2 / 34
1.再会(1)
しおりを挟む
ジリジリジリ……。
「……んが」
金属が震える音が、俺の睡眠を妨げる。ぼんやりと眼を開けたつもりだったが、視界には何も映らない。まだ目が開いていないらしい。
絶賛夏休み中だってのに……。俺、目覚ましかけたっけな?
手探りで枕元の目覚まし時計を叩く。
ジリジリジリ……。
しかし、音は鳴りやまない。
頭をボリボリ掻きながら起き上がると、チカッ、チカッという赤い光が目に入った。家の電話だ。ダイヤルが点滅している。
「……間違えた」
独り言を呟くと、俺は欠伸をしながら受話器を取った。
「……もしもし」
“颯太か”
「何だよ、親父かよ……」
溜息をつきながらテーブルの上のリモコンに手を伸ばすと、テレビをつけた。
情報番組の司会のアナウンサーが軽快なトークを繰り広げている。時計を見ると、朝の九時半だった。
「俺、一昨日までインカレだったし、疲れてんだよ。こんな早朝に何だよ……」
“九時半は早朝じゃないぞ。それに、お前が疲れてるのはインカレじゃなくてそのあとの打ち上げだろうが”
「……それも込み込みで、だよ」
二日酔いのせいかちょっと頭が重いな……と思いながら、カレンダーを見た。
今日は、8月13日。9日から11日にかけて矢印が引いてあり、『インカレ・絶対勝つ!』と赤マジックで書いてある。
“それはそうと、弓道のインカレ二連覇、おめでとう。よく頑張ったな”
「……どうも。それを言うためにわざわざ電話してきたのかよ」
“違う。わたしの剣道の先生と昨日、お前の話になってな”
親父は警察官だ。今55歳……定年まであと5年だが、まだまだ元気だ。
剣道の有段者で、今でもかなり頻繁に道場に通っている。
多分、その先生のことだろう。
“そしたら、T県の山奥に住んでいる弓道の偉い先生が知り合いにいて……その先生が、お前に会ってみたいということなんだ。……お前も会ってみたいか?”
「えっ! マジで!」
若干寝ぼけていた頭のもやが急に晴れた。何度もまばたきする。
「それ、本当か?」
“ああ。人嫌いの先生らしいから珍しいってことでな。それで、この機会にどうですか、と言われたんだが。お前、弓道だけは真面目だから……”
「会いたい! いつそっちに戻ればいい?」
“わたしは今日と明日なら非番だが。だがT県となると今日の夕方には出た方がいいかもしれんな”
「じゃ、今から戻るよ。じゃな!」
俺は電話を切ると、慌てて立ち上がった。二日酔いで若干ふらりとする。冷蔵庫からスポーツ飲料の缶を一本取り出して蓋を開けたところで、再び電話が鳴った。
「はい?」
“中平くん? 私……エミ”
「……ああ」
“今日の待ち合わせだけど……”
「あっ」
思い出した。確か、デートする約束してたっけな。
「ワリぃ。俺さ、今から実家に帰ることになったから、今日はナシな」
“はあ!? 前から約束してたじゃん!”
「悪い、悪い。弓道のことでちょっとさ」
“何かあったらそればっかり!”
