トイレのミネルヴァは何も知らない

加瀬優妃

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放課後 ~後日談~

約束の日(5)

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 備え付けられていたクローゼットの下には、紺色の浴衣が綺麗に畳まれて置いてあった。浴衣を手に取り、同じく置いてあったバスタオルを抱えながら、畳の脇に置いておいた紺色の旅行鞄に手を伸ばす。

 何と玲香さん、赤いボストンバッグの変身セットの他に、この紺色の鞄に私用の着替えを詰めておいてくれていた。山歩きを意識してかジーンズとベージュのパンツが入っている。
 他には紺のボーダーシャツ、黒のパーカー、モスグリーンのカットソー、白のレースシャツ、グレーの春用カーディガン……。
 あれっ、ちょっと待て、多くないか? 2泊にしても、だ。
 有難いけど、これは……。

「莉子、何してるの?」

 帰ったら玲香さんに買いすぎ注意って言わなきゃ、と思いながら替えの下着を探していると、新川透がお茶を飲みながら声を掛けてきた。
 人の荷物を覗き込んではいけない、ということは分かっているらしく、近寄ってはこない。

「お風呂に入りに行くから準備」
「入りに行くって……そこだけど」

 新川透が外を指差す。
 指差したその先には……バルコニーに設置されているぼんやりとした光で照らされた、石で作られた浴槽が。
 ……へ? 外の露天風呂?

「そこだけ!? 冗談でしょ!?」
「いや、本当に」
「そりゃ、全室露天風呂付きとは聞いてたけど。普通はそれとは別に大浴場があるでしょうが!」
「ここにはないよ。いったん部屋に入ったらもう出なくて済むようになってるんだから」
「嘘だ! 露天風呂しかないとか、あり得ない!」

 そう叫んですっくと立ち上がったものの、確かに本館までのあの距離を往復するのは現実的ではないように感じた。

 ちょっと待て……そうだ、この扉!

 まだ開けてなかった奥の引き戸を開ける。洗面台、いわゆるパウダールームの奥に、もう1つ扉が。
 開けてみると、普通の一般家庭とそう変わらない広さの風呂場があった。ただ、浴槽は檜で出来ていて、まるでCMのようだ。
 こちらも温泉が注がれているようで、檜の匂いと混じって何とも言えない良い香りが漂っていた。檜風呂には溢れそうなぐらいお湯が張ってあり、湯気が立ち昇っている。同じく檜でできた注ぎ口からはこんこんとお湯が注がれている。

 うわあ、お湯がこんなにいっぱい!
 アパートでは水道代とガス代の節約のために冬場もシャワーしか浴びてなかったから、涙が出そうだ。
 すっごい贅沢じゃーん!

 そして、浴槽の左手にはもう一つ扉が。どうやら外の露天風呂に繋がっているようだ。
 なるほど、ここで身体を洗ってから外に出れるようになってる訳ね。

「ちゃんと内風呂があるじゃない。こんな立派なものが!」
「見つかったか……」

 後からやってきた新川透が私の背後で残念そうに舌打ちをした。
 オイコラ、いったいお前は何を企んでいた?

「当たり前でしょうが! 露天風呂なんて落ち着いて入れないよ!」
「旅の醍醐味なのに……本当に入らないの?」
「あなたが外まで出ていってくれるなら入る」
「それは酷くない?」

 いや、何にも酷くありません。
 部屋から露天風呂は見えないとはいえ、移動するときは裸で歩かないといけないんだし。
 そ、そ、外で裸……無理に決まってるでしょ!

