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第一話 C side
タクシーにて ②
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「有名なんですか」
「有名、とは」
「出るっていうことですよね、さっきの場所」
和やかになりかけた空気が、一転して静まり返る。
直前まで笑みを浮かべていたチヒロの視線は話し相手である運転手ではなく、黙々と後退していく白線に向けられていた。
焦点を変えて窓に映った自分と目を合わせ、顔にかかっていた髪を耳の後ろに避ける。
障害物を取り除くと、窓に映る女がいかに疲れた顔をしているのかがよく分かった。
「一昔前までは」
ひときわ強調するようにして、発音の良い声が車内に響いた。
チヒロが声のした方を見やると、運転手は満足そうにして再び一昔前までなんですけどね、と繰り返した。
「あの通りは、知る人ぞ知る心霊スポットだったのだそうです」
赤信号に差しかかり、運転手がブレーキを踏んだ。
乱暴なエンジン音を響かせて、一台のセダンが交差点を高速で横切って行く。
「怪談話としては陳腐な話で、本当にあった出来事なのかどうか、正直なところ私は知らないんですけどね。ほら、お嬢さんの乗ってこられたあの通りは、長い一本道になっているでしょう。そして、横断歩道は両端に一つずつしかありませんよね。ある時、小さな女の子がその道の半ばでーーもちろん横断歩道なんてないのですが、反対側に渡ろうとして、不幸にもその時突っ込んできた車に」
轢かれて、亡くなってしまったのだそうです。
運転手がそう言ったのか、チヒロが頭の中で勝手にそう再生したのか。
青信号に変わり再び動きだしたやけに大人しい町並みのせいで、それはなんだか曖昧になってしまった。
「それ以来」
そこまで話したところで、運転手は不意に、おっと、といかにも調子はずれな声を発して、人の良さそうな笑顔を作った。
そこでチヒロは初めて、彼が怪談話を口にする際に声のトーンを落としていたのだということに気がついた。
「ところで、あの道へはよく行かれるのですか」
チヒロはお預けを食らったような心持ではい、と答えた後、まあ、と小声でつけ加える。
自宅から近い場所でもなく、また大きな通りから外れたあの道を、チヒロ自身が自らの判断で利用したことがあるのかといえば、そんなことはただの一度もないのだった。
暗くなると静まり返る、街灯も乏しいあの一本道は、チヒロではなく彼女が職場で知り合った恋人のお気に入りなのだ。
いくら見渡したところで気の利いた夜景のひとつも見えない、飲料の自動販売機がぽつりと設置されているだけの、地味で寂しい一本道。
仕事帰りに恋人の車に乗せられることの多いチヒロは、彼に連れられて帰宅路の一部であるその一本道に何をするでもなくーー強いて言うならば自動販売機でジュースやコーヒーを買うためにーー幾度も立ち寄っている。
良くも悪くも、それだけの場所である。
「でしたら」
窓の外には親しみのある景色が流れている。目的地は近い。
「こんな話は、しない方が良かったですかねえ」
バックミラーに映る運転手の目尻には、メイク道具で描いたかのようなしっかりとしたしわが集まっていた。
笑みを浮かべているように見えるが、それが気楽な笑みであるのか苦笑であるのかは判別できない。
「そんな、今更」
つられて笑みを浮かべたチヒロも、それがどんな類の笑みであるのかを自身で判別することができなかった。
「ああ、でもね、安心してください」
「どうして」
「言ったでしょう。一昔前までは、って」
前髪に触れながら、ああ、と小さく声を漏らす。
まだあれから何分も経っていないというのに、強調されていたはずのあの言葉を忘れてしまっていた。
むしろ、あの時は運転手の声質にばかり気が行っていたせいで、言葉を耳にしたその瞬間でさえも頭には入っていなかったように思える。
「当時は、出ただの見ただの触られただのの大騒ぎだったとかで。それもある時を境にぱたりと静まって、今ではめっきり落ち着いてしまったのだということです」
そこまで言うと、温和そうな顔はそれきり口を開く気配すら見せなくなってしまった。
情報量に難があるものの恐ろしげで物悲しい展開を予感させる怪談話は、序章部分でそんな展開を予想させるだけさせておいて、そのままただの一つもそれらしい出来事が語られることもなく、あっという間に終わってしまった。
これではお預けのままである。
「終わりですか」
物足りない、という意味を込めて、チヒロは口を開いた。
怪談話が終結したのだという確信が得られるまで、十分に運転手の様子をうかがった上での質問だった。
