れねえ。そこを黙ってて、なにが仲間だよ! 正香と成葉が死んだの、こいつのせいじゃねえかよ!」
「カズミちゃん、いい加減にしないと、わたし怒るよ」
「怒りゃいいだろ。泣き虫ヘタレ女が怒ったからなんだってんだよ。ウメも、ほら、なんとかいってみろよ。どうせまだ、なんか隠してんだろ」
「カズミちゃん!」
アサキが、珍しく声を激しく荒らげた、その時である。
「その通りや!」
応芽が、裏返った大声を張り上げたのは。
だけどすぐに、弱々しい声になって、
「その……通りや」
同じ言葉を、繰り返した。
「……確かにあたしは、一つ、大きな秘密を持っとる。でもそれは、リヒトとしてやない。慶賀応芽、個人としての秘密や。……かなえたい、夢があるんや。どうしても、やり遂げたいことがあるんや」
「かなえたい……夢?」
アサキが小さい声で繰り返すと、応芽は小さく頷いた。
応芽は、カズミにじっと冷たい目で睨まれながら、言葉を続ける。
「なんなのかは、いえへん。実は、お前らにも大いに関係あることや。でも、いえへん」
「わたしたちにも……」
また、アサキが小さな声で繰り返し、応芽が小さく頷いた。
「……かなえるには、ちょっと無茶な夢でな、でもかなえたい。周囲にどんな犠牲が出ようとも知るか。って、これまでは、ずっと、そう考えていたんや」
ひと呼吸置いて、応芽は続ける。
「でもな、今は違う。無茶をせず、誰にも迷惑を掛けずに夢をかなえる方法、考えとる。お前らが、好きやから。……お前らが、頑なやったあたしを変えたんや。それが強くなったということか、弱くなったということか、自分でも分からへんのやけどな」
「ウメちゃん……」
ちょっとくすぐったい顔で、応芽を見つめるアサキ。
なにか、悪くないものが、この場に生じ掛けていた。
だが、またしてもカズミが冷水をぶっ掛けた。
「どうでもいいよそんな話」
そのような冷たい一言、冷たい表情で、応芽の気持ちを、容赦なく突っぱねたのである。
一歩出て、応芽へと凄んだ顔を寄せると、ドスのきいた声を絞り出した。
「なんか邪魔しようってんなら、してみろよ。容赦なくぶっ飛ばす。最悪、殺し合いになるかも知れねえけど、その覚悟がてめえにあんなら、いつでもかかってきな」
それだけいうと、凄んだ顔を少し和らげる。
でもそれは、応芽への態度の軟化でもなんでもなかった。
「校長、話まだあんのかも知れないけど、あたしもう行きます。治奈とアサキも、ごめんな、あたし葬儀用の服なんか持ってねえから、なんか買っとかねえとさ。制服も考えたけど、擦り切れてボロボロだしさあ」
ははっ、と乾いた笑い声を出して、ドアへと向かうカズミへと、応芽が、もどかしそうな顔で呼び掛ける。
「あ、昭刃っ、あたしはっ、昭刃のこと……昭刃のことっ、大事な、た、大切な仲間やと思っとる!」
「もうこっちは思ってねえよ。じゃあな」
少し振り返って、半身で応芽へと冷ややかな視線を向け、微かに鼻を鳴らすと、部屋を出て、ドアも閉じずに足音荒く去っていった。
残った部屋を支配するのは、誰でもなくただ静寂であったが、やがて、アサキが、呆然とした顔をなんとか変化させて、わずかではあるが笑みを浮かべた。
「ごめん、ウメちゃん」
そういうと、応芽の身体をそっと抱き締めた。
「……なんで自分が謝るんや」
応芽は、アサキの身体に顔を隠すようにして、ずっと鼻をすすった。
「あ、ごめんね。……きっとね、カズミちゃんは、ただ気が立ってるだけだよ。昨日のことで、カズミちゃんだってまともに寝てないのだろうし。わたしは、さっきのウメちゃんの言葉を信じるし、カズミちゃんもきっと分かってくれる。大丈夫。大丈夫だから」
「ほんま優しいなあ、令堂は。どうしたら、そないなれるん」
応芽は、アサキの腕の中で、くぐもった弱い声を出すと、それきり、抱き締められるまま、いつまでも儚く身体を震わせていた。
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