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太平洋の密約
電波の罠
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横浜港で掴んだ密約の影――偽造された輸出許可書、仏船リュシーヌ号を巡る裏取引、そして横須賀造船所に潜む不穏な繋がり。
(情報こそが最大の武器……この糸口は、船上でこそ追い詰められる)
菊乃はそう直感し、卓越した変装術を駆使して、誰にも気づかれることなく軍艦「龍驤」へと身を忍ばせた。
甲板のざわめきから離れ、艦内深くに位置する無線室へ――彼女は黒猫のように静かに足を運ぶ。足音を殺し、衣擦れの音すら最小限に抑える。
すれ違う乗員の視線を巧みにかわし、冷たい金属の壁に手を添えて進むたび、心臓の鼓動が高鳴る。
青白いガス灯が揺れる無線室は、機械油と金属の匂いが混じる静かな空間だった。床を這う無数のコード、機械の低い唸り、ランプの光が壁に長く影を落とす。菊乃は最先端のマルコーニ式火花送信機のプロトタイプに向かい、紙テープに刻まれるモールス信号のリズムに神経を研ぎ澄ます。機械の微細な振動が指先に伝わり、紙が擦れる乾いた音が静寂の中に鋭く響く。呼吸は浅く、額にはうっすらと汗がにじむ。
(ここで何かを掴まなければ――)
「……長崎、高島炭鉱、浪人三百集結――」
菊乃の耳に、モールス信号のリズムが微かに残る。花街で鍛えられた観察眼と、長年の経験で培った暗号解読の特技が、無機質な符号の羅列から具体的な情報を紡ぎ出す。
符号帳をめくる指先は素早いが、紙の端が汗でわずかに湿っていた。機械の低い唸りが静寂を満たし、菊乃の呼吸は浅く速くなる。
符号の隅には、見覚えのある「伝蔵」の花押が残されていた。影山伝蔵――旧幕臣の浪人集団を率い、「武士は滅びても誇りは失わぬ」と信じる、裏社会の危険人物。かつて一度だけ対峙した夜の記憶が、菊乃の脳裏をかすめる。
(やはり、あの男が動いている……この規模は、ただの浪人ではない)
小声で呟き、解読した内容を手早くメモにまとめる。胸の奥に緊張を抱えたまま、菊乃は足早に艦長室へと向かった。
***
艦長室には、太平洋の波音が微かに響き、青白いガス灯の光が航海図の上に揺れていた。英国人艦長は眉間に深い皺を寄せ、指先で地図上の石炭積出港を何度もなぞっている。沈黙の中、彼の顔には、予期せぬ事態への苛立ちと、日本の情勢に対する困惑が色濃く浮かんでいた。
「電信は仏船リュシーヌ号経由だ。薩摩閥が燃料炭を独占している――」
艦長の声は低く震え、拳が机の上で小さく震える。石炭庫の鍵が壊され、航続距離に不可欠な良質炭が盗まれた痕跡を指し示し、深いため息をついた。
「このままでは、航続距離が危うい。日本の石炭は、すでに薩摩の手に落ちているのか……」
ガス灯の光が艦長の顔を青白く照らし、室内の空気は重く沈んでいた。
通訳としてそのやりとりに同席していた桐生新太郎は、英語と日本語の間を行き来しながら、艦長の焦りと日本側の複雑な事情、そして列強の思惑が絡み合う国際社会の現実を痛感していた。
通訳の声がわずかに震え、額にはじっとりと汗が滲む。
(自分の訳した一言が、日本の未来を左右するかもしれない――)
新太郎は、手のひらに感じる微かな震えを押し隠しながら、慎重に言葉を選ぶ。
(人は学び続けることでしか、時代を乗り越えられない……だが、今この場で自分にできることは何だ?)
その胸には、信念と現実の重圧がせめぎ合っていた。
(仏船リュシーヌ号――やはり、横浜港の密約と、この事態は繋がっている……)
新太郎の脳裏には、横浜で目にした裏社会の動きが鮮明に蘇る。この船には、日本の未来を背負う重責が乗せられているのだ。
***
その頃、発明家・綾部影照(あやべ えいてる)は、技術室で石炭のサンプルを手に取り、匂いを嗅ぎ、計測器の針をじっと見つめていた。針がわずかに揺れるたび、影照の眉がぴくりと動く。石炭の粒を指で転がし、手のひらに残るざらつきと、鼻を刺す独特の匂いに集中する。
「この炭質は……いかんな。航続距離に響くぞ」
彼は小さく呟き、汗ばむ指先でデータをノートに書き込んだ。
(技術は人のためにある――この危機こそ、技術者としての腕の見せどころだ)
「このままじゃ、航続距離が……」
影照の横顔には、「工夫すれば必ず道は開ける」という静かな情熱が宿っていた。船の揺れと機械の唸りが、彼の集中をさらに研ぎ澄ませていく。
「この炭質は……いかんな。航続距離に響くぞ」
影照は石炭のサンプルを指で転がし、ざらついた感触と鼻を刺す独特の匂いに集中した。計測器の針がわずかに揺れるたび、彼の眉がぴくりと動く。室内には機械の低い唸りと、石炭と油の混じった重い空気が漂っている。
石炭の質に関するデータを慎重に確認しながら、影照は艦内の燃料不足が新たな危機を呼ぶことを直感した。「技術は人のためにある」――その信念を胸に、影照はこの危機を技術者としての挑戦と捉える。
「このままじゃ、航続距離が……」