   * * *

 さて、部屋のお風呂に入るしかないとなると、どっちが先に入るかという問題が出てくる。
 あー、考えないようにはしてたけど妙にリアルになってきたなあ……。
 気にしない、気にしないとか言ってる場合じゃなくなってきた。

 嫌ではないんです……が、
「本当にいいのかな」
という気持ちがどこかにあるんですよ。
 この「いいのかな」は、いろんな意味があって、ですね……。
 いかん、考える時間が欲しい。

 ……という訳で、新川透に先に入ってもらうことにした。そこは特に異論はなかったらしく、
「覗きたかったら覗いてもいいよー」
と要らん一言を残して引き戸の奥に消えていった。

 えーい、能天気な。こっちは人生最大の山場を迎えているというのに。


 もともと私は、必要以上に踏み込んで来る人が苦手だ。
 会話とかもそうだけど、立ち位置が近い人も苦手。不意に近寄られると、身体が硬直してしまう。

 そんな、どこか周囲を警戒しながら――お母さんが死んでからは、さらに堆い壁を築き上げながら過ごしていた、八月下旬。
 ――新川透に、出会った。

 あれからもう、半年以上が過ぎたのか……。ちょっと、今までのことを一つ一つじっくりと思い返してみようか。


「…………うーん」

 思わず、腕組みをして唸ってしまった。

 本当に濃い半年だったなあ。よく頑張ったな、自分。
 それにしても、ここまでズカズカと私の中に踏み込んできた人は、新川透の他にいないと思う。しかも最初は計画的犯行だった訳で、怒ってもいいはずだったんだけどなぜか怒れなかった。
 いや、細々と腹を立ててはいるけれども(それはもう、数えきれないほど)、だからと言って新川透と距離をとる気にはならなかった――正しくは、なれなかった、というか。

 そう考えると、私は意外に早くから新川透のことはすっ……気に入っていたのだとは思う。

 だから、結婚とかそういうのはさすがにまだ考えられないけど、現段階として、その……そういうコトになるということに関して、嫌だとは思っていないのだ。
 むしろ、他の人とかの可能性を考える方が気持ち悪い。それならばこの辺で思い切って、という気持ちがある。

 うーん、こういうことを言うと、また「事務的だね」と言われてしまうのだろうか。
 でも、いつかは通る道で――ずっと通らない方が嫌だし――だったら、自分のことをちゃんと好きでいてくれる人が相手なら一番いいじゃない。
 こう思うのは、そうおかしくはないんじゃない?
 
 ……で、ここでもやっとするのだ。

 新川透が本気なのはわかる。嘘を言っているとは思っていない。
 でも、どうしても
「なぜ私なんだろう」
と思ってしまうのだ。
 どうもここが腑に落ちないというか、最後に引っ掛かってるというか。

 そりゃあね、恋に落ちるのに理由なんてないよ、という意見もあるだろう。
 だけど、絶対何かのきっかけはあるはずだよ。それが解らないから……。

「肝心なところがぼやけてていいのかな」
「このまま進んでいいのかな」
「本当に私でいいのかな」

 ……と、私の中の「いいのかな」が降り積もっていく。
 先に進むことを躊躇ってしまうのだ。

 私の中の、恋でバカな乙女になっている方の莉子は、イケイケGOGO状態なんだけどね。
 両想いなのに何の問題があるの? 彼の気持ちに不安はないんでしょ?
 ここで逃げたら、多分一生越えられないよ……と、耳元で囁くんだけども。
 でもなあ……。


「莉子?」
「ひゃいっ!」

 急に声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。振り返って、二度びっくりする。
 脳震盪を起こしそうになった。

「はぐっ……」
「ん?」

 ん?じゃないです。タオルで頭を拭きながら首を傾げないでもらえませんか。
 超絶イケメンの、風呂上がりの、浴衣姿の破壊力たるや……!
 乙女派プチ莉子ズが鼻血を噴くレベルだわ!
 いや、乙女は鼻血は噴かないか。妄想バカっ子隊の方か。
 ……って、そんなことはどうでもいい!

 いかん、こんなの見てたらさっきまで考えていたこととかどうでもよくなってしまう。
 やっぱり、イロイロと自覚してからというもの、トキメキ上昇がハンパないのよ。気を抜いたらあっという間に思考力を持っていかれてしまう。
 とにかくこの場は退避だ!

