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おまけ・後日談

【閑話1】伝承と現実

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 火の王獣フィッサマイヤへのもとへ、マユが再訪問したときのお話です。
――――――――――――――――――――――――――――――――


『まぁ、それは地上の絵本ですか?』

 両腕に抱えていた三冊の絵本を木製テーブルの上に置くと、マイヤ様が嬉しそうに声を上げた。
 ふわりと辺りに魔精力をふりまきながら老婦人の姿になり、顔をほころばせる。

 フィッサイマイヤの森の奥、樹の上の小さな家。
 私は再び、この場所に訪れていた。

 前回の訪問でマイヤ様はとても良くしてくださったのに、私は何にも手土産を持っていかなかった。それが本当に申し訳なくて。
 マデラギガンダの訪問で匣迷宮のパンを持っていくことは思いついたものの、それだけじゃねぇ……と悩んでいたときに、この絵本のことを思い出したの。

 前に一度だけ地上に降りた際に、黒い家リーベン・ヴィラに置いてあったこの絵本だけは持ち帰っていたのよ。お気に入りだったし、セルフィスに千年前の話を聞くときにちょうどよかったから。
 まぁ実際には魔王業がだいぶん忙しいらしく、全然聞けてないけど。

 それはさておき、地上ではどういう風に伝えられているのか、とマイヤ様が興味あり気だったから今回持って来てみたのよね。

「はい、わたくしがこの世界を知るために、最初に読んだ絵本です」
『まぁ……』

 まるで少女のような瞳の輝きを見せたマイヤ様は、一番上の赤い表紙の本を手に取り、ぱらりと広げた。
 頷きながらじっくりと眺めたものの……ふいに何回かパチパチと瞬きをし、困ったように首を傾げる。

「マイヤ様、どうされましたか?」
『文字に触れるのは久し振りで、少々読みづらいのですわ……』

 え、まさかの老眼? ……って、そんな訳ないわよね。
 魔獣は本来、地上の本を読むことなんて無いもの。理解できるマイヤ様がすごいのよ。言葉は時代と共に変遷するものだし。
 そりゃブランクがあれば読みにくいわよね。

「よろしければ、わたくしが朗読いたしますわ」
『そうしてくださる? ではお茶の準備をしますわね』

 マイヤ様はウキウキとそう言うと、台所に向かっていそいそとお茶の準備をし始めた。


   ◆ ◆ ◆


 むかしむかし、世界は一つの大きな大地でした。
 神の吐息から地上に風が生まれ、汗から川が生まれました。
 そして海が生まれ、生物が生まれ、やがてヒトが生まれました。

 神が生み出したそれらの物には、すべて神の恩恵、のちに『魔精力』と呼ばれるものが宿っていました。
 しかし、この魔精力をふんだんに蓄えることができる人間はごくわずか。そしてその力を扱える人間ともなると、数えるほどしかいませんでした。
 いつの間にか人には優劣ができ、このことに不満を覚えた人々は自然から魔精力を取り出し、変換して使う事を覚えました。

 やがて、ヒトは大地を支配することを願うようになり、より魔精力が多い大地を欲するようになり、人々の間では諍いが絶えなくなりました。
 力の強い者が弱い者を支配するために、ありとあらゆる物から魔精力は搾り取られていきました。
 国は豊かになっていきましたが大地は痩せていき、それは大地を生きる生き物にも影響を与えることになりました。

 そうして自然界は歪められ、その歪められた魔精力により次元にひずみが生まれ、魔界が発生しました。
 ひずみと魔界からの風により、大地には魔物が生まれるようになりました。
 それでも人々は、自然から魔精力を搾り取ることを止めませんでした。
 魔物が多く棲む場所には大量の魔精力が眠っている、と、魔物の居場所すら奪っていきました。

 人間と魔物が殺し合う世界。そうしてたくさんの人間と魔物の命を犠牲にしながら、人間はどんどん己の欲望に呑み込まれ、増長していきました。

 やがて人間は、すべての魔精力の源、神の聖域である『ロワーネの谷』への侵入を企てました。
 それまで歯痒い思いでずっと下界を見守っていた神は、ついに怒りました。
 そして魔界の長となるべき『魔王』を生み出しました。

「ロワーネの谷を守り、人間を懲らしめよ」

 神に命じられ、人間を粛正する存在として生まれた魔王は、八体の魔獣と四体の王獣、一体の神獣を率いてロワーネの谷から人々を追い出しました。
 そしてありとあらゆる国に己の下僕を遣わし、次々と滅ぼし、世界を荒廃させていきました。

