【完結】ひだまり療育園にいらっしゃい

野々 さくら

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支援する側の葛藤

12話 小林先生

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「佐伯先生」
 ふわふわと浮かんでいたシャボン玉がパチンと弾けるように、私の体がピクンとなる。
 目の前には木製のロッカーがあり、それを開けたまま呆けている私が備え付けの鏡に映っていた。
 やばっ、またぼんやりしてしまった。

「お疲れ様です!」
 忙しない声と共にパタパタと更衣室から出ていくのは、ママさん世代の先生達。これからお子さんを保育園や学童に迎えに行き、夕食作りに、育児。ここに来ている保護者さんも普段は働いていて、都合つけて療育に子供を通わせている人も多く、私には仕事と家庭の両立なんて未知数の世界だ。

「お疲れ様ですー」
 次に早歩きで更衣室から出ていくのは、電車通勤の先生達。単身者や夫婦のみの家庭、お子さんが高学年以上と手が離れる時期になり、特別急がないけど一番酷いラッシュには巻き込まれたくない。そんな先生達が、今日はどこのスーパーが安いとか話しながら帰っていく。

「じゃあ、徒歩組もぼちぼち帰りますか」
 小林先生がロッカーをトンと閉め、更衣室に残っていた五人に声をかける。
 また手が止まってしまった私は、腰に括り付けてあるエプロンの紐を緩ませて脱いでハンガーにかけ、結んであった髪を解く。
 すると私は保育士から一人の女性になり、閉じ込めていたつもりの私情が一気に溢れてくる。
 私の、勝手な願望が。

 そんな思いを振り切ろうと首を横に振り、荷物を一つにまとめた十リットルサイズの黒いリュックを背負い、他の先生方と歩いて行く。
 職員用出入り口から外に出ると十月の空にはいわし雲が広がり、茜色に染まっている。五時過ぎだというのに周囲は薄暗く、日は一日ずつ確実に短くなっている。
 しかしそんな淋しげな風景など吹き飛ばすように他の先生方は明るく、日用品が安売りしている店の情報、時短レシピ、そして仕事の話ばかりしている。

 勿論、私達保育士には守秘義務があり、子供のことも保護者のことも安易に話してはいけない。情報漏洩なんてもってのほかだ。
 だから外で話すのは、支援方法の情報交換のみ。
 言葉での諭し方、泣いて暴れる子への関わり方、言葉が分からない子とのコミュニケーションの取り方。
 基本的な対応は同じとされているけど、子供は一人一人違う。Aくんはその対応が合わずに怒らせてしまっても、Bちゃんには有効でピッタリ合っていくこともある。
 正解を知っているのは子供自身だけであり、こちらは目に見えないピースの形を想像しながら当てはめていく。
 だから僅かに違うピースを揃えたい。なんとか当てはめたい。みんな子供を思って必死なんだ。

「では、お疲れ様でーす」
 一人、また一人と、集団から抜けていく。
 ひだまり療育園の付近は閑静な住宅街で、保育園、幼稚園、小学校がポツポツと立地されている。近場に住んでいる先生方が多く、付近の幼稚園や保育園で働いていたこともある先生も多いらしい。
 保育園の前を通り過ぎれば、乳児を抱っこ紐で背負いながら幼児の手を引いて歩く、保護者と思われる男性女性が慌ただしく出て行く。

「あ、お疲れ様です」
 先程走って帰った先生が、両手で子供片方ずつの手を握り会釈してパタパタと住宅街の陰に消えて行く。

「一番大変な時だね」
 子育て経験のある先生方はうんうんと頷き、遠い目をしている。

 こうしてたわいも無いことを聞いたり話したりすること十五分、最後に残ったのは小林先生と私。住宅街の入り口付近に住んでいる為、奥地に立地してある療育園より一番遠く二十分ほどかかってしまう。
 まあ電車通勤の先生達はその先の駅まで三十分の距離を歩いているのだから、全然なんだけどね。

 歩いていくうちに、より暗くなっていた秋空。カラスが列を成して飛び、鳴く声に顔を上げると立派に佇む木に葉に付くのはオレンジ色の小さな花。それは金木犀で、甘い香りが日暮れ前の街並みを優しく包んでくれる。

「良い香りですね?」
 いつものように軽く話しかけるも、返ってこない声。
 ドクンと鳴る胸の鼓動に大丈夫だと宥めながら、隣を歩く先生に目をやる。
 すると顔を上部に上げ空を飛ぶカラスを眺めていて、どこか物悲しく私には写った。

「……佐伯先生は、どうしてこのお仕事を選ばれたのですか?」
「え?」
 こちらに向いた目元はまたいつもの柔らかさに戻っていたけど、そんな直球に何かを問われたのは初めてだった。
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