「んじゃ」
面倒臭いので、女の言葉を待たずに電話を切った。
何か言いかけていたような気もしたけど……ま、いいか。別に、彼女でも何でもないし。
シャワーを浴びて身支度を整えると、俺は急いでアパートを出た。
弓道は、俺の中で特別だ。親父の影響でガキの頃は剣道をやっていたけど、中学校では弓道部に入った。
俺の住んでいた町では近くに弓道場があったから、友達と遊んだ帰りや道場に行くときに幾度となくその様子を見ていて、憧れていたからだ。
何だろう……何て言うか、一歩踏み入れた途端、別世界のような、この世界で自分独りだけのような……自分ときちんと向き合えるようなあの空間が、好きだった。
聞けば、俺が小4のときに死んだ母親が弓道をやっていたらしく、俺が剣道をやめて弓道一本で頑張りたいと言った時も、親父は反対しなかった。
でも、それ以外のこと……例えば勉強とか、恋愛とか、弓道以外ではあまり夢中になれるものはない。何となく流されて、だらだらとここまで来ている。大学も弓道で推薦をもらえたところに決めただけだし、特に将来の目標も何もないまま過ごしていた。
何て言うかな。多分、きっと、俺が本当にやりたいこと、やるべきことに、まだ出会えていないんだろうな。うん。
実家に帰った後、親父と共に夜行列車に乗り込み、T県に向かった。
次の日の明け方にT県に到着し、すぐに電車を乗り換えてさらに山奥へと向かう。
景色が普通のビル街から住宅街、田園風景と変わっていく。
その人はT県の山奥にある神社の神主をしていたが、今は引退したらしい。
鄙びた駅に到着すると、「分かりにくい場所にあるから」と現在の神主である息子さんが車で迎えに来てくれた。
息子さんといっても、親父と同じ年代ぐらいだと思う。……ということは、その先生はかなりの高齢なのだろう。
親父は剣道一筋で弓道をしたことはないけれど、武道の達人と呼ばれる人に会える機会は滅多にないから、と楽しみにしているようだった。
親父の仕事柄、親父と二人で旅行なんてしたことない。
それに達人って、どんな先生なんだろう。
……だからかな。目的の神社に近付くにつれ、何だか変な気分になった。
そわそわするような、ぞわぞわするような……。
「……どうした? 黙り込んで」
「――いや……」
俺はハッとして慌てて笑顔を作った。
「……何か、緊張してるのかな」
「他のこともそれぐらい真面目に考えてくれればいいんだがな……」
親父は俺の顔をちらりと見ながら苦笑した。
俺は親父の呟きは聞かなかったことにして、再び窓の外を眺めた。
それからさらに十分ほど走ると、車は神社に着いた。
長い石段が続いている。社はかなり上の方にあるようだが、木々に囲まれていて、全く見えない。
息子さんが
「この上ですよ。私はちょっと用事があるのでご案内できませんが……。父が出ているはずですから」
と申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、大丈夫です。本当にありがとうございました」
「お世話になりました」
俺たち親子が頭を下げると、息子さんは会釈をして車に乗り込み、どこかに走り去って行った。
俺は荷物を背負って石段を登り始めた。
車の中で感じていたぞわぞわが、どんどん強くなっていく。
この先に――確かに、何かがある。
「……颯太? どうした?」
親父が心配そうに俺の顔を覗きこんでいた。
「え……何が?」
「何って……凄い汗だぞ」
親父に言われて初めて気づく。
真夏だから当然暑いけれど……ここは木々も多く石段は日陰になっていて、そんなに気温が高い訳じゃない。
なのに俺は、顔と身体全身から尋常じゃないくらいの汗をかいていた。
腕で額の汗を拭ったが、後から後から流れてきてどうしようもない。
「……何だろうな。でも、具合が悪い訳じゃないから……」
「ならいいが……」
石段を登りきると、奥に社が見えた。
左手には、不思議な雰囲気をまとった大木がある。俺はフラフラと導かれるように大木に近寄った。
「颯太? そっちじゃないぞ」
「でも……」
そのとき、奥の方にある社から老人が出てくるのが見えた。
大木が気になったけど、諦めて社に向かおうとしたとき――背後から、奇妙な気配が迫ってくるのを感じた。
「……!」
振り返ると、大木の根元にある洞から、黒い触手が這い出てきた。
タコの足のようなその何本もの触手があっという間に俺の両腕と両足を捕らえる。
「な……」
「颯太!」
親父が俺の腕を捕らえたのが分かったが、俺にはどうすることもできなかった。
そのまま黒い触手に引っ張られ、どこかに引きずり込まれてしまった。