 そこに、一人の男が現れます。ワイズ王国の第二王子、ジャスリー・ワイズです。
 彼は必死の思いで神に祈ります。

「神よ、人は滅びるべき存在なのか。魔精力に頼り過ぎず、魔物とも共存して生き残る道はないのか」

 その声を聞いた神は、しばし考えます。

「魔物には『魔王』を与えた。……では、ヒトには『聖女』を与えよう」

 ワイズ王国よりはるか北の小さな村――生まれながらに治癒の力を持った、ヒトの中でも飛び抜けて魔精力を蓄えていた女性に、『聖女』の力が宿りました。
 神は呟きました。

「『聖女』を生かすも殺すも、ヒト次第……」


   * * *


 ワイズ王国のはずれで生を受けたのちの聖女、シュルヴィアフェス。
 彼女は神が授けた『聖女』の力により――あまたの魔物を支配し得る『召喚魔法』を手に入れました。
 その強大な力を己のために使うか、人間の存続のために使うか。
 神は聖女を試したのです。

 しかし彼女は、どちらも選びませんでした。
 ただひたすら己の力をひた隠しにし、ワイズ王国のはずれの山奥で自然と共に――魔物と共に、ひっそりと暮らしていました。

 なぜなら――その森は、人々が『フィッサマイヤの森』と呼ぶ深く険しい森。一度入ったら二度と帰ってこれない、魔界に限りなく近い場所だったのです。
 そしてシュルヴィアフェスはその森の主、『王獣フィッサマイヤ』と共に暮らしていました。
 フィッサマイヤは、フサフサとした長い尻尾を持つ金色の狐。額にある赤い宝石は、すべての魔法を無効化する力を持っています。

 魔物と意思を交わす術を覚えたシュルヴィアフェスは、魔物を駆逐する人間の味方につくことはできませんでした。
 そして勿論、人間を粛正する魔王の味方につくこともできず、逃げることしかできなかったのです。
 そんなシュルヴィアフェスの「自分を隠してほしい」という願いに応え、フィッサマイヤは魔界より現れ、彼女を自分の森に匿うことにしました。

 しかしここに、聖女を探す使命にかられたジャスリー・ワイズ王子が現れます。

「――世界中を探したが見つからない。聖女はきっと此処にいる」

 彼はそう確信していました。

 『フィッサマイヤの森』は魔法が一切効かない恐怖の森。魔物に出くわせば、人間などひとたまりもありません。
 しかし世界一とも謳われる剣の腕を持っていた彼は、

「聖女を見つけられるのは自分しかいない」

と臣下の反対を振り切り、一度入ったら二度と出られぬこの森にたった独りで足を踏み入れました。

 心優しいシュルヴィアフェスは、人間も魔物も選べなかっただけ。王子を亡き者にしたかった訳ではありません。
 傷だらけになりながら魔物と戦い、深くより深くと森に入ってくる彼を、見殺しにすることはできませんでした。

 こうして――『聖女』シュルヴィアフェスと後に彼女の『伴侶』となるジャスリー王子は、フィッサマイヤの森で運命的な出会いを果たすのです。


   * * *


 これ以上人間を駆逐されたくないジャスリー王子と、これ以上魔物や魔獣の棲む自然を荒らされたくないシュルヴィアフェス。

 二人は長い間、視線を交わし、言葉を交わし、意思を交わし――そうしていつしか、愛を交わし。
 二人の間にはリンドという名の男の子も生まれ、ついに決意しました。

 ジャスリー王子は各国を巡り、人々が魔精力の搾取を止めるようにと。
 シュルヴィアフェスは各聖域を巡り、魔獣が人間の粛正を止めるようにと。

 それぞれの力で以て、説き伏せていったのです。
 
 そんな王子と聖女の前に、王獣マデラギガンダが魔王の使者として現れました。

 魔王の臣下である魔獣は引かせる。
 その代わり、聖女シュルヴィアフェスがその契約の証として魔王に仕えること。
 魔界に足を運び、魔王を鎮めてみせよ、と。

 わたしから聖女を奪ってくれるな、とジャスリー王子は涙ながらに訴えましたが、魔王の使者は聞き入れませんでした。
 そんなジャスリー王子を押し留め、聖女シュルヴィアフェスは一歩前に踏み出ると、静かに頷きました。
 魔王の申し出に応じる決意を固めたのです。