「えーと、じゃあお風呂いってくるね!」

 早口にそう言うと、さっさと着替えとバスタオルを持ち、パウダールームに逃げ込んだ。
 あー、こんなことなら先に入ってればよかった……。温泉なんか入ったら余計にのぼせ上がりそうだよ。

   * * *

 湯船に浸かりながらたっぷり考え込み、一応の結論を出した。
 よし!と気合を入れて風呂から上がり、浴衣を着る。
 鏡の中の自分の顔を見る。もうコンタクトは外してしまったから少しぼやけているが、だいぶんスッキリした表情になっている気がする。

 引き戸を開けると、目の前の部屋――畳と応接セットがあるフローリングの部屋はやけに暗かった。バルコニー近くにある間接照明だけが点けられている。
 おや?と思って左を見ると、寝室に繋がる扉がわずかに開いていて、光が漏れていた。寝室にもテレビが付いていたらしく、ニュースを読むアナウンサーの声が聞こえてくる。

 昼間身につけていた衣服を紺の鞄にしまう。いつもの黒縁眼鏡をかけようとして……やめた。
 コレは、身を隠すため、顔を見せないようにするため、という後ろ向きの道具だ。これからしようとしている話には似合わない。多少視点が合わなくても全く見えない訳じゃないんだし、問題ない。

 喉が渇いたので冷蔵庫を開け、ペットボトルのお茶を取り出した。その場で蓋を開け、ゴクゴクゴクと一気に半分ぐらいまで飲む。

 さーて、莉子。
 ここが正念場だ。


「……こっちにいたんだ」

 左手にお茶を持ったまま右手で扉を開け、寝室を覗き込む。
 新川透は奥の方のベッドの上で胡坐をかきながら、テレビを見ていた。

「うん。こっちの方が楽だしね」
「ふうん……」

 ベッドとベッドの間には小さなミニテーブルがあったけど、置いてあったのはコーヒーの空き缶だけ。やっぱりビールは飲んでいないようだ。

「結局お酒、飲まなかったんだね……」
「誤解を生んだり、言い訳になると困るしね」
「え?」
  
 意味が解らず聞き返すと、新川透はニッコリ微笑んだ。
 魔王モードでも聖人君子モードでもない、素の笑顔だ。……多分。

 新川透はミニテーブルからリモコンを取り、テレビをプチッと消した。
 そしてベッドの端から膝下を下ろすと、両腕をゆっくりと広げる。

「おいで、莉子」  
「……」

 楽だろうなあ、考えるのを止めてその胸に飛び込んでしまえたら。
 ただただ甘やかされて、ぬくぬくと……。
 でもそれは、私が出した結論じゃない。

「……行けない」
「迎えに行けばいい?」
「そうじゃなくて……ちょっと待った!」

 ベッドから立ち上がりかけたので慌てて制する。
 新川透はベッドの端に座り直すと
「まあ、待てと言われればどれだけでも待つけど」
と言って、ちょっと溜息をついた。

「嫌、というのとは訳が違うみたいだから。……何?」

 この人はやっぱり、私のことをよく見てるな、と思う。
 ガツガツ踏み込んでくるけど、肝心なところではちゃんと一歩引いてくれる。
 ……いや? そうでもないかな……?

 一瞬、今までのいろいろな出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡ったけど、私は首を横に振ってそれらを追い払った。
 自分の勘を信じよう。ちゃんと聞けば、答えてくれるはずだから。

 私はベッドに近づくと、ミニテーブルにペットボトルのお茶を置き、手前側のベッドに腰かけた。1メートルほどの距離を挟んで、新川透と向かい合う。

「どうしても、納得できないの」
「納得?」
「……うん」

 玲香さんが言っていた。
 時間はたっぷりある。言いたいことは言ってみなさい、と。聞きたいことは聞いてみなさい、と。
 ちゃんと透くんと向き合ってみなさい、と。

「どうして、私なの?」
「……」
「結局、いつもここに戻るの。ここがあやふやだから、シャンとしていられないというか……はっきり恋人だとは思えないというか」
「……」

 新川透は何も言わなかったが、視線が天井を向いた。
 少し何かを考えている様子だった。

「自信が持てないの。土台がグラついている、というか」
「……うん」
「こんな状態じゃ、駄目だと思う。いい加減なことはできない。だから、どうしても知りたい」

 私は両手で、自分の浴衣の袖をギュッと握った。

「――私達、いつ出会ったの?」
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