「げえっ!?」
視界が真っ暗になり、上も下も分からなくなる。
親父が俺の腕を掴んでいることだけは分かる。温度がある、ちゃんと生きてる。
とりあえず今のところ、俺達親子は無事らしい。
「颯太! 大丈夫か! 返事をしろ!」
真っ暗闇の中で親父の声が響く。
「ああ! 親父は!?」
「怪我はない、が、これは……」
苦しそうな声。俺の腕を掴む手の力がやや緩む。
こんなところではぐれる訳にはいかない、と親父の腕を取ろうとした瞬間、急に視界が開け、俺はドスンと尻餅をついた。
「いってぇ!」
「ぐっ!」
俺の腕に掴まっていた親父もゴロゴロと転がる。
「親父!」
俺は持っていた荷物を放り出すと、倒れた親父に駆け寄った。
どうやら、大きな怪我はないようだ。
「――ΣηξΠ」
ふいに、女の声が聞こえた。何と言ったのかはわからない。
振り返ると、一人の少女が立っていた。
13、4歳ぐらいだろうか。長い銀色の髪が床にまで流れている。
碧の瞳が、俺たち親子をじっと捉えていた。着物のような洋服のような、白い不思議な衣装を身にまとっている。
「……何だ? 誰だ?」
「……ΘσℵЮ」
少女は何事かを喋ると、俺に向かって手を翳した。途端に、鳩尾辺りが熱くなる。
「うわっ……」
たまらず俺は胸を押さえて跪いた。鳩尾が熱いのと視界がぐるぐる回って立っていられない。
「颯太!」
親父が俺の身体を支えたのは分かったが……自分ではどうすることもできない。
ふいに、脳裏にさまざまな映像が流れた。
一人の男の顔と……三人の……この世のものとは思えない雰囲気を醸し出す女性の姿。黒い闇。
――そして、何かの欠片。
気がつくと……鳩尾の熱さは消え、這いつくばっていた床の模様が俺の目に飛び込んできた。
「――思い出したか?」
少女の声が聞こえた。
日本語ではない……けれど、俺にはその言葉が分かる。
俺はおそるおそる顔を上げた。
先ほどの銀髪で碧の瞳の少女がじっと俺を見下ろしている。
「言葉は……わかる。喋れる」
俺もその少女と同じ言語で返した。
理屈は分からない。
ただ、確かに――遠い昔、俺はこの国にいたことがある。そして、この言葉を喋っていた。
『颯太? いったい……』
訳のわからない言葉を喋り始めた俺を、親父がひどく狼狽えて揺さぶった。
『親父……ちょっと待っててくれ』
俺は日本語で親父を制止すると、立ち上がって少女の方に向き直った。
「俺は……お前に呼ばれたのか?」
「――そうだ、と言いたいところだが……正確には違う」
少女は背後の神殿のようなものを指差した。
そこには、ゾッとするほど異様な形に広がりながら蠢く、真っ黒な闇があった。
「お前は……あの闇の下にある勾玉に呼ばれたのだ」
少女の碧の瞳がその声と共に強く煌めき、俺を射抜いた。
「……んが」
金属が震える音が、俺の睡眠を妨げる。ぼんやりと眼を開けたつもりだったが、視界には何も映らない。まだ目が開いていないらしい。
絶賛夏休み中だってのに……。俺、目覚ましかけたっけな?
手探りで枕元の目覚まし時計を叩く。
ジリジリジリ……。
しかし、音は鳴りやまない。
頭をボリボリ掻きながら起き上がると、チカッ、チカッという赤い光が目に入った。家の電話だ。ダイヤルが点滅している。
「……間違えた」
独り言を呟くと、俺は欠伸をしながら受話器を取った。
「……もしもし」
“颯太か”
「何だよ、親父かよ……」
溜息をつきながらテーブルの上のリモコンに手を伸ばすと、テレビをつけた。
情報番組の司会のアナウンサーが軽快なトークを繰り広げている。時計を見ると、朝の九時半だった。
「俺、一昨日までインカレだったし、疲れてんだよ。こんな早朝に何だよ……」
“九時半は早朝じゃないぞ。それに、お前が疲れてるのはインカレじゃなくてそのあとの打ち上げだろうが”
「……それも込み込みで、だよ」
二日酔いのせいかちょっと頭が重いな……と思いながら、カレンダーを見た。
今日は、8月13日。9日から11日にかけて矢印が引いてあり、『インカレ・絶対勝つ!』と赤マジックで書いてある。
“それはそうと、弓道のインカレ二連覇、おめでとう。よく頑張ったな”
「……どうも。それを言うためにわざわざ電話してきたのかよ」
“違う。わたしの剣道の先生と昨日、お前の話になってな”
親父は警察官だ。今55歳……定年まであと5年だが、まだまだ元気だ。
剣道の有段者で、今でもかなり頻繁に道場に通っている。
多分、その先生のことだろう。
“そしたら、T県の山奥に住んでいる弓道の偉い先生が知り合いにいて……その先生が、お前に会ってみたいということなんだ。……お前も会ってみたいか?”