「聖女シュルヴィアフェスが生きている間は、我々は人間の世界には関与しないことを約束しよう」

 聖女は、魔王の使者と共に、青い空の向こうへ――魔界へと、消えていきました。
 こうして、この世界は聖女の尊い意志によって守られたのです。


   ◆ ◆ ◆


『まぁ……』

 私の声に耳を傾けていたマイヤ様が、深い吐息を漏らす。

『意外ですわ』
「意外?」
『ええ』

 マイヤ様が何度も頷きながら絵本のあるページを開く。
 人間が魔精力を貪り、人間同士で諍いを繰り返し世界が荒廃していく場面。

『人間の世界の本ですから、人間にとって都合の悪いことは伏せられているものと思っておりました。暴れまわり世界を半壊させた魔王は大悪党、聖女は己を犠牲にして魔王を止めた……と、いうように』
「その傾向が強いのは事実ですね」

 読み終えた第三巻をパタンと閉じ、まじまじと眺める。
 地上に出回っている聖女の物語は、魔王の暴虐を誇張したり聖女の悲愴な覚悟を切々と語ったりジャスリー王子との悲恋を謳ったり、といった脚色がなされていることが多いのよね。
 これは、外に出て聖者学院に通うようになってからわかったことなんだけど。

 でも、伝えていく中で創作部分が増えていくことはままあることよね。元の世界でも、マンガを読んで得た知識が実際には違っていた……なーんてこと、ざらにあったもの。

 それからいくと、アイーダ女史が選んでくれたこの絵本は子供でもわかるように多少端折ってはあるものの、わりと史実に忠実なのよね。歴史書などで『事実』とされていることだけをきちんと語っている感じ。
 この世界を全く知らない私のために、とアイーダ女史が選んでくれた絵本。変に固定観念を植え付けないように、という女史の教育方針がよくわかる。
 あー、今になって本当に有難味が身に沁みるわ。また会いに行きたいな……。
 でも、魔物の聖女としてやらないといけないことはまだまだあるし、セルフィスも許してはくれないだろうけど。

『それにしても……ふふっ』

 マイヤ様がパタンと絵本を閉じ、肩を震わせて笑う。

『ルヴィがこのように描かれているとは……』
「え、でも、表向きは聖女らしい振舞いを心がけていた、というお話ではなかったですか?」
『ええ、そうですわね』
「……えーと、裏では、どんな……?」

 好奇心がウズウズと湧いてきてちらりと上目遣いで聞いてみると、マイヤ様は肩をすくめ、『ふふふ』と笑った。
 

   ◆ ◆ ◆


 土の王獣、マデラギガンダに連れられ魔界にやって来た聖女シュルヴィアフェスが、その肩から謁見の間の赤い絨毯の上に降り立つ。
 謁見の間には地上の殲滅に出ていない、半分以上の王獣・魔獣が待ち構えていた。

「ルヴィ……!」

 一番奥にある、金色に輝く玉座を倒さんばかりの勢いで立ち上がった魔王。
 玉座に負けないぐらい輝いた金色の目を見開き、一目散に聖女に駆け寄る。

「会いたかった……!」
「――はあぁぁぁぁ!」

 聖女の右腕が凄まじい魔精力を纏う。いったん後ろに引きつけたその右腕を、聖女はとてつもない速さで突き出した。
 腰を入れて打ち出されたその拳が、見事に魔王の鳩尾に命中する。

「ぐっほぉぉぉー!」

 魔王の身体が後ろに吹き飛び、ドン、ズザーッという音をたてながら赤絨毯の上を転がった。そのままぴくりとも動かない。

 シン……と辺りは静まり返った。その場に控えているはずの魔獣達は、息を潜めて成り行きを見守っている。

 やがて魔王は自分の腹を押さえ
「うぐぅ……」
と呻き声を漏らしながら身体を起こした。
 聖女と抱擁が交わせるものとすっかり油断していたため、まともに食らってしまったらしい。

 そしてチロリと聖女を見上げると、
「ルヴィ……何をするのだ」
と恨めし気にぼやいた。

「フン!」
と鼻息を漏らしたルヴィは両手を腰に当て、身を乗り出して魔王をジロリと睨みつける。

「何をするのだ、じゃない。人間の半数近くが死滅するほど暴れまわってどうする! この世界を滅ぼす気か!」

 聖域を巡り、魔獣達と会っていた聖女シュルヴィアフェスはただ説得を繰り返していたのではない。
 魔王の配下であるはずの魔獣達に逆に懇願されていたのだ。

 魔王が拗ねてしまって我々の言葉に耳を貸さない。どうか魔界に来て魔王の暴虐を止めてくれ、と。
 人間の粛正は必要だったが、我々はこの世界を滅ぼす気は無い。しかし我々は魔王の命令には逆らえないのだ、と。

