29 / 63
第四話 boy's side 『被虐と加虐』
3-5 恐怖
しおりを挟む
やがて、矢野は声すらあげなくなった。
やりすぎたことを自覚して手を離すと、しかし矢野が再び息をすることはなかった。
おかしい。
死ぬなよ。
なんで死んでるんだよ。死なれたら。
死なれたら困る。
どうしようどうしようどうしよう。
ああそうだ、隠そう。隠さなきゃ。この死体を。この事実を。
急に思い立って、動かない身体を抱き上げた。矢野の細い身体は、意外なほどに重い。恐る恐る覗き込むと、飾り気のない中性的な顔が、苦しそうに涙を称えたまま固まっていた。想像していたほど顔面へのダメージがなかったことに、少し安心する。
足を引きずって壁際まで運び、校舎の外壁にもたれかけさせる。途中で脱げてしまった黄色いスニーカーを無理やり履かせてやって、とりあえずその場を後にした。
昇降口まで引き返して、そこの水道で手と顔を洗う。
さて、ここからだ。ここから、いったいどうしたら良いのだろうか。どうすれば隠せるのだろうか。
部活動もほとんどが終わっている校内はとても静かで、どうやらまだ矢野の死体は見つかっていないようだった。校舎から出ていく学生たちはおれのことを特に気にする様子もなく、校門へと向かっていく。
平和だ。
何もおかしなことがない。全てが嘘だったような、そんな気さえする。
矢野は死んでなんかいないし、南川はおれのことを殴ってなんかいないし、なんなら、部活前の出来事だって嘘だ。
ああ、本当に、そうだったら良いのに。
これから、どうしよう。
ざり。
嫌な音。靴底が砂と擦れる音。反射的に音のした方へ目を向けると、小柄な女子生徒がこちらを見ていた。
ショートボブに眼鏡をかけた、とても大人しそうな少女だった。
彼女はおれを見て、何やら真っ青な顔をしている。
困惑したような、怯えたような。その顔は、人殺しでも見るような目。今から帰るところだったのだろうか、彼女は目が合うと、弾かれたように顔を背けて靴を脱ぎ、校舎内に戻ろうとした。
どうして。
考えるよりも先に、足が彼女を追っていた。
どうして、知っているんだ。
眼鏡の女子生徒はおれが付けていることをすぐに察したようで、後ろを見ることもなく駆け出した。
あれは、もう、完全に知っている。どうしてかは分からないけれど、あの女はおれが人殺しだということを知っている。どうにかしないと。
あいつも、殺してしまおうか。
恐ろしい考えが頭をよぎる。でも、殺人がばれることの方がずっと怖い。
彼女の足は見た目通りに遅くて、階段を上り、渡り廊下の半ばまで追いかけたところで、おれは腕一本分の距離にまで追いついた。
足を止めるべく、勢いよく腕を振りつける。小さな背中は幸運にもそれを紙一重のところで交わし、逃走を続ける。もう一度、今度は両腕で掴みかかると、彼女はまるでそれが見えているかのように身を低くしてすり抜けた。
「なんなんだよ」
思わず声に出る。早く捕まえないといけないのに。それから何度も攻撃を交わされながら追い続けると、ようやく行き止まりに辿り着いた。
暗い、一階の端のようだ。左手に保健室があるけれど、どうやらもうそこには誰もいないらしく、パソコンの電源ランプだけが暗闇の中で静かに明滅を繰り返している。
残念だったな。心の底から残虐な気分になりながら、追い詰められたか弱い少女に一歩ずつ近づいていく。保健室に逃げ込もうとしたのなら、なんて可哀想なんだろう。
「助けて!」
初めて声を聞く。悲鳴だというのに、なんてか細い声なんだろう。
眼鏡の女子生徒は相変わらず真っ青な顔をしながら、何もない壁をどんどんと叩いた。
いや、違う。そこにドアがあるんだ。
上を見ると、他の教室と同じように、何か札がかかっている。けれども、そこに書かれている文字までは、暗くて読み取ることができなかった。
やばいな。もし、ここに誰かがいたらどうしよう。
焦りながらも、目的を果たすために華奢な身体へ手を伸ばす。
ドアが開く様子はない――ように見える。
ドアの向こうに気配はない――ように思える。
手が、届きそうになる。
哀れな少女はもう一度、助けてと叫んだ。
