明治クエスト1871 ―異邦の絆―

地熱スープ

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福沢諭吉の教え

闇市の邂逅

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應義塾での熱い講義が終わったその夜、横浜――。

港の灯りが霧にぼやけ、外国人居留地の倉庫群が闇の中に浮かび上がる。
石畳を湿らせる潮風と、異国の香辛料の匂い。
遠くで馬車の車輪が軋む音が響いていた。

「技術の最先端は、港に集まる」
恩師・福沢の言葉を胸に、綾部影照(あやべ えいてる)は横浜へ向かっていた。

長崎の出島近くで、外国人や異国文化に囲まれて育った影照。
少年時代から港や工房に入り浸り、外国人技師や船大工から機械や言葉を学んだ。

「時代の波に流されるのではなく、波を起こす側でありたい――」

10代後半でオランダ人技師に師事し、工学と語学の基礎を身につける。
さらにイギリスやフランスへの留学で、西洋の最先端技術に触れてきた。

「日本の近代化のため、自分の知識と発明で国を支えたい」

影照はそう強く願い、常に新しい技術や情報を求めていた。

初めて訪れる夜の港町。
霧が港を包み、ガス灯の明かりがぼんやりと石畳を照らしている。
潮の匂いと、遠くで響く馬車の車輪の音――。

「……ここが、異国の技術と情報が交錯する場所か」


影照は、胸の奥に高鳴る鼓動を感じていた。
彼は「技術こそが時代を変える」と信じ、「時代の波に流されるのではなく、波を起こす側でありたい」と願う情熱的な発明家だった。

失敗を恐れず挑戦し、工夫すれば必ず道は開ける――それが彼の信条だ。
自身が開発した蒸気機関は、船舶だけでなく陸上にも応用できる。
その可能性を見抜いたイーサン・グラントが、積極的に影照に接触し、取引を持ちかけてきた。

イーサンは「世界は金と力で動く」と信じる国際ブローカー。
影照のような技術者の存在を、独自のネットワークで把握していた。

影照の手には、使い込まれた革表紙の手帳。もう一方には、イーサンから受け取ったばかりの英国製スナイドル銃。
冷たい銃身の感触が、現実の重みを伝える。

目の前に立つイーサン・グラント――金髪碧眼の英国人。
長身で、どこか飄々とした笑みを浮かべていた。

「用心しろよ、エイテル。横浜の夜は、私の国よりずっと危険だよ。」

イーサンの低い声が、霧に沈む倉庫裏に響く。
影照は静かに頷く。

(……この夜を越えなければ、明日はない)

遠くで馬車の車輪が軋み、霧の向こうへと消えていった。

影照は手の中のスナイドル銃を見つめ、金属の冷たさを指先で確かめながら口を開く。

「この銃身……幕府の隠し鉄砲鍛冶の技術か?」

イーサン・グラントは銀色の懐中時計を弄びつつ、倉庫の扉にもたれかかる。
長身の英国人――その青い瞳には、計算高い光が宿っている。

「さすがだね、エイテル。君の蒸気機関の設計図と交換なら、もっと面白いものも見せてあげよう。」

イーサンは片目をウィンクし、スナイドル銃の薬室を開いて見せる。中には最新式のボクサーパトロン実包が静かに収まっていた。

影照はその精巧な造りに目を細める。

「英国の技術は恐ろしいな。だが……日本も負けてはいられない。」

潮風が二人の間をすり抜ける。緊張と好奇心が、沈黙の中で絡み合う。
イーサンの口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。

***

そのころ、東京・三田――。
同じ夜、慶應義塾の校門前は、講義を終えた学生たちの賑わいと冬の冷たい空気に包まれていた。

新太郎は人波の中に、ひときわ凛とした佇まいで歩く有馬つばきを見つけた。
教室で堂々と発言していた彼女の姿が、まだ胸の奥に鮮烈に残っている。

(あんなふうに自分の意見を貫ける人がいるなんて――)

つばきの背中を目で追いながら、新太郎は胸の奥に芽生えた小さな憧れと、焦るような熱を感じていた。
迷いながらも、その火を確かめるように、一歩を踏み出す。

「有馬さん――さっきの質問、すごかった。あんなふうに堂々と意見を言えるなんて、正直、尊敬するよ」

つばきは少し驚いたように振り返り、すぐに静かな微笑みを浮かべた。

「桐生さん、ありがとうございます。昼間の先生の講義で、学ぶこと、そしてそれを現実で活かすことの大切さを、改めて感じました」

そう言いながら、つばきは決意を込めるように手元の小さな封筒を新太郎にそっと見せる。

「実は、父の商いに関わる、少し気が重い用事がありまして……」

彼女は封筒を握り直し、視線を落とした。

「生糸の輸出許可書を受け取りに、闇市まで行かなくてはならないんです。家のため、でも、それだけじゃありません。私自身のためにも」

新太郎は一瞬、言葉を失った。闇市――その響きに、都会の危うさと、つばきが背負うものの重さが胸に迫る。

「闇市に? 一人で行くの?」

(こんな場所で、俺の田舎訛りが出たらどうしよう。都会の裏側なんて、越後じゃ想像もできなかった……)

手のひらがじっとり汗ばんでくる。強烈な異質さと、自分の無知を痛感した。

(そんな危ない場所に、彼女を一人で行かせるなんて……!)