 事実、魔王侵攻は全土の4割にも及んでいた。人間が築き上げていた文明は叩き壊され、このままでは滅亡の一途を辿るだけだった。

「……だって」

 魔王が涙目になり、イジイジと自分の両手の指をつき合わせている。

「だって、何?」
「ルヴィ、アイツのところに行ってしまった」

 魔獣フィッサマイヤの手引きにより早々にルヴィと会っていた魔王は、かねてから彼女に恋い焦がれていた。
 足繫く通い、拙い言葉でルヴィを口説いていたのだが、ジャスリー王子の汚い罠にかかりルヴィは結界の外に連れ出され、寝取られてしまったのだ。

 王子はともかく自分の子供は大事だったルヴィは、人間の未来を守るために表に出ることにした。
 そうして魔王の下へやってきて、鉄拳制裁を加えたのである。

「仕方ないでしょ。あたしはともかくあたしの子は魔獣の結界の中には居られない。王子の元へ行くしかなかったんだから」
「……ひどい」
「ひどいのは魔王の蹂躙っぷりでしょーが」
「でも、避けた」
「……」

 魔王はルヴィを奪ったジャスリー王子を憎んでいた。しかし、そのジャスリー王子がいるワイズ王国――特に王宮付近には、一切危害を加えなかった。
 なぜなら、そこには王子の子を孕んだルヴィが匿われていたから。

 王子は憎い。けれどどうしてもルヴィのことが忘れられなかった魔王は、ルヴィを危険な目に遭わせることだけはできなかったのである。

 そのことに気づいた配下の魔獣たちは、ルヴィなら魔王を止められるだろう、とずっと彼女を説得し続けていたのだった。
 そうして彼らの説得に折れ、ルヴィは魔界にやってきたのである。

「わかってるよ。あたしのことを気遣ってくれたんだよね」
「ルヴィ……!」
「けど、ちょっと待ったー!」

 素早く立ち上がり、とてつもない勢いで抱きついてこようとした魔王の顔を、ルビの右手がグニィと捻じ曲げる。

「まずは、とっとと魔獣たちに命令して! 地上から引き揚げろって!」
「……わかった」
 
 コクンと素直に頷いた魔王は、その場で魔獣達に命令――人間たちの棲む世界から魔獣たちが一斉に消えた。
 そして各地に残った魔物にも、人間に必要以上に存在を脅かされない限りは手を出させない、と魔王は誓った。

「これでよし、と」

 一件落着、とばかりに頷くルヴィの背後で、魔獣達は

『ルヴィ、ありがとう!』『助かった……』『ああ、尊いー!』

と口々に礼を言い、その逞しい後ろ姿に手を合わせたのだった。


   ◆ ◆ ◆


「……え゛」

 思わず半目になってしまった私に、マイヤ様がにっこりと微笑む。

『素敵でしょう?』
「あ、ハイ」

 カクン、と操り人形のように頷きはしたものの、マイヤ様の言う『素敵』がよくわからない。
 何というか……うーん?
 思わず首を捻っていると、マイヤ様がポン、と両手を合わせて『あぁ』と声を上げた。

『魔王が殴り飛ばされたことに驚きまして?』
「ええ、それはもう」
『ルヴィは男性に混じって狩りで生計を立てていましたから、腕力は男性並みでしたのよ。ましてや聖女の力によって最大限強化した拳とあっては……。もう、惚れ惚れするほど見事な正拳突きでしたわ』

 いや、そういう意味じゃないんだけどなー。
 『清らかな聖女が世界のために』というハイファンタジー路線でも、『魔王と聖女の密かな愛が』というラブロマンス路線でもない。
 『拳でわからせる』って、まるで少年マンガのような……。
 感動の再会、とかじゃなかったのね。ムードもへったくれも無いわ。
 私、どちらかというと魔王の心境の方に共感できるんだけど……。

 聞いてみないと本当にわからないわね、とちょっと呆然としてしまったものの、昔の話をするマイヤ様はとっても楽しそうで。
 だから「まぁいいか」と思い直したのだった。

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