やりすぎたことを自覚して手を離すと、しかし矢野が再び息をすることはなかった。
おかしい。
死ぬなよ。
なんで死んでるんだよ。死なれたら。
死なれたら困る。
どうしようどうしようどうしよう。
ああそうだ、隠そう。隠さなきゃ。この死体を。この事実を。
急に思い立って、動かない身体を抱き上げた。矢野の細い身体は、意外なほどに重い。恐る恐る覗き込むと、飾り気のない中性的な顔が、苦しそうに涙を称えたまま固まっていた。想像していたほど顔面へのダメージがなかったことに、少し安心する。
足を引きずって壁際まで運び、校舎の外壁にもたれかけさせる。途中で脱げてしまった黄色いスニーカーを無理やり履かせてやって、とりあえずその場を後にした。
昇降口まで引き返して、そこの水道で手と顔を洗う。
さて、ここからだ。ここから、いったいどうしたら良いのだろうか。どうすれば隠せるのだろうか。
部活動もほとんどが終わっている校内はとても静かで、どうやらまだ矢野の死体は見つかっていないようだった。校舎から出ていく学生たちはおれのことを特に気にする様子もなく、校門へと向かっていく。
平和だ。
何もおかしなことがない。全てが嘘だったような、そんな気さえする。
矢野は死んでなんかいないし、南川はおれのことを殴ってなんかいないし、なんなら、部活前の出来事だって嘘だ。
ああ、本当に、そうだったら良いのに。
これから、どうしよう。
ざり。
嫌な音。靴底が砂と擦れる音。反射的に音のした方へ目を向けると、小柄な女子生徒がこちらを見ていた。
ショートボブに眼鏡をかけた、とても大人しそうな少女だった。
彼女はおれを見て、何やら真っ青な顔をしている。
困惑したような、怯えたような。その顔は、人殺しでも見るような目。今から帰るところだったのだろうか、彼女は目が合うと、弾かれたように顔を背けて靴を脱ぎ、校舎内に戻ろうとした。
どうして。
考えるよりも先に、足が彼女を追っていた。
どうして、知っているんだ。
眼鏡の女子生徒はおれが付けていることをすぐに察したようで、後ろを見ることもなく駆け出した。
あれは、もう、完全に知っている。どうしてかは分からないけれど、あの女はおれが人殺しだということを知っている。どうにかしないと。
あいつも、殺してしまおうか。
恐ろしい考えが頭をよぎる。でも、殺人がばれることの方がずっと怖い。
彼女の足は見た目通りに遅くて、階段を上り、渡り廊下の半ばまで追いかけたところで、おれは腕一本分の距離にまで追いついた。
足を止めるべく、勢いよく腕を振りつける。小さな背中は幸運にもそれを紙一重のところで交わし、逃走を続ける。もう一度、今度は両腕で掴みかかると、彼女はまるでそれが見えているかのように身を低くしてすり抜けた。
「なんなんだよ」
思わず声に出る。早く捕まえないといけないのに。それから何度も攻撃を交わされながら追い続けると、ようやく行き止まりに辿り着いた。
暗い、一階の端のようだ。左手に保健室があるけれど、どうやらもうそこには誰もいないらしく、パソコンの電源ランプだけが暗闇の中で静かに明滅を繰り返している。
残念だったな。心の底から残虐な気分になりながら、追い詰められたか弱い少女に一歩ずつ近づいていく。保健室に逃げ込もうとしたのなら、なんて可哀想なんだろう。
「助けて!」
初めて声を聞く。悲鳴だというのに、なんてか細い声なんだろう。
眼鏡の女子生徒は相変わらず真っ青な顔をしながら、何もない壁をどんどんと叩いた。
いや、違う。そこにドアがあるんだ。
上を見ると、他の教室と同じように、何か札がかかっている。けれども、そこに書かれている文字までは、暗くて読み取ることができなかった。
やばいな。もし、ここに誰かがいたらどうしよう。
焦りながらも、目的を果たすために華奢な身体へ手を伸ばす。
ドアが開く様子はない――ように見える。
ドアの向こうに気配はない――ように思える。
手が、届きそうになる。
哀れな少女はもう一度、助けてと叫んだ。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる