トイレのミネルヴァは何も知らない

加瀬優妃

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放課後 ~後日談~

長い夜の始まり ~新川透の事情・その3~(後編)

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“トール、顔が変だよ”

 スカイプが繋がり俺の顔を一瞥したノアが、ボソッと言う。
 俺は頬杖をついていた左腕がガクッとなり、危うくキーボ-ドに顔を打ちつけるところだった。
 溜息をつきながら座り直し、画面のノアを見つめる。

『俺の顔、そんなに怖いか?』
“怖くはない。変、って思っただけ”

 そう答えたあと、ノアは不思議そうに首を傾げた。

“誰かに言われた?”
『10歳の女の子にね』
“……へぇ”

 ノアの声が、珍しく楽しそうなものに変わる。

“珍しいね。トールがボロを出すなんて”
『出してない。ちゃんと笑えてた筈だった』

 憮然として答えたあと、ふとノアの台詞の違和感に気づく。

『……俺、怖い顔の時があるのか?』
“んー。僕は、素のトールを知ってるし”
『ん?』
“心が黒いのに笑っているときは、少し怖い”
『……』

 つまり、何だ? 表面上取り繕っていたのをあの子は見破っていた、ということか? しかも初対面で?
 これまで同級生、教師……周りの他人は誰一人、気づかなかったというのに?

“ねぇ、どんな子?”
『知る訳ないだろう。分かるのは名前ぐらいだ』

 少女の名前は、仁神谷莉子。
 ちなみに、彼女の名前は説明会の出欠リストで知った。あの女教師が呼んだ名は随分変わっていたな、と印象に残っていたし、その苗字はリストには一人しかいなかったから。

 市内の公立小学校の五年生で、特別選抜コースを体験。
 分かったことは、それだけ。恐らく入試課の先生に聞けば、もう少し詳しい情報は手に入るだろうが。

“ふうん……リコ、か”
『何故そんなことを聞く?』

 ノアがイザベル以外の人間を気にするなんて珍しい。
 不思議に思って聞くと

“トールが他人の言うことを気にするなんて、珍しいから”

と、何だか俺が考えたことと似たような答えが返ってきた。

『気にするというか……』

 あの子の中で、俺は怖い人間という位置付けにされたんだとしたら、ちょっと残念だな、と。ただそれだけで。
 これまで一度だって、他人にそんな風に言われたことはない。思い上がっていた自分を、ハンマーで殴られたような気分だ。
 ……そうか、だから何だか落ち着かない気分になっているのか。弱みを握られたみたいで。


 そのあと話題はノアが起ち上げたばかりの会社の話になり、俺に一太刀を浴びせた少女の話はそれっきりになった。
 普通なら、この話はこれで終わるはずだった。
 ――あのとき、あの時間にあの道を通らなければ。

   * * *

 学園からバスで街に降りる。専門書を扱っている一番大きな本屋に足を延ばしてみたが、とりたてて欲しい本は見つからなかった。
 本屋から出たところで、下校途中の黄色い帽子をかぶった小学生のグループとぶつかりそうになった。

「あ! ごめんなさーい!」
「お前、何やってんだよー」
「あ、待ってよー!」

 元気に駆け出していく少年たちを見送りながら、この辺は通学路になっているのか、と気づく。
 自宅からは離れているし、普段はあまり来ない場所なので、見慣れない風景が少し珍しい。

 ……そうか、あの子の通う小学校だ。

 ふと思い出し、そんな自分に驚いてピタリと足を止めてしまった。
 あれからもう五日も過ぎたのに、なぜそんなことを考えたんだろう。まぁ、一度頭に入れた情報はいつまでも残っている方ではあるが。

 馬鹿馬鹿しい、と心の中で呟きながら再び歩き始め、脇道に入る。
 自宅へ帰るバス停への近道なら、こっちだろう……。
 何となく勘で進みながら、何回か角を曲がる。本屋がある大通りからそう離れてはいないはずだが、どんどん人気はなくなる。
 右側は住宅街、左側は一面田んぼ……。

「……あ」

 思わず声が漏れて、慌てて右手で自分の口を覆った。
 道の向こう側から、一人の少女が歩いてくる。とは言ってもその子はなぜか本を読みながら歩いているので、俺には気づいていない。

 ――あの、ノラ猫の少女だった。

 その瞬間、心臓が跳ねた気がして……いやいやちょっと待て、と自分に言い聞かせる。
 別に俺は少女に会えるかもと通学路をウロウロしていた訳ではなく、本当にバス停への近道だったのだ。他意はないぞ。

 しかし本を読みながら歩くなんて危ない……。今どき二宮金次郎を真似ているのだろうか。
 やっぱりちょっと独特……。

「――危ない!」

 一瞬目を離したすきに、少女は斜めに田んぼの方へと寄ってしまっていた。このままでは道路と田んぼの間の溝に落ちてしまう。
  幅も深さも1メートルぐらいある溝。水は流れておらず、カラカラに干上がっている。

 俺の声は聞こえなかったようで(ほんと悉くだな)、少女は本に夢中になったまま、ふらふらと溝へと近づいている。
 慌てて駆け出し、少女の右足が溝に落ちかけたところで間一髪、身体を抱きとめた。少女が持っていた本が、俺の身体で弾き飛ばされる。

「危ないって! 本を読みながら歩くなよ!」

 ガシッと肩を掴んで思わず怒鳴る。ギョッとしたように顔を上げた少女と真っ向から目が合った。心底驚いたようで、黒い瞳が真ん丸になっている。

 しまった、焦ったからっていきなり怒鳴るなんて。

 咄嗟に後悔し、少女の体から手を離す。
 上から怒鳴りつけられたから、きっと怖かっただろう。せめて目線を合わせよう、とその場に跪いた。 

「えっと、ごめ」
「あの、ごめんなさい!」

 少女がガバッとお辞儀をした。ランドセルの留め金がはずれ、バサバサーッと道路に中身がぶちまけられる。
 また随分ベタな、と思わず吹き出した。

 桜を見上げていた時はどこか大人びた雰囲気も漂っていたんだがな。
 この子は落ち着きがあるのか無いのかどっちなんだろう?

「あ、わっわっ」

 少女が慌てて教科書やノートを拾い集める。俺は立ち上がり、少し離れた場所に飛んでいた本を拾った。ランドセルに筆箱をしまおうとしている少女の元に戻ると、目の前にすっと差し出す。

「はい、これも」
「……ありがとう!」
 
 少女は俺を見上げると、ニッコリ笑った。その笑顔はそれこそ大輪の向日葵のようで、今度こそ本当に心臓が跳ね上がるのを自覚せざるを得なかった。

 あれ、ちょっと待て。これは何かの間違い……。
 それにこの子、俺のことを怖がってるんじゃなかったか?

 少女は本をランドセルにしまうと留め金をきっちりと止め、「よいしょ」と背中に背負った。
 少し屈んだ俺の顔を、じっと見つめる。
 その表情には一切の怯えはなく――「あ」みたいな変化もない。

 まさか……覚えてない? たった五日前なのに?

「えと、ちゃんと本はランドセルに入れました」
「あ……うん」
「これからは、気を付けます」
「そ、そう」
「ありがとうございました!」

 少女はもう一度ペコリとお辞儀をすると、タタタッと走っていった。何となく気になって後ろ姿を見送っていると、角を曲がる前にこちらを振り返った。
 あ、と思っていると、また律義にペコリと頭を下げた。そして今度こそ、角の向こうに消えていった。

「……うーん」

 少女の残像を見つめながら、思わず唸る。

 あの様子だと、俺が桜の木の前で会った人間だってあの子は気づいていないな。間違いなく。
 気にしていた俺は何だったんだ……。
 それでもって……こんなに綺麗サッパリ忘れ去られたのも初めてだよ、俺は!

   * * *

『……とまぁ、こんなことがあって』
“へぇ……”

 その日の帰宅後。ノアから「大学の資料を集めてみたけど」というメールが来ていたので、俺の方からスカイプを繋いだ。
 俺の顔を見るなりノアが
“何かあった?”
と聞いてきたので、まぁあったと言えばアレしかないだろう、と少女の件を話して聞かせた。

“ふうん。面白いね、リコ”
『何でノアがその名前で呼ぶ?』

 名前は確かに教えたが、妙に親し気な響きに聞こえて何となく面白くない。
 そんな俺に気づいたのか、ノアが「ん?」というように首を傾げた。

“ファミリーネーム、言いにくい。それに普通、ファーストネーム”
『まぁ、そうだが』
“……”

 ノアが不意に黙り込んだ。青い眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が細くなる。
 やがてゴソゴソと引き出しを漁ると、一枚のディスクを取り出した。

“トール。これ”
『あ、集めてくれた資料だよな』
“でも、あげない”
『え?』

 ノアが後ろも見ずにポーンとディスクを放り投げる。

『あ、おい!』

 遠くでガチャンと音がした。これは割れたかもしれないぞ……。
 確かにノアはストレスが溜まると突然奇行に走ることはあるが、こんな嫌がらせみたいなことはしたことがない。

『こら、ノア! 何で急にそんなことを!?』
“トールはアメリカこっちに来るべきじゃない”
『はあ?』

 急に何を言い出すんだ。
 俺はアメリカの大学に進学するために、高校は華厳学園にしたんだぞ。
 成績だけじゃない、高校生活全般が合否に関わるから、テニスだって頑張ったし生徒会長も二期務めたし。
 そうして二年半も準備してきたのに、今更来るな?

『何を馬鹿な……』
“トール、気づいてない?”
『何がだ』
“女神だよ”
『……』

 端的過ぎて、ノアが何を言っているのか分からない。
 女神?

『は?』
“だから、トールの女神。現れた”
『……はあ!?』

 それこそ、何を馬鹿なことを言ってるんだ。

『おい、ノア。10歳だぞ』
“うん、すごく意外”
『そうじゃなくて! 世間一般ではそれを……』

 ロリコンと言うんだぞ、と叫びそうになって慌てて口をつぐむ。
 さすがに口にしたくない……。何故そんなレッテルを自分で貼らなくてはいけないんだ。 

“トールがそういう嗜好だとは思ってない”
『じゃあ、何で!』
“多分、本物。本物の女神”
『何を……』
“トール、鏡を見た方がいい”

 どんな顔をしてたって言うんだ、と憮然としながら、自分の頬をさする。
 ノアの奴、俺をからかってるんじゃないだろうな。

“アメリカに来ることはいつでもできる。でも、女神は今しかない”
『だから……』

 そんなんじゃないって言ってるだろ、と言い返そうとしたが
“追いかけた方がいい”
と、妙に強い口調で遮られる。
 どうやらノアは、本気で言っているらしい。真剣にアドバイスをしているつもりのようだ。

『……何故だ』
“何年経っても興味が失われなければ、本物”
『……』
“興味がなくなれば、そういう嗜好、ということで”
『どっちみち地獄なんだが』

 眩暈がする。何でそんな茨の道を歩まなければならないんだ。
 たかが女のことで。

“どうせ数年で年齢差なんて問題なくなる”
『そうか……?』
“5年で15と22”
『駄目だろ』
“10年で20と27”
『駄目ではないが、気の長い話だな。……ってそうじゃなくて。いいか、ノア。俺はそっちの大学に行くためにずっと準備してきたんだよ。今更……』
“今更とか、随分、弱気。想定外に弱い?”
『失礼な』
“とにかく、僕は手を引く。じゃ”
『あ、こら!』

 プツンと通信が途絶える。もう一度繋げようとしたが、頑として応じない。
 どうもノアは本気のようだ。本当に俺の大学進学への協力をするつもりはないらしい。
 あんなに
「いつこっちに来るの?」
と楽しみにしていたノアが。

 別にノアの協力は得られなくても自分でも色々と調べてはいるから、どうにかできなくはない。
 ……だが……。

 今日一日の出来事に頭が追いつかず、俺は深い深い溜息をついた。 
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