赤信号が変わるまで

いちどめし

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第一話 C side

タクシーにて ③

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「そろそろですね」

 唐突な言葉。
 気楽に話す声でも怪談話をする声でもない。
 このタクシーに乗り、初めに聞いた彼の声がこんなトーンであったようにチヒロは記憶している。
 目的地である自宅が近いという意味だった。

 料金のメーターに目をやる。
 いつか、財布と相談し買うことを我慢した安物の鞄のことが脳裏をよぎったせいで、短くため息をついた。

「ええと、この辺りから少し案内をお願いできますかね」

「ええ、でも、この辺で大丈夫です」

 そうですか、分かりましたと独り言のように受け答えながら、住宅地に入る直前のところで年嵩の運転手は車を道の脇に寄せる。
 ここから自宅までは歩いて十分かそこらだ。
 窓から見える家々には、まだぽつりぽつりと明かりが灯っている。

「今までに、タクシーになんて数えるほどしか乗ったことがなくて」

 脇に置いていたハンドバッグの中から長財負を手にすると、チヒロは運転手を見た。
 温和そうな顔は何も言わずにもとから細い目をいっそう細くして、言葉の続きを待っている。

「今日は、その」

 料金を手渡しながら、頭の中を整理する。
 チヒロは考え深い性質ではあるけれど、そのぶん頭の回転が早いほうではなかった。
 見切り発車になってしまい途中で言葉を練り直すことは、彼女にとって珍しいことではない。

「タクシーに乗る前まで、一緒にいた人がいるんです」

「こんな遅い時間ですし、そんなに需要もないでしょう」

 相槌を打つ代わりに、運転手は料金を受け取るために捻っていた腰を戻し、
「それに、私は話すのも聞くのも好きですからね」

 エンジンを切ると、少しだけ左を向いてチヒロに横顔を見せた。

「続きを」

 横顔が気の良い笑顔を見せたので、チヒロは緩慢な動きで財布をしまい、窓の外にちらりと目を向けてから再び口を開いた。

「いつもは……その、彼に送ってもらうことが多くて、本当は今日もそのつもりだったんです」

 家の明かりはあるものの、街並みの中に人気はない。
 さりげなく腕時計に目をやると、まだ、思っていた時刻よりもずっと早かった。

「それで、一本道って言えば良いのかな。さっきはあの場所で、えっと、ジュースを買って二人で一息ついていたんですけど」

 エンジンを切った車内は恐ろしいほどに静かで、たどたどしいチヒロの語りは言葉が途切れるその一瞬ごとに、静けさに飲み込まれそうになる。

 無言になって話を聞いている運転手に目をやると、その落ち着いた顔までもが完全に静止してしまっているように感じられた。

「今日は、その」

 二度目のフレーズ。チヒロの不安を悟ったのか、制帽のつばの下で幅の広い眉がぴくりと動く。

「喧嘩別れみたいになっちゃって」

 ほう。運転手が相槌を打った。
 この声一つにしても発音が良く、それでもやはり磨耗している。

「その喧嘩……まあ、喧嘩っていうほどでもないんですけど、その理由が」

 今一度、運転手の横顔を確認する。
 細い目の中に覗く黒目はチヒロの方へ傾いてはおらず、そのまま正面に向けられていた。
 その視線がどこか遠くに向けられているのか、それともすぐ近くの何かを突き刺しているのかははっきりとしない。
 もしかすると視線は捻じ曲がって、実はチヒロのことをしっかりと見据えているのかも知れなかった。
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