胸の奥で、守らなければという衝動が沸き上がる。だが――

(でも、俺なんかが言ったら、笑われるかもしれない。昼間の講義で「独立自尊」と教わったばかりなのに、こんなことで尻込みしてる場合じゃない。学問は、無知という毒を中和する力だって、福沢先生も言ってたじゃないか……!)

つばきが背負うものの重さを思い出す。有馬家の生糸商いは、父から“命がけの取引”だと聞いたことがある。
彼女の行動は、好奇心なんかじゃない。強い責任感に支えられている――。

つばきは、少しだけ寂しげに笑った。

「大丈夫です。こういうことには、もう慣れています。でも……もし何かあったら、その時は、桐生さんを頼ってもいいですか?」

(僕を……頼ってくれるのか? この、越後訛りの僕を――)

新太郎は胸の奥が熱くなるのを感じ、思わず拳を握りしめた。

「もちろんだよ! 僕、近くで待ってる。何かあれば、すぐに駆けつけるから」

つばきは驚いたように新太郎を見つめ、やがてふっと優しく微笑む。

「ありがとう。そう言ってもらえると、心強いです」

夜の帳が降り始め、校門の外ではガス灯がぼんやりと灯り始めていた。
つばきは軽く会釈し、提灯の明かりが揺れる裏路地へと歩き出す。
新太郎はその背中を見送り、しばらく立ち尽くしてから、静かに歩き出した。

冬の夜気が頬を刺し、遠くで馬車の車輪が軋む音が響いていた――。

***

新太郎の視線を背中に感じながら、つばきは闇市の雑踏へと足を踏み入れた。

提灯の明かりが揺れる裏路地。異国語の呼び声と和洋折衷の屋台のざわめきが混じり合う。湿った土と香辛料の匂いが、夜気とともに鼻を刺した。

胸元には父から託された「生糸の輸出許可書」。

(絶対に失敗できない――)

封筒をきつく握ると、手のひらにじっとり汗が滲む。

人混みの中でも、つばきの歩みは凛としていた。しかし、心の奥にはわずかな不安が渦巻いている。新太郎の「何かあればすぐ駆けつけるから」という言葉が、思いがけず心強く響いた。

「……ここで合っているはずだけど」

つばきは立ち止まり、屋台の並ぶ一角を見渡す。そのとき、背後からひときわ目を引く老婆が近づいてきた。

白粉を厚く塗った顔に大きな簪。まるで唐人お吉のような派手な衣装――闇市でも異彩を放つその姿。

(この人、ただの物売りじゃない……変装? それとも情報屋?)

老婆はつばきの袖をそっと掴み、低く抑えた声で囁く。

「お嬢さん、ちょっといいかい?」

思わず身を引くが、その目にただならぬ光を感じて立ち止まる。


「……どなたですか?」

老婆は口元を歪めて笑った。

「菊乃さ。闇のことなら、ちょいと詳しいよ。その許可書、少し見せてごらん」

つばきは一瞬ためらったが、相手がただの物売りでないと直感し、書類を懐から差し出す。

菊乃はそれを蝋燭の灯りにかざし、印鑑や紙質にじっと目を光らせて観察した。

「オランダ領事の印……これは偽物だよ」

菊乃の低い声が、蝋燭の灯りに揺れる闇市の一角に静かに響いた。

つばきは一瞬、胸が締めつけられるような感覚に襲われ、手の中の許可書が急に重く、冷たく感じられた。

「え……?」

震える声で問い返す。瞳には父への信頼と、裏切られたかのような不安が交錯していた。

「本物は、こうだ。」

菊乃は懐から印鑑を取り出した。蝋燭の炎が、精緻な彫りを浮かび上がらせる。

その横顔には、裏社会を生き抜いてきた者だけが持つ鋭さと、どこか深い疲れが滲んでいた。

つばきは息を呑み、震える指先で紙片を握りしめたまま、菊乃の手元を見つめる。

「裏で誰かが動いている。……最悪、捕まることになるかもしれないよ。」

菊乃の声には、長い経験に裏打ちされた優しさと、冷徹な覚悟が混じっていた。

つばきは唇をきつく噛み、父の顔が脳裏に浮かぶ。

「そんな……父が頼んだ相手なのに……」

「今夜、増上寺で何かが起こる。気をつけて。」

菊乃は小さな紙片をつばきの手にそっと握らせた。その仕草は幼い子を案じる母のようでありながら、裏の世界の冷たさも感じさせる。

胸の鼓動が早まる。私は、どうすればいいの――?

紙片をしっかりと握りしめ、つばきは胸の奥をかき乱すような動揺を抱えたまま、闇市の雑踏を駆け抜けた。

提灯の明かりが揺れる裏路地。息が上がり、手のひらは冷たく汗ばんでいる。

***

「つばきさん!」

提灯の下で待っていた新太郎が、つばきの顔色に気づき、すぐに駆け寄る。

「どうしたの、そんなに息を切らせて……」

つばきは震える手で紙片を差し出し、言葉を選ぶ余裕もなく吐き出した。

「……輸出許可書が、偽造品だって。それに、今夜、増上寺で何かが起きるかもしれないって……」

新太郎は紙片を受け取り、つばきの不安そうな横顔をそっと見つめる。

「この場所……すぐ近くだ。行ってみよう」

できるだけ落ち着いた声で言い、つばきの歩調に合わせて歩き出す。

二人は闇市の喧騒を背に、紙片に記された倉庫へと足早に向かった。

冬の夜気が頬を刺し、提灯の光に二人の影が長く伸びていく。
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