赤信号が変わるまで

いちどめし

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第五話

悪霊の虚②

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 彼氏さんの車は、わたしの留まっている領域の先端、横断歩道の手前に停まっていた。
 車の近くには二つの人影があり、それはどうやら彼氏さんとハルヒコさんであるらしい。
 ぎりぎり話し声が聞こえてくる距離まで近寄ってみて、和気あいあいとした二人の様子にほっとする。

 それも、つかの間だった。

 話が終ったらしく、車に乗り込む彼氏さんと、それを見送るハルヒコさん。
 ハルヒコさんはこんな所に一人で置いて行かれて大丈夫なのだろうか、と思った矢先、動き出したばかりの車が急ブレーキによって激しく揺れ、車を見送っていたはずのハルヒコさんの姿が消えていた。

 慌てて駆け寄ると、車の前にハルヒコさんが倒れている。
 頭の中が真っ白になった。

「な、何やってるんだよ」

「ああ、いや、すまない。なんか、突然、くらっとしてさ」

 窓を開けた彼氏さんが悲鳴でもあげるようにして呼びかけると、ハルヒコさんは起き上がって、不思議そうに頭を掻いた。

 よかった。
 車にぶつかったわけじゃないみたい。
 わたしが胸をなで下ろした直後、彼氏さんは何かに気づいたらしく、泣き出しそうな顔になって、何も言わずに車を走らせ去って行った。

 残されたのは、いまだアスファルトに座った状態でいるハルヒコさんと、その後ろで笑っている、

 悪霊だった。

 あの子に突き倒されたんだ。
 そこにあるのは、あまりにも簡単な答え。
 少女はわたしに見られていることに気づくと、目を真ん丸にして逃げだした。

 ハルヒコさんを助け起こすべきか、悪霊の少女を追うべきか。
 逡巡の後に後者を選んだのは、頭に血が上っていたからなんだと思う。

 どこにいるの。
 何度も叫びながら、隠れる場所の少なさそうなアスファルトの上を駆け回った挙句、信号機の支柱にもたれかかって膝を抱えている少女を発見した。

 既に空は白み始めていた。
 逃げ回っていたらしい彼女を発見するために一晩中呼びかけ続けていたわたしとしては、なんだかあっけない発見だった。

 明け方の車道には、車の通りが復活しつつある。
 自動販売機の前に停まっていたタクシーとハルヒコさんは、わたしが悪霊を探しているうちに姿を消していた。

「やっと見つけた」

 呼びかけられて、少女は視線だけをこちらに向けた。
 ぎょろりとした大きな目は、探し回るうちに冷めかけていた怒りを蘇らせる。

「どうして、あんなことをしたの」

 いつかの繰り返しのような質問。

「ハルヒコさんーーあの人、死んじゃうかも知れなかったんだよ」

 逸らされる視線。
 わたしは詰め寄った。

「ねえ、どうしてあんなことをしたの」

 膝をついて正面から両肩を掴むと、小さな身体がびくりと震える。
 うらめしそうな視線を受けて、それでもわたしの中から怒りが消えることはなかった。

「わたし、今、幸せなのに。楽しいのに。あの人たちが、わたしは好きなの。大切なの」

 言葉を発するごとに、少女の肩が揺れる。
 膝を抱えていた腕が、だらりと垂れ下がって地面をこすった。

 それでも、うらめしそうなその表情はまるで石膏の像のように固まったままで、彼女の目は別世界の光景でも眺めているかかのような虚さでわたしの顔に向けられている。

「それなのに、どうして傷つけようとするの。どうして邪魔しようとするの。どうして壊そうとするの」

 言いたい言葉が滝のように溢れだしそうな、そんな気がしていた。
 でも、実際には、

「どうして……分かってくれないの」

 それで、打ち止めだった。
 これ以上、無為に小さな肩を揺すり続けることがわたしにはできなかった。

 少女はくたびれた人形のように項垂れている。
 肩から手を離すと小さな身体が倒れてしまいそうな気がして、わたしはそのままの状態から動くことを禁じられてしまった。

「ねえ」

 動かない少女に、再度呼びかける。

「なんとか、言って」

「おねえちゃんはーー」

 自ら懇願したことだというのに、わたしは突然発せられた声にぎょっとした。

「あたしといても、楽しくないの? あの人といる方が、楽しいの?」

 項垂れたまま呪わしげな声で喋る少女のことが、恐ろしかった。
 後ずさりながらそっと手を離すと、彼女はわたしの思っていたように倒れることはなく、大儀そうに再び膝を抱えた。

「だから今まで、探しに来てくれなかったの?」

 それきり彼女は何も言おうとはせず、わたしも、何も言い返すことができなかった。

 彼女の言うことはもっともだ。
 わたしは姿を見せない彼女のことを心配しているつもりでいながら、実際には、自分の邪魔をしてばかりの面倒な存在がいないという状況に甘んじていたのかも知れない。

 探そうと思えば、こうして探し回ることができたのに。
 わたしは今の今まで、呼びかけることすらしてこなかった。
 そのくせ、文句を言うため、叱るためにならば、何を置いてもこの子を探そうとした。

 わたしは、醜い。
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