赤信号が変わるまで

いちどめし

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第五話

悪霊の虚①

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 彼氏さんが軽く手を振って車に乗り込む姿を、わたしは自動販売機の前で微笑みながら見送った。

「じゃあ、おやすみなさい」

 彼氏さんとの他愛のない夜話は、今夜で既に十回を超えている。
 最近のわたしたちの間には、既に、次に会うための約束すらも必要がなくなっていた。

 今夜の語らいはわたしの好きな色についての話題と、彼氏さんの仕事についての愚痴に終始した。
 もう何年も生者と口をきいてこなかったわたしにとって、こうした実りの少ないやり取りを毎回のように繰り返すことはあまりに楽しく、寂しげなこの場所を幸せな空気で満たすためには十分すぎるものだった。

 幸せそうな恋人たちを眺めていただけの頃には考えもつかなかったであろう、素晴らしい日々。
 お裾分けされるだけの幸せでは、とても追いつくことのできない幸福感。

 だけど、気になることがないわけではなかった。

 わたしは紛れもなく幸せなのだけれど、果たして彼氏さんの方はどうなのだろうか、という心配事。
 それは、彼が本来彼女さんと過ごすべき時間をわたしのために犠牲にしてしまっているのではないかという、いわば負い目だ。

 彼氏さんに彼女さんのことを尋ねると、彼は決まって、頑張って関係を修復しようとしている最中です、というようなことを言うばかり。
 それはつまり、わたしの毎日が満たされていっている一方で、彼氏さんのプライベートは何も好転していないのだということだ。

 それでも彼氏さんは、少なくともわたしの前では楽しそうにしている。
 ここ最近のわたしは負い目を感じつつも、そんな彼の態度に甘えてしまっていた。

 それから、気になることはもう一つ。
 一向に姿を見せてくれない彼女、悪霊の女の子のことだ。
 わたしが以前にとった態度が原因で姿を隠しているのは明白であったし、だとすれば、姿の見えない彼女は、わたしの知らないところでずっといじけているのだということになる。

 とはいえそれは、わたしにはどうすることもできないことだ。
 いくら心を痛ませたところで彼女が姿を現してくれるというわけでもなく、彼女が自らわたしの前に現れてくれない限りは、なぐさめてあげることすらもできないのだから。

 だからわたしは彼女のことを心のどこかに引っかけておきながらも、気になる、という程度に止めてしまっているのだと思う。
 彼女について考えることに、わたしは消極的になっているようだった。

 エンジン音が近づいてきたので、わたしは思案にふけるのを中断し、慌てて姿を消した。
 彼氏さんと関わることが多くなってから身体に実体を持たせる機会が格段に増えているせいで、つい、彼氏さんのいない時でも姿を消すのを忘れそうになる。

 やって来たのは、見慣れたタクシーだった。
 白い車体はわたしの見ている前で速度を落とすと、すぐ目の前に停車した。

 ドアが開き、壮年と呼ばれるような時期もとっくに通り過ぎていそうな運転手さんが、緩慢な動きで自動販売機の前まで歩いて来る。
 白髪がちな、細い目の男性。
 車は何度も目にしていたけれど、運転手の姿を見るのはこれが初めてだった。
 運転手さんは自動販売機に小銭を投入するとペットボトルの緑茶を買い、その場で何度もボトルを傾けて半分ほどを飲み干した。

 キャップを閉めてから口をぬぐい、彼は細い目でどこか遠くを眺めている。
 彼氏さんの去って行った方向だった。

 胸騒ぎがした。

 大した理由はない。
 ただ、今夜このタクシーを見るのは、これが二度目だった。
 さっき、彼氏さんとの夜話を楽しんでいるところを、一度通過している。

 わたしは、細い目の示す方向へ走りだしていた。

 何があるのかは分からない。
 何もないのかも知れないし、そうでない可能性の方が明らかに高い。
 それでも行ってみなくてはいけないような気がした。
 胸騒ぎなんていうものは、きっと総じてそういうものだ。
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