「えっ! マジで!」
若干寝ぼけていた頭のもやが急に晴れた。何度もまばたきする。
「それ、本当か?」
“ああ。人嫌いの先生らしいから珍しいってことでな。それで、この機会にどうですか、と言われたんだが。お前、弓道だけは真面目だから……”
「会いたい! いつそっちに戻ればいい?」
“わたしは今日と明日なら非番だが。だがT県となると今日の夕方には出た方がいいかもしれんな”
「じゃ、今から戻るよ。じゃな!」
俺は電話を切ると、慌てて立ち上がった。二日酔いで若干ふらりとする。冷蔵庫からスポーツ飲料の缶を一本取り出して蓋を開けたところで、再び電話が鳴った。
「はい?」
“中平くん? 私……エミ”
「……ああ」
“今日の待ち合わせだけど……”
「あっ」
思い出した。確か、デートする約束してたっけな。
「ワリぃ。俺さ、今から実家に帰ることになったから、今日はナシな」
“はあ!? 前から約束してたじゃん!”
「悪い、悪い。弓道のことでちょっとさ」
“何かあったらそればっかり!”
「んじゃ」
面倒臭いので、女の言葉を待たずに電話を切った。
何か言いかけていたような気もしたけど……ま、いいか。別に、彼女でも何でもないし。
シャワーを浴びて身支度を整えると、俺は急いでアパートを出た。
弓道は、俺の中で特別だ。親父の影響でガキの頃は剣道をやっていたけど、中学校では弓道部に入った。
俺の住んでいた町では近くに弓道場があったから、友達と遊んだ帰りや道場に行くときに幾度となくその様子を見ていて、憧れていたからだ。
何だろう……何て言うか、一歩踏み入れた途端、別世界のような、この世界で自分独りだけのような……自分ときちんと向き合えるようなあの空間が、好きだった。
聞けば、俺が小4のときに死んだ母親が弓道をやっていたらしく、俺が剣道をやめて弓道一本で頑張りたいと言った時も、親父は反対しなかった。
でも、それ以外のこと……例えば勉強とか、恋愛とか、弓道以外ではあまり夢中になれるものはない。何となく流されて、だらだらとここまで来ている。大学も弓道で推薦をもらえたところに決めただけだし、特に将来の目標も何もないまま過ごしていた。
何て言うかな。多分、きっと、俺が本当にやりたいこと、やるべきことに、まだ出会えていないんだろうな。うん。
実家に帰った後、親父と共に夜行列車に乗り込み、T県に向かった。
次の日の明け方にT県に到着し、すぐに電車を乗り換えてさらに山奥へと向かう。
景色が普通のビル街から住宅街、田園風景と変わっていく。
その人はT県の山奥にある神社の神主をしていたが、今は引退したらしい。
鄙びた駅に到着すると、「分かりにくい場所にあるから」と現在の神主である息子さんが車で迎えに来てくれた。
息子さんといっても、親父と同じ年代ぐらいだと思う。……ということは、その先生はかなりの高齢なのだろう。
親父は剣道一筋で弓道をしたことはないけれど、武道の達人と呼ばれる人に会える機会は滅多にないから、と楽しみにしているようだった。
親父の仕事柄、親父と二人で旅行なんてしたことない。
それに達人って、どんな先生なんだろう。
……だからかな。目的の神社に近付くにつれ、何だか変な気分になった。
そわそわするような、ぞわぞわするような……。
「……どうした? 黙り込んで」
「――いや……」
俺はハッとして慌てて笑顔を作った。
「……何か、緊張してるのかな」
「他のこともそれぐらい真面目に考えてくれればいいんだがな……」
親父は俺の顔をちらりと見ながら苦笑した。
俺は親父の呟きは聞かなかったことにして、再び窓の外を眺めた。
それからさらに十分ほど走ると、車は神社に着いた。
長い石段が続いている。社はかなり上の方にあるようだが、木々に囲まれていて、全く見えない。
息子さんが
「この上ですよ。私はちょっと用事があるのでご案内できませんが……。父が出ているはずですから」
と申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、大丈夫です。本当にありがとうございました」
「お世話になりました」
俺たち親子が頭を下げると、息子さんは会釈をして車に乗り込み、どこかに走り去って行った。
俺は荷物を背負って石段を登り始めた。