ははあ、と気楽な声で笑ってみせた運転手は、やはり気楽な態度で「省略しすぎましたかね」と鼻の頭を掻いた。
「有名、とは」
「出るっていうことですよね、さっきの場所」
和やかになりかけた空気が、一転して静まり返る。
直前まで笑みを浮かべていたチヒロの視線は話し相手である運転手ではなく、黙々と後退していく白線に向けられていた。
焦点を変えて窓に映った自分と目を合わせ、顔にかかっていた髪を耳の後ろに避ける。
障害物を取り除くと、窓に映る女がいかに疲れた顔をしているのかがよく分かった。
「一昔前までは」
ひときわ強調するようにして、発音の良い声が車内に響いた。
チヒロが声のした方を見やると、運転手は満足そうにして再び一昔前までなんですけどね、と繰り返した。
「あの通りは、知る人ぞ知る心霊スポットだったのだそうです」
赤信号に差しかかり、運転手がブレーキを踏んだ。
乱暴なエンジン音を響かせて、一台のセダンが交差点を高速で横切って行く。
「怪談話としては陳腐な話で、本当にあった出来事なのかどうか、正直なところ私は知らないんですけどね。ほら、お嬢さんの乗ってこられたあの通りは、長い一本道になっているでしょう。そして、横断歩道は両端に一つずつしかありませんよね。ある時、小さな女の子がその道の半ばでーーもちろん横断歩道なんてないのですが、反対側に渡ろうとして、不幸にもその時突っ込んできた車に」
轢かれて、亡くなってしまったのだそうです。
運転手がそう言ったのか、チヒロが頭の中で勝手にそう再生したのか。
青信号に変わり再び動きだしたやけに大人しい町並みのせいで、それはなんだか曖昧になってしまった。
「それ以来」
そこまで話したところで、運転手は不意に、おっと、といかにも調子はずれな声を発して、人の良さそうな笑顔を作った。
そこでチヒロは初めて、彼が怪談話を口にする際に声のトーンを落としていたのだということに気がついた。
「ところで、あの道へはよく行かれるのですか」
チヒロはお預けを食らったような心持ではい、と答えた後、まあ、と小声でつけ加える。
自宅から近い場所でもなく、また大きな通りから外れたあの道を、チヒロ自身が自らの判断で利用したことがあるのかといえば、そんなことはただの一度もないのだった。
暗くなると静まり返る、街灯も乏しいあの一本道は、チヒロではなく彼女が職場で知り合った恋人のお気に入りなのだ。
いくら見渡したところで気の利いた夜景のひとつも見えない、飲料の自動販売機がぽつりと設置されているだけの、地味で寂しい一本道。
仕事帰りに恋人の車に乗せられることの多いチヒロは、彼に連れられて帰宅路の一部であるその一本道に何をするでもなくーー強いて言うならば自動販売機でジュースやコーヒーを買うためにーー幾度も立ち寄っている。
良くも悪くも、それだけの場所である。
「でしたら」
窓の外には親しみのある景色が流れている。目的地は近い。
「こんな話は、しない方が良かったですかねえ」
バックミラーに映る運転手の目尻には、メイク道具で描いたかのようなしっかりとしたしわが集まっていた。
笑みを浮かべているように見えるが、それが気楽な笑みであるのか苦笑であるのかは判別できない。
「そんな、今更」
つられて笑みを浮かべたチヒロも、それがどんな類の笑みであるのかを自身で判別することができなかった。
「ああ、でもね、安心してください」
「どうして」
「言ったでしょう。一昔前までは、って」
前髪に触れながら、ああ、と小さく声を漏らす。
まだあれから何分も経っていないというのに、強調されていたはずのあの言葉を忘れてしまっていた。
むしろ、あの時は運転手の声質にばかり気が行っていたせいで、言葉を耳にしたその瞬間でさえも頭には入っていなかったように思える。
「当時は、出ただの見ただの触られただのの大騒ぎだったとかで。それもある時を境にぱたりと静まって、今ではめっきり落ち着いてしまったのだということです」
そこまで言うと、温和そうな顔はそれきり口を開く気配すら見せなくなってしまった。
情報量に難があるものの恐ろしげで物悲しい展開を予感させる怪談話は、序章部分でそんな展開を予想させるだけさせておいて、そのままただの一つもそれらしい出来事が語られることもなく、あっという間に終わってしまった。
これではお預けのままである。
「終わりですか」
物足りない、という意味を込めて、チヒロは口を開いた。
怪談話が終結したのだという確信が得られるまで、十分に運転手の様子をうかがった上での質問だった。
ははあ、と気楽な声で笑ってみせた運転手は、やはり気楽な態度で「省略しすぎましたかね」と鼻の頭を掻いた。
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