小さく呟きながら、汗ばむ指先でデータをノートに書き込む。紙の表面にペン先が走る音が静かに響き、筆圧はいつもよりわずかに強い。
「工夫すれば必ず道は開ける」
その信念が、静かな情熱となって影照の横顔に宿っていた。
(情報こそが最大の武器……この糸口は、船上でこそ追い詰められる)
菊乃はそう直感し、卓越した変装術を駆使して、誰にも気づかれることなく軍艦「龍驤」へと身を忍ばせた。
甲板のざわめきから離れ、艦内深くに位置する無線室へ――彼女は黒猫のように静かに足を運ぶ。足音を殺し、衣擦れの音すら最小限に抑える。
すれ違う乗員の視線を巧みにかわし、冷たい金属の壁に手を添えて進むたび、心臓の鼓動が高鳴る。
青白いガス灯が揺れる無線室は、機械油と金属の匂いが混じる静かな空間だった。床を這う無数のコード、機械の低い唸り、ランプの光が壁に長く影を落とす。菊乃は最先端のマルコーニ式火花送信機のプロトタイプに向かい、紙テープに刻まれるモールス信号のリズムに神経を研ぎ澄ます。機械の微細な振動が指先に伝わり、紙が擦れる乾いた音が静寂の中に鋭く響く。呼吸は浅く、額にはうっすらと汗がにじむ。
(ここで何かを掴まなければ――)
「……長崎、高島炭鉱、浪人三百集結――」
菊乃の耳に、モールス信号のリズムが微かに残る。花街で鍛えられた観察眼と、長年の経験で培った暗号解読の特技が、無機質な符号の羅列から具体的な情報を紡ぎ出す。
符号帳をめくる指先は素早いが、紙の端が汗でわずかに湿っていた。機械の低い唸りが静寂を満たし、菊乃の呼吸は浅く速くなる。
符号の隅には、見覚えのある「伝蔵」の花押が残されていた。影山伝蔵――旧幕臣の浪人集団を率い、「武士は滅びても誇りは失わぬ」と信じる、裏社会の危険人物。かつて一度だけ対峙した夜の記憶が、菊乃の脳裏をかすめる。
(やはり、あの男が動いている……この規模は、ただの浪人ではない)
小声で呟き、解読した内容を手早くメモにまとめる。胸の奥に緊張を抱えたまま、菊乃は足早に艦長室へと向かった。
***
艦長室には、太平洋の波音が微かに響き、青白いガス灯の光が航海図の上に揺れていた。英国人艦長は眉間に深い皺を寄せ、指先で地図上の石炭積出港を何度もなぞっている。沈黙の中、彼の顔には、予期せぬ事態への苛立ちと、日本の情勢に対する困惑が色濃く浮かんでいた。
「電信は仏船リュシーヌ号経由だ。薩摩閥が燃料炭を独占している――」
艦長の声は低く震え、拳が机の上で小さく震える。石炭庫の鍵が壊され、航続距離に不可欠な良質炭が盗まれた痕跡を指し示し、深いため息をついた。
「このままでは、航続距離が危うい。日本の石炭は、すでに薩摩の手に落ちているのか……」
ガス灯の光が艦長の顔を青白く照らし、室内の空気は重く沈んでいた。
通訳としてそのやりとりに同席していた桐生新太郎は、英語と日本語の間を行き来しながら、艦長の焦りと日本側の複雑な事情、そして列強の思惑が絡み合う国際社会の現実を痛感していた。
通訳の声がわずかに震え、額にはじっとりと汗が滲む。
(自分の訳した一言が、日本の未来を左右するかもしれない――)
新太郎は、手のひらに感じる微かな震えを押し隠しながら、慎重に言葉を選ぶ。
(人は学び続けることでしか、時代を乗り越えられない……だが、今この場で自分にできることは何だ?)
その胸には、信念と現実の重圧がせめぎ合っていた。
(仏船リュシーヌ号――やはり、横浜港の密約と、この事態は繋がっている……)
新太郎の脳裏には、横浜で目にした裏社会の動きが鮮明に蘇る。この船には、日本の未来を背負う重責が乗せられているのだ。
***
その頃、発明家・綾部影照(あやべ えいてる)は、技術室で石炭のサンプルを手に取り、匂いを嗅ぎ、計測器の針をじっと見つめていた。針がわずかに揺れるたび、影照の眉がぴくりと動く。石炭の粒を指で転がし、手のひらに残るざらつきと、鼻を刺す独特の匂いに集中する。
「この炭質は……いかんな。航続距離に響くぞ」
彼は小さく呟き、汗ばむ指先でデータをノートに書き込んだ。
(技術は人のためにある――この危機こそ、技術者としての腕の見せどころだ)
「このままじゃ、航続距離が……」
影照の横顔には、「工夫すれば必ず道は開ける」という静かな情熱が宿っていた。船の揺れと機械の唸りが、彼の集中をさらに研ぎ澄ませていく。
「この炭質は……いかんな。航続距離に響くぞ」
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石炭の質に関するデータを慎重に確認しながら、影照は艦内の燃料不足が新たな危機を呼ぶことを直感した。「技術は人のためにある」――その信念を胸に、影照はこの危機を技術者としての挑戦と捉える。
「このままじゃ、航続距離が……」
小さく呟きながら、汗ばむ指先でデータをノートに書き込む。紙の表面にペン先が走る音が静かに響き、筆圧はいつもよりわずかに強い。
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