車の中で感じていたぞわぞわが、どんどん強くなっていく。
この先に――確かに、何かがある。
「……颯太? どうした?」
親父が心配そうに俺の顔を覗きこんでいた。
「え……何が?」
「何って……凄い汗だぞ」
親父に言われて初めて気づく。
真夏だから当然暑いけれど……ここは木々も多く石段は日陰になっていて、そんなに気温が高い訳じゃない。
なのに俺は、顔と身体全身から尋常じゃないくらいの汗をかいていた。
腕で額の汗を拭ったが、後から後から流れてきてどうしようもない。
「……何だろうな。でも、具合が悪い訳じゃないから……」
「ならいいが……」
石段を登りきると、奥に社が見えた。
左手には、不思議な雰囲気をまとった大木がある。俺はフラフラと導かれるように大木に近寄った。
「颯太? そっちじゃないぞ」
「でも……」
そのとき、奥の方にある社から老人が出てくるのが見えた。
大木が気になったけど、諦めて社に向かおうとしたとき――背後から、奇妙な気配が迫ってくるのを感じた。
「……!」
振り返ると、大木の根元にある洞から、黒い触手が這い出てきた。
タコの足のようなその何本もの触手があっという間に俺の両腕と両足を捕らえる。
「な……」
「颯太!」
親父が俺の腕を捕らえたのが分かったが、俺にはどうすることもできなかった。
そのまま黒い触手に引っ張られ、どこかに引きずり込まれてしまった。
「げえっ!?」
視界が真っ暗になり、上も下も分からなくなる。
親父が俺の腕を掴んでいることだけは分かる。温度がある、ちゃんと生きてる。
とりあえず今のところ、俺達親子は無事らしい。
「颯太! 大丈夫か! 返事をしろ!」
真っ暗闇の中で親父の声が響く。
「ああ! 親父は!?」
「怪我はない、が、これは……」
苦しそうな声。俺の腕を掴む手の力がやや緩む。
こんなところではぐれる訳にはいかない、と親父の腕を取ろうとした瞬間、急に視界が開け、俺はドスンと尻餅をついた。
「いってぇ!」
「ぐっ!」
俺の腕に掴まっていた親父もゴロゴロと転がる。
「親父!」
俺は持っていた荷物を放り出すと、倒れた親父に駆け寄った。
どうやら、大きな怪我はないようだ。
「――ΣηξΠ」
ふいに、女の声が聞こえた。何と言ったのかはわからない。
振り返ると、一人の少女が立っていた。
13、4歳ぐらいだろうか。長い銀色の髪が床にまで流れている。
碧の瞳が、俺たち親子をじっと捉えていた。着物のような洋服のような、白い不思議な衣装を身にまとっている。
「……何だ? 誰だ?」
「……ΘσℵЮ」
少女は何事かを喋ると、俺に向かって手を翳した。途端に、鳩尾辺りが熱くなる。
「うわっ……」
たまらず俺は胸を押さえて跪いた。鳩尾が熱いのと視界がぐるぐる回って立っていられない。
「颯太!」
親父が俺の身体を支えたのは分かったが……自分ではどうすることもできない。
ふいに、脳裏にさまざまな映像が流れた。
一人の男の顔と……三人の……この世のものとは思えない雰囲気を醸し出す女性の姿。黒い闇。
――そして、何かの欠片。
気がつくと……鳩尾の熱さは消え、這いつくばっていた床の模様が俺の目に飛び込んできた。
「――思い出したか?」
少女の声が聞こえた。
日本語ではない……けれど、俺にはその言葉が分かる。
俺はおそるおそる顔を上げた。
先ほどの銀髪で碧の瞳の少女がじっと俺を見下ろしている。
「言葉は……わかる。喋れる」
俺もその少女と同じ言語で返した。
理屈は分からない。
ただ、確かに――遠い昔、俺はこの国にいたことがある。そして、この言葉を喋っていた。
『颯太? いったい……』
訳のわからない言葉を喋り始めた俺を、親父がひどく狼狽えて揺さぶった。
『親父……ちょっと待っててくれ』
俺は日本語で親父を制止すると、立ち上がって少女の方に向き直った。
「俺は……お前に呼ばれたのか?」
「――そうだ、と言いたいところだが……正確には違う」
少女は背後の神殿のようなものを指差した。
そこには、ゾッとするほど異様な形に広がりながら蠢く、真っ黒な闇があった。
「お前は……あの闇の下にある勾玉に呼ばれたのだ」
少女の碧の瞳がその声と共に強く煌めき、俺を射抜いた。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる