トイレのミネルヴァは何も知らない

加瀬優妃

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放課後 ~後日談~

約束の日・その後(前編)

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 初めて私と新川透が出会ったのは、7年も前――私が10歳の時だった。

 その衝撃的な事実は、私から言葉を奪うのに十分だった。叫び出しそうになるほど口を大きく開けたけれども、声が出ない。
 二の句が継げない、とはこういうことなのだろうか。

「ま、まさか……」

 アメリカの友人、ノアさんに「莉子を追いかけろ、アメリカに来るな」と言われた、と。
 そこまで聞いて、思わず言葉が漏れた。

「まさか、何?」

 私の掠れ声に気づき、新川透がちょっと微笑む。
 してやったりとでもいった顔だ。全部話してスッキリしたのか、随分とリラックスしてらっしゃる。
 一方こちらは衝撃が強すぎて、なかなか言いたいことが出てこないんですが。

「地元の医学部、行ったの……」
「そうだよ? 莉子がきっかけ。アメリカの大学進学も、もともと明確な目的があった訳じゃないからね。だから医学部なら地元に残れるし、医師免許を取るのもありだな、と考え直したんだ。なかなか年季が入ってるだろう? ははは」

 全然笑えないです!
 結局のところ、私のせいで大幅に進路を変えたってことじゃないの!

「まぁ、それで莉子を追いかけてみよう、と……」
「追いかけるって……な、何したの?」
「細かく上げるとキリがないよ」

 キリがないって何だ!

「まぁ大雑把に言うと、体育祭とか文化祭みたいな外部の人間が入れる行事はチェックしてた。……あ、中3の修学旅行も自由行動の日だけついていった」
「……っ!」
「ちょうど実習もなくて身体が空いてたから。いろいろイベントが起こりやすいしね。場合によっては妨害しないと」
「完璧にストーカーじゃん!」
「それは違う」

 新川透はゆっくりと首と右手を横に振った。
 ちょっとアンタ、何でそんなに堂々としてるの? 悪びれもせず。

「ストーカーとは、対象に執拗につきまとって相手を怖がらせたり迷惑かけたりする奴のことを言うんだよ。相手である莉子がそもそも気づいてないんだから、これはストーカーじゃない」
「なっ……」

 何だ、その変な理屈は!
 そりゃ小坂さんも心配するわ。新川透のことは調べた、と言っていた理由がようやく分かったよ。
 離れた場所で絶えず付き纏っていた人間がいよいよ本人に接触したってことだもんね! そりゃ慌てるわ!

「……ただね。俺も、すぐに自分の気持ちに納得した訳じゃなくて」

 不意に真面目な顔をすると、新川透は私が置いたペットボトルのお茶を手に取り、蓋を開けた。ゴクゴクゴクと一気に飲み干す。

 新川透なりに、一大告白なのかな……と思った。
 余裕そうに見せてるけど、実はそうでもないのかな、と。

「やっぱり小学生だしね。いろいろと情報は集めて……まぁ、顔を見に行ったりはしたんだけど、よく解らなくて」
「……」
「でも不思議と飽きることは無くて。……二年ぐらい経ってからかな、ようやく観念したのは」
「二年……」
「英語弁論大会で、莉子、嫌がらせされたでしょ。覚えてる?」
「……ああ」

 確か、中1の秋頃だったかな。本番前、トイレに行っている間に原稿が無くなっちゃったんだよね。探したら、だいぶん離れたゴミ箱にビリビリに破られて捨てられていて。
 犯人は、同じ学校の女の子だった。理由は未だによく分からないけど、彼女が犯人だってすぐに分かった。控室に応援に来てくれた同級生の中で、唯一黒いオーラを出していたから。
 まぁ、内容はもう頭に入ってたから、特に問題はなかったんだけど。

「アレね。犯人の女の子が前々から莉子を妬んでたみたいなんだよね」
「は?」
「運動会のリレーで負けた、とか。好きな男の子が莉子と楽しそうに喋ってた、とか。とどめが弁論大会の代表になれなかったこと、かな」
「何でそんなこと知ってんの?」
「その前にやってた体育祭で見聞きした情報と当日の情報を集めたらそういう結論になった」
「……」

 本当に何してるの、この人……。
 つまりは、体育祭にも弁論大会にもチェックどころじゃない、ガッツリ入り込んでたってことじゃないの。ちゃっかり色んな情報を収集して。

 何だか頭がパンパンで、ひどく重い。私は思わず頭を抱えた。文字通り両手で自分の頭を押さえて目を閉じ、顔を伏せる。

 情報量が多すぎて、頭が破裂しそう。
 いったいどれだけ、私に労力を使ったの。もっと他にやることは……。

 そんなことを心の中で呟いてみたけど、無意味だった。私の本当の気持ちじゃない、嘘っぱちだ。
 だって、何だか胸がムズムズしている。

「で、莉子はそういう事情も一切知らないはずなのに、ちゃんとその子が犯人だって分かってた」
「……うん」
「会場に移動するとき、数いる同級生の中で、その子にだけ話しかけたんだ。『応援ありがとう』って。相手の子を憐れむような目で見てた」
「……」
「その時にね、ああ、敵わないなって」
「……え? 何で新川透がそう思うの?」

 不思議に思って、再び顔を上げる。新川透は向かいのベッドから降り、ゆっくりとこちらに近寄ってきた。
 思考停止していた私は、ボーッとその姿を目で追うだけだった。

 気が付けば新川透は私の隣に座っていて、私の右手をぎゅっと握っていた。

「莉子にはお見通しなんだなって。思えば最初に会った時も、上っ面の俺の笑顔に嫌悪感を示してたんだな」
「あの頃は……特に、敏感だったから……」

 とは言っても、桜の木の前で新川透と会ったことは、残念ながら覚えてはいないんだけど。新川透に華厳学園に連れていかれたときも
「そういえば説明会に来たっけ?」
ぐらいしか思い出せなかったし。

 ただその頃は、周りの大人が私達母娘をどういう風に見ているのかが分かってきた頃で、目が笑っていない笑顔にひどく気持ち悪さを感じていた時期ではあった。

 新川透の話の通りなら、確かに私は怯えたことだろう。
 何でイライラしているのに笑ってるの、大人はこんなに平気な顔をして嘘をつくの、と。
 完璧な笑顔であればあるほど、それは恐怖になる。

 田んぼの溝に落ちかかったときのことは、言われて思い出した。でも、見知らぬカッコいいお兄さんが助けてくれたな、ぐらいで……。
 それがまさか、新川透だったとは。

「どう言ったらいいかな。この子に軽蔑されるような人間にはなりたくないな、と。あんな目で見られたくない、この子が本心から笑いかけてくれる人間でありたい、とそのとき強く思って。ああそうか、信じられないけど、やっぱり俺はこの子を必要としているんだ、と自覚したのがその時かな」

 新川透が両手で私の右手をとる。
 握られた右手が、熱い。だけど、全く身動きできない。

「だから……あのときも言ったけど、莉子じゃないと駄目なんだ。莉子しか要らない。莉子がいて、初めて俺はまともな人間でいられる気がするから」
「……」
「ずっと、傍にいてほしい」

 もう限界、だった。とてもじゃないけど、新川透の顔を見つめ続けることはできなかった。
 視点がゆっくりと、新川透の目、口、胸……そして握られた自分の右手へと下がっていく。
 
 ――どうしよう。

 腑に落ちないとごねていた私は、どこにもいなくなってしまった。ストンと納得してしまった。
 本当に私を見つけたんだ、本気で私を必要だと思ってるんだ、と理解してしまった。
 ――逃げる必要がなくなってしまった。

「莉子が悪意に敏感なのは、悪意に晒されることが多かったからなんだろうな」

 不意に投げかけられた言葉にドキッとする。

「自衛本能かな。好意を素直に受け止められないのも、もし違っていたら……裏切られたら、その落差に耐えられないから」

 そんなズバズバ言い当てないでよ。……胸が苦しくなる。
 周りに期待しないのが癖になっていた。周りに関心を持たない、私の本当に一番悪い癖。
 それは単に、臆病になっていただけ。傷つきたくないから、傷つくような関係性は築かない、と自ら線を引いた。
 そしてその悪い癖は、お母さんがいなくなって急速に悪化していた。

「だからね。莉子の前に出るには勇気がいる。最初がソレだし、俺もあまり褒められた性格ではなかったし……いや、今もどうかはわからないけど。でも、莉子がこの先、真っすぐなままでいられるように、俺は莉子を守りたい。ずっと、莉子の傍にいたいんだよ」

 ヤバい……泣きそうだ。
 そうか、本当にずっと『私』を見てたのか。良いところも悪いところも、全部含めて。
 ずっと、私の『心』を守ってくれようとしていたのは解っていた。無茶を言うわりに、私を傷つけるようなことは一度もなかったな、と。

 そのことに、私はちゃんと気づいていた。
 そして、私の本音を引き出そうと……逃げないでぶつかってきて、といつも問いかけられていたような気がする。

「で、まぁ……自覚してしまうと、色々あってね」

 真実を打ち明けてホッとしたのか……新川透の手の力が少し弱くなったのがわかった。声も少し安心したような、穏やかなトーンだ。
 一方の私は、どういう顔をしたらいいのかよくわからなくて、俯いたままなんだけど。

「莉子もどんどん成長するし、可愛くなるし」
「それは言い過ぎでしょ……」
「いや、結構ハラハラした。幸い莉子自身が上手に捌いていたみたいだから良かったけど、じゃあ俺はどうやって接触しようか、とか考えて」
「だからって、あの、茶番は……」
「そうだね。ちょっと穴もあったかな」
「誰も計画の完成度なんか言ってない……」
「俺も焦ってたしね。それにやっぱり、少女から大人になっていくのを見ると、何かこう、クるものがあって」
「へ、変態……」

 駄目だ、ツッコミに力が入らない。
 ストーカーされて気持ち悪い、とか思わないといけない筈なのに、何で見つけてくれて嬉しいとか喜んじゃってるの。トキめいちゃってるの。
 私まで変態になったんだろうか。
 やだ、もう。バッカじゃないの、私。

「……という訳で、莉子。納得したね?」
「ひゃっ!」

 耳元で話しかけられて、ビクッとなっている間にそのまま押し倒された。左手首も掴まれ、ベッドに縫い留められる。
 恐る恐る見上げると、新川透はこれまで見たことのないような笑みを浮かべていた。

 嬉しそう。……というより、幸せそう。思いっきりぶちまけたからか、全部真っ白になった感じ。純粋な、笑顔。
 だけどどこか、切なそうで。
 
 これだけ恵まれた人が――簡単に何でも手に入れてきたはずの人が、私には敵わないと言って。
 どうしても莉子が欲しいんだ、と真っすぐにぶつかってきてくれる。
 胸の奥が鷲掴みされたようにぎゅうぅっとなって、泣きそうになった。
 こんな感覚、私は知らない。

「えと、ちょっと待っ……ん!」

 言いかけた言葉は、唇で塞がれてしまった。
 分かってる。心は喜んでしまっているから、どうしても拒絶することができない。応えてしまっている自分がいる。
 顔が熱いし、手に力が入らない。頭がクラクラして、身体がぐにゃぐにゃになってしまっているのが、自分でも分かる。

「ごめん、待たない」

 唇を離したあと、少し荒い息をつきながら新川透が言う。
 私の息も上がっている。はぐはぐしてしまって言葉にならない。
 だけどまだ、反論したい気持ちが残ってるの。お願いだからちょっと待って!

「だ、だって、二択、まだ……」
「莉子はもう逃げる選択肢は無くなった。それぐらい解る。だてに長い間、見つめてないよ?」

 いやぁ、見抜かないでよ、そんなこと!
 どんな顔をしたらいいか解らなくなる。覆い隠したいのに、両手は繋ぎ止められてしまってるからどうにもならない。

 最後の砦は、完全に崩壊してしまった。

 目を瞑って顔を背けることしかできない。それでも、身体の重みや、熱さや、息遣いは伝わってきて心臓がバクバクする。
 じわっと、目尻に涙が浮かんだのが分かる。

 今、新川透の目には、私はどう映ってるんだろう。酷くみっともない顔してるんじゃないだろうか。
 今まで私のどんなところを見てきたんだろう。そして何を思ったの? 恥ずかしい、きっと見られたくなかった部分だってあるはず。
 ずっと想ってくれていた。私を見つけてくれた。くすぐったいけど、嬉しい。
 駄目だ。いろんな感情が渋滞していて、気が狂いそうだ。

「やだ、もう……。見ないでよ。頭、おかしくなる……」
「……っ」

 私の腕を押さえつける左手の力がぐっと強まった。右手で顎を掴まれ、正面を向かされて再び唇を奪われる。
 さっきより、ずっと余裕がない。噛みつくようなキスで、こんなの初めてで全然ついていけない。

 唇が離れた時には二人とも完全に息が上がっていて、ハアハア言っていた。
 もう訳がわからない。放心状態になっている。

「莉子、それは殺し文句だから」
「だって、もう、考えられな……」
「考えなくていいから」

 ギュウッときつく抱きしめられた。背骨が折れるんじゃないかと思うぐらい、熱く強く。
 もしくは、新川透の中に溶け込んでしまうんじゃないか、と。

 でも、それでもいいかもと思ってしまう、完全にバカになってしまった私がいる。

「――俺のことだけ、感じてて」

 耳元で囁かれて、目の前の視界が白く光り――訳が分からなくなった。

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